第一章 1話 宵闇の気配
「……ふぅ。今日は、ここ、までに、しておきます、か」
そう呟いて、半獣人の青年は、タイプライタアを打つ手を止める。
神経質そうな顔立ちと、頭から生えた愛らしい猫の耳が、その青年にアンバランスな印象を与えている。
彼以外、誰もいない部屋。
古めかしい机と、小さな調理場しかないその部屋に、彼の独り言は思いの外大きく響く。
「…何か、た、食べ、ないと、ですね。うん。」
青年は、先ほどよりも少し大きめの声で独りごちた。まるで、この家に巣食う「孤独」という名の魔物を振り払うように。
軋む木製の扉を開け、外に出る。
午後3時。
部屋の中の明るさと相反して、空は薄暗い。
青年が暮らすこの土地の日照時間は、1日のうちおよそ5時間ほど。それでも、長らくここで暮らす彼にとっては慣れっこだった。
古びた携帯型のランタンに火を灯し、青年は歩を進める。
家の前にある小さな畑で彼は、その時期に合った旬の作物を育てていた。光量が少なくとも育つよう改良された、自慢の子供達だ。
今日収穫するのは、コウカブラ(赤カブに似た野菜)。こいつは塩で煮込むだけで、とろりと美味い一品料理になる。栄養ももちろん満点だ。
青年は、その顔に歪んだ笑みを浮かべる。
何かを馬鹿にするような、でもどこか悲しいような…そんな表情だった。
「コウカブラ、くん。いや、ちゃん、でしょうか」
赤いコウカブラは女の子に違いないと、青年は思い直した。
「…ふふ。こんなに、大きく、育ったの、に。僕みたいな、クズに、食べられて、終わり、なんて。悲惨、な、一生、ですね」
嘲るようにそう吐き捨てて、地面から出たコウカブラの葉に両手をかける。
力を入れて、一気に引き抜こうとしたーー
その瞬間。
青年は、自身の目を疑った。
遠方から、二つの人影がこちらを目指して歩いてくるのが見えたのだ。
「……うそ、でしょ。なんで、ヒトが…!?なん、で…」
見間違いではない。確かにヒトが2人、この家の方に向かってくる。
その影は今や、かなり大きい。日の光の差さない薄暗い環境ではあるが、おそらく既にあちら側の2人も青年の存在に気づいていることだろう。
「……うあ、ど、どーする…どーする…」
青年は、自身の鼓動が可笑しいくらいに高鳴るのを感じた。冷や汗が止まらない。だってもうここ数年間、青年は誰とも口を聞いていなかったのだ。
…愛しき畑の野菜達を除いて、誰とも。
動転する青年を他所に、2人組のヒトと思しき影はその歩みを止めない。
1人はノッポの髭の男。もう1人はゴオグルを目にかけているせいか目視し辛いが、どうやら女のようだ。
「ありゃ?あそこに見えるのはヒトじゃないの?ねえ、シノ」
髭の男が、女に話しかける。
「……ヒト、かな。そうでなけりゃあバケモノだろう。というかフェイ。お前、私を見下ろすんじゃないって何度言ったら分かるんだよ。その馬鹿高い背、どうにかしろ」
シノと呼ばれた女は、げしげし、と男の足を蹴る。躊躇の様なものは一切感じられない。
「ちょっとお〜。シノ様、足の力強すぎ。折れちゃう折れちゃう」
フェイと呼ばれた男は苦笑いしながらも、まんざらでもない様子だ。
「まあ、バケモノじゃあ無いなら俺達の呼びかけに応えてくれる事でしょう。
おーーーい!!そこの君!!君、バケモノなの??ん??」
鼓膜をビリビリと震わせる程の、大きな声。
一方の青年は、恐怖と緊張で顔が歪み、口が開けない。
(っぐ……!!な、なんて、大きな声…)
ブンブンと手を振りながら近づいて来る髭面の巨人。顔には満面の笑み。
青年が恐怖に震えるのも、無理は無いのかもしれなかった。
「あーれー?この俺の敵意一切なし友好アッピールが通じないのかな?シノちゃま、あれ、バケモノの可能性あるかもよん?」
「…ちゃまだの様だの、妙な敬称を付けるな。良いだろう。本当にバケモノかどうか、私が試してやる」
そう言うと、シノは腰に付けたホルスタアからサッと
「ここからだと、あのバケモノ(仮)への距離はおよそ50メートルほど。…ま、殺せるだろ。」
全長30センチほどもあろうかというその拳銃を、ゆっくりと青年に向けるーーーー
「ちょ、ちょ、ちょっと、待った!!!撃たないで!!撃た、ないでえええ!!」
銃口を突きつけられた青年は、己の力を振り絞り、ついに叫んだ。
「ぼ、僕はヒト、ですっ!!アホ、ですか!!バケモノじゃあ、あ、ありません!!」
青年の足はガクガクと震え、額からは玉の汗が滲んだ。
シノの眼光は、それほどまでに鋭く、躊躇無く、純粋な殺意を青年に伝えていたのだった。
「ちっ。ただの吃りの半獣人じゃないかよ。」
シノは拳銃を持つ手を下ろし、ふう、と息を吐いた。不貞腐れたような表情をたたえている。
「…そんなあからさまに舌打ちとかするんじゃないよ、シノさん。まるで殺せないのが残念みたいな言い方じゃあないか。
平和的じゃないねえ、今回の君は。
どれ、僕が彼とコミュニケーションを取ってみようか」
シノとは対照的な愛想の良い笑みを浮かべながら、フェイは青年の方へと向かっていった。
「どうもどうも、こんにちは。さっきはうちの
「し、し、信じら、れるわけ、ないで、しょうがあ!あ、あ、怪しいに、決まってる…!だって、ヒトが、ヒトが、が、こ、こんな場所、のうのうと、あ、歩いている、なんて…。」
「む?何で信じられないのさ?だって現に、僕らは人畜無害なヒトだけれど、こうしてこの土地の土を踏んでいるよ?」
フェイの緩み切った顔と対象に、青年は青ざめた顔で続ける。
「そりゃだ、だって…。だって、貴方達、ここにく、来るまでに【ヤコブの
「あー。ヤコブの梯子かあ。」
フェイは振り向き、背後をチラと一瞥した。
自身が辿ってきた仄暗い道の先に見える、巨大な岸壁。その岩壁に一つだけ、ぽっかりと空いた道が、白く発光しているのが見えた。
怪しいほどに神々しく、ヒトを別世界まで誘うように輝く、それはーーー
ヤコブの梯子。別名「地獄の通り道」
もう随分と昔の話。世界を天変地異が襲った。
大地は割れ、川の水は干上がり、ヒトを主食とするバケモノ……
が大量に発生した。
混乱の中、それまで1つ所に暮らしていたヒトは、散り散りになることを余儀なくされる。彼らは鵺の目につかない岸壁に囲まれた土地を発見し、それぞれのクニを築いてゆく。
数千人ほどが暮らす大きなクニから、数世帯が寄り添ってくらす小さなクニまで。ヒトは世界各地で、それぞれの根を張って行ったのだ。
生活の基盤が整ったころ。ヒトは再度の集結を試みるべく、自らの足で他のクニへ赴く事を決意した。
同胞を探し、未知の世界への踏み出そうとした彼ら…。
そんな彼らの歩みを止めたもの。
それが他でもない、ヤコブの梯子だった。
クニをぐるりと囲む巨大な岸壁に、一本だけ空いた細いトンネルの形状をした道。
外界との唯一の接点であるその道が、ある日突然、ビロードのように白く輝き出したのだ。
自然的に発生した現象か、もしくは何者かが意図的に変化させたのか。
とにかく分かるのは、誰にも気付かれぬ間に、その道が怪しく輝く異形に姿を変えていた事。
そして、その道を通った者の末路はーー
「…つまり、あ、貴方達…
【
青年が、唇を震わせながら呟く。彼方者という言葉に、シノがピクリと反応をする。
「…お前。今、彼方者と言ったか?つまり私達が、梯子の呪いで気が狂ったヤバいやつらだと、そう言いたいのか?」
シノは再び腰のホルスタアに手を掛けるーーと同時に、フェイが素早くシノの動きを制した。
「シノ、興奮しないの。一般的にね、ヤコブの梯子を一度でも通ったヒトの事を、総じて彼方者って言うんだよ。必ずしもイカれちゃった人達の事を指すとは限らないの。だから、この青年の言ってる事は正解。…ま、梯子を通ったヒトは、大抵どこかしらおかしくなっちゃう訳だけども。」
ヤコブの梯子を通るものの末路。
それは、精神の異常もしくは肉体の損傷。
あるいは……その両方である。
「梯子の呪いにやられたヒト、俺もたくさん見てきたよ。自由や未知への憧れ、もしくは賞賛を求めて、ヤコブの梯子に足を踏み入れたヒトの末路はーーーまあ、悲惨なモンだったさ。」
ボリボリと頭を掻きながら、フェイは続ける。
「発狂して、自分の身体をナイフで刺しまくったヒト。内臓が破裂して、2度と自分の足で歩けなくなってしまったヒト。人生で最愛の女性の事を、ぽかんと忘れてしまったなんてヒトもいた。もちろんそれだけじゃあ済まず、文字通り彼方者…つまり、死んじまったヒトもたくさんいる。
…ただまあ、呪いを受ける程度はそのヒトの個体差によるらしくーーー」
「私達2人は、梯子による呪いの影響を一切受け付けない。そういう体質なのさ。だから2人、旅をしてるんだ。この世界の謎を解き明かす旅を、な。」
フェイの言葉をシノが引き継ぐ。心なしか、先ほどまでむっつりとしていたシノの顔は少し自慢げな表情に変わっていた。いわゆる、ドヤ顔というやつだ。
「……………そうだね、うん。
ま、そういう事なのよ。」
晴れ晴れとしたシノの表情と比べ、フェイの顔はあまり冴えないようにも見えた。
「…う、嘘、だ。本当に、本当に、いるのか。しゅ、【祝福の
青年は、そのエメラルド色の目を神経質そうにしぱしぱさせた。
梯子の呪いを受ける事の無い、祝福の祈子。
恐らく数百万のヒトの中にほんの数人しかいないであろう突然変異。異端中の異端。
それが今2人も、自分の前にいるという驚き。興奮と羨望と、そして……。
青年から好奇に満ちた目を向けられて、シノはまんざらでもない様子だ。
「……ま、困難な事は今まで色々あったんだよ。なあ、フェイ?例えばな、鵺に襲われたり、それから…。」
シノはふ、と言葉を止めた。
何かを考えている様子で。
「……うん、そう。あとはまあ、鵺に襲われたり、鵺に襲われたり…」
「ほらほらシノちゃん!あんまり自分の武勇伝を人にひけらかさないの!そーゆーの、逆にカッコ悪いから、ね!」
フェイがシノの言葉を遮る。
「雄弁は銀、沈黙は金って、昔っから言うでしょーに。…そう。俺たちがこの猫耳くんに問わねばならない事は、ただ一つ」
フェイは、ふう、と息をつき、青年の方へと向き直る。
「ねえ、きみ。このクニには、きみ以外のヒトは誰か住んでいるのかな?」
「…え!?い、いや。誰も…。ぼ、僕がこのクニに住み始めた時にはも、もう、他のヒトは1人もい、居なかった、です。たぶん、もともと、すごく小さなクニ、だったんじゃ、ないかと。」
「そっかあ。じゃあ今、このクニで屋根のあるお家に住んでいるのは君だけって事だね?猫耳くん」
「え?ま、まあ、そーいうことに、なります…けど……」
フェイは、青年の方へ、ぐい、と2歩ほど近寄った。反射的に、青年は身体を引く。
「あ……あの、い、一体…」
「猫耳くん。きみ、名前はなんてーの?」
「な、な、名前!?え、えと、カナタです……けど!?」
青年の視界から、フェイの姿が一瞬で消え失せた。
「あ、あれ!?どこ、に…」
「ここだよん。ここ。」
青年の足元の方から、フェイの野太い声がする。
見ると、先ほどまでやたらでかい図体で喋くっていた男が、その身体を四角く折りたたみ、地面に頭をゴリゴリと擦り付けている。
要するに……土下座というやつだ。
「はあ!?あ、貴方、い、一体なにを…」
「カナタくん!!今生のお願いです!!泊めてください!!」
「…あ?え?ええ??」
「君の家に一泊!!泊めてください!!」
突然の土下座からの衝撃の発言に困惑する青年。
そんな青年の姿を他所に、フェイは地面から頭を少し上げて続ける。
「その代わりといっちゃあ、なんですが……カナタくん。」
名前を呼ばれた青年は、ピクリと身体を震わせてフェイの姿を見る。
薄いグレーの目。もさっとボリュームのある髪。お世辞にも清潔とは言い難い格好。
そして、首にある、大きな痣……のようなもの。
フェイは、自身を観察する青年の目をじっと見据えながら、静かに呟いた。
「カナタくん。きみ、忘れたい事は、無いかな?」
カインの末裔 @debris77
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