第3話



『ここで速報です。先月九月から都内で続いている連続殺人事件の続報が届きました。警察は現在、三人目の被害者の元同居人、村上信五容疑者・無職・二十七歳を連続殺人事件に関与しているとして事情聴取しているとのことです。また、ホテルで遺体で発見された身元不明の遺体は都内に住む会社員の加原亮一郎さん二十五歳と分かりました。警察は加原さんの殺人も一連の殺人事件の被害者とみて、引き続き捜査を進めている模様です』

 テレビから聞こえてきた夕方のニュース番組に、白河探偵事務所の職員の視線は集中した。厳密に言えばテレビを見ていたのは愛を含む従業員だけで「所長」であるところの白河希はぼんやりと宙を眺めながら、何やら思い耽っていた。その横顔は憂いを帯びて、悲愴感のある美を漂わせている。芸術作品みたいだ、といつも愛は思うし、そう思う度に白河のことが欲しいと浅ましくも思ってしまっていた。けれどまだ勇気はない。時間は大事だ。タイミングも大事。白河について相談したら祐子はそう言っていた。今はせめて馴染まないと、という祐子のアドバイスを思い出しながら愛は白河の机まで近づく。だが、近づいても白河は虚空を眺めるばかりで全くこちらに気をやろうともしない。おそらく、白河にとって新人の愛は路傍の石のようなものなのだろう。

「あの、白河さん」

「…………」

 反応がない。

 愛は訝しげに思ってもう一度名前を呼んだ。

「白河さん? 聞こえてます?」

 するとようやく思案の海から顔を出した白河が、ぶすっとした顔で応えた。

「……なんだい? 今色々と忙しいんだが」

 色々と忙しい。そう言うが全くそう見えない。

「忙しそうには見えなかったんですが……」

 そう主張する愛に対し。

「いや、今も忙しいしこれから忙しくなる。そろそろ時間だ」

 白河が時計を見る。時計は午後四時半を指すところだった。

「そろそろ時間……?」

「キミはいいからテレビでも見ていたまえよ。ほら綺麗な赤だ」

 夕方のニュースはいつの間に凄惨な殺人事件から、紅葉の季節に差し掛かりつつあることを報せていた。殺人という非日常から日常へとスイッチのように簡単に変わるテレビが、愛はあまり好きでは無い。人が死んでいるのだ。死んだあとに、よくもまあ「きれいに色づいていますね」と言えるものだと思う。けれど紅葉が美しいのは間違いではない。赤く染まる様は、確かに綺麗だ。と、思っていたときだった。

 ピンポーン、と扉のチャイムを鳴らす音が来た。来客の印だ。ソファに伸びきっていたカオルは例によって白河に蹴落とされ、化粧直ししていた七緒は慌てて化粧品を片付け、山崎さんだけが冷静にお茶の用意を始めている。白河はステッキをつきながら優雅な足取りで扉を開き、招き入れた。

「やあ! いらっしゃい。林原圭佑くん! さて面接といこうじゃないか」

「あ、はい。今日はどうぞ宜しくお願い致します」

 ぺこりと頭を下げた黒髪の青年は、どう見ても二十歳前後のまだ若い青年で、何もかもが平均的だった。顔立ちも取り分け良くもなければ悪くもなく、兎角、印象が薄い。背丈も白河と殆ど変わらないか少し上か。その程度だった。ちなみに白河は自己申告によると174センチらしいが、170センチの七緒とそこまで違いがあるように見えなかった。

 白河は林原という青年を応接間のソファに座らせると、自らもまた対面のソファへとどかっと座った。そのすらりと長い足を組んで、白河は「それじゃあ始めようか」と微笑む。そうして愛もよく理解できないまま謎の面接が始まった。おそらく採用試験だが。

「まず簡単に自己紹介、よろしく頼むよ」

明らかに緊張して固まっている林原圭佑は、ただ声をかけられただけでびくりとする。こんなので大丈夫なのかと愛が見守っていると、意を決したように林原が口を開いた。

「林原圭佑です。年齢は先月で二十歳になりました。前職は宅配業界で宅配ドライバーをしていました」

「どうしてやめてしまったんだい?」

「情けない話なんですが腰を痛めてしまって」

しょぼくれた犬のように眉尻を下げて、林原は言う。だが白河はそれについて興味がないようで、ふうん、とだけ言って話を促した。

「それで? どうしてこの探偵事務所にキミは来たんだっけ?」

「あっえーっと、その、ですね……正直に言うと白河所長みたいな人になりたくて、応募しました。頑張ります。オレ、目立たないから結構役に立つと思います」

 意味不明だ。というよりこの二人、知り合いだったのだろうか。

 白河は「なるほどなるほど」と言うと、

「最後に二つ質問だが、キミは女性と付き合った経験はあるかい?」

 と不思議な質問をした。

 林原はまた情けない顔をして答えた。

「いえ、ないです」

「それじゃあ童貞?」

「そうですね」

「採用」

「ええっ!」

 思わず愛は声を上げてしまう。今のどこに判断材料があったのか、全く愛にはわからなかったからだ。それなのに他の従業員たちは慣れっこみたいらしく、カオルは「まーた変な基準で採用したよ」とけらけら笑っていた。愛の面接の時はもう少しはまともだった気がする。例えば「前職は何だったか」だとか「自分の性格についてどう思う?」だとか。

 よくある質問のほかに印象的だったのが、「この仕事は危険もあるが大丈夫か」ということだった。もちろん愛は怯むことなくイエスを返し採用に至ったのだが、どうして林原はこんなに早く採用されたのだろう。矢張り、どこかで知り合っていたおかげだろうか。

「それではお茶をどうぞ。面接で緊張されたでしょう」

 ナイスタイミングで山崎さんはそう言って林原にお茶を出してやる。林原は「ありがとうございます」と頭を下げると、ずず、とお茶をすすった。白河は「あとはよろしく」と山崎さんに雇用に関することは丸投げすると、定位置である奥の椅子に座って足を机にのせた。それから昼間の業務時間中だというのにワインをグラスに注いで、呑みながらまた物思いに耽り始めた。本当にこの探偵事務所はこんなのでいいのだろうか。

「あの白河さん」

「なんだい」

「その……今の、林原さんはどういう基準で採用されたんですか」

「顔」

「は?」

「顔で決めた。あと、彼はぼくに一目惚れしたらしい」

 一目惚れ。

「はい?」

 随分と間の抜けた声が出てしまった。

 一目惚れ。喉奥でその単語を反芻する。

 反芻してからようやく、愛は「どういうことですか?」と尋ねてしまった。

 白河は七面倒くさそうな顔をしながらようやく愛のほうを向いた。その、神様につくられたように整った顔はやっぱり何度見ても見慣れない。単純ながら胸が高鳴ってしまう。

 だが白河はそんなことを露ほども気付いていないのか、気にしていないのだろう。

「林原くんを採用したのは正直者だからさ」

「正直者」

「ああ、キミも見ていただろう。いかにも緊張していますと顔面に書いてある顔つきで、ぎくしゃく油の差していないブリキのロボットのように動いて、椅子に言われるがまま座って、ぼくのあけすけとした質問にも、バカみたいにすぐにはっきりと答えた。隠し事はできない愚直なタイプだ。そう言うヤツは単純でいい。駄犬と一緒だ」

 白河は鼻歌を歌い始める。ふんふんと歌っているのは、何故かシューベルトの「魔王」だった。ご機嫌そうに見えるが、愛にはまったく理解ができない。

「あの、一目惚れっていうのは……どういう……?」

 鼻歌を遮るように愛が尋ねる。白河は鼻歌をやめたが機嫌は良さそうだった。

「ああ、街角でいきなりナンパされたんだ。どうやらぼくが女性に一瞬見えてしまったらしい。いきなり腕を掴まれてね。蹴り倒したら土下座して謝罪されたよ」

「蹴り倒す……え、白河さんそんなことできるんですか?」

 とてもこの痩躯からは考えられない。しかも左手は義手で、足だって片足不自由だと言うし、格闘とかそういうものにはからきし向いていないように見える。

 だが、愛にそう思われたのが不満だったのだろう。白河は唇を子どものようにへの字に曲げた。

「こう見えてぼくは弱くはない。人並以上くらいの抵抗はできるさ」

「はあ……そうですか」

 確かにしょっちゅうソファからカオルを蹴り落としているし、足癖は悪いのかもしれない。いずれにせよ愛にとっては少し意外だった。

「でもどうして今、採用試験を?」

 疑問をぶつけると、白河はワインを飲みながら書類に目を通す。

「いい加減、山崎さんの補佐も欲しいしね。それに近い内に忙しくなるからさ。辞める人間も出るかもしれない」

 それは愛にとって予想外のことだった。思わず声を上げる。

「え! そうなんですか! でもどうして?」

「さてね。辞める理由は未知数だ。だが、元々ここは入れ替わりが激しいんだ。キミは知らないかもしれないが、山崎さん、七緒、駄犬の三人が今の所生き残っているけれど、以前はもっと人がいたんだ」

「そうなんですか? でも何で今は……」

 曖昧に語尾を濁すが、白河は全く気にした様子も無く、

「大半がぼくの所為だね」

 と答えた。成る程。それなりに自分がトリックスター的要素を持っていることを自負しているらしい。先日事務所に来た時、嵐でも遭ったかのように荒れ放題だったこともあったし、白河と付き合うのはそれなりの覚悟がいるのかもしれない。

「あの白河所長」

 話を終えた林原圭佑がすっと音もなく現われ、愛はどきりとした。本当に存在感が薄い。探偵業務のなかでも尾行にはとても向いているように思えた。声をかけられた白河はというと、機嫌良さそうにワイングラスを傾けながら、林原に向き合う。

「なんだい。ああ、キミも一杯どうかな? 年代物のなかなか良いワインだよ」

「いえ、オレ、ワイン苦手なんで。ブドウジュースのほうが好きです」

 その答えに白河は目をぱちくりさせたあと、声を上げて笑った。

「そうかそうか。キミは本当に正直者だ。正直なのはいい。馬鹿と紙一重だがね。それじゃあキミに質問なんだが、最近世間を賑わせている連続殺人事件についてどう思う?」

突拍子もなくそんなことを尋ねる白河にも林原は動じなかった。顎に手をやって「そうですねぇ……」と暫く考えたあと。

「酷い事件だと思います。でもこれだけやって捕まらないということは賢い人間かと思います。日本の警察の検挙率は何だかんだ言って高いですしね」

 その答えに鷹揚に白河は頷いた。

「なるほど。それじゃあキミは犯人についてどんな人間だと思う?」

 問いを重ねてみても林原は動じなかった。今熱愛報道されているアイドルグループのメンバーについて尋ねられたような気軽さで林原は答える。

「犯人ですか。うーん、情報が少ないので何とも言えないですけど、殺し方が一貫しているということは、こだわりが強い性格なんじゃないですかね」

「ほう。それはぼくと同意見だ」

 奇遇だね、と白河は言う。その顔は機嫌が良さそうだった。それがちょっと、悔しいと愛は思う。一ヶ月以上は先に入所して、愛のほうが先輩なのに、白河に気に入られている林原に嫉妬してしまっていた。

「それじゃあそこの新人二人。新人は新人同士で親睦を深めたまえ。ぼくはちょっと外に出る。タイムカードはきちんと押すように」

 そう言うと白河は立ち上がってコートとステッキを持ち、颯爽と事務所を出て行ってしまった。残された愛は林原は目を見合わせてお互い困り顔になった。親睦を深めろと言われても、どうすべきなのか。と、困っている所に七緒が助け船を出してくれた。

「ねえねえ、希ちゃんいないことだし、もう閉めちゃわない? どうせ今日の仕事、もう片付いていることだしさ。……あ、事務処理以外は」

 気まずそうに七緒が山崎さんに視線を送ると、山崎さんはにこやかに、

「もう終わっていますよ」

 と言って書類をファイルに綴じた。いつの間にやっていたのだろう。思えば愛がこの事務所に来てやった事と言えばお茶出しや電話対応、来客対応くらいのもので探偵らしいことは全くやっていない。果たしてこれでいいのだろうか。しかし白河に未だに文句や注意のひとつも受けたことがなければ、他の職員に咎められることもなかった。

「うんうん、それじゃあ皆でまた焼き肉でも行こうか!」

 七緒がそう言って「今日は閉店~!」などと勝手に言う。カオルは肉という単語に反応したのだろう。眠っていたはずなのに勢いよく起き上がって、「肉!」と叫んだ。本当に肉が好きなのだなと愛は苦笑する。林原は、

「こんなんで良いんですねぇ」

 とちょっと呆気にとられていたようだが、肉に反対する気はないらしい。表情が乏しいから分かりにくいが、どことなく嬉しそうに見えた。けれど愛も肉は好きなので、林原の気持ちは十分理解できたのだった。





 焼き肉「北斗」に白河抜きで行くと、平日のまだ午後五時過ぎだというのに席は八割ほど人で埋まっていた。通された席は座敷で、少し畳が傷んでいるものの綺麗に掃除してある。奥からカオル、愛、林原。向かいに七緒と山崎さんが座った。

「みんな何頼む~? 今日はあたしの奢りだからジャンジャン呑み食いしていいよ~」

「えっマジで! さっすが七緒ちゃん~! みんなビールでもいい? 肉はカルビと、ハラミと、それからキムチとカクテキ頼んで~あっすみませーん! 注文いいですか?」

 カオルは大声で店員を呼ぶと、周囲の意見も聞かずにどんどんと肉やホルモンを注文していく。さり気なく山崎さんが野菜も追加し、生ビールが届いたところで乾杯した。

「そういえば林原くんってさ、希ちゃんに憧れてこの事務所に来たんでしょ? どこで出会ったの? あたしすごい気になる」

 七緒の問いに林原はビールを飲み込んで、ジョッキを置いた。

「就活してたとき新宿を歩いてて、偶然、白河所長を見つけて……その、あんまりにも綺麗な顔と瞳と黒髪に、つい引き留めてしまいました。考えなしに。白河所長が女性だったらこれって一目惚れって言うんですかね?」

 あいにくぼくは異性愛者ですが、と林原は開けっぴろげに話す。それに反応したのはカオルだった。

「なんだお前、意外と面食いなんだなぁ~! でも男に一目惚れってのも珍しい話っつーか、惚れるなら私みたいな美人にしろよ!」

 けらけらと笑ってカオルが冗談とも本気ともつかぬ発言をする。林原はそれに対してやや困り顔で「はあ」と溜め息のような首肯を返した。

「確かに皆さん美人ですけど、すみません。あんまりピンとは来ません」

 下手をしたら失礼とも取れる発言だったが、七緒もカオルも全く気にせず、それどころか声を上げて笑った。

「おまえ面白いなぁ! 気に入った! 肉どんどん食え!」

「はあ、ありがとうございます」

 本当に感謝しているのか分からない平坦なトーンで林原は言う。

「それよりもあの、自己紹介みたいなものをしてもらってもいいですか? オレ、ちゃんとこれからお世話になる人達の顔は覚えておきたいので」

 林原は生真面目な性格なのか、マイペースなのか、はたまた大胆なのか。控えめに手を上げて言う。それに対しカオルが「またクソ真面目だなぁ!」と爆笑しながらも応えた。

「私はカオル。敬意を込めてカオルさんって呼んでくれてもいからな!」

「はぁ、カオルさん。分かりました。ありがとうございます」

「あたしは七緒。それでこっちの老紳士は山崎さん」

 七緒が山崎さんも含めて挨拶する。山崎さんはにっこりと微笑んで「山崎です」と挨拶した。あいかわらずのおっとりとした人である。

 林原はぺこりと頭を下げると、

「林原圭佑です。これからよろしくお願いします」

と淡々と挨拶をした。そして最後に愛へと順番が回ってくる。

「北村愛です。こちらこそよろしくお願いします」

 そう挨拶すると林原が「北村愛さん」と繰り返した。

 それから、じい、と。黒々とした瞳で見詰められた。存在感が薄いと思ったが、こうして相対するとその瞳の黒さに少しだけ、気圧されそうになる。心なしか瞳だけには、林原の強い感情のようなものが含まれている気がしたからだ。

 ――何だろう、この、林原から向けられる感情は。

 黒々とした瞳によく似た、深い泥濘のような色彩の感情。このような感情を向けられたことは初めてだった。だからこそ愛は戸惑ったし、林原の視線から逃げるように目を逸らした。だが林原の方もまた、視線を外して焼き肉へと向かった。その横顔にはもう、あの深淵のように深い感情はなかった。少し、安堵する。他の面々は気付いていないのだろう。いつも通り和気藹々と肉をつついている。

「そういえば白河さんはどこに行ったんですか? 私が入社してから結構、外に出ることが多いですけど……やっぱりあの連続殺人事件の調査、とかですかね?」

 疑問を口にすると、ビールを飲んでいたカオルが答える。

「ん? まぁそうなんじゃねぇか? 七緒。お前どう思う?」

「どう思うってあたしもカオルちゃんたちと一緒。希ちゃん、またひとりでどうにかしようとしているんじゃないかな。冷血人間だけどあたしたちの事はちゃんと思ってくれていると思うし」

「そうかぁ? だったら人のことソファから蹴落としたりしねーよ」

 カオルはぶすっとしてそう言うとビールを飲み込んだ。

「白河所長ってどんな方なんですか?」

 口を開いたのは林原だった。するとカオルがにやにやとたちの悪い笑みを浮かべた。

「なんだいなんだい、やっぱり一目惚れしちゃったから気になるんかい?」

 からかいの色を含んだ問いに林原は少し困ったように頭を掻いた。

「一目惚れはあくまで女性だと思ったからで……今はただ単に、どんな人なのかなって気になったんです」

「ああでも私も白河さんがどんな人なのか、気になります」

 林原の言葉に便乗する形で愛も言う。すると七緒とカオル、山崎さんは顔を見合わせて首を傾げた。

「どんな人っかって言われてもねぇ……? ちょっと風変わり?」

「えー超絶変人じゃね? あと冷血人間」

「希さんは確かに少し変わってますけど、良い所長ですよ」

 七緒、カオル、山崎さんの順番で答えが返ってくる。三者三様の答えだが一貫してそこにあったのは「変わっている」ということだった。確かに一ヶ月と少し、この白河探偵事務所で過ごしてきた愛も白河希という所長が少々癖のある人物だと分かっていた。だが、訊きたいのはもっと深い部分なのだ。変人という仮面の下に、どうにも白河希という人は本性を隠しているような――そんな気がした。

「変人以外には何かないんですか?」

 林原も気になったらしい。重ねて問えば、んんー、と七緒が唸ったあと答えた。

「猫好き、とか?」

 七緒が首を傾げる。それは愛も知っている。

「お喋りかと思えば、急に一人にして欲しいと閉じこもる人ですね」

 山崎さんが顎に手をやって言う。それは愛も知っている。

「私を毎回ソファから蹴落とす嫌な野郎」

 カオルが不愉快そうに舌打ちする。それは愛も知っている。

「それ以外の事は?」

問いを更に投げかけたのは林原だった。愛も同じことを考えていた。

 問われた面々はというと「それ以外のことかぁ……」と各々思い悩んでいる。どうやら白河探偵事務所の他の従業員も、白河希という人をよく理解はしていないらしい。理解はしていないが、信頼はしているのだろうなと愛は感じた。そうでなければとっくに、こんな奇想天外な探偵事務所を辞めているだろう。

「それより林原くんのことを教えてよ。彼女とかできたことないって言ってたけど、恋くらいはしたことあるでしょ?」

 七緒が興味津々といったように、長い睫毛を瞬かせて林原を見上げる。林原はもぐもぐと肉を咀嚼すると、、

「いやないですね」

はっきりと否定した。その顔は表情が全く変わらず、動揺の一つもしていなかった。だからおそらく本当なのだろう。けれど七緒はそうは思わなかったらしい。

「ウソ~。じゃあさ、好みのタイプは?」

「ああ、そりゃぁ気になるな。希の野郎に一目惚れしかけたっていうし」

「好みのタイプ……それもよく分からないんですが、恋をするなら心のあたたかい人がいいですね」

「え、顔は?」

 七緒が素っ頓狂な声を上げる。けれど林原も

「綺麗な人のほうがいいですけど、性格悪いのは嫌です」

「えー、あー、それじゃあ恋をする気はないの?」

 粘る七緒に、林原は小さく首を振る。

「ないですね。今は、全く。そういう気分じゃなくて」

 その時、出会ってからずっと変わらなかった林原の表情が、微かに変化した。その変化は哀しみとも喜びともつかぬもので、偶然見てしまった愛は内心困惑した。

 何だろう。今の表情は。けれど愛が次に瞬きした瞬間には、いつもの林原に戻ってた。それに気付かなかったのか、気付いたのか分からないが、七緒が眉尻を下げる。

「そっかー。そういう気分じゃないってのは仕方ないね。でも寂しくない?」

「いえ、今は恋よりもやりたいことがあるし――何より見つけたかった人を見つけられたので」

 それで十分ですと林原は言うと淡々と肉を食べ始めた。

「それって希ちゃんのこと?」

「どう取って頂いても構いません」

 七緒がからかうように言うも、どこ吹く風といったように林原は肉を食う。愛はそんな林原に苦笑しつつ、トングで肉をつまみ網の上に置く。じゅわりと、赤い肉が焼ける音がする。ジワジワとジワジワと外側から浸食されていく。炙られて肉汁がじわりと浮き立っていく。人が焼ける時もこんな感じなのだろうか、なんて不謹慎なことを考えていると、

「北村さん」

 隣の林原に呼ばれ、愛はびくりと身体を震わせた。思えばこの事務所に来てから、同僚という存在に初めてちゃんと名前で呼ばれたような気がした。殆どが「新人」呼びだったからだ。それと、何となくだが自分は林原に嫌われているような気がする、と思ったからだった。愛はできるだけその内心を隠して、笑顔で応じる。

「はい、なんですか?」

「肉。食べないんですか? もう焼けてますよ」

 なんだそんなことか。内心拍子抜けした。

「ああ……そうですね。でも私、肉はレア気味の方が好きなんですよ」

 だからあげます、と綺麗に焼けた肉を林原の皿に盛った。すると林原は不思議そうな顔をして、愛を見詰めた。まるで愛がこんなことをするのが意外だというように。

「……どうも」

少しの沈黙を挟んで林原が頭を下げ、肉を口に運ぶ。美味しそうに食べないひとだ。というより、ただものを咀嚼して嚥下しているだけの「行為」にしか見えない。

「お肉、あんまり好きじゃないんですか? それだったらすみません」

 念のため愛がそう尋ねてみると、ぴたりと林原は動きを止めてこちらを見遣った。見詰めた瞳は髪の色と同様に黒々としていて、空虚な洞のようにも見える。ぞくり、と一瞬震えが走ったが、愛には理由が分からなかった。林原は幅広の口で答える。

「肉は嫌いじゃないんですが……そうですね。最近はあんまり、食べること自体にも興味がないというか」

「ええっ、食欲ないってことかよ!」

 そう声を上げて会話に入ってきたのはカオルだった。林原は「はあ」と溜め息とも肯定ともつかぬ息を漏らした。するとカオルの前にいた七緒や山崎さんも心配そうな顔をする。

「あたしとしたことが食欲がないのにつれてきちゃうなんて~ごめんね、林原くん」

「林原くん。無理して食べることはないんですよ。お酒よりもソフトドリンクが良いですか?」

 七緒の気遣いと山崎さんの問いかけに、林原は小さく首を横に振った。

「いや、大丈夫です。無用な心配をかけてすみません。ただ何と言ったらいいのか難しいんですが、食欲がないわけじゃないんです。ちゃんとお腹も空きますし、ごはんも食べます。ただ、オレのなかでルーチンみたいなものになっていて」

「つまり食に楽しみを見いだせないってこと?」

 七緒が尋ねる。林原は「それに近いかもしれません」と頷いた。

「どうして? 元々そうなの?」

「元々じゃありませんね。色々あって、こうなりました」

「前職がブラック企業だったからとかか~?」

 カオルが「ここもブラック企業みたいなもんだけどな」と付け足して笑う。

「まあ、それもあると思います」

「ふうん。そーかそーか、お前も色々あったんだなぁ~」

 いつの間にかすっかり酔っ払ったカオルが、林原の黒髪をくしゃくしゃと撫でる。林原はそれを複雑そうな表情で受け入れつつ、淡々と肉をまた食べ始めた。その光景がおかしかったのか、七緒が笑いながら写真を撮って、山崎さんはマイペースに野菜を食べていた。

 その明るい光景を見ながら愛は思う。皆、こうして見ると「良い人」ばかりだ。けれどそれは愛の眼が見た外面だけのもので、内面は分からない。人の心は見えないのだ。

 だからこそ、だろうか。白河希という奇っ怪な人物の元に集ったここにいる全員が、深い「何か」を抱えているように愛には思えたのだ。

 そして愛自身も、――いや誰しもそうなのかもしれない。

 人には見られたくないものを、心に抱えている。



* * *



 午後七時きっかりに岩垣は行きつけの居酒屋「とらや壱号店」に着いた。相変わらず薄暗い廊下を歩いて行き個室の戸を開くと、美貌の男が悠然と座っていた。その男――白河希は先に呑んでいたようで「ああお疲れ、善男」と上機嫌に日本酒の味を楽しんでいた。テーブルには冷や奴や刺身が並んでおり、本当にこの居酒屋のメニューのレパートリーの奔放さには毎度驚かされるものがある。ご丁寧にお猪口はもう一つ、岩垣の分もきっちり用意されていた。岩垣は呆れ混じりに溜め息を吐き出し、テーブル席の対面に座った。

「おなかすいただろう? 今日はぼくのおごりだ。何でも食べるといいさ」

「随分と機嫌が良さそうだな」

「ああ、実は新人を採用してね。これが蟻の一穴になるといいんだが」

 くい、とお猪口を傾ける白河に、岩垣が眉根を寄せる。

「新人? 新人ならこの前ほら……えっと、愛ちゃんって子が入ったばっかじゃねぇか」

 岩垣は店員を呼ぶと、目の前の日本酒は無視して、とりあえずビールを頼んだ。それから鳥の軟骨の唐揚げと、手羽先、焼き鳥の盛り合わせも注文した。ここのところ例の連続事件に振り回されて、流石にもう酒でも呑まないとやっていられない気分だった。

「新人は確かに採ったけど、これから忙しくなるだろうからさ。それにまだ不確定事項が複数ある。ぼくはそれを確定事項にしなければならないんだ」

 それに、と白河は相変わらず意味不明な言葉のあと、薄く笑った。

「警察は例の連続殺人犯をまだ捕まえていられないようだし?」

「うるせぇ」

 運ばれてきた手羽先に齧りついて咀嚼すると、白河がけらけらと「いい食べっぷりだねぇ」と笑って更に日本酒を呷った。こいつ、何杯目なんだ。それに酒を呑んでいるにしては何か、血色が悪いようにも見えた。また何か馬鹿なことをしているのか。岩垣は目を眇めていると、白河はその綺麗な顔で「悪人顔が更に悪人顔になるよ」と言った。

「お前、また何か馬鹿やってんじゃねぇのか? 顔色が悪いぞ」

「ほう、善男がぼくのことを心配してくれるとはね。明日は槍の雨が降りそうだ」

「はぐらかすんじゃねぇ。ブッ倒れて困るのはお前の依頼人なんだよ」

 その「依頼人」という単語を出せば、白河は「確かにそうだね」と肩をすくめた。

「それで? 実際どうしてそんな血の気のねぇツラしてんだよ。寝不足か?」

「寝てはいるよ。ただそうだね。顔色は最近、献血に通っているからかな」

「献血ゥ?」

 この男が何で急に慈善活動に目覚めたのか。岩垣は怪訝そうに眉を顰めた。すると白河は「なんだいその顔は」と咎めるような口調で言う。

「ぼくが善い行いをしてちゃ悪いのかい? そんな顔をされるほど、ぼくは冷血な人間じゃないぞ」

「そうかぁ? でも何で突然献血なんて始めたんだよ」

 さっぱり意味が分からない。この忙しい時期に呑気に献血とは。

 すると白河は「まあ厳密に言うと献血じゃないんだけど」と切り出した。

「いずれにせよ血が必要になるんだよ。だけど誰かの血を抜く権利はぼくにはないだろう? だから自分の血を少しずつ少しずつ抜いている。もちろん、ちゃんと鉄剤を飲んでるから大丈夫だ」

「本当にお前は訳が分からねぇことばっかりやってんな」

「キミには理解できなくて結構。それよりニュースで見たけど、村上信五はまだ拘留されたままなのかい?」

 そう白河に尋ねられ、岩垣はビールを一気に飲み干してから答えた。

「まぁな。アリバイが無いってのが運が悪いところだな」

「ふうん。前も言った通り村上信五はシロなんだけどなぁ。善男。キミの力で彼の潔白を早く証明してやったらどうだい?」

「それを言うなら希。お前も早いところ犯人探し出さねぇと、警察が先に見つけちまうぞ。そうなったらお前は依頼人からの依頼を果たすことができなくなるぜ」

 依頼。その単語に白河の柳眉がぴくりと動いた。琥珀色の瞳が伏せられ、日本酒の水面を見詰めたあと、そうだね、という答えが返ってきた。

「……確かにそれは困る。ぼくにとって一番大事なのは依頼と依頼人であって、それ以外はどうだっていい。どうなったっていいんだ。ぼくは」

日本酒を飲み干す。琥珀色の瞳が岩垣を見る。決して抗えない力を持つ眼が。

「だがぼくは、いや、ぼくが雇っている従業員は皆、一般人なんだ。だから殺人犯を捕まえるのは、善男。きみたち警察の仕事だ。従業員たちには……まぁ覚悟している奴らばかりだけど、それでも人殺しを追うことはさせたくない。そういうのはぼくだけでいい。罠にかけるのに手伝ってもらうことはあったとしても、ぼくは、ぼくの従業員を守らなくちゃならない。ぼくは探偵じゃない。ぼくは探偵事務所の所長に過ぎないから」

 だから、と白河は持っていたお猪口をことりと机に置いた。

「百パーセントの確証が得られるまでは、ぼくはその瞬間を待つしかないんだ。きみたち警察と違って、グレーじゃ駄目なんだ。そうでないとぼくは人を殺すよりも酷いことをしてしまうことになる。ぼくは自分を善人だとは思わないが、ぼくなりのポリシーがある」

 苛立っているのか。白河は日本酒を呷っては、手酌で酒を注ぐ。その琥珀色の双眸は、後悔とひとしずくの哀しみに染まっていた。岩垣はその理由を知っている。白河も岩垣も若かった頃の話だ。未だに白河の胸に今も引っかかっている棘は、これからもずっと、取れることがないのだろう。取ることを白河自身が許さないのだから。胸が痛んだところでこの男は涙を流さない。それを白河は「悲しくないから」だと嘯くし、その嘘を暴いてやろうと白河の境界線を越えようとすると途端にこの男は堅牢な仮面を被るのだ。

 白河は初めて出会った小学校の頃から、ずっとそうだった。並外れた美貌と知性を兼ね備えた子どもは、周囲から明らかに浮いていたし、「異質」なものだった。異質なものを排斥しようとするのが、子どもにも大人にも共通して言えることだったし、幼い白河もその対象になった。けれど白河はいつも平気そうだった。まるで痛みなど微塵にも感じていないようだった。岩垣がその度に助けに入ると、幼い白河はいつも驚いたように目を丸くしていた。なぜ岩垣がそんなことをするのか、全く分からないようだった。厳密に言えば「助けられるようなことを自分はされていないのに、なぜ助けるようなマネをするのか」という疑問に満ちた目をしていた。

 麻痺しているのだ、と岩垣は思っている。白河は自分勝手に見えるし、実際身勝手な所はあるが、正反対に自分の命を賭けのコインのように扱う面もある。自己というものが乖離しているのだろうか。岩垣にはよく分からない。ただ、

「希」

 岩垣は重い声音で名前を呼ぶ。

「お前、いつか本当にブッ壊れちまうぞ。忘れた方がいいこともある」

 幼馴染みとしての助言のつもりだった。白河希は確かに、普通ではない。普通ではないが、ちゃんと血の通った人間なのだ。

 けれど当の白河はやっぱり自分を自分として扱わない。扱わないのが普通だと思っているし、だからこそ残酷にもなれる。白河は優美に微笑む。

「生憎、記憶力は良い方でね。忘れようとしても忘れられないことは色々あるんだ。それに善男。とうにぼくは壊れているようなものだ。安心してくれたまえ。強いて言うなら、もしもぼくが殺人鬼に殺されて死んだらちゃんとキミが捜査し、キミが逮捕してくれ」

 その声色は平生通りだったが、琥珀色の瞳は真剣そのものだった。真っ直ぐに見詰められた岩垣は、知っている。こういう目をする時の白河は本気なのだと。

 だが岩垣は頷きたくはなかった。だから、心とは裏腹に頷かなかった。

「馬鹿言え。お前が殺される訳ねぇだろ。そんな馬鹿言ってる暇あったら、さっさと犯人見つけて依頼を果たせ」

ぶっきらぼうに岩垣が言うと、白河が小さく溜め息を吐き出した。

「その台詞、刑事であるキミに言われるのも癪だが、その通りなんだよな。ただまだ判断材料が少ない。被害者像が完成しないんだ」

「まだお前は黒髪に拘っているのか?」

「そりゃあ拘るさ」

 白河はゆるりと唇に弧を描く。まるで、楽しんでいるかのように。

「そうでないと、これまでやってきた事は全て無駄だったことになってしまうからね」



* * *



 やはり黒髪がいい。艶やかな黒髪。幼い頃から馴染みのある、美しいひとの黒髪。

 はじめて見た時から「この人だ」と思った。最後は、あの人がいいと思った。その人は整った顔立ちをしていて、最後を飾るには相応しい「蝶」になれるとも思った。想像するだけで興奮が高まってきて、何度も何度も、あの人を解剖するのを夢見てはオーガズムに達した。想像だけでこんなふうになってしまうのだから、実際にあの人に触れ、刺し、切り開き、ピンで打ち付けたら――ああ! 自分は一体どうなってしまうのだろう!

 暗闇の中、部屋の隅で「蝶」の欠片の標本を抱きしめながら、にやにやと笑う。こんな自分を知る者は誰も居ない。世界で唯一知る人達は皆、葬ってきた。それが少し寂しく思う。殺人鬼という自分。それがまさに、自分であったし、その心の本性をを見る者は今やどこにもいない。身体に障害を持って生まれた人が障がい者と言うのならば、自分は殺人の業を持って生まれた殺人鬼に違いなかった。少なくとも「あのこと」が無くとも、いずれは何かが引き金になってこうなっていたと思う。

 あのことは、他人から見たら悲劇だったのだろう。けれど内在する己は、あのことに対し歓喜していた。興奮もしていた。であるからにして、あれは運命だったのだろう。人生におけるターニングポイント。それが「あのこと」にあった。

 あのことを考えると、森の匂いを感じる。土の匂いと、それから血の匂い。

 そして思い出すのはやっぱり――黒髪だった。

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