三
ほとんど一年中気温に変化がないこの島で、唯一季節を感じさせるものは雨である。夏は非常に乾燥し、雨が降ることが少なくなる。七月になったばかりのこの日も、そんな乾いた夏の風がやさしく頬を叩くような穏やかな日だった。夏の日差しは情け容赦なく人々の肌を突き刺すが、日の当たらない場所ではそんな優しい風を感じることができる。日中木蔭で過ごすのが最も心地よい季節だ。
アナンとクリスは今年の慰霊祭の相談や、二人の結婚までの計画を立てようと、農作業の終わった昼過ぎに、村の集落からかなり外れた西側の海辺に行くことにした。
南側と東側の海岸が比較的開けている一方、島の西側、及び北側の海岸線は、岩山が切り崩れてそのまま海岸線になったような断崖絶壁が多く、島の人々は滅多には来ない。それでもときどきは勇敢さを競う子供たちが、岩の高いところから海へ飛び込んで遊ぶために来ることもある。ただし実際には安全に海にジャンプできるところもそうたくさんあるわけではなく、子供たちの遊びのスポットも限られていた。村の人たちにとって、この辺りは内緒の話をしたいときには格好の場ではあるが、逆にこの場にいるところを他の人に見られるのはちょっとバツが悪い。
今日もここまで来るのに、アナンとクリスは村で噂の別の恋人同士とすれ違った。彼らが結婚とはまだ聞いていないけど、二人で秘密の話といったら、やはり結婚のことしか考えられない。事実、自分たちがそうなのだから。
アナンとクリスは一時間ばかり歩いて、ようやく小高い岸壁に辿り着いた。西海岸には、夕日がとても美しく見える広場があるが、あまりに明け透けな人工的なその場は若いカップルにはどうしても馴染めない。二人もそちらではなく、森を抜けて大きな草々に囲まれた静かな場所に来た。そこには、誰が作ったか知らないが二人がちょうど腰をかけることができるように削られた大きな石が横たわっている。
「そろそろ慰霊祭の準備始めなきゃね」
アナンは石に腰をかけて、話を切り出した。
「そうよ、毎年ギリギリになって始めるんだもの。もう少し早くからやれば、もっといい出し物が出来るのにっていつも思うわ。去年の二番区の出し物は悪いけど酷くなかった?」
「そうだったかなあ。踊りのうまいクリスから見ればそうかもしれないけど」
「そういうことじゃなくって。練習不足なのよ。アナンからみれば、ギターだってもっとうまく出来たって思うはずよ」
「去年はちょっと役者が足りなかったんじゃないかな。今年はなんたってクリスがいるし、村のみんなを驚かすような出し物が出来ると思うよ」
「ダメダメ、何だって練習が必要なの。きっちりやらなきゃ」
「クリスは厳しいなあ。それじゃ、もうそろそろ三番区の出し物の担当を決めなきゃ」
九月一日に行われるこの村の最も大きな行事である慰霊祭には、毎年地区毎に音楽と踊りとの出し物を担当する区と、お供え物を担当する区が割り振られる。今年の慰霊祭では、アナンとクリスが住んでいる西三番区は出し物を行う順番になっている。出し物は、たいてい二十歳以下の若者が中心に行うのが慣例だ。
「私、今年はね、スリーステップスマーチを踊りたい」
「それって、結婚式でやるやつじゃない?」
「──だからよ」
「クリスと僕が? 西三番区の出し物で?」
「いや?」
女の子のかわいらしい発想にアナンは思わず躊躇いの素振りを見せてしまった。クリスのことは大好きだけれど、二人の幸せを見せつけるのは、やはり男としては恥ずかしく感じてしまう。ましてや、村で一度の祭りの場だ。アナンは、少なくとも自分が率先して稽古をつけるのは、勘弁して欲しいと思った。
「じゃあ、今年はクリスが出し物の総指揮になればいいよ。そうだ、そうしよう。父さんに言っておくよ」
「ええ、私が? アナンがやるって話だったじゃない」
「大丈夫、みんな反対なんかしないさ。だって、僕からスリーステップスマーチって言い出すなんて……クリスがやるべきだよ。そうだ、それがいい」
クリスには、そんな男の子の気持ちなど分かろうはずも無く、一瞬アナンに対して不満そうな顔をしたが、何かひらめいたように答えた。
「──わかったわ。でも、どうなっても知らないわよ。今年は厳しくやるから」そう言うとわざと、見てなさい、というような表情をした。いつもは大人しいクリスなのに、祭りの出し物や踊りのことになると妥協が出来ないのだ。それは、小さい頃から踊りが上手だと言われ続けたクリスのささやかな自負心から来ているのだろう。
アナンは何も言わずに微笑みで返事をした。海から吹き付ける風は、クリスがお気に入りのピンク色のシャツの袖を、ひらひらとはためかせている。ふと視点を遠くに向けると、午後の海の凪はキラキラと眩しく揺れ、目を細めずにはいられない。遠くで一艘の船が何かの漁をしていたが、それを凝視していると光の中に溶けてしまいそうな気がした。
「クリス、結婚したら家はどこに建てようか?」
クリスは、「えっ」と少し驚いたようにアナンを見た後、しばらく考えた。
「うちの近くは嫌だわ。もっと遠いところ。父さんや母さんが簡単に来られないような」
「そうだね、僕も父さんの近くはいやだ」
「アナンはお父さんと比べられるのが嫌なんでしょ。前も言ってたじゃない、父さんにはどうしてもかなわないんだって。そういえば、うちの父さんが言ってたけど、今病気のヤナ長老がもし亡くなったら、次はアナンのお父さんが長老に決まるんじゃないかって」
クリスの言うとおり、アナンは父のアーロンにはいつもかなわないと思っていた。十八歳になった今だって、父には腕力でさえかなわない。アーロンは体格も良く力も強い。そして何より人望に厚かった。いつでも正しいと思ったことをまっすぐに主張し、弱い人々を助けようと奔走していた。今では西三番区の数世帯の面倒を見ていて、クリスの言うとおり、近いうちには村の長老にという話があったのは確かだ。
「クリス、めったなこと言っちゃいけないよ。そんなこと聞かれたらまずいじゃないか」
「どうして?」
「どうしてって、ヤナ長老がもし死んだらなんて、そんなのマズいよ」
「かなり具合が悪そうって聞いたわ」
「そりゃそうだけど……」
一度アナンは父親にその噂について尋ねたことがある。そのとき父は激しく怒り「そんなことは口が裂けても言うな」と怒られたものだった。だから家では、父の長老就任の話は触れないことにしている。
アナンには、他に弟と妹の二人の兄弟がいた。弟マーリンは父の血を受け継いだのか、同い年の仲間内でもリーダー格で、近所の評判では早くも将来が期待されている。アナンはというと、優秀な成績で学校を卒業はしたけれど、父親の圧倒的な存在感に比べると、自分自身があまりにちっぽけに思えてきて、そんな自分に引け目を感じている。
「アナンはアナンよ。お父さんのことなんて気にしなくたって」
クリスがそう言ったのを聞いて、まるでアナンは自分の心を読まれたかと思った。
「だからこそ、父さんの近くから離れたいんだ。父さんが傍にいる限り、どうやったって父さんと比較されちまう」
「気にしすぎだと思うけど」
「だって、クリスだって家から離れたいんだろ」
「私の親を見ればわかるじゃない。もうほんとにおせっかいなんだから。きっと近くに住んでたら、しょっちゅう現れてあれこれ言いたいこと言うに決まってるんだわ」
「あははは、それ想像できるね」
「もう、笑いごとじゃないのよ」
「クリスのことが心配なんだよ。みんなクリスのことを心から愛しているんだよ。それとも、僕のことあんまり信頼してないのかな」
「ううん、そんなことない。うちの親はね、もうじっとしてられないのよ。私がなんかやらかすんじゃないかって、いつでも心配しているだけなの」
ザザザザ……
不意に後ろの雑草を踏み倒す音が聞こえて、二人はとっさに振り向いた。
男が、あちらこちらを見回しながら一人でうろうろしている。私たちが振り向いたのに気が付いたのか、何気ない顔を装っているが、それでも二人の様子を一生懸命伺っているのが手に取るようにわかった。
「──いや、何か感じ悪いわ」クリスが囁く。
後ろにいる男の素振りがどこか訳ありな感じだったので、アナンはここから立ち去った方がいいように思えた。アナンも声を潜めて、クリスの耳元で囁いた。
「あの人、ここで待ち合わせじゃない?」
クリスは、なるほど、という顔をして頷いた。
「行こうか」二人は男の視線を避けるようにしながらその場を離れ、元来た道を戻っていった。しかし、せっかく時間ができてこうして二人で会っているのに、このまま家に帰るのはちょっと口惜しい気がした。アナンは今日こそ、クリスをあの秘密の場所に連れて行くべきだと思った。歩きながら、意を決してアナンは言った。
「クリス、君と一緒に行きたい場所があるんだ」
「えっ、どこ?」
「僕しか知らない秘密の場所」
アナンはついに自分だけの秘密を他の人に打ち明ける決心をした。
アナンにとって、自分の気持ちを整理するためには、どうしてもあの場所が必要だった。しかし、もう自分一人のためにあの場所を使うべきではない。これからは、どんな悲しいこともつらいことも、二人で受け止め、そして二人で忘れていくのだ。秘密の場所を教えることは、アナンにとってそれくらいの覚悟のいることだったのだ。
南側の海岸線は、この島の景色の中でも最も美しいところだ。
この海岸には何百メートルもの砂浜があり、子供たちの格好の遊び場になっている。それに、ちょっと天気のいい日には、たくさんの人が水浴びにやってくる。この場所には、いつでも何人かの人が遊んでいるけれど、中には一人で海だけを見つめている人をときどき見かけたりする。砂浜と草が生い茂る場所の境目に、昼過ぎには木立が作る少しばかりの日陰があって、そこでは一人物思いに耽る人がいるのも珍しくない。
アナンも学校に通っていた頃は、よくこの木蔭に来て、一人で海を見つめていたものだった。一人で海を見ていると、不思議なほど心が落ち着く。アナンは海を見つめているのが本当に好きだったのだ。
でも、一人で海を見つめていると、後ろから突然学校の友達がふざけて襲いかかってきたりとか、村の知り合いが声をかけてきたりして、落ち着かないことも多かった。その度に、海が見えて誰にも邪魔されない自分だけの場所があればいいなあ、とアナンは思っていた。
この海岸を逆に振り向くと、たくさんの雑草や木で覆われた山とは呼べないほどの小さな高台がある。この丘を頂上まで行くと、海岸沿いの集落の全景が見渡せるので、そこにはちょっとした展望広場が作られている。
ある日、アナンはその展望広場に行こうとしていた道の途中、雑草越しにふと見えた海岸線の美しさに、雑草を踏み分けながらやみくもに丘の海側の斜面に向かって歩いてみたのである。ちょうど斜面が緩くなっている場所があって、その縁まで雑草をかき分けたとき、思いがけずアナンは「わーお」と声を出してしまった。
そこには、海岸線を一望できる、吸い込まれるような美しい景色があった。何百メートルにも渡る真っ白な砂浜の海岸線。浜辺に近いエメラルドグリーンの海は、穏やかに凪いでいて、遠くに行くほどその青は深みを増していく。そして、海は空と出会う遥か遠い場所まで遠近法を無視するかのように広がっているのだ。白い砂浜の手前には青々と茂った熱帯の木々が生い茂り、かすかな風に葉が小刻みに揺れている。
海岸線のラインと緑、青、白、そして太陽の配置がまた完璧であるようにも思えた。南洋の楽園とはまさにこのような情景を指しているのに違いない。
しばらくアナンは驚いたまま、そこに立ちすくんでいた。
少ししてから、雑草を踏みしめて座る場所を作り、そこでずっと海を見ていた。海岸線からは、子供のはしゃぎ声と、波が寄せては返す音がかすかに聞こえてくるけれど、アナンが今まで体験したこともなかったような白昼の静寂がそこにはあった。
それ以来、アナンはこの秘密の場所に一人で来るようになった。人には知られないように、展望台に行く道から分岐して雑草の中に分け入る場所は、なるべく派手に雑草を倒さないようにしたものだった。もちろん、そこに分け入るときには、道の両側を人がいないかよく確認してから、すばやく入るようにしていた。
アナンはクリスを連れて、この丘の展望台に向かう道を、ぐいぐいと手を引っ張りながら登ってきた。
「アナンったら、ちょっと待って。手が痛いわ」
「もうちょっとだってば」
「さっきから、もうちょっと、もうちょっとって。いったいいつ着くの」
「だから、もうちょっと」
一度、秘密を明かそうと決めてしまうと、早く教えたくてたまらない、そんなアナンの気持ちがついつい足を速めてしまう。アナンは、少しも急いでいるつもりもないし、いつものように腕を繋いで歩いているつもりなのに、実際にはクリスの腕をひどく強く握っていることに全く気が付いていなかった。
そして、二人はついに秘密の場所に通ずる獣道の入り口の前までやってきた。
「この中に入るんだ」
「この中って、道が見えないわ」
「僕の後についておいで」
引っ張られるままにクリスは獣道を歩かされる羽目になった。
しかし、雑草の生い茂る獣道を歩いていても、海岸線が少しずつ見えてくるようになるのはわかる。クリスは、段々とその景色に期待して歩きが速まってきた。
そして、アナンがこれまで踏み固めた美しい海岸の見えるその場所に二人はようやく辿り着いた。
クリスは驚いたように立ちすくみ、しばらく声を発しなかった。
「──きれい、ほんとにきれい……」
「気に入った?」
そう聞かれてクリスはアナンに抱きついた。
「ひどいわ、今まで誰にも教えなかったなんて」
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