第28話 うら恋し 我が背の君は
週末土曜日。ピンポン、と自宅のチャイムが鳴る音に、
ほぼ毎週のことではあるが、今日も両親は仕事でいない。その間にと準備していたものをそこに置いたまま、敦司は「はあい」と玄関に向かった。
「おはよう、あっくん」
玄関先に立っていたのは、歩いて20秒の隣家に住む幼なじみだった。気負わない私服姿で、はにかむように笑ってから、煮物がギッシリ詰まったタッパーを敦司に差し出してきた。
「おばあちゃんの、タケノコの煮物。いっぱいあるから、お裾分け」
「あ、ありがとう」
ご近所のよしみというやつで、
お裾分けを受け取って、時にはご近所事の連絡事項を引き継いで、それで終わりなのがいつものことだった。けれど、あんなことがあった日曜日から、まともに顔を合わせるのはこれが初めてだった敦司は、思わず彼女を引き留めた。
「今、親いないんだけど……その、ちょっと上がってく?」
「……いいのかな?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、お邪魔します!」
その矢先、皐月が上げた黄色い声に、敦司は慌てて振り向いた。
「わあ、きれい! この絵、どうしたの?」
皐月が覗き込んでいたのは、テーブルに置きっぱなしだった一枚の絵。昨日、
ジュースを運んだ敦司に構わず、皐月は、目をきらきらさせて絵に見入る。
「あったかくってきれいな絵……。結婚写真みたいだね。あれ、でも結婚写真って、おじいちゃんはいないよね?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
皐月が首を傾げるのも当然だ。
B5サイズの紙に描かれているのは、赤い打掛姿の女性と、紋付き袴の2人の男性。若々しい一組の男女と、その間に挟まれて立つ、70代手前の老人だった。
なにも知らない人間から見ると、ずいぶん不思議な絵面だろう。
けれどこれは――こうでなくてはならないのだ。
「美術部の先輩に描いてもらったんだ。その……じいちゃんの仏壇に、一緒に置こうと思って」
赤い打掛をはおった母。丸メガネで紋付き袴の父。両親が願ったように幸せに、両親よりもはるかに長生きをした息子。
そんな
とはいえ、やはり仏壇に飾るには場違いだともわかっている。そのため、両親がいる昨夜のうちには持ち出すこともできず、今日これから、あの形見の漆箱に並べて置こうと思っていたのだった。そしてまた、両親が帰る前に回収する。まるで悪事でも働いている気分だが、敦司にはそうやるほかにない。
そっか、と呟いた皐月にも、少しだけ、70年前の出来事を話してある。敦司の祖父は丹原の養子で、実の親は、2人とも早くに亡くなっていたと。
だからか切ない眼差しで、皐月はそっと絵を撫でた。
「着物、きれいだね。この柄、蝶々?」
「うん。その人の名前、
赤地の打掛を彩る蝶々には、もうひとつ、敦司しか知らない理由がある。
それは、あの古墳の上で見た光景。国民服姿の
地獄へ向かうのだとしても、その姿は、とても幸せそうだった。こうして親子の姿を並べるなら、きっと白無垢よりも、こちらのほうがいいと思ったのだ。
水彩のタッチも柔らかく、皐月が言うように温かみに溢れた優しい絵だ。
週が明けたらもう一度、柚羽にお礼を言いに行こう、と思っていると、不意に皐月が「……というか」と首を傾げる。
「あっくん、美術部の先輩に知り合いがいたの?」
「ああ、ええと、演劇部の関係で。正式には演劇部員じゃないんだけど、美術や裏方を手伝ってもらってるとかで、部室によく来るらしくて」
初見であれだけ集まっていた演劇部だが、蓋を開けてみれば、1、2年合わせて実質3人しか部員はいなかったらしい。どうせ今でも兼部率は100パーセントなのだから、いっそ柚羽と
そんなことを聞いた皐月は「ふうん」と鼻を鳴らし、唇を尖らせたかと思うと、急に絵の中の時夫を指差した。
「この男の人、なんか、あっくんに似てるね」
「えっ? そ、そうかな」
「そうだよ。この目元のとことか、そっくり」
アルバム写真をデータで見てもらった祖父とは違い、てふ子と時夫の容貌は、敦司が口で伝えて描いてもらったものだ。なるべく詳しくと頑張った結果、あの時に見た2人の様子に、かなり近づけてもらえたと思っていた。
それに似ていると言われて照れる敦司に、しかし皐月は、むすっとしたまま、色打掛のてふ子のほうも指差した。
「それで、こっちの女の人は、
「……ええっ? なんで先輩?」
紅を刷いた唇で柔らかく微笑む女性像と、記憶の中にある固い眼差しの横顔は、どう考えても似ていない。先週、目にした実物同士を比べても、まったくの別物だと思う。
それなのに皐月は、ずいっと身を乗り出してきた。
「……ねえ、あっくん。わたし、聞きたいことがあるんだけど」
「な、なに?」
仰け反って目を白黒させる敦司に、皐月は真剣な顔で一言。
「あっくんって、白山先輩と付き合ってるの?」
「――はああ?」
あまりに馬鹿げた質問に、いろいろなものがすっ飛んだ。
「なんでそんな話になるんだよ、付き合ってなんてないよ」
「だってこの間、そんな話してたじゃん!」
「してないよ! いつの話だよ!」
「この間の日曜日だよ! 『好きだけど』って先輩に言ってたでしょ! わたし、ちゃんと覚えてるもん!」
「あ、あれは――」
該当する出来事を思い出して、かあっと頬が熱くなる。
それをまた勘違いの燃料にしたらしい皐月が「ほらね、そうなんでしょ」とむくれる姿に、焦って言葉を探すものの、なにをどう言えばいいのかわからない。まさか「あれは皐月のことが好きなんじゃないかと問い詰められた結果の発言だ」などと、真正直に口にできるわけもない。考えただけで顔から火を噴きそうだ。
けれど――
俯いた敦司の視界に、柚羽の描いた絵が映る。
ともに並んで、幸せそうに微笑む親子。それは、多くの困難の果てに、現実には叶いえなかった夢の姿だ。
もしかしたらそれは――自分自身の未来かもしれない。
そう思った時、敦司は手を伸ばしていた。
週明けには返しに行こうと準備していた袋の中から、図書館で借りた本を取り出す。それを皐月に差し出して、敦司は、すっかり覚えた歌を詠む。
「――『うら恋し 我が背の君は なでしこが 花にもがもな 朝な朝な見む』」
「えっ? な、なに? なんの和歌?」
戸惑う皐月に本を押し付けると、ようやく受け取って目を見開く。
本のタイトルは『万葉集』。
ふせんをつけたページを開けば、敦司が口にした歌がある。添えられた現代語による解説は、あの古墳の上の夢の中、てふ子が目にしたものと同じだ。
文字を目で追っていた皐月の頬が、じわじわと赤みを帯びてくる。
沈黙は長かった。待つほどに鼓動が加速して、破裂しそうでめまいがする。
羞恥と焦りで顔が熱く、しかし、その末に皐月が浮かべた表情は、それに堪えた甲斐があると言えるだろう。
はにかむような、花咲くような微笑みは、敦司にとって、他のなによりも大切なものに違いなかった。
壺中の天 かがち史 @kkym-3373
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