十七

 アナンの心臓の鼓動がようやく収まるのを待って、ゼブリンとアナンは治安放棄地域と呼ばれる早朝のノースナルチス区内を歩き始めた。まずは、ゼブリンの両親が住む家に向かう予定だった。

 アナンはナルチスシティに来て初めて、この治安放棄地域の中に足を踏み入れた。早朝の街には人はほとんど歩いていなかったが、この界隈が整然と佇むナルチスシティの街並みと全く違うことはアナンにもわかった。道は全く舗装されておらず、もちろん車が走っている形跡もない。時折石造りの家もあるが、ほとんどは朽ちかけそうな木材の骨組みがあらわになっており、その上にビニールや布をかけてある程度の粗末な住居ばかりである。ゴルトムント島でさえ、このようにいい加減な家を作る者はいない。住宅街というよりはキャンプ地というイメージがぴったりである。道路脇は木材やらプラスチックやらのゴミが散乱しており、場所によってはひどい悪臭が漂っていた。

 人が住むにはあまりに粗悪な環境だとアナンは思った。これがナルチスシティの繁栄の裏の顔なのだ。このような環境で人は一体どのようにして生きていけるのか、アナンには不思議に思えた。


 しばらく歩いていると、向かいから男が四人ほど一緒に歩いてきた。男たちはいずれも片手に銃を抱えている。アナンはそれを見て、言い知れぬ恐怖を感じ、咄嗟に身構えた。

「見回りだ。任せておけ」

 ゼブリンはそう言った。もちろん、アナンはゼブリンしか頼る者はいないのだ。

 向こうにいる男の一人が声をかけた。

「おい、誰だ!」

 ゼブリンは両手を上げた。アナンはゼブリンの方を向いて、慌ててゼブリンと同じように両手を上げた。

「U大学にいるゼブリンだ。両親のところに行くところだ」

「そこのガキは、誰だ」

「ああ、ちょっとした連れでね。むろん、ここに住んでいるナットさ」

 咄嗟に嘘を言ったゼブリンにアナンは驚いた。声をかけた男は二人に近寄り、怪訝そうな顔で二人の全身を見回した。彼らはアナンより少し背が高い程度で、顔全体も彫りが浅く、明らかにナルチスシティに住むモッドとは別人種のように思えた。あらためてゼブリンの顔を見ると、ゼブリンにも彼らの面影があることがアナンにもようやく分かった。

 別の男が口を開いた。

「よう、ゼブリンか。久しぶりじゃねえか。向こうでよろしくやってるようだな」

 ゼブリンは声をかけた男の方を向いたが、何も話さなかった。

「それにしても、この時間に親に会いに行くってのは、どうも尋常じゃねえ。なんか、モッドの連中にたらしこまれたんじゃねえだろうな」

「冗談じゃない。実はちょっとしたヘマをやらかして、この治安放棄地域まで逃げてきたんだ。俺たちは怪しいものじゃない」

「逃げてきたって? 一体、何仕出かしたんだい? こりゃあ、面白いな。あんた、モッドの遺伝子入れて頑張ってきたんだろ。なんだい。もう諦めたのか?」

「残念だが、俺はもうナルチスシティでは生きられない。また、お前たちの仲間に逆戻りだ。仲良くしてくれよ」

「あはははは、仲良くしてくれってよ。惨めなもんだな。また扶養野郎が増えちまったぜ。犯罪者は出稼ぎに行くわけにはいかねえからな。また落ち着いたら、俺たちのところに挨拶にきな。少しは世話してやるさ」

 そう言うと、四人の見回りは、二人を後にして去っていった。それを見て、ゼブリンとアナンはようやく上げていた手を下におろした。


「ゼブリン、もうU大学では働けないんだね」

 アナンは神妙な面持ちで、ゼブリンにそう語りかけた。

「もうとっくに覚悟は出来てたさ。俺にはまだ大仕事がある。またナルチスシティに舞い戻って、この細菌をばら撒かなきゃならない」

 そう言ってゼブリンはジャケットの内ポケットにしまっていた黒いケースを取り出し、アナンの顔の前に差し出した。

「どうしてもやるの?」

「バカ野郎。当たり前だ。俺は真剣にこの世の中を憂いているんだ。もう一度行って、これをばら撒けば、俺はナルチスシティで捕まる。でも、それでいい。それで世の中が変わるのであれば」

 もちろん、ゼブリンの強固な意志が変わるはずもなかった。ここまで追い詰められながら、全てこれらも彼の計画の中で以前から考えられていたことだったのだろう。多少、計画の実行が早まったにせよ、ゼブリンの行動は全く予定通りなのだ。

 アナンはふと、自分自身の身を心配し始めた。たまたま居合わせたとはいえ、アナンはゼブリンの計画の一部始終を見ていた。しかも、ゼブリンと一緒に逃亡したのだ。もし、あのときゼブリンと一緒に行動せず、アナンだけ大学に残っていたらどうなっただろう。もちろんアナンは捕まったに違いない。そのとき、アナンが正直にゼブリンのしたことを話していれば無罪になっただろうか。あのときの状況では、アナンには逃げることしか考えられなかった。あの時点で、そこまでの冷静な判断は不可能だったように思える。

 しかし、ゼブリンと一緒に逃げたことによって、アナンの罪は決定的になってしまったのではないだろうか。アナンはナルチスシティにとって、すでに犯罪者なのだ。今頃、ナルチスシティではニュースで二人のことを報道しているに違いない。アナンはクサーヴァとフローラのことを思い出した。そして、恩を仇で返すようなことをしてしまったことに後悔の念を感じざるを得なかった。

 アナンは一生ここに住むしかないんだ、と思った。全自動化されたナルチスシティの夢の暮らしはもう終わったのだと思うと、アナンはどうしようもなく落胆した。

 とりとめのないことを考えながら、ゼブリンの後を付いて歩いていくと、これまでの治安放棄地域とは少し印象が違い、ナルチスシティのようなほとんどが石造りの家になっている区域を歩いていた。治安放棄地域と言っても全てが粗悪な環境ではないらしい。

「ここだ、俺の両親の家は」

 ゼブリンは唐突にそう言って、比較的立派な石造りの家の玄関に向かっていった。建物全体は立派だとはいえ、石の外壁は汚れ放題で、一見しただけでは人が住んでいるようには見えない。

 ゼブリンは玄関にある数字のキーを押した。しばらくすると玄関はカチッという音を立てた。ゼブリンは玄関のドアをゆっくり開けて、中に入った。アナンにも入るよう指で合図した。

 玄関を入ってすぐ前に大きなリビングルームがあった。そこは、今歩いてきた治安放棄地域とは全くの別世界があった。リビングルームには赤を基調にした派手な絨毯と、まるで何世紀も前の貴族風のソファが置いてあったのである。天井からは宝石を散りばめたかのような豪華なシャンデリアがぶら下がっている。クサーヴァの家でも、これほどきらびやかな家具は置いてはいない。もっとも、クサーヴァはこのような豪華絢爛な家具を好んだりはしないだろうが。

 ゼブリンはソファに腰をかけた。アナンにも座るように言った。アナンは柔らかいソファに腰掛けると、張り詰めていた緊張の糸が弾け、安堵感でぐったりしてしまった。その途端、これまでの疲れがどっと全身を覆い始め、次第に意識が遠のいていった。そして、あっという間にアナンは深い眠りに落ちてしまった。


 誰かが大きな声で話している声で、アナンは目覚めた。

 まるで怒鳴っているような声だ。二人が激しく言い合いをしている。「全く狂気の沙汰ではない」と言った言葉が聞こえてきたような気がした。アナンが寝ぼけ眼で辺りを見回すと、横に座っていたゼブリンが気付いた。

「ああ、アナン。悪かったな。起こしたようだ」

 アナンは依然としてソファに座っていたが、このリビングルームには、もう別に五十代くらいの年配の男が、向かいのソファに腰掛けている。ゼブリンはその男に手を向け「俺の親父だ」と紹介した。

「あ、アナンです」アナンは寝ぼけ眼のまま、わけもわからず自分の名前だけ何とか名乗った。

「ああ、アナンか、初めてだな。──しかし、あんたを巻き込んで悪かったよ」ゼブリンの父が答えた。しかし、すぐに彼はゼブリンのほうに向かって、今の話の続きを始めた。どうやら、ゼブリンと父親が口論をしているらしい。

「ゼブリン、わかっているのか。父さんがどういうつもりでお前を育ててきたのか!」

「だから、言っただろう。俺は、父さんや母さんのような人たちを助けたいんだ。父さんだって、ずっとモッド達に辛酸を舐めてきたんだろう」

「だからお前をモッドにしたんじゃないか」

「俺はモッドじゃないんだよ。父さん、こんなに背が高くたって、俺はナットなんだ。いくら街で頑張ったって、モッドの連中は俺のことをナットだと思ってるんだ」

「父さんは、そのために八年強制労働をしたんだ。わかるか。お前に成功してもらって、モッドとナットの橋渡しになるような立派な人間になって欲しいと思ったんだ。それなのに……こ、こんなとんでもないことを……」

「無理なんだよ。父さん。あと十年もすれば、ナットの仕事はさらに半分になるだろう。いいかい、このノースナルチス区の境界を強制的に変更する計画だってあるんだ。みんなナルチス純化同盟の陰謀だ。モッドにとってはもう、ナットは邪魔者なんだ」

「わかった。何度も聞いたよ。お前はリーナのことをまだ恨んでいるんだろう。もう忘れろ、あのことは。我々には彼らを裁く資格はないんだ。だがしかし、モッドの社会を混乱させるなんて、そんなことするために、お前は……」

「恨み、恨みだって? 俺は誰を恨んだらいいんだ! もう、リーナも俺の子供も還ってこないんだ。純化同盟への恨みなど小さな問題だ。俺はもっと本質的な解決をすべきだと、さっきから言ってるんだ。

 父さん、残念だけど、この件は永遠に父さんとは理解し合えない。俺を思いとどまらせようなんて考えたってダメだぜ。だから、父さん、黙って見逃してくれ」

「いいか。ナルチスシティを混乱させるなんて、馬鹿なことは考えるな。父さんは絶対に許さん。やるなら、すぐにここを出て行け」

 ゼブリンの父は、声を荒げてそう言った。確かに語調は勇ましいものだったが、その響きにはもはや諦念が滲んでいた。恐らく彼にはゼブリンを止めることは不可能だと思ったに違いない。しばらくした後、父は大きくため息をついてリビングルームを去っていった。ゼブリンもまた、悲しそうな表情をしていた。重苦しい雰囲気がこの部屋を覆い、しばらくの間沈黙が続いた。

「リーナって誰?」アナンは恐る恐る尋ねてみた。ゼブリンはアナンのほうを向かずに虚空に向かって語りだした。

「俺の恋人だった。無論ナットだ。俺たちの三ヶ月の子供を腹に宿したまま、自殺したよ。半年くらい前の話だ」

「──自殺。なぜ?」

「なぜだって。俺が聞きたいよ。何も言わずにあいつは一人で自ら命を絶った。

 だがなあ、ナルチス純化同盟が何らかの圧力をかけたことには間違いないんだ。どんな言い方でリーナに脅しをかけたかは知らない。しかし、あいつらが……、あいつらが彼女を殺したも同然だ!」

 ゼブリンはこぶしを握り締め、思わず両手でテーブルを突いていた。その音が虚しく、華美に飾られたこの部屋に反響する。アナンは何も言えなかった。

「俺たちが一緒に暮らし始めた頃、匿名の脅迫状が届いた。『貴殿が子孫を残そうとすることに深く憂慮するものである』と書かれてあった。まさか、あの脅迫があんな形で現実になるとは、そのとき俺には考えもつかなかった」

「ど、どうして、ゼブリンに?」

「いいか。モッド並みになったこの俺の存在は、モッドとナットが役割分担をするこの社会の秩序を壊すことになるんだ。そしてその俺が自分の子供を作れば、その秩序をますます破壊することになりかねない。モッド万能社会を標榜するナルチス純化同盟の連中なら、何があってもそれを阻止しようと考えたに違いない。

 リーナが自殺して、それに思い至った俺は気付いたよ。つまり、これまでの俺の人生は全て、何者かから完全に監視されていたんだ。何をやったって、この街で重要な仕事が出来ないように仕向けられていたんだ! 俺にはもう何一つ明るい未来など来ないのだ!」

 ゼブリンのあまりに悲劇的なその話は、アナンの心をひどく揺さぶった。ゼブリンをモッド全滅計画に駆り立てたその直接的なきっかけは、恐らくその事件だったに違いない。

 アナンは、ゼブリンに同情を抱き始めていた。彼は、恋人と自分の子供を同時に失ったのだ。いや奪われたと言ってもいい。彼の心の闇に潜む凄まじいまでの復讐心を想像すると、アナンは居ても立ってもいられないほどの同情を感じた。これまで懐疑的だったゼブリンの考えが、何となく正当なことのように思えてきたのである。そして、アナンはどうせなら最後まで彼の行うことを見届けてあげようという気分になっていた。

「──ゼブリン。今後はどういう計画なんですか?」

「アナンはどうする? このままこの治安放棄地域に住み着いてもいいだろう。だが、君はまだ罪が軽い。ナルチスシティに行って捕まっても、そんなにひどい罪にはならないはずだ。もちろん、俺が事を起こす前に捕まってもらっては困るがね」

「ほんの少しなら、ゼブリンの手助けをしますよ。僕が事の顛末を見届けます。そして、ゼブリンのことを人々に伝えたい」

「本当にいいのか。俺はお前の意志を尊重するぜ」

「もう腹をくくりました」

 アナンがナルチスシティで捕まったとしても、その後、ゼブリンの細菌が街を襲うのならば、アナンの罪の裁きがまともに行われるはずもない。直接手を下さないのなら、ゼブリンと行動を共にしたって良いはずだ。アナンの正義感はそのように結論付けた。

「よし。じゃあ、作戦会議だ」

 ゼブリンはそう言って、ソファに寝そべっていた身体を起こした。

「細菌はどこにばら撒くと思う?」

 ゼブリンはいきなりアナンに問いかける。

「どこって、人通りの多いところ。ショッピングモールとか? 中央広場とか?」

「U大学だよ。しかも生物学科だ」

「ど、どうして」

「この細菌はどこでばら撒いたって、それなりに威力を発揮するさ。それよりも、この細菌に対する対策がすぐに立てられないようにしなければいけない。この細菌の仕組みを調べることが出来る唯一の機関は、U大学だ。だから、まずそこにばら撒くというわけだ」

 改めてゼブリンの計画の恐ろしさを垣間見た気がした。生物学科はつい昨日までゼブリン自身が勤めていた職場だ。そこには、ゼブリンの知り合いもいるだろうし、直属の教授だっているだろう。その一番近いところにいた人たちをまずターゲットにしようというのだ。まさに、シミック教授顔負けの冷徹さではないか。

「だから、俺たちは今まで逃げてきたのと全く逆の道筋を取る。まず、この治安放棄地域から、あの地下室があった廃墟の民家まで行く。そして、そこから一気にU大学に向かい、生物学科の空調室に行く。そこのダクトの中に、この試験管が割れるように投げつけるんだ」

「また走るんですか」アナンは聞いた。

「走る必要はないさ。そのために、これから闇市で他人の市民権IDが入った指輪を調達する。車を使わなければ、指輪を使うのは大学内のたった四箇所。大学の玄関のドアと廊下内にあるセキュリティ用のドアだ。ここが開けば、あとは空調室まで行ける。空調室は何度も下見はしてある。抜かりはないはずだ」

 ゼブリンの計画はアナンには完璧に思えた。この計画が完遂されたことを思うと、アナンは身震いを感じた。アナンは、まだゼブリンの計画に加担することに一抹の疑問を感じているのだ。

「このうちにはリニアネットが通じている。俺たちのニュースを見てみるかい?」

「ニュース?」

 ゼブリンはそう言うと、近くの端末を操作し、部屋の壁のモニターに映像を映した。ニュース専用の配信チャンネルを選ぶと、映像はニュースを流し始めた。神経質そうなニュースキャスターが、しかし抑揚のない声で淡々と事件を語っている。


『十一月八日、午前九時発信のニュースをお知らせします。

 昨夜午後九時半頃、U大学生物学科シサスク研究室内で、U大学内の危険研究監視エージェントからの警報が保安省に報告されました。

 エージェントからの報告によりますと、シサスク研究室内で、紫の悪魔に類似する細菌を取り扱っていることが検出された模様です。この研究の目的はまだ分かっておりませんが、特定細菌研究規正法で禁止されている行為であるため、保安省は摘発に踏み切りました。

 容疑者はこの研究室に勤める助手・ゼブリン・チャンと、来客扱いでU大学に訪れていたアナン、あのゴルトムント島脱島者であります。二人は保安省の摘発処理直前に大学構内を走り去り、今朝未明ノースナルチス区の境界付近で消息を絶ちました。現在二人は、ノースナルチス区内に潜伏しているものと思われます。まだ、この二人の目的の詳細がわからないため、保安省ではレベル1の手配体制をとって監視を続けています。

 なお、この危険研究監視エージェントは、過去にも特定車両の動作を不正に操作するためのシステムを摘発したり、配電制御装置を遮断し電力配給網に被害を与えるエージェント作成などを摘発してきました。

 いずれも摘発された研究者は、三年間のスクリプトFの免許剥奪と強制労働の刑が執行されております。

 続きまして、次のニュースです。

 昨夜午後十一時頃……』


 そこでゼブリンは映像を切った。

 ゼブリンとアナンはすでに指名手配されていた。アナンは分かってはいたことだったが、こうやって自分の名前がニュースで告げられるのを聞いて、ショックだった。ゴルトムント島でもアナンは犯罪者扱いを受け、結局島を出ざるを得なかった。そして、ここナルチスシティでも、再びアナンは犯罪者の烙印を押されてしまったのだ。人はひょんなことから、簡単に犯罪者になりうるものなのだとアナンはそう思った。


「さあ、指輪を買いに行くか」

 ゼブリンはそう言って、アナンの腕を引っ張り上げた。またしても強引なやり方だ。少しは彼らしさが戻ってきたようだ。

 治安放棄地域内の闇市は、ナルチスシティでの犯罪の温床となっている。もちろん、保安省もそれは分かっているのだが、ナットによるほとんどの犯罪が短絡的で幼稚であり、ナルチスシティ内でほぼ完璧に抑えることが出来たので、敢えてこの闇市を摘発するようなことはしていないらしい。しかし、ナルチスシティで働いているナットが、ナルチスシティ内で不法に市民権を得て、この闇市で売って商売をしているなどということもあり、特に簡易市民権に関しては、保安省での審査が厳しくなりつつある。

 ゼブリンとアナンは闇市に行った。そこは、最初に治安放棄地域に入ったときと同様のみすぼらしい骨組み丸出しの家だった。家には屋根として青いビニールがかけてあり、家の中に入ってもきちんとした床などなく地面がそのままである。まるで露店のような雰囲気だ。

「おい、アナンか?」

 思わぬところから、アナンを呼ぶ声があった。ゼブリンではない。アナンは驚いて、辺りを見回すと見慣れた顔が五メートルほど先に発見できた。

「ラウリー! 何でこんなところに」

「おいおい、それはこっちのセリフだよ。アナン、おまえ、まだゴルトムント島についていろいろ聞かれてたんじゃないのかい?」

「ニュースは聞いてないの?」

「ニュース? そんなのナルチスシティに行かなきゃ、おいらには見れないよ」

 ラウリーがそう話すのを聞いていたゼブリンが口を挟んだ。

「おい、誰だ、こいつは?」

「ゴルトムント島監視局員のラウリーです。僕を初めてこの街に連れてきた人です」

 ゼブリンはそれを聞くと、口をへの字に曲げ、彼が何か信頼の置けない人物であるかのような素振りを見せた。ラウリーはそれを見て、ちぇっと舌打ちしたのがアナンには聞こえた。

「それでよ、アナン。いったい、あんた何でここにいるんだ。だいたいここは闇市だぜ」

「あ、まあ、いろいろあって追われる身になっちゃった」

「追われる身だって? アナンよう、あんた、相当のワルじゃないか。ゴルトムント島でもそうやってなんか仕出かしたんだろう。それとも、そこのモッドの片棒を担いだのか? まあ、おいらには関係のないことだがね。アナン、あんたならもう少しナルチスシティでうまくやれると思ったんだが」

 悪いことをして島を追われたわけではないと説明する気ももう失せてしまった。もはやラウリーにどう思われても構わないとアナンは思った。

「ラウリーこそ、ここで何やってるの?」

「あんたを連れてきてから一月ぶりにナルチスシティに帰ってきてるのさ。それで、帰ってくるたびに、ちょっと細工をして簡易市民権を申請して、この店に売ってるのよ。おっと、アナンよ。このことはナルチスシティの人に言うんじゃないぜ」

「今そんな状況じゃないですよ」

「そうかい。ってことは、もしかしたらあんた方、市民権を買いに来た?」

 それまで黙っていたゼブリンが、急にラウリーのほうを向きなおして、彼に尋ねた。

「おい、ラウリーとやら、ちょっとそれを見せてくれ」

 ラウリーはそう言われると、声の調子を突然上げて、満面の笑みでゼブリンに返事をした。

「へい、モッドの旦那。お安い御用ですぜ。これは中々質がいいんだ。ちょっと高いですがね。そうそう、アナンの分もあるぜ」

 ラウリーにはゼブリンがモッドに思えたらしい。ゼブリンは市民権の証明書をラウリーから手渡され、それを読み始めた。しばらくして、ゼブリンは「ほう」と言って、かすかに頷いた。ゼブリンにしてみても中々のものだったらしい。

「こりゃ、強制労働の刑で外地で亡くなったモッドの市民権だ。外地で死んだことは、こちらにはまだ知られていないらしい。それに、もう一つはナットの簡易市民権だ。ここで生まれて成人したが、ナルチスシティで働きたいので、初めて市民権を取ったということになってる。これなら、二つともすぐにばれることはなさそうだな」

「旦那、なかなかでしょう? ただ、おいら達で直接個人売買するわけにはいかない。店を通さないとね。だから、おいらが少し割引してこの店に売る。そしてあんた達がすぐにこの市民権を買うってのはどうだい。アナンに免じて少し相場より安くしてやろうってわけだ」

「そりゃ、ありがたい。その話乗ったよ」

 ゼブリンとラウリーはさっきの雰囲気から打って変わって、いきなり意気投合した。お互いの利害が一致する場合、相手の印象を全く変えてしまうものだ。二人は、闇市の仲介者のところに行き、何やらごそごそと会話をしていたが、やがて商談が成立したらしく、二人はにこやかな顔で戻ってきた。

 ラウリーが言った。

「じゃあな、アナン。今日は売れてよかったぜ。礼を言うよ。本当はこんなところで会いたくはなかったんだ。また、ゆっくりゴルトムント島の話をしてくれ。いつでも待ってるぜ」

「ああ、ラウリー、こちらこそありがとう。一生恩に着るよ。また連絡する」

 アナンがそう言うと、ラウリーは手を振りながら、この闇市から去っていった。

「アナンも、妙な友達を持ってるんだな」とゼブリンはアナンをからかった。ゼブリンもまた、思わぬ収穫に大変喜んでいる様子だった。

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