華のかんばせ
斉木 緋冴。
月の光と白いかんばせ
「そこにおられるのは、どなたかな?」
左近衛府中将、藤原在鷹の誰何の声が、夜の静けさに浮く紫宸殿に、響いた。
声に振り向いた影は、一歩二歩と、月明かりの下に姿を現した。
「三位中将殿でしたか」
月光の優しい淡さの中に進み出てきたのは、帝付きの女房で、在鷹の古くからの顔なじみ、三位中将である藤原貴子であった。
「在鷹殿。月を愛でにいらっしゃいましたの?」
ぱらり、と、音をさせて扇を開いた貴子の、月光に浮かび上がったその顔は、冷えた冬の空気を思わせるような、白いかんばせだった。
「いえ、今日は当直でね」
在鷹の艶やかな低い声は、心臓に悪いと、貴子は思う。
こんな声で睦言をささやかれたら、普通の妙齢の女性ならば、その気がなくても、耳を、心を傾けてしまうだろう。
わたくしには、そのささやきを聞かせてはくれないけれど、と、貴子は在鷹に聞こえないように、ため息をついた。
「……何か、お悩みのようですが?」
在鷹はそう言うと、渡殿の端に腰を下ろして、貴子を手招きした。
貴子はちょっと微笑んで、在鷹の傍に座った。
「恋の悩みなら、相談に乗ってもらえますの?」
顔を扇で隠しながら言うと、
「貴子殿なら、私などに相談なさる前に、ご自分で解決出来るだろう」
と、在鷹は艶然と微笑った。
貴子は、宮中でも一、二を争う美貌の持ち主だ。
その噂は都中にも知れ渡り、小野小町の再来かと噂されるほど。
その分、恋の噂なども宮中ではもてはやされるのだが、当の本人は、数多の縁談をその歳になるまで蹴りまくり、今ではそれなりの歳であるのに、未だに独身を通している。
二十歳を過ぎても独身で、おまけにこの美貌だ。
実はどこかに想い人がいるのでは、というのが、宮中での通説である。
「まあ……わたくしには、殿方の考えていることは、分かりませんわ」
貴子はそう言いながら、くすくすと笑った。
この女性は、誰を待っているのだろう、と、在鷹は思った。
今、貴子の相手として噂されているのは、大夫の君である。
大夫の君は、貴子よりも二十歳ほど年上で、とても本気とは思えない。
在鷹は、好い加減に生きるのを楽しんでいるのだが、貴子はそうは見えない。
まるで、理想の男性を見つけるのに、吟味しているかのようだ。
一度は、帝との縁談も持ち上がってはいたが、春宮位争いと、貴子の母の不幸のせいで、うやむやになったままであった。
当時、貴子の父がまだ大納言という、若干低い身分であったことも、位の高い貴族の中では、問題になってはいたが。
「在鷹殿は、相変わらず蝶のように羽ばたいておられますの?」
優雅な手付きで、扇を開いたり閉じたりしていた貴子が、微笑んだ。
「久しぶりにお会いしたのに、随分な言われようですね」
と、在鷹は苦笑いした。
普段、帝の側近くにつかえている二人でも、直接このように話すことは、滅多にない。
「あら、これでも誉めておりますのよ?」
貴子はおかしそうに、くすくすと笑った。
「もう、夜もだいぶ遅い。そろそろ戻られた方が良いのではないですか?」
在鷹が貴子を見ると、一瞬だったけれど、貴子の寂しそうな顔が、目に映った。
どきり、と、した。
こんな表情をする女性だっただろうか?
「お休みなさいませ、在鷹殿」
そう言って微笑んだ貴子の顔には、先ほどの表情は、露ほども残っていなかった。
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