汀の灯り

一初ゆずこ

 春原灯莉すのはらあかりと出会う日は、空がまるで海に見える。澄み切った青色と薄雲の小波さざなみを見上げていると、ここへ落ちてしまえばさぞ気分がいいだろうと、僕はいつも投げやりに、それでいて胸がすくような心地で思うのだ。灯莉あかりが二年ぶりに僕の前に現れたのも、空が海のように拡がった正午前のことだった。

 部屋の壁がこんと硬い音を鳴らしたとき、僕はだらっと着たTシャツ姿でベッドに寝そべり、読み古した漫画のページを捲っていた。窓からは日差しに温められた風が入り、潮と桜の匂いが僕の前髪をでたらめに触っていったけれど、清々しさなんて全くない。春の気怠けだるさが煙草たばこ紫煙しえんのように、狭い室内にこもっていた。

 そんな部屋に、こん、ともう一度、硬い音が鳴り響いた。

 壁に、小石が当たった音だ。かつては待ち侘びていた音が、春休みの退屈でこごった心を引っ掻いた。体温がにわかに上がり、起き上がった僕は、窓の外へ身を乗り出す。

 こんなふうに、僕を呼ぶのは一人だけだ。

 ――自宅の手前、灰色のコンクリート塀のそばに、灯莉はいた。

 白いワンピースに蒲公英たんぽぽ色のカーディガン姿で、右手にはとう編みのバスケット、左手には空色の封筒を握っている。ふわりと波打つ長い髪は、ミルクティーみたいな薄茶色で、僕は不味まずいブラックコーヒーを飲み干した気分になった。

 ――今日もまた、灯莉が大人びた分だけ、僕らの距離は開いていく。

 けれど僕は、灯莉と遠ざかった距離の分だけ、何でもない顔がうまくなった。感情の磨滅まめつした顔で、僕は二階から灯莉を見下ろした。ほら、大丈夫だ。なんてことないじゃないか。そのはずなのに決まりが悪くなって、まぶたが震えたのが分かる。

 灯莉の笑顔は、明るかった。幼い頃のように、楽しそうに見えた。

俊貴としき。遊ぼ」

 よく通る幼馴染の声が、僕を呼ぶ。数年ぶりの台詞せりふを耳にした僕は、ベッドのくたびれた敷布しきふの上で、魂が抜けたように座っていた。


     *


「久しぶりだよね。俊貴としきとこうやって歩くのって」

 緩く蛇行する道を下りながら、灯莉あかりはのどかに言った。

 隣を歩く僕は、道端に咲くハルジオンや、高校の通学路から飛んできた桜の花びら、灯莉の履いた紅茶色のフラットシューズを見下ろしながら、民家と田んぼの隙間を縫うように延びるアスファルトを歩いた。この時間は、本当に現実だろうか。青空のてっぺんからは、太陽が眩い光を降らせてくる。同じ陽だまりを歩いているのに、スニーカーを履いた僕の所にばかり、濃い影が集まっている気がした。

「俊貴、前髪伸びた?」

「別に」

「背もすごく伸びたよね。少しびっくりした」

「いい加減に」

 ガキ扱いは、もう――。そんな稚拙ちせつな悪態を、僕は喉の奥に押し留める。言ったところで、何が変わるというのだろう。何一つ変わらなかったではないか。二年という埋めようのない隔たりが、惨めに晒されて終わるだけだ。

「最近は、歩美あゆみちゃんとはどう?」

「別に、あいつは……ただの幼馴染で、それだけだ」

 最近では同じ高校の教室にいても、僕らは視線すら合わさない。幼馴染でも何でもない他のクラスメイト相手の方が、まだ気安い関係だ。だから、歩美がどんな顔をしているかなんて、僕は知らない。どうでもいい。この先も、知らないままでいい。

「自分のこと、いつから俺なんて言うようになったの?」

 桜を乗せた風は温かかったが、いつの間にか熱を帯びていた意識をます程度には冷たかった。言葉にきゅうした僕の隣で、灯莉は声の穏やかさを変えなかった。

「最近、歩美ちゃんが私の家に来たんだ」

「歩美が?」

 迂闊うかつにも顔を上げた僕は、渋面を作る。やっと目が合ったことを喜ぶように眉を下げた灯莉は、少しだけ僕を咎めるような目をしていた。

「泣いてたよ。俊貴がずっと冷たいって」

「関係ないだろ、灯莉には」

「だって私、責められたもん。俊貴が冷たいのは先輩のせいですよねって。もう一緒に遊んでた頃みたいに、灯莉ちゃんって呼んでくれない」

 足が止まりかけて、爪先が小石を蹴飛ばした。だが、驚くには値しない。心の中で、僕はかぶりを振る。歩美の言葉は、残酷なくらいに真実だ。

「ねえ、覚えてる? 小学生のとき、春休みに。学校の体育館に忍び込んだよね」

 灯莉は、歩美の話題を切り上げた。肩すかしを食らった僕は、空虚な懐かしさで苦しくなる。灯莉の興味があちこちに移ろうのは、昔から変わらない。

「そんなこと、もう覚えてない」

「嘘。忘れるわけないのに」

 灯莉は、また笑ったようだ。民家のブロック塀からせり出したミモザの枝の下を通り過ぎると、僕の前に回り込んで、悪戯いたずらっぽく目を細めてくる。

「お姉さんが手料理を持って迎えに来たんだから、喋ってよ。体育館の舞台裏に、梯子はしごがあったのを覚えてない?」

「……覚えてる」

 目を逸らした僕は、観念して吐き捨てた。灯莉は僕が会話に乗ってきて嬉しいのか、満足げに微笑むと、前を向いて歩き出した。

 右腕に提げられたとう編みのバスケットが、軽やかな足取りに合わせて弾む。まるで僕らが出会った頃のような屈託のなさで、灯莉は凸凹でこぼこの石段を下りていく。

 ――未来への片道切符が一枚だけ入った、青い封筒をその手に持って。

「体育館の舞台裏に続く梯子を、どうしても上ってみたくて、先生にバレたら叱られるから、こっそり上がったんだよね。舞台の真上って照明がすごく近くて、ベニヤ板みたいに薄っぺらい板の上を歩くのって、ぐらぐらして、怖くて、わくわくして」

「……灯莉」

 意を決して呼んだのに、灯莉はやめなかった。「俊貴ってば、梯子から下りられなくなったよね。落ちるー落ちるーって大騒ぎして」と、昔を懐かしむのが義務であるかのように、明るい口調を崩さない。

「私が大丈夫だよって励ましても、ここは海じゃないから灯莉姉ちゃんだって助けてくれない、なんて変なことを言ってたよね。結局、先生にバレて怒られちゃったし」

「灯莉」と僕はもう一度呼んだ。だけどまだ、灯莉はやめない。やめてくれない。

「半べそだったくせに、私が中学校の制服で小学校に遊びに行ったときは、しれーっとした顔しちゃってさ。別に僕、怖くなんてなかったし、なんて強がり言っちゃって。……でも、楽しかったよ。卒業前に、俊貴と遊べて。私は、本当に楽しかった」

「灯莉。……大学、どうだった?」

 並んで歩く影が、止まった。僕は、静かに灯莉を見た。灯莉もまた、僕を見ていた。ミルクティー色の髪をかき上げて背に流した灯莉は、やはり明るく笑っていた。

「受かったよ」

 陽の光を受けて輝く瞳の奥に、穏やかな決意が宿っている。僕は、奥歯を噛みしめた。

 ――まだ、距離は開くのだ。足掻いても、どうしようもないほどに。

「私は、もうすぐ東京に行く」

 乾いた潮風が、僕らの間をすり抜ける。逃げるように視線を灯莉から外した先に、深い青色にいだ海と――白亜はくあの灯台が見えてきた。

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