第4話


 朝から空は重たい曇り空で埋め尽くされていた。まだ午後二時を過ぎたところだというのに夕方頃のように昏かった。

 白河探偵事務所の窓から空を見た愛はぽつりを漏らす。

「雨が降りそうですね……」

 その独り言のような呟きを拾ったのは、近くで事務作業をしていた林原だった。

「そうですね。確か今日、夕方から雨になるとか……あ、降ってきましたね」

 ちらりと林原が窓の外を見て、また書類へと視線を戻す。愛は曇天からぱらぱらと疎らに降り始めた雨に、思わず声を上げた。

「えっ私、傘持ってきてない」

 朝は晴れていたので油断していた。天気予報をちゃんと確認しておけば良かったと思っていると、林原は封筒に事務所の判子を押しながら言う。

「ならオレの貸しますよ」

 意外な申し出だった。ぽかんとした愛はすぐに我に返って遠慮した。

「いえ、大丈夫です。それに林原さんの借りたら、林原さんどうするんですか?」

 すると愛に気遣われたことがまるで意外だというように林原は目を丸くした。そんなに薄情な人間に見えるのだろうか。だとしたら直していかないとならない。

「あの林原さん、だから大丈夫ですよ。走って駅まで行くので」

「オレ家すぐそこなんで、本当にいいですよ。明日返してくれれば」

 ビニール傘が嫌じゃ無ければ、と林原は付け足す。

「それだったら林原さんの自宅まで一緒に入って、帰りはお借りするって形はどうですか? それなら二人とも濡れずに済むと思いますし」

 その提案に林原はぴたりと手を止めると、こちらに視線を向けた。やっぱりその瞳は洞のように昏い。昏い、というよりも黒いという方が矢張りしっくりくるが。

「……そうですね。そうしましょうか」

 纏めた書類を机で整え、林原がそう言った時だった。

 トントントンと階段を上る音が響いて聞こえてきた。来客だ。しかも足音から察するに二人分の足音だった。気を引き締めていると、事務所の扉が開いた。

 そこにいたのは壮年の男女で、薬指に光るリングから夫婦であることが分かった。女性の方はやつれており、痩せ細っていた。男性のほうが女性をさり気なく支えるように事務所に入ってきた。二人を早速出迎えたのは、山崎さんだった。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご相談を?」

 柔らかい声色で山崎さんが問うと、女性の方が不安げに視線を泳がせる。代わりに男性のほうが答えた。

「あの岩垣さんからの紹介で、来たんですが……白河所長は……?」

 その言葉に山崎さんの表情が微かにだが緊張する。

 岩垣からの紹介。愛は以前、焼き肉屋で同席した、体格の良い男性刑事のことを思い出す。刑事の岩垣からの紹介で、白河の名前が出るということは、何かあの連続殺人事件に関係することだろうか、と愛が思っていると、

「岩垣からぼくにお客かい?」

 奥の席から白河がステッキをついて現われた。壮年の男女は白河の美貌に気圧されたのだろう。「は、はい」と戸惑いがちに頷く。

 白河は立ち尽くす男女の前に立つと、二人をじっと見詰めた。あの琥珀色の不思議な色合いをした瞳で、何かを見透かすように見詰める。その視線に耐えられなかったのだろう。女性の方が視線を逸らし、男性は困惑したように声を上げた。

「あ、あの……岩垣さんから聞いて……此処に来れば、犯人を知ることができると聞いたんですが……本当にそんな依頼ができるんですか?」

 たどたどしく言葉を紡ぐ男性を前に、白河は目を細めて、小さく溜め息を吐いた。

 そして、

「申し訳ないがキミたちからの依頼を受けることはできない」

 ときっぱりと拒絶した。

「どうして!」

 叫ぶように言ったのはそれまで不安げに視線を泳がせていた女性だった。痩せて目の下には隈がある。明らかに憔悴しきった女性は縋るように白河の両腕を掴んだ。

「なんで、どうしてですか! あなたが、あなたなら私たちの、たったひとりの子を殺したひとを、見つけられるんじゃないんですか!?」

 女性の悲痛な叫びが事務所内に響く。けれど白河の表情は少しも変わらなかった。

「善男から何を聞いたのか知らないけれど、ぼくは確かに犯人を見つける。だがそれは犯人を知るためだ。貴女は加原亮一郎さんのお母様かな? いずれにせよ、加原さん。貴女には無理だ。貴女は知るべきではない。犯人が逮捕されるまで待つべきだ」

 その言葉に、訳が分からないというように男性が声を上げる。

「犯人を知るということと、犯人を捕まえるということの何が違うんですか! どうして私たちは知る権利がないと言うんですか!」

 男性は目を潤ませていた。怒りも哀しみもそこには十分過ぎるくらいに含まれていた。

 その剣幕を前にしても白河の端正な顔が、何か特別な感情を揺らがせることはなかった。

 湖畔のような静けさを纏ったまま、淡々と告げた。

「権利がないとは言っていない。ただその器じゃないと言っているんだ。けれど安心して欲しい。必ず犯人は捕まるし、その報いは受ける。ぼくが先か、警察が先か。どちらが先からは分からないけれど、これについては約束します。依頼は引き受けることはできない。だが、約束はすることはできる」

 そう告げた白河はこれまで見たことのないくらい真剣な眼差しをしていた。その表情と言葉に、二人はまるで魔法にかけられたように言葉を失った。

「奥様、息子さんの性的指向についてマスコミにあることないこと言われて騒がれて今、あなたたちと息子さんは二重の意味で侮辱されている。ぼくはそれについて軽蔑する。なぜなら人は誰を愛そうが関係ない。世にはセクシャルマイノリティを糾弾するような輩がいるが、愛することができるのは人間として正しい機能を持っているということだ。人間はただ子孫を残すために愛し合う動物ではない。このぼくが言うのだから間違いない。息子さんは世間が騒ぐような所為に奔放な下品な青年ではない。しっかりと働きしっかりと恋をし、その果てに騙されて殺されただけで、あなたたちの教育も愛情も正しいものだ。一人息子という何よりもかけがえのない存在に対し、常に幸福であれと願ってきたことも。だがぼくの見識が間違いでなければ、あなたたちはきちんと愛し合っている夫婦だ。少し輝きが落ちている薬指の結婚指輪は殆どずっとつけられていたもので、旦那様は奥様が倒れそうになっても良いように支えてきた。優しい旦那様だ。そして奥様。あなたは自分が思っている以上に強いひとだ。何故なら二人でここまで来ることができたのです。その勇気と覚悟に、ぼくは敬意を表したい。そしてもうひとつ言いたい」

 白河はふっと表情を緩めると、女性をそっと男性へと委ねて言った。

「ふたりでちゃんと、生きて下さい。そして支え合ってください。今こうして二人でいるように、これからも二人で。あなたたちが生きること、記憶すること、保持すること、それが何よりの息子さんが生きた証左だ」

 不思議なくらいに、その声はあたたかかった。一瞬、本当に白河の声帯から紡がれたものなのか、疑うほどだった。白河はそのうつくしい顔に、慈愛に満ちた微笑みをたたえていた。とん、とその手が女性と男性の肩に触れる。そしてじっと目を見詰めて言った。

「いいんです。ここでは崩れ落ちて泣き喚いても。貴方たちだけが背負わなくてもいい」

 途端に、二人は力を失ってがくりとその場に崩れ落ちた。そして、白河が言ったように愛する息子の死を悲しみ、泣き喚いた。どうしてあの子が、どうして、という言葉と嗚咽が悲痛なまでに響いていた。白河はその二人の肩からそっと手を離すと、山崎さんに二人を応接間に通すように言った。加原亮一郎の両親は、山崎さんに付き添われるような形で、応接間のソファに座って涙を流していた。白河は愛たちの方へと視線を向けると、

「新人二人。ぼくはこれから外に出る。おそらくあと三十分したらカオルと七緒が浮気調査から帰ってくる筈だから、やることがなかったら帰っていい。客が来たら山崎さんに任せておけば大丈夫だ。それじゃあ」

 そう言ってコートを羽織り白河はステッキを手にすると、黒い外套を翻して軽快な歩調で事務所を飛び出していった。

 春の嵐のように過ぎ去っていった白河に、取り残された林原と愛は顔を見合わせた。

 愛は声をひそめて、林原へと尋ねる。

「あの……どういうことなんですかね……?」

「どういうことって何がですか?」

「何がって……白河さんの言っていること、分かりました? 犯人を知るために犯人を見つけるって……」

 林原は愛の困惑にまるで気付いていないのか林原は、はぁ、と情けない声を漏らした。

「そのままの意味じゃないですか? 犯人を知るために見つける。そのままですよ。オレたち一般人には逮捕なんてできないですし」

「いやそれはそうなんですけど……」

 駄目だこれは、と愛は内心頭を抱えてしまった。そういうことじゃないのだ。愛が聞きたいのは「犯人を知るために犯人を見つける」という意味だった。犯人を知る、というのは犯人が誰かを知る、ということだろう。それなら犯人を見つけた時点で目標は達成していると言えるのではないだろうか。白河の頭の中を考えてはみるが、全く分からない。

 しかし、と愛はちらりと応接間のほうを見た。衝立の奥からは未だに嗚咽が聞こえてくる。山崎さんが何かを語りかけるような声が微かにだが聞こえた。

 加原亮一郎。例の連続殺人事件の四人目の被害者だ。その遺族である両親が今、ここにいることが不思議な心地がした。これで遺族に会うのは二度目だが、最初に見た二人目の被害者である小林悠の姉、小林茜は全く違っていた。黒髪を一つにきれいに纏め、ぴんと背筋を伸ばして白河と向き合う姿は凜としていた、白百合の花のようだった。涙のひとつも浮かべずに佇むその姿は、ただただ美しいとさえ言えるものだった。

 あの時、白河希と小林茜が対峙した瞬間のことを、今でも愛は鮮明に思い出せる。

「……残された人はやるせないでしょうね」

 ぽつりと漏らしたのは林原だった。その視線は応接間の方へと注がれていた。何となく、意外だと思った。感情が希薄というか、表情や態度に出づらい林原だからこそ、そう思うのかもしれない。愛はそんな林原に同調する。

「そうですね。やりきれない思いでいっぱいでしょうね」

 すると林原の視線がこちらへと向いた。洞の瞳が、こちらを見ていた。

「北村さんもそう思うんですね」

 その意味深な言葉に愛は一瞬、どう返して良いか分からなかった。そして考えあぐねいているところに、扉を開いた音が聞こえた。

「ただいま戻りました~」

 七緒とカオルだった。二人とも長時間張り込んでいたのか、随分疲れた様子だった。七緒やカオルといった美人では探偵は不向きのように思えるのだが、案外そうでもないのかもしれない。事実、二人とも普段よりも地味な恰好で伊達眼鏡もかけていた。それを鬱陶しげに外してカオルが「つっかれたー」と応接間に行こうとする。慌てて愛が止めた。

「あ? なんだよ新人」

「あの今はちょっと……」

 と愛が言いながらちらちらと応接間の方を見ると、夫人の啜り泣きが聞こえてきた。それを聞いて流石にカオルも大方のことを察したのだろう。短く舌打ちして、しょうがないというように窓際に置いてあるデスクの椅子に腰掛けた。七緒もまた調査結果を纏めるべく、ノートパソコンの前に座って作業を始めた。

「あのオレ、作業終わったんですけど、北村さんはどうですか?」

 問われて愛はファイルを抱えて答える。

「私も終わりました。ファイル片すだけです」

「白河所長、やること無くなったら帰っていいって言ってましたけど、本当にいいんですかね?」

「たぶん……いいと思います。一応、七緒さんに言ってみます」

 愛はそう言ってファイルを片すと、パソコンとカメラを繋いで写真を取り込んでいる七緒へと声をかけた。

「すみません七緒さん。白河さんにやることがなくなったら帰っていいと言われたんですが、何かお手伝いできることはありますか?」

 尋ねると七緒は一旦パソコンから目を離してカオルに「何かあるかなあ?」と尋ねる。カオルはというと完全に机に突っ伏して寝る体勢で「ない」と短く答えた。こんなんで本当にいいのだろうか。七緒は愛に向き直ると、愛らしい笑顔で告げた。

「特にないし、もう帰っちゃっていいよ。雨も強くなっちゃう前に新人くんと一緒にさ」「ありがとうございます。それじゃあお先に失礼します」

 愛はぺこりと頭を下げると林原の元に戻った。

「帰っても大丈夫みたいですよ」

「そうですか。それじゃあ帰りましょうか」

 林原はそう言うとすぐさま帰り支度を始めた。愛も慌てて鞄の中に筆記用具やスマートフォンなどを詰めてコートを羽織る。林原は扉のところで、

「お疲れ様でした。お先に失礼します」 

そう言うと愛を待って扉を開いた。背後から「お疲れ様~」という七緒の声が飛んできた。カオルはおそらく寝てしまったのだろう。本当に自由奔放だ。

 外に出ると先程より雨脚が強まっているように思えた。世界が重い灰色で彩られて何もかも褪せて見えた。雨の音が世界を満たしていく。

 林原がビニール傘を広げる。使い古したビニール傘だった。

「どうぞ」

 林原が僅かに愛が入れるように傘を傾ける。

「すみません、ありがとうございます」

 愛はその空いたスペースに入った。

「林原さんの家ってどのあたりなんですか?」

「ここから徒歩三分もしないですね」

「ええっ」

 まさかそんなに近いとは。驚いていると林原が言葉を付け足した。

「引っ越したんです。ぼろいけど安いし、事務所から近いんで」

 近い方が楽でしょう? と林原が言う。確かにその通りかもしれない。けれど仕事とオフの時間は分けたいと、敢えて職場から少し遠い場所に住む人もいるので、一長一短だろう。愛は後者のタイプで、会社と自宅の距離はそこそこ離しておきたい。知り合いにオフの自分を見られたくないというのが大きな理由だった。

「北村さんは、どうしてこの探偵事務所に入ったんですか?」

 林原の問いに愛はどきりとした。そして一呼吸置いたあと、答えた。

「そうですね……情けない話なんですけど前職で疲れてしまって……それで偶然、白河探偵事務所の前を通ったら『求人募集』の張り紙を見つけて、勢いで応募してしまったんです。もう何もかも嫌になってましたから。その場のノリってやつですね」

 そう言うと愛は今度は林原へと問いを向けた。

「林原さんはその、白河さんがきっかけだと思うんですが、やっぱり前の仕事はつらかったんですか?」

「ええまあそうですね。体力勝負な所ありましたから。それなりに体力には自信があったんですけど、調子に乗って腰を痛めてしまって潮時かな、と」

 潮時というには明らかに若いのに、林原はそんなことを言う。けれど年齢にしては林原というこの青年は落ち着いている。というより、奇妙に老成しているというのだろうか。出会った時から、どうにも林原に対してこの妙な感じが拭えないでいる。

「北村さんも一人暮らしですか?」

 問われ、愛は少しどきりとした。けれど緊張はすぐに消えた。

「はい。実家は新潟の方で」

「米所ですね。オレ、米が好きなので羨ましいです」

 淡々と言うがおそらくそれは本当なのだろう。

「林原さんは実家はどこなんですか?」

 少しの間のあと、

「千葉です」

 という短い答えが返ってきた。

「ああ。それなら近くていいですね。いつでも会いに行ける」

「すみません。正しく言うなら実家のあった場所です」

「え?」

 意味が分からなかった。ビニール傘には雨雫があたっては跳ねている。ぼつぼつ、ぼつぼつ、嫌な音を立てている。ノイズのような雨音の中で林原が言った。

「オレ、八歳の時に両親亡くなってるんで。その後は叔父さんたちにお世話になっているから、厳密に言うと実家って言うもんが今はないんです」

 ざあ、ざあ、と。

 鳴る雨音が沈黙を埋めてくれた。愛は渇いた声で、ごめんなさい、と言う。林原は「別に北村さんが気にすることじゃないです」と返してきた。そこに矢張り感情らしい感情はのっていなかった。哀れんでほしいだとか、怒りだとか、そういうものがまるでなかった。

「もう昔のことなんで。それより北村さんのご両親は元気なんですか?」

 問われて、何か試されているような気がした。愛はにっこりと笑って答えた。

「ええ、父は事故で他界してしまいましたが、母は元気ですよ」

 林原は、へえ、と微かに口角を上げた。

「それはなにより。でもお父様が亡くなったのは、つらいですね」

「正直言うと、あまりよく覚えていないんです。わたしも幼かったので」

 愛は嘯く。それが一番いいと思ったからだった。

 林原はそれに対しても、へぇ、と言った。こちらに興味があるのかないのか、さっぱり分からない声音だった。

「遺族としてどんな気持ちでしたか?」

 問われ、愛は答えに窮する。遺族の気持ちと言われてもピンとくる答えが出てこなかったからだ。だから愛は問いを問いで返した。

「林原さんはどうだったんですか?」

 すると林原は黙考のあと、

「憎い、と思いましたね」

 と答えた。憎い、と愛は繰り返す。林原は頷いた。

「そうです。オレは憎いと思いました」

 それが誰に対してなのか。何故か愛は聞けなかった。林原がこちらを見る。あの洞のように黒い瞳には愛の姿がうつっている。

「それで、北村さんはどうだったんですか?」

 その声は静かなものだったのに雨音にかき消されることなく、愛の耳に届いた。

 遺族。遺された一族。血のつながり。その繋がりが消える。まるで葉脈の一筋が消えてしまうかのように。雨が降っている。そういえばあの日も、雨が降っていた。愛は少しの沈黙のあと答えた。

「私は幼かったので、ただただ、死んでしまったんだと。正直その印象しかありませんでした」

「悲しいとかは?」

 愛は首を振った。林原は「そうですか」と言った。それから唐突に、

「ぼくの母はきれいなひとでした」

 と言った。

「黒髪のきれいな、優しくあたたかな女性でした。子どもの頃、印象的な記憶で母の大切にしていた標本のガラスを割って標本も壊してしまったんです。その時、幼いながらにオレは、どうしようもなく取り返しの付かないことをしてしまったと思いました。その標本は、母が亡くなった祖父から譲り受けたものらしくて……オレはどうしていいか分からずに呆然としていたんです。そうしたら母に見つかって」

「怒られましたか?」

 林原は、いえ、と首を横に振った。

「母は怒りませんでした。オレに怪我がないかすぐに確かめてから、わざとじゃないなら壊したって仕方ないと言ってくれたんです。けどその日の夜、寝付けなくて起きたら」

 林原は一拍の間を置いて、告げた。

「母がひとりで静かに泣いていました。オレは、その姿を見て……何とも言えない気持に襲われました。後悔や自責の念もありました。けど、オレは、気丈に振る舞っていた母の弱さが、どうしてか、うつくしく思えたんです」

 変な話でしょう、と言って林原が小さく笑った。愛は何も言わなかった。

「それから何年かして、両親は亡くなりました。亡くなった時、オレはちゃんと母に謝れば良かったと思ったし、今でも思っています。亡くなった母のことを」

 そう語る林原の足が古い木造建築のアパートの前で止まった。ここが林原の家なのか。見上げると剥げた塗装や錆びた階段の手すりが、雨に濡れて一層惨めにさせていた。

「それじゃあ、オレはここで」

 そう言うと林原は愛に傘を渡し、小走りでアパートに向かった。

「林原さん」

 一階の扉の前で林原が振り返ったのを見て、愛は言う。

「あの、傘、ありがとうございました。明日お返しします」

 すると林原は少しだけ笑んで、

「いえ、それじゃあまた明日」

 と言うと家の鍵を開けて愛の前から姿を消した。ひとり残った愛はその場に佇んで、林原のビニール傘を握りしめた。傘の柄の部分は、冷たかった。林原の手は冷たいのかもしれない。少しも温もりは残っていなかった。

 ざあざあ、ざあざあ、ざあざあ。

 雨が降る。

 ざあざあ。ざあざあ。

 記憶が蘇る。

 ざあざあ。

 父の死の記憶。

 愛は自然と閉じていた目を開く。

 ――オレは憎いと思いました。

 そう言っていた林原の瞳を思い出す。その、黒の中にある苛烈な炎。あれを以前どこかで見たことがあったような気がした。見るとぞくりと背筋が逆なでされるような、そんな目をしていた。

 どうして林原はあんな話をしたのだろう。

 愛にはそれが分からなかった。



* * *



 暗い報せを持っていくのは、いつだって気が滅入るものがある。夜の十一時も過ぎて外はすっかり夜気に包まれ、冷たい雨がしとしとと降っていた。岩垣は明りのついた白河探偵事務所を見上げると、黒い傘を閉じて雨で濡れた肩を軽く手で振り払ってから、探偵事務所の扉を開いた。開いてリノリウムの床を歩くとコツコツと音を鳴った。薄暗い廊下を歩いて二階へと繋がる階段を上る。足音だけでここの主は分かるのだろう。扉を開く前に、扉の向こうから「善男かい?」という声が聞こえてきた。

「ああ、そうだよ……って、これまたすごいことになってんな……」

 岩垣は扉を開けて溜め息を吐き出した。案の定、事務所内は書類が散らばっている。性格に言うと、床の上に無造作に並べられていた。無造作、というのは岩垣の視点であって、以前から言っていたようにこの書類の並べ方には白河なりの秩序があるのだろう。

 その白河はというと、柳眉を寄せて難しい表情を浮かべながら、氷の入ったウイスキーのグラスを傾けていた。いつかそのご自慢の脳がアルコールでふやけちまうぞ、と心の中で小言を言いつつ、岩垣はコートを脱いだ。どかっと応接間のソファーに腰掛け、ネクタイを緩める。すると、虚空を眺めていた白河の視線がちらりと岩垣へと向いた。

「どうやらその顔だとまた人が死んだようだね。同じ手口か」

「ああ、そうだ。今度の被害者は榊原麻衣子。年齢二十七歳」

 言いながらもう立ち上がるのも億劫だったが、岩垣は立ち上がって少しだけ大きな身体を伸ばすと捜査資料の写しが入ったファイルを白河の方へ投げるように置いた。それはきちんと白河のデスクに置かれたのだが、横着したその態度が気に食わなかったのだろう。白河が片眉をつり上げる。

「善男。キミにはちゃんと足が二本ついているだろう。きちんとその足を使いたまえ。大体刑事ってものは足が仕事道具のようなものだろう? その立派な足を使わないというのなら、それはただ生えているだけの肉塊のようなものだ」

「その足を酷使しすぎてもう疲れてるんだよ。たまには幼馴染みらしく労ってくれないもんかね」

 小言に小言で返して岩垣はすぐにまたソファへと背を預ける。白河に言ったことに嘘はない。兎角、例の連続殺人事件で昼夜問わず岩垣は働きっぱなしだった。マスコミは警察のことを「無能」だと連日叩き、遺族のプライベートはどんどん踏み荒らされ暴かれていく。全員が全員そういう訳ではないが、報道の過熱化は顕著なものになっていた。

 殺人だぞ、と心の中で岩垣は思う。確かに大事件だ。だが世間を殺人などという、許しがたいものが熱狂の渦の中心になっていると思うと、岩垣はいつだって人間のそういった醜悪な面を憂う。憂い、憤りを抱える。

「善男」

 不意に呼ばれれば視界に影がすっと入る。見上げるとグラスを持った白河が立っていた。テーブルにコトリと置かれたのはウイスキーのグラスだった。琥珀色より深い色の液体が、氷を微かに揺らしている。岩垣が見上げれば、グラスを持った白河と目が合った。岩垣はふうと息を吐き出して、グラスを持つと軽く乾杯しあった。硬質なガラス音が鳴る。

「キミ、相当疲れているみたいだな。鬼のような体格をしていても、やっぱり人間なんだな。今度から少しは配慮して雀の涙ほどの優しさをあげよう」

「何を配慮するのか知らねぇが、お前がオレに気遣ってくれるっていうのは気色悪いから、やめてくれ」

ひらひらと手を振って岩垣が言えば、白河は胡散臭い笑顔で言った。

「じゃあ逆に説教をくれてやろう」

「説教?」

 眉を寄せれば、白河はすっと笑顔を消した。

「善男。キミ、何で加原夫妻にぼくのことを教えたんだい?」

その声は冷ややかなものだった。ああ、その件か。岩垣は居心地の悪さから、頭をがしがしと掻いた。

「あれは確かに悪かったと俺も思っている。だが、ああも縋られちゃあ」

 断れなくてな、と呟くように言ってウイスキーを口にする。口内から喉、胃へと流れていき、熱を灯していく。白河は、ふんと鼻を鳴らして一杯、薄くなったウイスキーを一気に飲み干した。一体いつから呑んでいるのだろう。

 白河は奥のデスクに戻ると、椅子に腰掛けて長い脚をデスクに置いた。本当に品の良い端正な顔に似合わず、教育がなっていないというか、兎に角足癖が悪いというか。

「善男。キミは確かに面倒見が良いところが長所だが、ノーと言うべきところではノーと言うべきだ。でないと大体の場合、面倒なことになる。主にぼくが」

 冷蔵庫から氷を取り出しグラスに入れる。カランと音が鳴って、とぽぽ、とグラスにウイスキーが注がれていくと、グラスの中で氷が踊るのが見えた。それからようやく白河は、岩垣が持ってきたファイルに手をつけた。ぱらりと黒いファイルを、白河の白い手が開く。そしてそこに記された文字の羅列を追いながら読み上げていった。

「被害者、榊原麻衣子。身長百七十センチ。体重五十六キロ。家族構成。父母、兄が一人。兄が東北で一人暮らし。殺害現場はラブホテル。被害者の性的指向は不明。元恋人は男性だったが、一ヶ月も満たずに別れている。元恋人のストーカー行為で被害届を二回出している。男性は接近禁止令を出されて以来、榊原麻衣子には会っていないと証言している。男性には現在恋人がおり、交際半年を超えている……なるほど」

 ぱらりと、白河の長い指がファイルの紙をめくる。そしてその琥珀色の瞳が、次のページにあったものを注視した。すっと細められ、岩垣は察する。現場写真を見ているのだ。

「……黒髪」

 ぽつりと、白河がその単語を口にする。けれど今度ばかりは岩垣もそれについて非難したり呆れたりすることはできなかった。今度の被害者も、黒髪だったのだ。白河は現場の写真をじっと見詰めている。その沈黙の間、時計の針の音が妙に大きく聞こえた。

 何分しただろうか。おもむろにグラスとファイルと机に置いて白河は立ち上がると、床に散乱している書類のうちから一つ、取り上げた。取り上げた資料は二番目の被害者、唯一の金髪の被害者であった小林悠の資料だった。

「金髪……この被害者だけ金髪。なぜだ。間違って殺したのか? いや、間違って殺すなんて場当たり的なことはしない。何か理由があって殺した。そうでなければ手順を踏まずに刺し殺すだけで終わっていた……」

 岩垣はその間、敢えて何も言わなかった。今、白河は思考の海に潜っている。その海は犯人の心を知るための海だ。それが白河の仕事であり、遺族から委ねられた願いだった。

「小林悠、十七歳。十四歳の頃に交通事故で両親を亡くしてから、バイトをしながら家計を支えて……定時制高校に通っている。金髪、ピアス、姉弟仲は良好。姉の小林茜は働いたお金を弟の将来の為に貯蓄していた。どちらも真面目なタイプだが……見た目は姉の小林茜とはまるでタイプが違う」

 小林茜は、小林悠の遺族であり、岩垣が白河を紹介した女性だ。言われてみれば確かに小林茜と、写真の小林悠は見た目の印象が大分違う。姉の小林茜は真面目そう、悪く言えば地味なタイプだが、小林悠は金髪にピアスと派手なタイプだ。それでも学校に通いながらバイトをし、家計を支えていたというのだから人は見た目にはよらない。

「犯人は何らかの職業を装って小林家に入り、そこで小林悠と出会った。小林悠は警戒心を覚えず、犯人を家の中に迎え入れた。そして背を向けた時、ナイフで複数回刺し、広いリビングまで引きずって行った……そして同じ手口で殺害。だが、金髪だ。なぜここで犯人はこだわりを捨てた? こだわりを捨てたのに同じ手口で殺した?」

 言いながら白河はしゃがみ込み、これまでの現場の写真を順に並べていく。

「第一の被害者、杉本花菜。156センチ。女。黒髪。第二の被害者、小林悠。170センチ、男、金髪。第三の被害者、清水ゆかり、168センチ、黒髪、女。第四の被害者、加原亮一郎。180センチ、男、黒髪。そして第五の被害者、榊原麻衣子。170センチ、女、黒髪……女、男、女、男、女、と来ているがこれに規則性はあるのか? いや、だとしたら髪の色にも規則性を持たせるはずだ。此処だけが違和感が大きい」

 何故だ、と繰り返し小林悠の写真をじっと見詰めた。岩垣はそんな白河のそばに地下より、まだ若いのに気の毒だ、と呟いた。

「そうだね。彼はまだ若かった。けれど残された小林茜も若かった。彼女は……そう、彼女はとても良い目をして、そして黒髪を一つに結って……」

ぴたりと、その時白河の声と動きが止まった。そして奇妙な静けさが広がった後、それは唐突に火を灯した。

「――そうか」

 突然、立ち上がった白河は、ああ!、と奇声のような叫び声を上げた。

「何でこんな単純なことに気付かなかったんだろうか! 自分のことだからこそ憎たらしくてならない! だが、やっぱりぼくが考えていたことは当たっていたし、ぼくたちがやってきたことも正しかった!」

「なっなんだ急に! 何に気付いたんだよ希!」

 戸惑う岩垣を尻目に、白河はわなわなと唇を震えさせ顔を覆った。岩垣はその瞬間、あ、と思った。これは癇癪が起きる前触れだ。

 案の定、白河は突然ウイスキーの入ったグラスを叩き落とした。がしゃんと砕け散ったガラスの破片とウイスキーの滴が弾ける。パシャーン、ガシャーン、白河は次々とカップやらウイスキーの瓶やらを割ったかと思えば、ワインセラーからワインを取り出しラッパ飲みし始める。ぷは、と一息吐いた白河はげらげら笑ったあと、泣いた。三十も超えた大人が涙を流す姿なんてめったに見れたものではないし、見たいものでもないが、見た目だけは抜群に良い白河が涙する姿は、何かの芸術作品の一部にさえ見えてしまうのが厄介だ。遂には座り込んで「ぼくはバカだ、大馬鹿者だ、いっそ殺せ……!」と言い出す白河に、岩垣は大きな溜め息をついて、しゃがみこんだ。

「おい、泣くのは良いがいい加減、説明しろ。どういうことだ?」

 するとぐずぐずと泣いていた白河がきっと眦をつり上げて叫ぶように答えた。

「どうしたもこうしたもあるかッ! ぼくは……まあいい。もういい。忘れよう。そして説明してあげようじゃないか」

 そう言うとぐいっとワインを呑み、白河は言った。

「犯人のターゲットは小林悠じゃなかったんだ。姉の、茜の方だったんだ。黒髪。そう、そのためにぼくたちは黒髪にしていたんだが……。まぁ、それはいい」

「ちょっと待て。黒髪にしてたってどういう意味だ?」

「待たない。それよりも重要なのは、どうして本来のターゲットである小林茜ではなく、小林悠を殺したのか、ということだ。秩序型の犯人。被害者像は黒髪の美しい若い男女。けれど金髪の小林悠を同じ手口で殺した……それは何故だ……?」

「単に姉の代わりに殺したっつーか、突発的に殺しちまったんじゃねぇのか?」

「いや……ちょっと待て。確かにそれもあり得る。だが、突発的に殺してしまっては、計画的犯行にならない。計画は遂行すべきだ。そしてぼくが考えるべきことは、犯人がどうして、どんな気持ちで同じ手口で殺したかということだ。けれど――ああ、そうか」

 白河の琥珀色の瞳が、満月のように輝く。怖いくらい美しい色彩を帯びていた。そして、完璧な造形をした白河の唇が、呆然と言葉を継いだ。

「進化を試みたのか。実験だ。だから小林悠の殺害については、犯人は性的快感も何も得ていない。計画は遂行しなければならない。けれど小林悠は黒髪ではない。ならば、小林悠を。次の被害者の為の実験体にしようと考えた。ただの予行練習にしたんだ」

 最低だ、と吐き捨てるようにして白河は言った。そこには黒い侮蔑と嫌悪があった。

「最低なのは最初から分かってただろ。人を殺して更には腹まで裂いて」

「ああ確かに最低最悪の人間だ。人間のくずだ。ぼくだって人間のくずだという自負はあるが人を実験体のように扱って殺すというのは、何の感情も伴わないということだ。紙切れを裂くのと一緒のことさ。これがいかに残酷で醜悪でたちが悪いかキミには理解できるかい? これからの殺人の予行練習のために小林悠は同じ手口で死に、小林茜はたった一人の家族を失ったんだ。ぼくの大切な依頼人が!」

 これだ。白河希は基本的には冷血人間だが、依頼人にだけはそのベースが崩れる。岩垣が考えるに、これも白河のやり方なのだと思う。白河は被害者にも加害者にもなって、事件を見渡す。そういうやり方を無意識的にしているのだ。だからこそ、この事件の依頼人たちのことだけは、感情的にもなるのだ。

 白河はふらりと立ち上がると、一枚一枚、散らばっていた写真や資料を回収しながら、口火を切った。

「第一の被害者、杉本花菜。身長156センチ。九月九月に殺害される。小柄で若い少女。一番殺しやすい相手だ。小手調べには丁度良い。第二の被害者、小林悠。身長170センチ。だが姉の小林茜は身長162センチ。本来だったら小林茜をステップアップと快楽のために殺すつもりだったが、何らかの手違いが生じた。だがそれによって殺人鬼は、小林悠ほどの身長でも殺せると【学習】した。第三の被害者である清水ゆかりの身長は168センチ。女性にしては身長が高い。それでも第二の被害者である小林悠より少し小さいくらいだ。此処ではきちんと黒髪の人間を殺している。これは犯人の欲望を満たす殺人だ。そして更に犯行は加速し第四の被害者、加原亮一郎へと行き着く。身長180センチ。より大きな身長をターゲットにするという【進化】をしている。もうこの犯人に男女の区別も体格差も問題じゃない。黒髪のうつくしい人間。それだけだ」

 さてと、と白河はようやく落ち着きを取り戻して岩垣へと向き合った。

「善男。キミはどうやってこの犯人が自宅に侵入したのか分かるかい? 第四の被害者である加原亮一郎はホテルだから性的な誘いをして連れ出したのは明らかだから、手口としては複雑ではない。だが他の三人の被害者は? なぜ自宅に入れたと思う?」

 鋭く問いを向けられ岩垣は眉根を寄せる。顔見知り、という線はとうに消えている。三人の被害者の接点は何もない。白河を見遣れば、白河はにやついていた。あれは、人のことを虚仮にしている時の顔だ。岩垣は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべ首を振る。

「分からねぇ。だがてめぇはもうとっくに分かっているんだろ」

「そうだね」

 そう前置きすると白河は集めた資料を机に置き、自らも机の上に座った。置いてあったウイスキーの瓶をそのまま直に呑む。それでも酔っ払わず顔にも出ない。

「犯人は訪問販売や営業、配達、警察、もしくはそれを装って自宅に侵入している。例えば宅配業者、荷物が大きいと嘘を吐けばいれてもらえるし、制服だって盗めば事足りる。警察も刑事だったら偽造した身分証さえ見せれば安心させられるしね。若しくは外回りの営業。バッジやネームプレート、制服があるとより犯行時に円滑に事を進められるのは確かだ。人はそういう『象徴』があると安心しがちだからね。犯人を家に招き込んでしまう確率が一気に上がる。……この事件が始まった時から想像していたことだが、やっぱり当たってしまったか。良かったというべきか、良くないと言うべきか。いつもぼくはこういうとき、どうしていいか分からなくなる。この眼を使うには、犯人の心の断片を知らなければ役に立たない。だから確証が必要なのに……ぼくはどこでラインを踏み越えていいのか。感情のままに動けるのならば、推測だけで好きに動くことができるというのに」

その発言には明らかに何か、隠し事が含まれていた。岩垣はじっと白河を見詰めた。

「希。てめぇ何を知ってやがる……?」

 白河希という人間は、誰よりも物事の真実を捉えるのが早い。だから、最初から既に白河の手の上に自分たちはいるのだと思う。いつだってそうだった。ただ白河が「想像」から「確信」に至るまで口を閉ざすのは岩垣にとって不満だった。

 だが今回も白河の方針は変わらないらしい。白河は緩く首を横に振った。

「それはまだ教えられない。だがちゃんといつかは教えるさ。ぼくは依頼人の依頼内容だけは絶対に守る。信じてくれたまえ」

 琥珀色の瞳が真っ直ぐに岩垣を捉える。視線が合うと動けなくなる。白河の瞳が満月のように輝いたかのように見えたが、すぐにその視線は外された。呼吸を取り戻し、岩垣は肩で息をする。昔から知ってはいるが、慣れるものではない。

「悪いね」

 謝る白河に岩垣はぶっきらぼうに答えた。

「今更謝ることじゃねぇよ」

 知っている。何に対して白河が謝っているのか知っている。

 そして自分も白河と同じく、罪人だ。

「だがこれではっきりと分かったことがある」

 白河の瞳が厳しく細められ、窓辺から差し込んだ光が黒髪を艶やかに照らした。

「次のターゲットも黒髪の、容姿の美しい人間だ」



* * *



 母はとてもきれいなひとでした。

 黒髪のうつくしい、あたたかい手をしたひとでした。

 父はとてもきれいなひとでした。

 黒髪のうつくしい、あたたかい手をしたひとでした。

 けれど母と父の繋いだ手はだんだんと離れていきました。そして離れた父の手の矛先は、自分へと向かいました。その手で折檻される度に、肌は赤くなりました。頭を殴られるとぐらぐらと脳が揺れて気分が悪くなりました。

 そんな日が幾日、続いたでしょうか。

 母はある日、父を刺しました。

 背中から何度も刺して刺して刺して刺して刺して刺して……それから気が狂ったように腹も刺し、切り開き、辺り一面血に染めました。真っ赤な血が至るところに散って、包丁を取り落とした母の濡れた赤い手は、赤い蝶のようでした。

 母は自分を連れ立って、車に父の亡骸を積み、山へと向かいました。田舎町の夜は暗く、雨が降っていました。ざあざあと、白く煙る雨の中を走る車はひっそりと父の遺体を運んでいきました。

 山道を走っていき、それから母と二人で父の遺体を埋めるために穴を掘りました。よく蝶を捕りに遊んだ、なじみ深い山でした。土の匂い、雨の匂い、森の匂い。それから血の匂い。全ての匂いが鮮明でした。雨雫が落ちて、葉にあたって弾けて、その中で母と自分の荒い息が聞こえて、土を掘って掘って掘って掘って掘って掘って掘って掘って………………ようやく父の遺体を穴に埋めて、濡れた土をかぶせていきました。

 母はさめざめと泣いていました。自分には母が泣く理由がよく分かりませんでした。どうして母が父を刺したのか、そしてどうして怯えているのかも分からなかったのです。

 恐怖する必要など、どこにあるのでしょうか。

 むしろその時の自分の胸に灯っていたのは――確かな、興奮でした。





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