約束の日は、朝からよく晴れていた。

 透き通るような青い空に、綿菓子のような雲が刷毛はけで引いたように伸びている。波の形をした白い雲が幾重にも連なる様は海のようで、このままぼうっと顔を上に向け続けていたら、いつかは本物の海と間違えて落ちてしまいそうだ。

 白亜の灯台のすぐそばで、僕は足を海面へ投げ出して座っていた。初夏の爽やかな風に髪と学ランの襟をそよがせて、僕は一人で待っていた。

 中学二年生になってから、初めて迎えたテスト週間。時期は高校でもさほど変わらないようで、相手も午前中で学校を終えて、早い時間に帰宅でここを通るという。

 正午を回った海岸は、燦々とした光で溢れていた。日差しと灯台は真っ白で、空と海は真っ青で、眩しいくらいのコントラストを柔らかい風が包むこの場所に、こんなにも明るい時間にやって来たのは、一体何年ぶりだろう? 思い返してもしばらく答えが出ないくらいに、気づけば足が遠のいていた。一人では、ここには来ないからだ。

 しゃり、と硝子片を踏む音がした。僕が緩慢に振り向くと、くすんだ海辺の町の風景を背負って、すみ色のブレザーに雨雲色のスカート姿の灯莉がいた。

「何の用?」

 久しぶりに会った灯莉の黒髪は、以前の長さより少し短く切り揃えられていた。中学三年の春のような、赤髪の灯莉の面影はない。それでいて僕を見下ろす眼差しはナイフのように鋭くて、今さらのように気づいた僕は、気が触れたみたいに笑いたくなった。

 何も変わっていないのだ。あの頃から距離はどんどん開くばかりで、簡単に追いつけはしないのだ。悪足掻きをやめるために、僕はゆらりと立ち上がった。灯台の下で、僕らは二人、数か月ぶりに見つめ合った。

「別に私は、あなたと話すことなんてないから……言いたいことって、何? 早く帰りたいから、さっさと……」

「好きだ」

 言葉を遮って、義務を果たすような口調で、僕は言った。

 波が、波止場に打ちつける。天気はいいのに、波は普段より高かった。潮風に黒髪を乱された灯莉の目が、見開かれた。僕が中学に入学したばかりの頃に、屋上の前で見つめ合ったときと、驚き方がおんなじだ。あのときよりも、一秒でも長い時間、僕は灯莉の瞳に映っていられるだろうか。こんなにも肺の辺りが苦しくて、泳ぎ方を忘れた魚のように息ができないのに、あらかじめ決めていた台詞だけは、澱みなく喉から滑り出た。

「灯莉が好きだ。灯莉は先輩のことが好きで、僕のことが迷惑で、僕と仲良くしてた過去自体を、もう邪魔だって思っていても。僕は一人きりでよかったのに、灯莉は一人にさせてくれなくて、一緒にいても僕の考えは何も変わらないと思ってたのに、灯莉といたら変われたんだ。灯莉がいたから、僕は普通の人間になれた気がしたんだ。今まで、ごめん。灯莉とこうやって話すのは、今日で最後にする」

 なんて雑で、機械的な告白だろう。虚しさすら湧かなかった。それなのに僕の心の内側で、深海の闇のように今もくすぶる、重油のようにどろどろとした、この粘り気の強い執着の名は何だろう? でも、これで終わる。全部、終わる。あの日、サンドイッチを持って二人で陽だまりを駆けた先は、この場所へと繋がっていた。灯莉に僕の気持ちを伝えたら、海にボトルメールを流すように、灯台が見守るこの場所で、この初恋は捨ててしまおう。そうしたら僕だって、灯莉から離れられるではないか。何もかも恋人の言いなりになって、意思の強さも高潔さも、簡単に捨ててしまった幼馴染に、さよならできるではないか。灯莉にこっぴどく振られたら、ようやく僕も肩を竦めて、清々した気持ちになれるだろう。何年も報われないまま潮風に吹かれて腐蝕した恋のなれの果てを、ついに捨て去ることができるだろう。早く、灯莉。僕は、灯莉を見守った。灯莉が口を開いたときが、五歳と七歳だった僕らがやっと、灯台にたどり着く瞬間だ。

 だが、待ち望んでいた瞬間を、僕らが迎えることはなかった。

 灯莉が――泣き出しそうな目で、両手で口元を覆ったからだ。

 瞠られたままの瞳の海で、陽光の照り返しが揺らいでいた。涙に似た潤みを琥珀色の目に湛えたまま、灯莉は僕から目を逸らさない。煩悶はんもんで眉が寄り、整った顔がくしゃりと歪んだ。僕は、渇きが極まってひび割れた心を抱えたまま、灯莉の瞳を見つめ返した。

 真っ先に、理不尽だと感じた自分がいた。

 ――待っていたのは、こんな反応ではなかったのに。

「どうして」

 ついに僕は、堪り兼ねて声に出した。一度声の形にしたとたん、決壊した感情の歯止めが利かなくなって溢れ出す。「どうして」と僕は繰り返し、灯莉に一歩詰め寄った。

 どうして、そんな反応をするのだろう? 真っ暗な夜の中で、灯台の光を見つけたような、何かの冗談としか思えない顔をするのだろう? 俊貴の好きな、灯莉姉ちゃん。まるで、僕の、顔のような。いっそ笑い飛ばしてくれたなら冗談だと分かるのに、灯莉はちっとも笑ってくれない。頬さえ染めて、近づく僕から逃げないで、逆巻く波に抗うように、一歩も動かないで立っている。

 そのとき、頭上を飛び去っていくカモメの群れが、高い声で空へ鳴いた。

 それが、夢の終わりの合図だった。びくりと肩を強張らせた灯莉は、弾かれたように身をひるがえし、走り出そうとした。僕は、見送ってしまえばよかったのに、半端にちらつかされた希望の所為で、捨てるはずだったボトルメールを、まだ未練たらしく抱えていた。

 だから――逃げていく幼馴染の腕を、強く掴んでしまった。

「行くな!」

 ぱしっ――と、乾いた音が、鼓膜こまくでエコーする。続けざまにもう一度聞こえた音も、一度目とたがわず乾いていた。

「触らないで!」

 慟哭どうこくのような叫びとともに、僕の腕は手加減なしに振り払われていた。行き場をなくした右腕に引っ張られた全身に、横殴りの潮風が叩きつける。浮遊感に、足を取られた。

 あ、と呟いて振り返った灯莉が、顔色をさっと青く変えた。

 ああ、しまったと僕も緩慢かんまんに思ったけれど、不思議と焦りも恐怖もなくて、奇妙に安らいだ気持ちにすらなれた気がして――消波ブロックで覆われていない海面へ、僕は抵抗しないまま、意識をゆだねて落ちていった。

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