大夫の君と別れ話のもつれ

次の朝、三位中将藤原貴子が、大夫の君と別れたという噂が流れた。

在鷹は、心のどこかでほっとした気がしたことを、不思議に思った。

貴子はやはり、誰かを待っているのだろうと感じた在鷹の予想が、当たったのだと思った。

でも、だからと言って、在鷹が貴子に近づくことはない。

手燭の炎に近づいて、灼き尽くされる蝶になる気は、さらさらなかった。

 

 一方その頃、三位中将である藤原貴子は、二十も歳の離れた大夫の君に、別れを切り出した理由を、しつこくしつこく聞かれていた。

「余りしつこくなさいますと、他の女人が恐れて、近付いてくれなくなりましてよ」

 扇をぱらりと広げ、心底うんざりといったその貴子の様子に、大夫の君は憤慨した。

「余計なお世話だ! 美しいのは顔だけで、大した素質もないくせに、何が三位中将だ! 女のくせに出しゃばりおって!」

「位を下さりましたのは、主上です。わたくしの顔がどうとかおっしゃいましたけれど、顔で主上の信頼を得られる程、この朝廷は甘くないと存じますが?」

「うるさい、うるさい! 何年も美しくあるなど、あやかしの類ではないのか?!」

 大夫の君は激昂し、貴子の美しい射干玉の黒髪を引っ掴んで、思い切り引っ張った。

 貴子が悲鳴を上げ、それを聞きつけた同じ宣耀殿の女房たちが、貴子の部屋になだれ込んできた。

「貴子さま!」

「中将さま!」

 ある者は、引っ張られている貴子の髪を奪い返そうと、大夫の君の手に噛み付き。

 ある者は、紫宸殿の帝の警護にあたっている、近衛の武官たちを呼びに行き。

 そしてある者は、たまたま渡殿を通りかかった、当直明けの左近衛府中将、藤原在鷹の袖を引っ掴んで、宣耀殿へとぐいぐいと強引に引っ張ってきた。

在鷹の袖を掴んだ女房は、まだ十七かそこらの、若く身分の低い女房で、名は知らないが、とても愛らしい顔つきをしていた。

在鷹はぼんやりと、貴子とは真逆の顔つきだと考えながら、ずるずると宣耀殿に連れて行かれると、そこは修羅場だった。

大夫の君を止めようとする近衛の武官たちと、その大夫の君から貴子を取り戻そうとする、宣耀殿の女房たちや、帝の妃である更衣たち、女御たちが、押し合いへし合いしているところであった。

「何事です?」

「大夫の君が、三位中将さまのお髪を掴んで、引っ張られたのです。女房たちも、近衛の武官たちも、当の三位中将さまのことは、二の次になってしまっていて……」

 余程、恐ろしいのだろう。

若い女房は、在鷹の腕にしがみつくようにして、ぶるぶると震えていた。

 在鷹は、騒動がおさまったら、名を聞こうと心に決めた。

「大夫の君! 三位中将殿!」

 在鷹の、深く低い声が、鋭くその場を貫いた。

 一瞬で、場の空気と動きが、凍り付いた。

びくっと、腕にしがみついている女房が、身を引くのが分かった。

「大夫の君、手をお離しなさい! いったい何をしているのです!」

「左近中将か! 貴様には関係ないことだ! この女狐が許せんのだ!」

 怒髪天を貫くその大夫の君の言葉は、知らず、その場に居た者を全て、敵に回した。

「何ですってぇ?!」

「失礼な!」

「貴子さまを何だとおっしゃるの?!」

「余りの言われようではありませぬか!」

 折角、在鷹の一喝のおかげで静まった場が、また一斉に騒がしくなってしまった。

大夫の君に髪を引っ張られたままの貴子を見ると、痛みに耐え切れず、目には涙が浮かんでいた。

しかし、それでも毅然と美しく、暴力に屈しない姿勢は、在鷹の胸を打った。

在鷹は、やれやれと肩をすくめると、名を聞こうと思っている若い女房からそっと体を離し、手で制して、大夫の君につかつかと歩み寄った。

「な、何だ!」

「……」

頭半分ほど、身の丈の高い在鷹が、低い大夫の君を見下ろした。

そして、貴子の髪を掴んでいる右手を、身の丈に合った大きな手でがっちりと掴んで、大夫の君と貴子だけに聞こえるように、低く囁いた。

「いい加減にしないと、主上にも報告が行きますよ? 誰か、行ったかもしれませんね?」

 一瞬の、沈黙。

 怒りで赤くなっていた大夫の君の顔が、みるみる真っ青になっていく。

 若い女人に別れの文を貰ったからと言って、その相手の部屋まで押しかけ、髪を掴んで引っ張り、ここまで大騒動にしてしまったのだ。

 冷静になれば、既に帝に報告されていても、おかしくない状況だ。

 大夫の君が真っ白になった。

その隙に、在鷹は貴子の髪を優しく奪い返し、自分の片腕に抱き込んだ。

貴子が十二単に焚き込んでいる伽羅の香りが、漂ってくる。

「在鷹殿……」

痛むのか、頭に手を添えている貴子が、在鷹を見上げた。

 在鷹は、昨夜の月の光の下の、美しく白いかんばせを腕に抱いていることに、唐突に気付いた。

 ……鼓動が速くなるのを、感じた。

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