十八
決行は翌日の朝九時に決めた。
ゼブリンによれば、衣服を変え、顔を不審に思われない程度に覆えば、大学までほとんど問題はなく辿り着けるだろうということだ。しかし、その前にゼブリンはもう一つ、仕事をしなければいけなかった。彼がこの計画のために用意していた別のエージェントを起動させ、大学まで行く道筋や大学内のセキュリティシステムにいくらか穴を開けておくことである。
ゼブリンによれば、この日のために彼はセキュリティシステムの不正アクセスを防ぐ仕事をしていたのだ。彼は誰にも分からないように、セキュリティシステムの中に、彼だけがアクセスできるセキュリティホールを作っておいた。このホールを通せば、保安省のシステムに侵入して、特定の監視カメラの出力を操作したり、市民権IDの取得情報を別の値に化かすことが可能になる。そしてこの仕込みを今晩中にしておき、明日は、設定した時間に事を運べばいいわけだ。
アナンはその夜、ゼブリンの家で一晩を過ごした。ゼブリンの両親とも家の奥に引き篭もってしまい、ゼブリンとは会おうともしないようだった。ゼブリンは夜遅くまで、ラウリーから買った市民権を使ってリニアネットにアクセスし、セキュリティシステムの設定をしていた。アナンはその様子を音で聞きながら、静かに眠りについていった。
そして朝が訪れた。
アナンはもう何も考えないことにした。考えれば考えるほど迷いが生じる。ナットたちの粗末な暮らしを見ただけで十分だ。ここはいびつな社会なのだ。そして、どんな方法であれ、この社会を一度リセットする必要があるはずだ。アナンは、シミック教授に村人の殺害を指示された研究室のメンバーの気持ちは、こんな感じだったのだろうか、と考えたりした。もしアナンがその場で、アンディと同じ行動を取って、あの阿鼻叫喚の地獄を味わったのなら、アナンもまた村人の亡霊に悩まされたかもしれない。しかし、アナンは直接、銃を取って人を撃つわけではない。今回は、ゼブリンが試験管を投げて、この世がリセットするのを見届けさえすればよいのだ。アナンはただ自分自身にそう言い聞かせていた。
二人は、何の苦労もなく大学まで辿り着いた。二日前の晩、あれほど走ってこの道を逃げなければいけなかったのが嘘のようだった。大学の玄関に到着し、ドアを開ける前に、ゼブリンはアナンに言った。
「ここから先も同じだ。全てセキュリティシステムの動作が狂うようになっている。空調室はちょっと遠いが、そこに行くまでの扉は、この指輪をかざせばよいはずだ。すでに今日午前九時の客人登録をしてあるからね。
恐らく治安部隊が発動するのは、この研究棟内で誰かが倒れ始めたときだ。そのとき、初めて空調設備内に細菌がばらまかれたことがわかる。そして、その時間に空調室にいた人間が割り出される。そして、その人間を追いかけてくるわけだ。
俺はもう逃げない。細菌を撒いた後どうするかは何も考えていない。アナン、君は俺のやったことを見ていてくれ。その後、捕まるかもしれないが、モッドが大量に死に始めると、すぐ社会は混乱するだろう。そうしたら釈放されるに違いない。わかったか。じゃあ、行くぞ」
アナンは頷いた。
ゼブリンは指輪をかざした。案の定、ドアは開いた。二人は玄関のドアをゆっくり通り研究棟内に入った。
二人は空調室まで繋がっている廊下をゆっくり歩いていった。研究棟には、何箇所か指輪をかざしてドアを開けなければいけない箇所がある。空調室まで、全部で三箇所あるらしい。そのうちの一箇所目が目の前に見えてきた。ゼブリンは指輪をセンサにかざし中に入る。その後、アナンも同じようにして中に入っていった。
突然、そのとき大音量で警報が鳴った。
ゼブリンもアナンも予想しなかったことで、一体何が起きたのか一瞬分からなかった。ゼブリンが一生懸命、何が起きているか考えようとしていた。ゼブリンはアナンに向かっていった。
「細工をしたのがばれたかもしれない。空調室に急ごう」
「ばれた?」
「早く、行くぞ」
そういうとゼブリンは駆け出した。アナンも後を追って駆け出した。
二人が走り出したのとほぼ同時に、後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。かなりの人数だ。
「まずい、治安部隊がもういやがる」
ゼブリンが昨夜、設定していたにもかかわらず、それが失敗したということなのだろうか。先ほどゼブリンが説明してくれたことと全く違う事態が起きていた。二人はU大学の廊下を黒装束の治安部隊に追われているのだ。
「くそっ、嵌められた」ゼブリンは大きな声で怒鳴りながら、走り続けた。次のドアが現れた。アナンは開かないかもしれないと思った。ゼブリンは速度をゆるめたが、ぶつかるようにセンサに指輪を付けた。ドアは開いた。ドアが開くのがアナンには恐ろしくゆっくり感じた。その間にも治安部隊は二人を追って、後ろから走ってくる。人が通れるくらいにドアが開いたとき、まずゼブリンがドアを通った。それから、すぐ後に間髪入れずアナンも通った。
治安部隊は開いたままになっているドアを、そのまま通って二人を追ってくる。ドアのおかげで距離は縮まっているはずだ。
そのとき、初めて後ろの治安部隊から銃が撃たれた。銃声が廊下の中を鋭くこだました。弾がどこにぶつかったかは分からない。威嚇射撃だったのかもしれない。それでも、ゼブリンはひるむことなく走り続けた。
廊下は時々T字路になっていて、二人は向かいの壁にぶつかりながら、廊下を右に曲がったり、左に曲がったりした。
そしてようやく空調室が見えてきた。空調室にもセンサがついていて、そこに指輪をかざさないと入れないようになっている。後ろを振り返ると、治安部隊はもう廊下の今曲がったばかりの曲がり角の向こう側を走ってくるのが見える。
たまたまアナンがドアの前に立ったので、指輪をセンサの前にかざしてみた。ドアの鍵が解除された音が聞こえたが、ドアは相変わらずゆっくり開いている。一人分が通れる隙間が出来たとき、アナンは倒れこむように部屋に入った。
そのとき、銃声が響いた。
「うあああーっ」
ゼブリンの大きな悲鳴が聞こえた。
「ゼブリン!」
「足を撃たれた。俺を部屋の中に引きずり入れてくれ」
アナンは身体半分、空調室に入っているゼブリンを引っ張り、部屋の中に引きずり入れた。ゼブリンは左足の腿を撃たれていて、そこから血がどくどく流れ出ていた。
「アナン、早く扉を閉めろ!」
ゼブリンに言われ、アナンはドアを閉めようとするが、どうしたらよいか分からない。もう黒装束の連中はすぐそこまで来ているのが聞こえる。
「センサに指輪を……」
ゼブリンがそう言わないうちにアナンは反応した。部屋側のセンサに指輪をかざすと、ドアはゆっくり閉まり始めた。
しかしドアが人一人通れるくらいの隙間になる頃に、すでに黒い影がドアの向こうに立っていた。そしてドアのわずかな隙間に黒い手と足が入ってきた。アナンはその手を横方向に思いっきり蹴った。
「いてええええー!」
恐らく手と足を入れていた治安部隊の一人が、大きい声で叫んだのだろう。その声が聞こえたとき、ようやくドアが完全に閉まり、廊下の音が急に小さくなった。
しかし、外では五、六人の黒装束の治安部隊がドアを蹴っているのが分かる。ドアは中からロックがかかるらしく、治安部隊がドアを開けようとしても開かない様子がわかった。この状態では、彼らは物理的にドアを破壊して入るしか手がなさそうだ。
「──アナン、撃たれちまったよ。俺は歩けない」
「ゼブリン!」
「これだ、この試験管だ。これをあそこのダクトに投げ込め」
ゼブリンはそう言うと、上着の内ポケットから、黒いケースを取り出した。そして、両手でケースのチャックを開け、中に入っている五本の試験管のうちの一本をそこから抜き、アナンにその試験管を手渡した。
話が違う、とアナンは瞬間思った。アナンはゼブリンが行うことをただ見届けるだけのつもりだった。もちろん他人から見れば、同じ場所にいて、犯罪を起こすことと犯罪行為を黙認することにどれほどの違いがあるかは疑問だ。それでも、自らの手で罪を犯すことのその責任の重さは、とてつもないほど重大なものだ。
アナンは試験管を手に持って、その中身をまじまじと見つめた。この中に、紫の悪魔を応用してゼブリンが作ったモッドが全滅する細菌が入っているのだ。アナンには、試験管の中には透明な液体しか見えなかった。この中に果たして本当に細菌はいるのだろうか。
「何をしている。アナン、早くあのダクトのところに行け」
アナンはゼブリンの語気に押され、試験管を持ったまま、ゼブリンの方を向いてダクトの方へ後ずさりした。
ドアはまだ激しく叩かれている。時折、体当たりでドアが歪むのが分かる。何度もドアを叩いて埒が明かないと思ったのか、今度はドアの上下を銃で撃ち始めた。
「アナン、何をゆっくりしているんだ。早く投げろ。気化するには時間がかかるんだ」
アナンはなおもゆっくりと後ずさりしながら、横にダクトがあるところまで来た。ダクトは空調の設備と繋がっていたが、一メートルほどの幅のある大きな管である。アナンの横にはちょうど取っ手が付いていて、これを引き上げれば、ダクトの中が見えるはずである。
「その取っ手を上げろ。そして、その中に試験管が割れるように投げつけるんだ」
ゼブリンが一生懸命叫んでいる。アナンは取っ手を持ってダクトの扉を開けた。中には真っ暗な空間がぽっかりと口を開けていた。この口は果たして地獄への入り口なのか?
「アナン、投げ込むんだ。アナン!」
ゼブリンは何度も何度も叫んだ。ゆっくりとしていて、いつまでも試験管を投げようとしないアナンにゼブリンは懇願するように叫ぶしかなかった。
「──アナン、俺のやってきたことを無駄にするな。世界をリセットしろ! アナン」
「ゼブリン! 僕には、僕には……」
「やるんだ、アナン!」
元々、アナンはゼブリンがここで投げつけるのを見届けるつもりではなかったか。それならアナンがここで投げ入れたって同じはずだ。アナンは腕を振り上げた。しかし、まだ迷いが振り切れない。
アンディ。アンディならどうする?
アナンは一瞬、そう考えた。シミック教授に島の人々を殺すように命令されたアンディは、その命令に従って、島の人たちに銃口を向けた。銃を持って人々を殺しているときのアンディの気持ちはいかばかりであったろう。しかし、アンディは結局、自分の気持ちに嘘をついて、シミック教授の命令に従っていたのだ。
そして、内に閉ざされた彼の信念は、彼を狂気まで追いやった。しかし、アンディは自分の内なる信念に気付いた。そして、自分は島の人々を殺すべきではなかったという結論に達したのだ。
アンディ、それに気が付いたとき、あなたはもう死ぬしか選択の余地が無かった。今ならまだ引き返せる、アナンはそう思った。シミック教授に人殺しを強要されたアンディ。そして今ここで、ゼブリンのモッド全滅計画を遂行しようとしているアナン。やはり、どんなことがあっても、ここで試験管を投げてはいけないのだ。今ここで、試験管を投げれば、アナンの信念はアナンを苦しめるだろう。そして、アンディと同じく、自らを死に追いやるかもしれない。
「ゼブリン、僕には出来ない!」
アナンは叫んだ。
ゼブリンがそれを聞いて、がっくりするのが見えた。
その瞬間、ドアが開いた。
治安部隊が部屋の中に入ってきた。そのうちの一人が、手を振り上げているアナンに向かって銃を放った。その直後、アナンは試験管を持っている右手の二の腕に激しい衝撃と痛みを感じた。その衝撃でアナンの持っていた試験管は、アナンの手から離れた。数秒後、試験管はこの空調室の床に落ち、その衝撃で粉々に割れてしまった。
アナンは銃で撃たれた衝撃で、床に倒れこんだが、試験管が割れる音を聞いて、驚いてそっちの方を見た。白い煙が立っている。細菌が空気の中を広がっていく……
顔に毒ガス用マスクをつけていた治安部隊のうちの一人が、急いで試験管の傍に向かった。そこで何やら掃除機のようなものを向けて、電源を入れる。立ち上り始めた煙はすべて掃除機のような機械の管に吸われていった。床にこぼれた薬品も、その機械がどんどん吸い取っていくように見えた。
床に倒れていたアナンは、別の治安部隊の男より、口と鼻に向かって、不意に何かガスをかけられた様な気がした。喉に激しい痛みが襲った。しかし、そう感じた瞬間、アナンの視界は暗くなり、すーっと意識が遠のいていった。
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