疲れた?それじゃ人魚になろうよ

秋雨千尋

【願いが叶う扉】

 あーなんだか疲れたなあ。

 学校のトイレの壁をボーっと眺めていた時、黒カビが溝を染める古びた水色のタイルがぼんやりと歪んできた。

 何だろう?と見つめていると、そこは白い扉になった。

 耳を当てて中の様子を伺う。

 ボコボコという、独特な低い泡の音。水槽に近付いた時と似ている。


「開けたら大変な事になる気がする」


 水がバシャーッと流れて、制服から上履きから全部濡れちゃって、それだけじゃ足りなくて廊下までドドドッて溢れて、教室がパニックになって、嫌味なあの子がツルンッて滑って転んで、階段もザバーッて滝みたいになって、隅に溜まってる埃が綺麗になって、職員室も水浸しになって、赤点の答案もぐちゃぐちゃになって。

 先生に怒られて、お母さんに怒られて。

 しばらく学校来なくていいし部活も行かなくていいって言われるんだ。


 いいことしか無いな!


 私は溢れる期待と共にドアノブに手をかけた。

 だが期待したような事は起きなかった。ドアの向こうに広がっていたのは、極彩色の海だったけど、何故か水が溢れない。

 そっと伸ばした指先に泡がしゅわしゅわ、くっついてくる。泡は腕を伝い、肩から体全体へ広がっていく。

 しゅわ、しゅわ、しゅわわ。

 足だった場所がウロコになって、つま先が双葉みたいに分かれた。

 早く泳ぎたい、私はとぷんと海の中に入っていた。肌を伝う水の冷たい感触が気持ちいい。手を軽く動かすだけで、スイスイ前に進んでいく。

 泳ぐのは飛ぶのと似ている気がする。

 青空みたいな水面を眩しく見上げて、お散歩してみよう。

 ピンクの珊瑚が可愛いな、ちぎって髪飾りにしてみたい。ゆらゆら昆布が面白い。風を受けてそよぐ洗濯物みたい。

 イソギンチャクったらパクパクしてる。お腹空いてるのかな?

 砂に潜って、タイミングをはかって、チンアナゴと一緒に顔を出す。

 アジの竜巻、一緒にグルグル目が回る〜。


 泳ぎ疲れて水面を仰ぐ。

 ゆらゆら青・白。楽しいなあ。


 同じくらいの年の人魚が泳いでる。

 声を掛けようとしたら、後ろから来た子達に追いかけられて、逃げていった。喧嘩でもしてるのかな。ちょっと気になって後を追う。

 最初の子が、サンゴに囲まれた赤い扉の前にいる。

 追いかけてきた子達が、体を押したり髪を引っ張ったりしている。

 こらー、やめなさーい。って、言えるほどメンタルが強くない私は、近くのクラゲにお願いする。


「あの子を助けてあげて」

「無理だよ」

「だってクラゲでしょ?ビリビリ出来るでしょ?」

「そんな事言うなら君が助けなよ」


 何よもう、薄情なんだから。

 仕方ないから他の魚を探そう。大きいリュウグウノツカイが泳いできたから、捕まえた。


「あの子を助けてあげて」

「嫌だよ」

「どうしてよ、そんなに大きい体して」

「そんな事言うなら君が助けなよ」


 もー怒ったぞー!

 小さくて弱くて何の力もない私にどうしろって言うのよ。海の中って何か武器とか無いのかな。

 近くの昆布を刀みたいに伸ばしていたら、潰されたカエルみたいな声がした。見てみると、いじめてた子達が赤いドアの中に押し込められている。

 なんとか出ようと、抵抗してるみたい。

 私は少し考えてから、いじめられていた子を助ける事にした。隙間から出てる手をガリガリ引っ掻いて剥がした。

 その隙にドアがバタンと閉まった。


「ありがとう・・・」


 女の子のお礼の言葉に、いやいや大したことじゃないと頭をかいて答え、照れ臭くてその場を後にした。

 私、いいことしたのかな?


 何かモヤッていた事があった気がするけど、もういいや。

 そろそろ帰ろうかなー。

 あれ、私ったら何を言っているのかな。人魚が帰るのは海に決まっているのに。


「ただいまー!」


 思い切り伸びをして、空のような水面に向かって声を張り上げたら、突然白いドアが開いた状態で降ってきて、バクンと飲み込まれた。


 +++


 ポイッと放り出されて、バンッとぶつかったのは、見慣れたトイレの古いドア。

 思い切り当たったショックで鼻血が出てる。


「最悪じゃ〜ん」


 ポケットティッシュを鼻に詰めて、手を洗ってふらふら教室に歩いていく。折角いい思いしてたのに。

 ・・・ん、なんかあったっけ?


 廊下で女の子とすれ違った。ぼそっと聞こえた言葉に、振り返る。彼女は肩を震わせて笑っている。


「さっきはありがとう?」


 教室ではいつも通りの日常が広がっている。

 嫌味なあの子もいつもみたいに、私を指差して笑っている。


 部活も普通にある。嫌いな先輩に会わないといけない。本当に憂鬱だ。お母さん辞めさせてくれないかな。


「道具代かかってるから」

「一年ももたずに辞めるなんて根性が無い」


 そんな事言われても、辞めたい辞めたい。

 いつまでずーっと無駄話を聞かされてボール拾わされるだけの時間過ごさないといけないの。


 ため息をつきながら部室に向かうと、明らかに不自然な赤い扉があった。

 他が腐りかけてる木のドアだから妙に目立つ。

 耳を当てて中の様子を伺う。

 グツグツ、ボコボコ、と煮えたぎるような音が聞こえる。沸騰したケトルがこんな音をする気がする。


「開けたら大変な事になる気がする」


 熱湯が吹き出して、全身火傷を負って、階段を伝って下の階まで行っちゃって、あちこちの部室から悲鳴をあげながら逃げる人達で地獄絵図になって、部活全部、廃部。

 先生に怒られて、教頭先生にも怒られて、校長先生にも怒られて、お巡りさんにも怒られて、逮捕されて死んじゃう。


 あ、これダメなヤツだ!


 私は赤いドアをスルーして、建てつけの悪い普通の部室のドアを開けた。

 死んじゃうよりはマシ。うん。

 着替えてコートに向かおうとした時、外から声がした。大嫌いな先輩たちだ。


「何このドアー?」

「なんかのドッキリ?開けたらどうなんの?」


 開ーけーろ。開ーけーろ。

 脳内でテンションMAXになって踊り出す。


「中も赤いんだけど、ふぎゃっ!」


 どこかで聞いた声がした。恐る恐る様子を見ると、廊下ですれ違った女の子が先輩たちを赤いドアに押し込んでいた。

 私は急いで協力して押し込み成功した。


「ありがとう!」


 女の子は明るく笑って走り去った。

 いいことしたのかな?

 その日の部活は健やかだった。余計なことをしなくてい、初めて楽しい時間だった。


 部室の鍵を職員室に持って行った帰り道。

 今日だけで2回遭遇した女の子と、3回目の遭遇を果たした。彼女は微笑みながら言う。


「一緒に帰らない?」


 私は頷き、並んで歩き出す。友達と帰るの入学してから初めてだ。嬉しいな。

 ずっとずっと話していたい。廊下よ伸びろ。

 の、伸び、過ぎじゃない?

 ずーっと先まで同じ景色が続いている。怖くなって彼女を見ると、人形みたいに張り付いた表情をしていた。


「この景色、見える?」

「う、うん、なんなのこれ」

「きっと罰なのよ。ひとを地獄に叩き落とした」

「何を言ってるの?」

「廊下にズラッと並んでいるでしょう、凶々しい赤い扉。アレ地獄行きなの」


 言っている意味が分からない。

 だって私には赤い扉なんか見えないんだから。


「もう逃げ場は無いみたい。良かった。1人じゃ寂しかったの」


 彼女の手が、私の手を掴む。

 そして物凄い強さで締め上げて、ドアノブを回す仕草をした。


「一緒にいきましょう」


 やだやだやだ。私、知らないもん地獄なんて。困ってるみたいだから助けただけだもん。死にたくない!


 彼女の体が、スゥッとどこかへ入っていき、私は壁に思い切り叩きつけられた。

 本日二度目の鼻血は、ダバダバ廊下を赤く染めた。


 +++


 校内で行方不明者が5人出て

 神隠しの噂が立ったけど、私は知っている。

 全員赤い扉の中に居るのだと。


 +++


 大人になった私は、顔を見る度に文句を言ってくる親にも、大嫌いな上司にも耐えてきた。

 何度も現れた赤い扉の誘惑に負けなかった。

 でも、私を裏切って友達と浮気した彼氏の事だけは許せなかった。


「な、何をする気なんだ。やめろォ」


 赤い扉の中に、押し付ける。

 あと少し、ほんの少しで地獄行きだ。私の苦しみをうんと味わうがいい。


 その時、水音がした。

 振り返ると、背後の壁にいつか見た白い扉が浮かんでいる。私は彼氏を解放し、勢いよく飛び込んだ。そして人魚になって心ゆくまで泳いだ。


 初めて来た時のことを思い出す。

 だから私は、喋るのをやめた。ずっとこの場所で暮らしていく。もう「ただいま」なんて言わない。

 人魚姫は喋らないものだから。


 青空みたいな水面が、今日も輝いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

疲れた?それじゃ人魚になろうよ 秋雨千尋 @akisamechihiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ