好きな子召喚します

前河涼介

彼女が僕に会ってくれるわけない

 ――21回。

 僕が斎宮さいぐうキミカにフラれた回数を合わせると実にそれだけの数になる。もちろんまともな告白だけではなくて、食事とか、映画だとか、そういったデートの誘いも含んでいる。彼女はそれも全部拒んだのだ。

 彼女は断り続け、僕は誘い続けた。今は忙しいとか、他に好きな人がいるからだとか、彼女は僕を傷つけないように何かと事情をつけて拒んだ。僕とはデートしたくないなんて、そんな直截な言い方は彼女はしなかった。

 だから僕は挫折しなかったのだ。挫折できなかったといってもいい。

 僕は誘い続け、彼女は拒み続けた。

 言い換えれば、幾度となく話しかけた僕に対して、彼女はいつも一言だけは返事をくれた。

 21回。

 その記録を最後に更新したのは2年前だ。

 つまりこの2年間、僕は彼女を誘っていない。僕は彼女を諦めたのだ。21回目、彼女は返事をくれなかった。メールだったから、つまり、返信がなかったのだ。返事はなかったけど、それも「フラれた」にカウントしてある。

 無視されて始めて彼女に本当に気がないことを僕は認識した。認めざるを得なかった。それは紛れもなく挫折だった。

 


 それから僕は別の誰かを好きになろうとした。大学の同期にとても付き合いのいい女の子がいて、僕をよく散歩に誘ってくれた。一対一でキャンパスの周りをほっつき歩いて、ついでに喫茶店に寄っておしゃべりしたりするのだ。僕は長い時間をかけて次第にその女の子のことが好きになっていった。容姿では斎宮キミカに敵わない、というか、綺麗は綺麗でもまた別の方向性を持っていたのだけど、それでも僕は彼女を誰よりも綺麗だと感じるようになった。

 思うんじゃなく、感じる。

 会うと心臓がきちんとドキドキした。本当に好きになれたんだと思う。

 ――1回。

 これはその女の子にフラれた回数だ。

「悪い意味じゃなくてね、私とあなたでは不釣り合いだと思うの。でも今までたくさん遊べて楽しかったわ」

 その女の子には付き合っている人がいて、それは僕ではなかった。


 僕も楽しかったよ。それは本当さ。


 ただ、誰にも言ってないけど、僕はその一件でかなり気が滅入っていた。

 その女の子が僕に好意を抱いているというのは確信に近かった。僕はもっと先の未来まで想像してしまっていた。つまり、2人で一緒に暮らすこととかさ。その分ダメージも大きかった。

 今度はもう一度を好きになろうという気力も起きなかった。僕には誰かに愛される素質が欠落しているんじゃないかとも思った。生まれた時から欠けていたのか、生きている間に失ってしまったのか、どちらかだ。ずっと昔、まだ誰かを好きになる前、子供の僕はそんなに不幸じゃなかったような気がする。だからたぶん、後者なんじゃないか。

 僕の心が自然と斎宮キミカに向き戻っていったのはきっとそのせいなのだろう。僕は誰かに恋する高揚も苦しみも全て彼女の存在から教わったのだ。僕の恋愛の根底は彼女にあった。思春期以降の僕という人間存在にとって彼女の影はもはや欠かすことのできない柱のような要素になっていた。

 僕はとても久しぶりに彼女の名前を書いた。高校のクラス名簿を作る時以来だった。僕は記憶の中に浸りながらその綴りを思い浮かべて、瞼の裏に映ったままに指を走らせた。

 そう、僕はカーペットの上に自分の指先で彼女の名前を書いていた。素晴らしい文字の並びだった。綺麗な人には綺麗な名前が似合う。ただそれだけのことだった。筆跡も悪くなかった。僕はそれを額装するように六芒星で囲った。さらに星の回りに二重の円を描く。カーペットの毛並みからしてあまり細かいものは描けない。それだけでもリビングいっぱいの大きさになってしまった。家には僕しかいないから人目を気にすることはない。僕はただ名前だけではあまりに素っ気ないと思って縁取りを足しただけのつもりだった。

 ところが……

 最後に円を閉じたところから線が光り始めた。2周目は内側の円、3周目は星型に光が走り、最後は名前の文字まで光った。そして発光面全体から柱のように紫色の光が立ち上がり、その中に大きな水滴のような形をしたものが現れた。水滴は縦に回転して瞬く間に人の形をとった。

 僕は魔術師ではなかったし、本物の魔術師に会ったこともなかったので、文字通り腰を抜かした。後ろに倒れて尻から落ちた。横から見たらきっと見事な尻餅だったと思う。カーペットとはいえ痛いものは痛い。

 そして魔法陣の上に現れたものは液体のような質感から完全な人の姿に変わっていった。

 それは紛れもなく斎宮キミカの姿だった。

「どうしたの、そんな、ヒットマンに追い詰められたみたいな格好して」

 彼女は言った。それは紛れもなく斎宮キミカの声だった。

 僕は彼女の目を見た。とても印象的な目なのだ。大きな黒目に吸い込まれそうな感覚に陥る。息を飲む。それでやっと声が出るようになった。

「いや、驚いたんだ。君が急に出てくるから」僕は言った。

「急に呼び出したのはそっちでしょう?」

 彼女はソファにどすんと腰を下ろして脚を組んだ。綺麗な形の脚だった。生足だ。スカートは膝上、靴下はくるぶしまで。上はワイシャツタイプのブラウス、青いリボンをルーズに巻いている。

「やだ、何この格好」と彼女。

「僕には高校の制服に見える」

「私にもそう見えるわよ」彼女はつっけんどんに言い放った。そしてスカートの裾を自分の膝に丁寧に撫でつけた。「それで、何が望みなの?」

 僕は座り直してあぐらをかいた。

「望み?」と僕。ピンとこない。

「私を召喚したからには何かあるんでしょ?」

「召喚?」

「それ、あなたが描いたんだよね?」

 魔法陣は僕が描いたままの姿でそこにあった。人間が1人出現するなんて何か痕跡があってもよさそうな現象だったのに、そんなものはどこにも見当たらなかった。ただ僕が指で押さえた通りカーペットの毛並みが起きているだけだった。それはむしろ彼女の存在の不確定さを表しているように僕には感じられた。少しでも陣を崩したら彼女は一瞬で消えてしまいそうな気がした。

「そうだけど、でも訳がわかって描いたわけじゃないんだ。たまたまなんだ」

「ふうん、わけもなく私の名前を書いたんだ」

 なんだか僕は恥ずかしくなった。ふと書いたものを本人に見られてしまったからだ。

「正直言うと、ちょっと君のことを考えてたんだ」

「だよね」

「確認したいんだけど、君は魔法か何かを使えるの?」

「そんなわけないよ」彼女は笑った。「私はただ、呼ばれただけだって」

「呼ばれたって、僕に? ただ呼ばれただけでスッとその魔法陣から出てくるなんて、普通の人間にはできないと思うけど」

「ああ、それはね、女の子の妖精さんが現れて、ゲートを開いてくれたんだよ。いきなり、あなたは呼ばれています、ゲートを通る時は息を止めてって、それこそ、問答無用」

「信じられない」

「私だって信じられない」

 僕は手のひらで自分の胸の真ん中をさすった。早く落ち着きを取り戻したかった。

「望み、ね」と僕。

「そう、言ってみなよ」

「じゃあ――」

「うん」

「少し話をしないか」

「話って、何の話?」

「さあね。ただ、話すんだ」

 彼女は首を捻った。僕はもう少し説明した方がいいみたいだ。

「久しぶりに君と話せて、それだけで僕はもう夢のような気分になってる。もちろん君が現れたことそのものの驚きはとてつもない。でも僕はたぶん君が現れたことより君と話せることの方が嬉しいんだ。君とじっくり話せる時間って今までちっとももらえなかった気がするから」

 彼女は昼間のフクロウみたいに目を細めた。なんて重たい男なんだろうと思っているような感じだ。でも仕方がないじゃないか、僕はもともと重たい気分だったんだ。2年間仲良くしてきた女の子にフラれて落ち込んでいる最中だったんだよ。

「ねえ、あなたは私のことが好きだったのよね?」

「そうだよ」

「今はどうなの」

 僕は少し考えた。彼女の目をじっと見た。見ることができた。昔の僕だったら恥ずかしくて目を逸らしているだろう。

「僕は君のことが好きだった」と僕。

「だから、今は――」

「うん。いま、好きだったという気持ちが残っている。つまり、なんというのかな、とても好きだったから、その強い気持ちの燃え残りが完全に消えてなくなるのでなくて、炭になって残っている」

「それってどういうことなの?」

「君は今でも僕にとって特別で、僕の中の一角を占めている。だからこういう時にふと君のことを思い出すんだ。それで名前を書いちゃったりするんだ。それはほかでもなく、君がまだ僕にとって特別だからだ。それは間違いない。でも、僕はいま昔ほど君にときめいてない。アガってない」

「なんかちょっとその言い方は傷つくけど」

「ごめん。君は綺麗だ。本当に。でも事実なんだ。君も大人になったのだろうけど、それ以上に僕の気持ちが変化してるんだ。いま思えば昔の僕は盲目の恋をしていた」

 僕はキッチンに入って、マグカップ2つにインスタントコーヒーをつくって牛乳をたっぷり入れた。彼女が学校の購買でよくカフェオレのパックを買っていたのを思い出したからだ。

 僕はテーブルにマグカップを置く。彼女の白くて細い指がそれを取り上げる。斎宮キミカが僕の家で僕のつくったカフェオレを飲んでいる。それはなんだか夢のような状況だった。もし僕が2年前までの僕だったなら、これは悲願だ。今の僕だって少し顔が緩んでしまうくらいだった。

「ねえ、ひとつ訊いていい?」彼女が言った。

「何?」

「あなたはもう私に気がないんでしょ? それはもし私があなたにコクっても付き合ってくれないってことなの?」

 僕はまたしばらく考えた。これはさっきよりも難しい問題だった。

「もし仮に、仮定の話として、そうなったなら、僕は別に君と付き合ってもいい。なぜって、本当に取り返しのつかないこと以外は時間の許す限り何度でもやり直せるべきだと僕が考えてるからだよ。もし君が過去のツレない態度を変えたいなら、僕はそれに応えるべきだと思う。でもきっとそうはならない。あんなに避けてきた僕を君がいまさら好きになるなんて思えない」

 彼女は黙って僕を見つめていた。その目はとても綺麗だった。宝石や満天の星空くらい綺麗だった。

 僕は自分の眉間に指を当てて押さえた。

「どうも君は真剣に見えるね」

「そうでしょ?」

「ねえ、君は本当に斎宮キミカなのかな」

「なぜ?」

「本当に信じられないんだよ。君と話してることとか、付き合う付き合わないの話をしているのとか。どうして君は僕の呼びかけに応じてくれたんだろう? いくら急だったからって、僕の名前を出されて斎宮キミカが肯くとも思えないんだけど」

「私も大人になったのよ。あなたの気持ちが変化したのと同じくらい」

「どうかな……」

「じゃあ、私が私でないとしたら、いったい、誰なの?」

「斎宮キミカを演じている誰かだよ。それは例えば、君は妖精さんみたいな女の子に誘われたと言ったけど、その妖精自身だ。君は確かに斎宮キミカを呼びに行った。でも彼女がどうしても拒むし、僕の呼びかけに応じるのも義務だから妖精が彼女を演じることにした。それか、そもそも僕が描いたのは本人じゃなくて本人そっくりの妖精を呼び出す魔法陣だったのかもしれない」

「あなたが私と話してて違和感があるのって、私があなたに会ってもいいとか、付き合ってもいいとか、そういうところだけなんだとしたら、それってすごく絶望的じゃない?」

「確かに。でも、何度も言うようだけど、僕は本気で斎宮キミカと会いたくて彼女を思い浮かべていたわけじゃないんだ」

「つまり、私の見た目とか、声とかには違和感がないわけでしょう?」

「ない。斎宮キミカそのものだよ」

「それって駄目なのかな。別人でも、同じ顔、同じ性格だったら愛せるんじゃない?」

「そこには、本人として愛するのか、それとも別人として愛するのか、という問題もある」

「難しいわね」彼女は肩を竦めた。

「ともかく、こうしよう。僕はこれから斎宮キミカにメールをする。デートに誘う。君が本物なら僕の誘いに乗るだろうし、僕の思った通りなら彼女は拒むだろう」

「ケータイ置いてきちゃったな」

「じゃあ、戻ってもらわないとだめだ。僕は1人で返事を待つことにするよ。君が本当に斎宮キミカならもう少し話していたいところだけど、このままだとどうしても落ち着かない」

「それ、最後の望みでいい?」

「最後?」

「3つだけあなたの望みに応えることになってたの。1つは召喚に応じたこと、2つ目は話をしたこと、そして次が3つ目」

「それは実質2つなんじゃないかな」

「そう決まってるんだって。私に商法の文句を言わないでよ」

 僕はポケットに手を突っ込んでまた少し考えた。その間彼女は魔法陣の上で爪先歩きをしていた。線を踏まないようにする遊びらしかった。

「いいよ。3つ目、僕はメールを待つから、君はいったん帰ってくれ」

「どうしても確かめなければ気が済まないのね」

「ごめん、そうみたいだ」

「わかった。謝ることないよ。じゃあ、さようなら」

「さよなら」

 僕がそう言うと再び魔法陣が紫色に光った。さっきよりも光は弱い。彼女が陣の真ん中にしゃがむ。その姿を隠すのに最低限の光量だった。

 僕は足で魔法陣を消した。それは僕と斎宮キミカのを一度正常な状態に戻すために必要なことのように思えた。そして周りを見回す。僕1人だった。もう彼女の声は聞こえない。ポケットの中で握っていた携帯電話を取り出してメールを打った。次の土曜にどこかで会えないだろうか、という内容だった。



…………



 2日後に返事が来た。

 1日待ってどうせ無視だろうと諦めていたから、通知を見た時にちょっと呆然としてしまった。僕はきちんと机の前に座ってそのメールを開いた。


「ごめんね、今度の土日は合宿があって忙しいの。だから会えません。ごめんね」


 何の合宿なのかも書いていない。謝るけど、別の日を提案してくれるわけでもない、短い素っ気ないメール。斎宮キミカの典型的な断り方だった。

 僕は携帯電話を置いて、机の上に肘を立て、手を組み合わせてそこに額をつけて俯いた。胸の古傷に大斧をぐりぐりと押し当てられているみたいな鈍い痛みを感じた。その傷から水銀のような黒い血が流れ出しているような気がした。

 何度やったって落ち込むことはわかっていた。でも2年経って別の誰かを好きになったあとにもかかわらずこんなに胸が痛むとは思わなかった。

 ただ、これで答えは出た。斎宮キミカは変わっていない。僕が召喚したのは彼女じゃなく、別の誰かが彼女を装っていただけだった。目の前に現れたものよりメールの文字だけを信じるなんて自分でもバカバカしいと思う。でもそう考えるのが一番腑に落ちる方法だった。

 それに、別人なら、別人としてその人を新しく好きになるのは全然異存ない。もちろん、たぶらかされているだけなのかもしれない。ルックスや声も斎宮キミカのものを借りていただけで、本来のものではないかもしれない。それでも僕は彼女に――斎宮キミカを装っていた妖精に――もう一度会いたいと思った。

 ただ、僕は確実な方法はなかった。

 僕はコピー用紙いっぱいに前回と全く同じ魔法陣を鉛筆で描いた。真ん中に書いた名前も「斎宮キミカ」のままだった。

 その紙を目の前に置いて姿勢を整える。

「残念ながら僕は君の本当の名前を聞いておくのを忘れてしまった」

 僕は独り言のように言った。

「だけどもし君が僕の言葉を正確に受け取ってくれたなら、3つ目の望みはきっとまだ継続しているはずだ。なぜって、『いったん帰ってくれ』と僕は言ったんだ。『いったん』にはあとで僕のところに戻ってくるってニュアンスが含まれているよね。ねえ、そうだろう?」

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