アナンの父、アーロンが村の長老に選ばれたのは、アナンがクリスに求婚してから一月ほどたった、七月も終りになる頃だった。死期を悟った長老のヤナは、死ぬ前に自ら長老の職を辞することにしたのである。たとえ数週間でも、自分の意識があるうちに長老の心得を後任に語っておきたかった。そのためには、後任の長老をしっかり決めておく必要があった。

 今回の長老決定には、その他の長老にも全く異論がなかった。アーロンは四十を過ぎ、男として最も脂が乗り切っていて人望も厚い。すでに近隣の八家族が属する西三番区の代表として、長老と太いパイプで繋がれており、長老にとっても顔なじみであった。

 もちろん、長老決定には毎回大変な苦労が伴う。当然ながら、長老には村の行く末を決定できるだけの権限が委ねられている。だから長老になることは、この村で生きていく多くの民の憧れでもあった。

 長老の一人が死ぬたびに、村には妙な噂が流れるのが常だった。長い間病気を患った上での死去ならそのような噂はすぐに消えてなくなる。しかし、事故や突然の病気で亡くなった場合、長老になることに意欲を隠さない人が殺したのではないかと疑われてしまう。だから、本当に長老になれるくらいの人物は、いずれ自分が長老になるなどということは決して口にしないものだ。

 もちろん、アーロンのほかにも長老候補はいた。アーロンよりもう五歳年上のザハールである。今回の決定は、今後ほぼザハールが長老にはなれないことを意味していた。年功序列的な村の仕組みの中では、新長老になる者は、他の長老より年下であることが慣例だったからだ。つまり、アーロン以降に選ばれる長老は、アーロンが自ら辞するか死なない限り、アーロンより年下ということになるのだ。

 その意味で、長老になる年齢が一気に若返ることは、それなりに長老批判を集めることにもなりかねない。しかしそれにも増してアーロンの村での人気は確固たるものだった。村の誰もがザハールよりもアーロンのほうが長老として適任であると思っていた。

 実際のところ、ここ数ヶ月村ではこの話題で持ちきりだったのだ。だからこそ、ヤナもアーロンの長老就任が円滑に行われるように、自らが死ぬ前に敢えて長老の座を辞したのだった。


 アーロンの長老就任は、ほぼ一日で村中に知れ渡った。

 その日から、アーロン一家はまるで天地がひっくり返ったような騒ぎになった。決定の次の夜には西三番区の住人が全てアーロン家に集まり、ささやかな宴を催した。クリスの家族も集まった。そして、その日はアーロンの長老就任と、アナンとクリスの婚約のお祝いで大いに盛り上がった。

 西三番区の代表といっても、アーロンより年上の人も何人かいるから、長老就任とはいえアーロンは全く畏まっていて、慇懃な態度を崩さなかった。区の一人一人に挨拶しながら、礼を尽くすことに徹底した。

 アーロンはそれから毎日のようにヤナの元を訪れた。

 その一方、アーロン家には村中の多くの人がやってきて、贈り物やら何やらをたくさん置いていった。その度にアナンの母はその応対に追われた。一週間も経つ頃には、アーロン家は贈答の品で一杯になった。

 この一週間は、アーロンも日中にはいなかったので、長男のアナンはアーロンがやるべき農作業までこなしたり、母親の手伝いをするだけで一日があっという間に過ぎてしまった。西三番区の慰霊祭の準備や練習はクリスの指揮の下、毎日進めていたけれど、二人きりでクリスと逢うことは滅多に出来なくなってしまった。


 そして、長老就任決定から十日後の八月一日、正式にアーロンの長老就任儀式が村の中央広場で執り行われた。

 村の行事で何より重要なのは、音楽と踊りである。この日の長老就任式でも、村の芸能組による太鼓とギターの演奏と、それに合わせた踊りが披露された。慰霊祭では、毎年各区による演奏が行われるが、祭りではないこういった村民集会型の催しでは、村の専門集団である芸能組による演奏が行われる。芸能組は村でも指折りの名手しか参加できないから、彼らが披露する演奏や踊りは村では最高級のものだ。

 この島では誰しもが音楽を大好きなのである。多くの人々はギターを弾くのが好きで、芸能組のギター職人が作るギターは、村中のかなりの家に置かれている。人が集まれば、誰かがギターを弾きだす。それに合わせて皆が歌いだす。それがこの村での宴の盛り上がり方だ。

 しかし、こういった公式な場で演奏される音楽は、また格別で壮大なものであった。芸能組が奏でる音楽は、祝祭に合わせた派手な音楽もあれば、悠久の村の歴史を感じさせるしっとりとした叙情的な音楽もあり、人々の心を癒してくれる。そして芸能組の打楽器とギターによる合奏音楽は、旋律を複雑に絡ませ、音だけによる抽象的な物語を構築しながら、人々の意識を遥かなものへと誘った。音楽が村の人々の想いを一つに繋げ、人々はこの村が永遠に繁栄することを心の中で想像した。音楽とはまさしく宇宙の一部を体現したものである。この村の音楽ほど、この言葉を良く現すものはないだろう。

 また、この音楽には女性だけの踊り子による神秘的な踊りが、厳粛な雰囲気を演出していた。踊り子になる女性はいずれも美人揃いで、指先から足の先にいたるまで揺ぎ無く統率されたその踊りによって、その美しさは比類なきものまで高められた。そして、その踊りを見る者たちに、神に近づく悦びを与えた。そんな芸能組の踊り子に、村の娘たちの誰もが憧れ、踊り子に選ばれることを夢見ていたのは当然のことかもしれない。

 演奏は音楽の圧倒的な盛り上がりと、熱狂的な踊りの中でフィナーレを迎えた。音楽が終わった後、村の人たちから大きな拍手が沸き起こった。

 芸能組の演奏の後、長老の代表から、新たに長老としてアーロンを迎えるという宣誓が行われた。アーロンは村の長老に代々伝わる紋章入りのメダルを首にかけられ、儀式は終了した。

 アーロンは村人の前で就任の挨拶を行った。

「わたくし、アーロンは、ただいま、この歴史あるゴルトムント島の長老として任命されました。ここに厳粛に、その任を全うすることを誓います。

 この村はかつてない繁栄を謳歌しています。この繁栄が永遠に続くことを、そして民が平和のうちに暮らせることを、私は祈ります。

 そのために、微力ではありますが、出来うる限りの尽力をさせていただくつもりでいます。若輩者ですが、長い間、どうかよろしくお願いいたします。

 神のご加護があらんことを。アーメン」

 人々がそれに続いて、アーメンと復唱した。

 挨拶の内容はいたって平凡なものであったが、アーロンの力強い声は、その内容の本質的な意味を再確認させるのに十分だった。村人は、その語気の強さと、そこに潜む精神の強さを肌で感じながら、彼こそまさに新しい長老としてふさわしい人間であると思った。

 こうしてアーロンは正式に長老として任命されたのである。


 アーロンが長老になっても、しばらくアーロン一家の忙しさは変わらなかった。そればかりか、一家の働き頭がいなくなることが多くなると、その負担は男手のアナンとマーリンに圧し掛かってきた。アーロンが持つ田畑は、二人の息子が大きくなるにつれて、その広さを増していたので、一番の働き手を失ったアーロン家の忙しさは大変なものになった。

 もっとも、長老とて、この島では専門の職業ではあり得ない。長老の会合はどんなに頻繁にあるときでも二日に一度くらいのペースだったし、各自がその日の自分の仕事を終えてから集まるので、会合は昼もかなり下った頃から始まることが常である。もし、話し合う内容が少なければ、数分で散会ということもある。

 しかし、長老になったばかりのアーロンは、まだまだヤナから教わるべきことも多かったし、長老の中でも田畑の灌漑施設の担当に決まったアーロンは、現状の島の灌漑施設の状況を把握するのに大忙しとなった。新任だから、仕事にも当然気合が入ってくる。アーロンは同じく農業を営む人々の施設に対する不満や、要望などを一生懸命聞き歩いたのだった。

 この忙しさも長続きしないからと、アーロンはしばらく家族に我慢を強いるよう頼んだ。特に結婚前でいろいろ準備も必要なアナンには、申し訳ない表情で協力してくれ、と父親のほうから言ってきたのである。アナンはクリスと会う時間が減るのは少々残念ではあったが、圧倒的な存在だった父が、自分を頼ってくれる状況に少しばかり優越感を感じていた。もちろん、結婚して家を出れば、自分が一家の主になるわけだ。そのときになれば否が応でも、一人で人生を切り開いていかなければならない。しかし、その少し前にアーロン家の大黒柱の経験ができるのはアナンにとっても実際には悪い気分ではなかったのである。


 田畑の草取りが大方終わって、久しぶりに時間が空いた午後、アナンはクリスを誘って、海岸が見える秘密の丘に行くことにした。絶景が見えるあの丘は、今や二人のデートの場所となっていた。

「アナン忙しそうね」クリスは少し不満げに言った。

「ゴメン、昨日も練習遅れちゃって」

「アナンがいないと練習にならないのよ。他にちゃんとギターを弾ける人がいないし」

「でも、まだ一月あるし、結構いいセンいってるんじゃない?」

「ダメダメ。アナンがいないときは、もう本当にダメよ。もう一月もないんだから。それにこの前の長老就任式で芸能組の演奏、みんな聴いちゃったしね。すごく良かったけど、慰霊祭のお祭り演奏と比べられそうで困っちゃう」

 クリスの出し物への取り組み方は、相変わらず厳しい。クリスの踊りのうまさは村中誰でも知っていたけれど、十八歳にならないと芸能組には参加できない。もちろん、クリスはその歳になったら必ず芸能組に入るつもりでいたが、今は意味のない敵対心を感じているようだ。

「僕たちの新しい家は、西三番区でなくて東区のほうにしようか。あっちならうちも遠くなるし」

 アナンは少し声を落として言った。

「でも、アナンのうち大丈夫なの? アナンがいなくなったら働き手がいなくなっちゃうじゃない?」

「マーリンがいるからね。あいつに家の土地は継いでもらうかな」

「ふーん、アーロンの後はマーリンが継ぐんだ」

「いや、まだ誰にも話しちゃいないよ。僕より先にみんなに言っちゃダメだよ。でも、僕はゼロから始めたい。父さんの力を借りないでね。その気持ちは、クリス、わかるだろ」

「もちろんよ。でも、今忙しそうだし、それっていつ頃になるのかしら」

「そのことだけど、ゴメン。僕考えたんだけど、結婚は秋頃じゃなくて、もう半年ほど遅らせないとマズいような気がするんだ。本当にごめんね。だけど、その後は、東区に二人の家を建てて、そこで暮らそう」

「やっぱり、今はダメね。残念だけど。でもアナンの父さん、長老なんだし、仕方ないわ。うちの父さんも言ってたけど、これからはいろいろ良くしてくれるだろうから不平をいっちゃダメだよって」

 正直、クリスにそう言われるのはあまり嬉しくなかった。

 これではいつまでたっても、みんなは父さんに頼りっきりだ。アナンはアーロンに頼らずとも生きていけることをクリスに証明したいのだ。なのに、クリスの両親は、アナンと結婚することによって長老と親類になれることを喜んでいるように見える。長老だからといって、近所にばかり有利なことをするわけにはいかない。そんなことをすれば、周りの区から恨まれてしまう。そのぐらいの想像力を近隣の人には持って欲しいものだとアナンは思う。恐らく、クリスとて、自分の恋人の父親が長老である、ということに並々ならない期待をしているに違いない。アナンはこれから、少しずつクリスのそういう気持ちを変えていかなければいけないと密かに思った。


「家を建てたら、そばに大きな風車を作るんだ」アナンは言った。

「風車って、クルクル回るあのおもちゃ?」

「そう、あれのすごく大きなやつを作るんだ。学校で一度だけ、昔そういうものがあったって聞いたことがある。それをね、この村で作ってみたいんだ」

「そんな大きな風車を作ってどうするの?」

「水を汲み上げるんだ。低いところから高いところへ。今、畑には川から水を入れてるけど、川の水が少ないことがあるだろう。そのときは、大変な思いをして、いつも水を運ばなきゃならない。クリスだって手伝ったことあるだろ」

「この前も大変な思いをして、家族みんなで水を運んだわ」

「あれを自動に出来るんじゃないかって考えてるんだ」アナンは力を込めて、クリスに語った。

「そんなことできるの。自動だなんて信じられない」

「まだうまくいくかわからないけどね。だから、最初はね、家の傍に建てて実験してみるんだ。実はね、その前に、今のうちの中でちょっとした風車を作ろうと思ってる。それはかなり小さいものだけどね。僕が頭の中で考えているものが、ちゃんと動くか、小さなもので確かめてみたいんだ」

「アナンは得意そうだもの、そういうの。私ね、アナンが作ってくれる家にとっても期待しているの。アナンなら誰よりもきれいでしっかりした家を建ててくれる。学校のときに作ったアナンの鶏舎、未だにすごい評判だもの」

 アナンがまだ学校にいたころにアナンが設計して作った鶏舎は、アナンが養鶏をなりわいとする人たちの意見を丹念に聞いて、それを最適な形で実現したことで、この島で大きく話題になったことがある。それ以来、その鶏舎にはアナン型という名前がついた。アナンは随分誇らしい気分になったことを覚えている。ただ、ひとときは学校にいる少年が作ったということで評判にはなったものの、いささか設計が複雑で加工がしにくく、今ではアナン型を使う人が少なくなってしまった。

 木工で何か新しいものを作り出すことが好きなアナンは、アナン型の鶏舎が評判になったおかげで随分いろんな知識を得ることができた。だからこそ、今度はもっと大きな計画を考えているのだ。今度こそ、村の生活を大きく変えるくらいのインパクトあるものを作ってみせる、それがアナンの大きな夢でもあった。

 クリスはそんなアナンが頼もしく、そして男らしく思えたが、アナンが技術的に考えていることをクリスが理解することは難しかった。クリスにとっては、今でもアナン型の鶏舎は村で大評判の代物だと信じているし、今あまり使われていない理由を説明しても理解できないだろう。ましてや、風車で水を汲み上げるということが何を意味するのか、クリスには想像も及ばないことだった。しかし、何かしら漠然と、アナンのすることが、村にとって大きな利益をもたらすであろうとは思っていた。

「クリスはどんな家に住みたい?」

「私ね、広いお料理場が欲しいわ。たくさんのお鍋とフライパン、それからね、大きな竈が欲しいの」

「クリスは料理が好きだからね。大きな竈ってどのくらい?」

「このくらい」クリスは、立ち上がって両手を広げて、広げた手を背いっぱいに上に伸ばした。

「それは大きいな。うちの周りじゃ見たこともない。いったいそんな大きな竈で何を作るの?」

「パンとか、スープとかをたくさん作りたい!」

「それはすごい大家族じゃないと食べきれないかもね」

 そう言うと、アナンとクリスはおのおの、たくさんの子供に囲まれた将来の二人の生活を心の中でついつい想像してしまった。それから、クリスは我に返ると少しばかり恥ずかしくなって顔を赤らめた。

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