第2話

 赤みを帯びたピンク色のホルモンをトングで摘まみ、網の上に置く。じゅわっと食欲のそそる音が鳴って、炭火で色を変えていく。

 愛は次々焼かれていく肉を前に、どうしたものかと思っていた。

 夕メシに行こうぜ、と提案したのはカオルで、代金は白河持ちで、この白河探偵事務所から徒歩五分の位置にある行きつけの焼き肉屋「北斗」に愛はいた。山崎さんはひたすら焼いたり、オーダーしたり、たまに食べたり。兎に角効率がいいため、愛の出番がない。折角隣には一目惚れした白河がいるというのに、白河はその薄い身体のどこに入るのかどんどん肉を口に放っていくばかりだ。カオルも同じ調子で食べているのだが、カオルもカオルで、あのスタイルの良さをよくキープできるものだと感心してしまう。

「おい、新人。その肉さっさと食べろよ。焦げるぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 カオルに箸で指摘され、愛は慌てて肉を箸で取った。そこでタレではなく塩を取ったところで、白河とカオルが同時に「あ」と声を上げた。何かしてしまっただろうか。愛が二人を交互に見ると、二人の目線は愛の持った塩に注目していた。

「新人……なんでタレじゃねーんだよ」

「え?」

「いいやキミは正しい。肉は塩で食べるほうがいい。タレは悪くはないが、塩がベストだ。キミは肉のことを正しく理解している」

 意味不明なことを白河は言う。どうやら白河は肉は塩で食べる派らしい。だがそれを気に食わないカオルはタレ派なのだろう。ビールジョッキをどんと机に置いて声を飛ばす。

「はあぁぁ? 焼き肉と言えばタレだろ! 焼き肉のタレはご飯に最高に合うんだよ!」

「ぼくは焼き肉はお肉様を尊重して食べるから、ご飯と一緒には食べない主義だ」

「また意味不明なことを言いやがって……新人、お前もご飯は食べない信者なのか?」

 食べない信者というのは謎だが、焼き肉の時にごはんを頼まないのは事実だったので愛が頷くと、信じられないといったようにカオルが声を上げる。

「ゲーッ、お前もかよ新人。山崎さん~まだタレ派のガッキーは来ないんですか~?」

 ガッキー。初めて聞いた単語だ。

 おそらく人の渾名なんだろうが、そんな人がこの白河探偵事務所にいただろうか。

 首をひねっていると、ガラガラと焼き肉屋の扉が開く音が聞こえた。そこからぬっと現われたのは、身長二メートル近くはあるんじゃないかと思われる巨躯の男だった。体格が良い、その強面の男の鋭い視線がこちらをとらえた。するとカオルが嬉々として「ガッキー!」と声を上げた。その「ガッキー」と呼ばれた男はあからさまに嫌そうな顔をしながら、空いた椅子に腰掛けた。丁度白河の真向かいだった。白河は肉を焼きながらガッキーなる男へとにこやかに挨拶した。

「やあ善男。今日も勤務ご苦労。何か成果はあったかい?」

「あったとしてもこんな場所じゃあ言えねぇよ。あとカオル。そのガッキーって言う変な渾名はやめてくれねぇか?」

「えー、だって岩垣善男で思いつく渾名なんてそれくらいしかないし」

「何でお前は俺にだけ渾名つけたがるんだよ」

 ぶつぶつ文句を言いながら岩垣はおしぼりで手を拭くと「それで」と白河を見た。

「お前の隣にいる女の子は誰だ? まさか新人か?」

 どうやら自分のことを言われているらしいと思い、愛は慌てて自己紹介する。

「はい、一ヶ月前から働かせてもらってます。北村愛です」

 すると岩垣はじろりと愛を値踏みするように見てから、白河へと視線を向けた。

「希、てめー……また顔で採用したのか? ろくな事になんねぇぞ」

「あ、やっぱりガッキーもそう思う? ほんと、ウチの所長様は面食いだよねぇ」

 私も含め、とカオルは豪快に笑ってビールをあおった。白河の反応は淡々としていた。

「そりゃ容姿は重要さ。勤勉な不細工と勤勉な美人だったら後者をとるだろう?」

「そりゃあそうだけどよ……」

岩垣は苦い顔をしながら愛を見る。

「でも何でまたこんなきな臭い探偵事務所に入ったんだ? 前職は?」 

「ええっと前職は保険の営業を……」

「ああ、そりゃあそっちもキツいわな。でもこの探偵事務所の仕事もなかなかハードっていうか、しんどいっつーか……」

 ちらりと岩垣が白河を見る。明らかに白河が問題児だと言いたげな視線だった。だが白河自身はそのことに気付いているのかいないのか。

「ぼくの事務所の中傷はやめてくれないかな? キミのところのようなブラック企業じゃあるまいし。ああ、企業っていうのは間違いだったね。けれどブラックなのは間違いないだろう? なあ善男」

「ブラックじゃねぇ。むしろやってることはホワイトだと俺は信じている」

「何のお仕事をされているんですか?」

 チューハイを片手に愛が尋ねると、岩垣は後ろ頭をがしがしと掻いて言いにくそうに顔をしかめていた。代わりに白河がさらりと「警察だよ」と答える。その答えに「ああ」と愛は何となく納得がいった。岩垣善男。警察。名を十分に表した職業だ。

「かっこいいですね。でも警察官って大変なんじゃないですか? こう、危ない目に遭ったりだとか……」

「まあ、大変だな」

 岩垣は否定することなく、頼んでいた烏龍茶を片手に答えた。やはり大変なのかと愛は思った。白河は肉を焼きながら、大変だってさ、と小馬鹿にするように笑う。岩垣は眉根をぐっと寄せて、いっそ悪人面という顔つきになって、白河の焼いた肉をかっさらっていった。あ、と白河が間抜けな声を出したが殆ど気にしていないようだった。

「希、てめーのところみたいなチャランポランな探偵事務所とは違って、俺たち警察官たちは日夜問わず駆け回ってんだよ。正義のためにな」

 ふんと鼻を鳴らした岩垣に、白河は形の良い眉をつり上げた。

「キミ、ちゃらんぽらんとは失礼だな。特に真面目に働く山崎さんに失礼だ。謝りたまえ。山崎さんがいなくちゃウチの事務所は回らないんだ。山崎さんは優秀だぞ。このぼくが、彼こそが現代の名探偵だと認めているんだから。ちなみにここで言う探偵は、何度も言う通り殺人事件を解決するような探偵じゃない。現代的な探偵という職業において、この人畜無害そうな老紳士の山崎さんは向いているどころじゃない。天職だ。本当にいつも山崎さんがウチの探偵事務所にきてくれたことを感謝しているよ」

 静かにお茶漬けを食べていた山崎さんは、白河の熱弁に対し、少し照れたように「そんなことありませんよ」と言う。本当に山崎さんは温厚な初老紳士だ。岩垣はそんな謙虚で実直な山崎さんにはどうやら弱いらしい。う、と声を上げた。

「す、すみません。山崎さん。決して希の奴がちゃらんぼらんなだけで、山崎さんは素晴らしい従業員さんだと俺は思っています。探偵事務所がチャランポランというより、希がチャランポランなんです。分かってください」

「いえいえお気になさらずに。それに希くんも随分と働き者ですよ、岩垣さん」

「はあ……希、お前は山崎さんみてぇな人を雇えて本当に幸せ者だな」

 じろりと岩垣が言うと、白河は「そうだね」と力強く頷いた。

「それより善男。折角来たんだ。肉なんて悠長に食べてないで、例の事件について何か喋ってくれたまえよ。何のために今日ここに呼んだと思っているんだ」

 その白河の発言に、岩垣は眼を一杯に見開いた。

「はあ!? お前、こんな場所で捜査状況を話せる訳ないだろっ!」

 一際大きな声を上げて言う岩垣に白河が呆れた眼差しを送る。

「善男、声がでかい」

 店はガヤガヤとうるさく、幸いちょっと見られるだけで済んだが岩垣は居心地悪そうに、

「う、うるせぇな」

 と言って烏龍茶をちびちびと飲んだ。

「大体、お前ら一般人に捜査状況を教えられるかよ」

 岩垣はこそこそ話をするように、大きな身体を少し屈めて言う。確かに個室でもないオープンな焼き肉屋なので、遮るものと言えば酔っ払い客達の笑い声や話し声しかない。それなのに白河は全く気にした様子もなく続けた。

「捜査状況なんてどうでもいい。そんなカサカサのパンみたいな話は焼き肉の場に相応しくないだろう? ぼくは警察ではなくいち個人としてのキミが、今世間を騒がせている連続殺人鬼についてどう思うか聞いてみたいんだよ。いいかい、キミ自身の考えだ」

 仕事の仮面はためには捨てたまえ、と。

 そう言うと白河は細長い指で煙草を挟んで、ふう、と煙を吐き出す。愛は嫌煙家ではないし、かといって愛煙家でもないが、惚れた相手が煙草を吸うのはなかなか様になっていて良いなと思った。ただ、こんなにも綺麗な人だから、肺が汚くなっていないといいが。

「俺個人? 俺個人っていわれてもな……そうだな、ぶっとばしてやりてぇってことくらいしか言いようがねぇな」

 岩垣の答えに白河は興ざめというように溜め息を吐いて、冷ややかな視線を送った。

「まあそう言うと思ったよ。気持ちは勿論分かるがね。だが善男。これじゃあキミと駄犬はほとんど同じレベルじゃないか」

「誰が駄犬だ、希ィッ!」

 肉を食うことに夢中になっていた筈のカオルだが、ちゃんとその耳には届いていたらしい。けれど白河は冷ややかに「駄犬は駄犬だ」と言う。愛はそんな白河に言う。

「あの……白河さん。カオルさんみたいな、あんなにきれいな女性に駄犬って言い方はちょっと言い方が悪いというか、酷すぎるというか……」

「おっ新人! いいこと言うじゃんか! ほらほら肉食べな」

 気をよくしたカオルがトングで肉をどんどん愛の皿に盛っていく。ありがとうございます、と言いながらも愛はこれ以上は乗せられまいとさり気なく皿をよけた。

「キミ」

 白河の凜とした声が隣から響き、愛は慌てて反応する。

「あ、はい。何でしょう」

「この女は確かに見た目はいいが、中身は犬以下だ。言葉遣いも性格も難ありだし、何よりぼくがこの駄犬を拾ったんだ。汚いゴミ捨て場でね」

「へ? え? 拾う? ゴミ捨て場?」

 一瞬、周囲の喧騒によって聞き間違えたかと思って愛が繰り返す。

 けれど答えは変わらなかった。

「その通り。言葉のままだよ。なあ、そうだろう駄犬」

 白河は右手で煙草を唇に咥え、右手でライターの火をつける。あれ、と愛は疑問に思った。どうして左手を使わないのだろう。けれどそんな愛の疑問をよそに話題は進んでいく。

 反発するかと思いきや、カオルは白河の言葉に不承不承といったように肯定した。

「……へーへー、そりゃ私は拾われた犬ッコロですよー。ありがとうございますう」

 拾われた犬。そこは否定しないらしい。否定できないのが悔しそうにカオルは唇を尖らせたが、その鬱憤を晴らすように肉をまた焼き始めた。この人の胃袋はブラックホールなのだろうか。見ていて清々しい食べっぷりである。

 だがカオルは納得できても、全く2人の関係を知らない愛は疑問ばかりだ。

「で、でも拾うってどういう……?」

「そのままだよ。私が色々込み入った事情があって、ボッコボコにされてゴミ捨て場に捨てられたんだ。丁度おあつらえ向きに雨の日で……あれ、あれって秋だっけか?」

 肉を頬張りながらカオルがまるで遊園地にでも行った時のことを尋ねるかのように言う。すると白河はビールを飲み干して、おかわりを頼んでから、答えた。

「今から四年前の十一月三十日のことだな。十一月だから数字の上では辛うじてまだ秋とは言えるだろうが、流石に下旬とあって気温は冬に近かった。確かあの日の、午後五時四十六分頃にぼくはキミを新宿歌舞伎町のゴミ捨て場で見つけて拾ったんだ。その時、ぼくは鬱陶しい付き合いで新宿に出向いた帰りで、もうキミは右腕は折れているわ、左足の関節は外れているわ肋骨二本は折れて顔も腫れて、下血もしていたし兎に角見るも無惨。ぼくの目から見ても酷い状態だったな。まあその後、心優しいぼくは救急車を呼んであげて更には治療費まで全額出してあげた訳だが、本当によく生きていたものだよ。瀕死ではあったが、女とは思えない強靱な肉体を持っていて良かったな駄犬」

 ぺらぺらと喋った白河は最後、馬鹿にするように鼻で笑った。

 カオルはそんな白河の、あからさまな嫌味に顔中に嫌悪感をいっぱいに浮かべた。折角の美人が台無しである。

「私は今、猛烈にお前みてーな性格破綻者に拾われたことを後悔している。あのままくたばっていたら今頃天国でハッピーに暮らしていたかもしれないからな」

 ビールのジョッキを傾けて言うカオルに、

「キミが天国なんてあり得ないだろう。天国に今頃住んでいる皆さんに謝りたまえ」

 白河が眉根をいっぱいに寄せて言った。その右手が煙草をもみ消す。そして新しい煙草を右手で取り出して、また右手だけで咥えて火を付けた。左手はその間一切動いていない。やっぱり気になってしまってつい、愛はその手に目がいってしまう。

 その視線に白河は気付いたのだろう。

「さっきからぼくの手を見ているが、どうかしたかい?」

 どうやら最初から気付かれていたようだった。愛は聞いてもいいものかと迷ったが、もうバレてしまった手前、聞く方が潔いと思い口を開いた。

「あ、いえ。その……左手、怪我しているんですか? 煙草を出すのもライターの火を使うの、右手だけだったのでちょっとだけ気になって」

「ふうん。なるほど」

 白河は目を細めてじっと愛を見詰めた。琥珀色の美しい、瞳だ。

「興味深い。やっぱりキミは、興味深い存在だ。聡いのに凡庸。矛盾だ」

 興味深い? 聡いのに凡庸? どうして? なぜそんなことを言うのか? 愛が多くの疑問符を浮かべている間に、愛の疑問を白河の代わりにカオルが答えてしまう。

「あー、希のヤツの左手、気付いていなかったのか。まあよく出来ているから一ヶ月そこらで気付かないヤツの方が多いかもしれねーけど」

「よく出来ているって?」

 愛の問いに対しカオルは肉をかきこみながら答えた。

「義手。義手なんだよ、左手。いんや、左腕半分から下って言った方が正しいか」

「え?」

 思わず愛は声を上げて白河を見遣る。白河は気にした様子もなくまた煙草を吸い始めていた。この人、かなりのヘビースモーカーだ。しかも大酒飲み。

「そうなんですか? 本当に?」

 信じられなくて見遣る。だが白河は否定しなかった。否定せずに煙草を吸う。

「駄犬は嘘は吐かないから本当だよ。ぼくの左腕は義手だ。なに、昔ちょっとした事故みたいなものに遭ってね。けれど昨今の義手の技術は素晴らしいとしか言いようがない。オーダーメイドでそれなりに値は張ったけれど、右手とそっくりだ。信頼のおける、腕の良い義肢装具士に頼んだ甲斐があったよ」

 そう言うと白河は左手を持ち上げた。確かに、それは見事なものだった。愛が想像していた義手というと、もっと無機質的なもので違和感を覚えるものだったからだ。不便で不格好。失礼ながらそのイメージがあったのだが、白河の言う通り義手の技術は愛の知らないところで高くなっていたらしい。事実、白河の左手は動かないという一点を覗けば、近くで見ても完璧な左手だった。実にうつくしい、申し分のない左手だった。

 白河は作り物だが完璧な左手を下ろす。そして再び煙草をふかしながら言葉を紡いだ。

「こういった所謂『作り物』としては義手だけじゃなく、今の特殊メイクも随分すごいものだよ。一昔前の映画やB級映画なんて見れたもんじゃないくらいのメイクだからね。色々なものがリアリティからかけ離れて、笑いすら起こるものがある。だが最近ゾンビ映画を見たんだが、死体になった女優の遺体メイクなんて最高の出来だとぼくは思ったね。きちんと『こう殺されたらこうなる』というのを考慮して特殊メイクされている。例えばそうだな……これは違う映画でミステリだったんだが、遺体の司法解剖のシーンできちんと死斑の違いが表現されていたことなんだ。その遺体の死因は青酸カリによる毒死だったんだが、死斑の色がきちんと濃いピンク色になっていてね。ああ、一応新人氏は知らないかもしれないから説明しておくと、死斑は死後一時間から十時間……この差異は死亡原因や遺棄環境によるんだが、兎に角死んだらできる斑点とさえ覚えてくれていたらいい」

 言いながら白河はピンク色の肉を焼く。それは次第に褐色へと変わっていく。

「皮膚の表面に血液が溜まることによってできる死斑は通常、褐色をしているんだが、さっき言った通り青酸カリを使った場合は濃いピンク色になる。この色の違いが出るのは血液中のヘモグロビンと関係している。ヘモグロビンは何かと結合しているときはピンク色になり、結合していないときは褐色になる。つまり人が死ぬと通常は、体内の血中酸素が消費されてしまってヘモグロビンが何とも結合できず、褐色になる訳だ。もちろん、死斑が濃いピンクになる例は、青酸カリによる毒殺に限ったものじゃない。一酸化中毒や凍死なんかも死斑が濃いピンク色になることがあるね」

 白河は焼いた肉を口に運び、頬張った。てらりと、その肉の脂が白河の形の良い唇を濡らす。よくもまあ死体の話なんかをしながら肉を食べられるものだ。けれど白河探偵事務所の面々はこんなことは日常茶飯事だというように、各々食事を続けながら白河の話に耳を傾けていた。かくいう愛も食欲を失うことはなかったが、先程カオルに盛られた大量の肉が胃にきていた。小食というわけじゃないが、それにしたって山崎さんを除く三人は食べ過ぎなくらいに食べている。大柄な岩垣はこれくらい食べても違和感はないが、細身の白河とカオルの胃袋は一体どうなっているのか。大層不思議で興味深いと愛は思った。だがそれより興味を引いたのは、白河の話のほうだった。

「さっきの話なんですが、白河さん。どうしてそんなに詳しいんですか? やっぱり、死体を見たことがあるんですか?」

 まさかと思ったが愛は思い切って尋ねてみた。

 白河はあっさり答えた。

「うん、あるね」

 もぐもぐ、再び白河は肉を咀嚼する。不思議と、ああそうなのか、と愛は納得してしまった。どうにも白河希というこの人間は、色々な意味での「死」を識っているような気がしたからだった。この奇妙な予感の根源は一体どこから来るのだろう。そう思って愛は問いを続けた。

「その死体を見たことがあるっていうのは、この仕事をしていてですか?」

 口にしてから、あまりこういう場でするべき話題でないことに気付く。ここは「日常」だ。平穏な日常。しかも一目惚れした白河に対して印象が悪いんじゃないか。そんな危惧が一瞬胸に過ったが、すぐにそれは杞憂と分かった。

 白河は端正な顔に微笑を浮かべると、

「そうだね。でも安心したまえ。例の殺人鬼の犠牲者にはさせないから」

 ぼくの従業員にはね、と。そう白河は言うと、それまでの凄惨な話が嘘のようにどこかへと散っていった。まるで魔法みたいだ、と愛は思った。白河の言うことや、白河の琥珀色の瞳や、並外れた容姿はどこか力がある。それこそ人の眼には見えない不思議な力があるんじゃないかと、一瞬でも信じそうになってしまうのだ。

 白河は煙草を吸っては紫煙を吐き出して、煙の流れを目で追っている。その横顔は、神様に創られたもののように、うつくしい。どこもかしこも精緻に創られていて、天使みたいな容姿なのに、中身は悪魔だ――と言っていたのは誰だったか。確かカオルがそんなことをぼやいていた気がした。中身は悪魔? 愛はよくそれが理解できなかった。

 しかし奇妙な探偵事務所である。愛はチューハイを飲み干して事務所の面々を見てから最後に白河に視点をとめた。そう、この白河希。この所長が兎角、変わっている。

 変人とかの類いではなく、人の皮を被った「何か」のように思える瞬間があるのだ。

 そう思ってしまうのは、あまりにも白河希という人間が美しいからだろうか。それともあの日本人離れした琥珀色の深い瞳が、そう思わせるのか。

 いずれにせよ愛は、もっとこの白河希について知りたいと、思った。この誰かを「知りたい」と思う感情の強さは、今までに経験したことがないものだった。一目見た瞬間からこのひとだと思うのは、少なくとも運命じゃないか――なんて。そんなロマンチックなことを思ってしまうくらいには、愛も酔っていた。





 まだ呑み足りないとカオルが言って途中のコンビニで酒やつまみを買ったあと、全員そろって白河探偵事務所に戻ると、明るい事務所内に一人の女性がいた。

 愛が見たことのないその、すらりとした長身の女性は白河たちを見るなり、「あー!」と大声を上げた。

「信じらんない! あたしがいない間に焼き肉行ったでしょ!」

 愛と同じくらいの年頃だろうか。化粧の所為で大人っぽく見えるだけで、もしかしたら二十歳くらいかもしれない。少々化粧は濃いが、お人形さんみたいに愛らしい顔立ちをして、モデルかと思うほど小顔だ。

 女性は腕組みをして不満げに唇を突き出していた。長い茶髪の隙間からきらりと、大量のピアスが空いているのが見えた。愛らしいのに、ピアスの数がえげつない。

 白河はそんなご機嫌な斜めな女性に対して、にこやかに答えた。

「ああ、とても美味しかったよ。やっぱり肉とビールは最高だね。さて七緒。ここにいるということは仕事は完遂してきたってことかな?」

 白河の問いに七緒と呼ばれた女性は当たり前というように頷いた。

「勿論。ほんっとに疲れた。なかなかいないもんね。都内の美術学校とか、かなり回るハメになったけど、ちゃんと見つけたから安心して」

 七緒と呼ばれた女性は、どうやらこの白河探偵事務所の職員らしい。何か仕事を終えてきたようだった。

 カオルがぱっと表情を明るくして、七緒に腕を絡ませる。

「七緒ちゃ~ん、ちゃんと七緒ちゃんの分もお酒は買ってきたよ。スパークリングワイン好きでしょう? あとキャベツ太郎も買ってきたよ!」

「やだ~~~さっすがカオルちゃん。ありがとう。ところで其処の子が例の新人の子? あたし七瀬七緒(ななせ・ななお)。よろしくね!」

 手を差し出してくる七緒に愛も自己紹介して手を差し出す。ぶんぶんと子どものように手を握った七緒は無邪気そのものだった。濃い化粧とピアスと茶髪さえやめれば、もっと可愛くなるのに、と内心思う。特に髪は女性の命だ。そう愛の母親が常々言っていたのを思い出す。そこでふとカオルの金髪に一房、黒髪が混じっていることに気付いた。

「カオルさん、黒髪だったんですか?」

 その不自然な黒髪を指摘すれば、カオルが「ああ」と黒髪を摘まみ上げた。

「知り合いに頼んで家で染めてもらったんだけどさ。ソイツがへったくそで。そのせいでこんな風に黒髪残っちまったんだよ。染め直すのも面倒だから放置してたけど、やっぱり変かなぁ」

「いっそ引っこ抜いてやろうか、駄犬」

白河は言いながらステッキを置いて、コートをハンガーにかけた。軽装になった白河は事務所の片隅に置いてあるワインセラーからワインを選んで、取り出す。他の探偵事務所がどうだかは分からないが、ワインセラーが置いてある探偵事務所はきっとこの白河探偵事務所くらいのものだろう。ワインの他にも事務所の片隅にはウイスキーやウォッカ、ジンの瓶も置かれており、そこだけバーのようになっていた。勿論白河専用のバーだ。時々カオルがそこから白河が居ないすきにくすねているようだが、それについて白河が詰問したり糾弾したりしたことはない。間違いなく気付いてはいるのだろうが、怒らないあたりが白河らしいと思った。そもそも愛は白河が怒ったところを未だに見たことがない。

「新人ちゃんはキレーな黒髪なのね。可愛い顔もしているし、ウチの事務所のインスタとかツイッターに乗せてもいい? 実は希ちゃんの写真載せたらチョーバズってね。いいねをいっぱいもらえてすごいのよ」

「ああ、それなら私も見ました。白河さん、すごいですよね」

「まぁ性格はアレだけど顔は抜群にいいからね。でも黒髪なんて今時ちょっと珍しい感じするけど、染めたことはないの?」

 七緒の言葉に、愛は笑って答えた。

「ええ、実はないんです。母の影響で黒髪にしているんです」

「お母さんの? 仲いい親子なのね~! うらやましい! 今は一緒に住んでいるの? それとも一人暮らし?」

 そう問われ愛の脳裏に在りし日の美しい母が浮かび、それから消えた。ああ、やっぱり少し寂しいと思うのは自分が幼さを捨てきれていないからだろうか。愛は首を振る。

「いえ、私が上京したので今は一人暮らしです」

「じゃあお母さんはお父さんと二人暮らしって感じ?」

 父親、と言われてぐにゃりと一瞬視界が歪んだ気がした。父親。死。あまり今、この場では思い出したくないことだったが愛は正直に答えた。

「父は、私が幼い頃に亡くなってしまって」

 声が自然と震えてしまいそうになる。だが、愛がそう言うと七緒が「しまった」というような顔をしてのぞきこむようにしてこちらを見た。百六十三センチの愛よりも身長が高い七緒は、百七十センチはありそうだ。七緒は困ったように眉尻を下げていた。

「やだ、あたし詮索しすぎた? 気を悪くしたらごめんね?」

「いえ、気にしないでください」

 口では言いつつ、頭の中に浮かび上がってきそうになる昏い光景。父親。そう、愛の父親は、愛が十二歳の時に亡くなったのだ。殺されて亡くなった。それを人には言えない。言うようなものじゃないとちゃんと愛は理解しているからだった。

 そのとき、

「父親はどうして死んだ?」

 白河の声だった。見遣れば優雅にワインを飲みながら、酷薄な笑みを浮かべている。それでも尚、下品なところは一切ない。きれいなままだった。愛は答えようか迷った。だが七緒がすぐに庇うようにして声を上げる。

「ちょっと希ちゃん! デリケートな話にズカズカ入っていくのはナンセンス! すぐにそうやって分析しようとする癖、ちょっと抑えたほうがいいわよ? ただでさえ友だちが少ないのに、もっと少なくなっちゃう!」

 七緒の言葉に、白河は声を上げて笑った。

「友人! これはまぁ愉快だ! 七緒、確かにそうかもしれないね。新人、無礼を許してくれたまえ」

相変わらずの上から目線で白河は物を言う。愛は「はぁ」と溜め息のような肯定しか返せなかった。白河は煙草に火をつけてふかす。

「しかし父親が逝去して母親が独居ね。上京して一人暮らしとは大変だ」

「確かにそうですが、一人暮らしって自由気ままで私には合ってます」

「ふうん。ぼくだったら耐えられないね。家に帰っても誰も出迎えてくれる存在がいないなんて寂しいことじゃないか」

 その発言は大いに意外で「え!」と愛は思わず大声を上げてしまった。

「白河さん、誰かと同居しているんですか!?」

「うん」

 うっとりと眼を細めて白河は言う。

「ぼくの可愛い猫たちと同居しているよ」

 猫。

 一瞬、それが隠喩なのかと思ったが、続く白河の言葉でそうではないと察した。

「一番大きな子がノルウェージャンフォレストキャットのジョゼくんで、二番目が三毛猫のタマキ、三番目がスコティッシュフォールドのダンゴで四番目が、」

「ちょ、ちょっとまってください。一体何匹飼っているんですか?」

 やや遮るように言うと白河は「飼っているんじゃない。一緒に暮らしているんだ」と訂正を入れて続けた。

「四番目が黒猫のアンコ、五番目がブリティッシュフォールドのブリトニー。ブリトニーだけは名前が長いから、ブリ、と呼んでいる。どの子も可愛い子でね。ぼくは人間はそれほど好きじゃないが、猫は心から愛しているんだ。あの猫の可愛さはどんな名画家でも名作家でも、表現しきれないだろう。写真を上回るあの可愛さには、何か魔力か何かがあるとしか思えない。ねぇ、山崎さん?」

 白河がそう同意を求めながら、山崎さんにも呑むかと尋ねる。山崎さんは「いただきましょうかねぇ」と相変わらずマイペースな調子で言ってワイングラスを受け取った。白河は煙草を咥えたまま革張りの椅子にどかっと腰掛け、両足をデスクの上に載せると優雅にワインを飲み始めた。どう見たってお行儀がいいとは言えないのに、白河がやると何でも様になる。うつくしいひとだな、と。白河を見る度に愛はどきどきとしてしまう。

 けれど白河はそんなこと気付いていないのか――若しくは気付いていても無視しているだけなのか。窓辺で外を睨み付けるように立っていた岩垣に声をかけた。

「善男。キミもいい加減呑みたまえよ。むっつり黙り込んでるけど、どうせ解決も進展もしない事件のことばっかり考えているんだろう? キミのその頭の中でくるくる考えていることは、考えても仕方ないことだ。少なくともキミや駄犬のような脳味噌じゃあね」

「希ィ……てめぇは本当に人をおちょくる天才だな」

 岩垣の顔が益々凶悪なものになる。普通の状態でも強面だというのに、こうして少ししかめ面をしただけで、人を殺しそうな形相だ。

 けれど白河はそんなことは慣れっこなのだろう。飄々と岩垣に尋ねる。

「それで? 一体何をその小さな宇宙空間で考えていたんだい?」

「考えても仕方ねぇことを言って何になるって言うんだよ」

「考えても仕方ないけれど、キミの考えに興味がないとはぼくは一言も言っていない。さあ酒の肴になるような話をしてくれ。それともキミができないようであれば、ぼくが特別に今この場で講義のようなもの……ま、ただの蘊蓄でも喋ろうか?」

「蘊蓄だと?」

「あー、ガッキー。やめとけやめとけ。どうせまたクソ長い話が始まるだけなんだから」 そう言うカオルはソファーに腰掛けて対面に座った七緒と乾杯する。愛も買ってきた酒の中から缶チューハイを取り出すと、空いていた七緒の隣に座った。

「駄犬。お前は寝ていればいい。ぼくは今、善男と喋っているんだ」

「あーはいはい。わかりましたわかりました。どーぞ勝手に始めてください~」

 カオルはひらひらと手を振って、勝手にしてくれとビールを呷っていた。七緒はというと意外にも興味津々といった感じで白河を見ている。山崎さんも岩垣も聞く体勢に入っていた。赤ワインを一口、口にした白河は「さてと」と薄く笑んだ。

「それじゃあプロファイリングの話をしよう。丁度いいタイミングだからね、うん」

「プロファイリングって……えっと、犯人を特定するための……」

 以前映画で見た捜査官がプロファイリングというものをしていた気がした。その古い記憶をひっくり返しながら愛が言えば、白河は「特定なんかはできないけどね」と前置きしてから言葉を並べていった。

「映画だとそうだな……アンソニー・ホプキンス主演の映画『羊たちの沈黙』かな。あの映画ではプロファイリングが行なわれていたが、あれは勿論フィクションの世界の話で、プロファイリングすれば必ずしも犯人が捕まるという訳じゃない。プロファイリングは犯人検挙の支援とされている……と、ぼくが読んだ本には書いてあったんだが、確かにその通りだ。プロファイリングはぼくがよくやる妄想をこねくり回したものと、そう変わらない。それの上位互換と思ってくれていい」

 あっさりと白河は自分の推理を「妄想」と切り捨てると続けた。

「プロファイリングは主に二分され、一つは犯罪者プロファイリング、そしてもう一つは地理的プロファイリングだ。ここに過去の未解決事件と照らし合わせる方法も入る。現在の事件と過去の事件をリンクさせて情報を洗うやり方だね。このあたりは善男。刑事なんだからキミも分かっているんじゃないか?」

 話を振られた岩垣は、小難しい表情を浮かべながらも答える。

「あーっと、犯人像プロファイリングってヤツが、そのまんまの意味で犯人像を考えるってヤツだろ。地理的プロファイリングは事件現場と犯人の居場所との関係、それから連続した犯行が行なわれているかであとは……あー、よく覚えてねぇ」

「善男にしては上出来だ。そうだね、あとは強いて言うなら連続犯行がエスカレートする可能性も考える必要がある。エスカレートという意味では色々な意味がある。犯行の間隔が狭くなっていくスプリー・キラーとかね。二箇所以上の場所で殺人を行い、またその間の期間は比較的に短い……というのがアメリカ合衆国司法統計局で定義されているスプリー・キラーというものだ。今回の連続殺人はスプリー・キラーになりつつある」

「あの、すみません。連続殺人とそのスプリー・キラーは違うんですか?」

 控えめに愛が挙手して質問を投げかけると、白河はもちろんと頷いた。

「連続殺人は被害者像や殺害方法に共通する部分があり、かつ、冷却時間が長い。一ヶ月とか一年とか、それ以上の期間をおくってこともあり得る。けれどスプリー・キラーは数日、数週間と犯行が短く、被害者像や殺害方法も散漫としたものになっていくことがある。つまり秩序型が無秩序型に移行しつつあるから、スプリー・キラーはよっぽど狡猾じゃないとお縄になりやすいとぼくは考えている。ゲームオーバーだ。ちなみに言っておくが連続殺人と大量殺人も違うことを頭の中に入れておいて欲しい。日本の事件で例を挙げるならば東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の加害者である宮崎勤が連続殺人鬼で、附属池田小事件の加害者、宅間守が大量殺人鬼といえるね。この内、宮崎が秩序型、宅間が無秩序型に分類されるのかもしれないが、ぼくは」

「ちょっと待て。秩序型とか無秩序型ってのはなんだ?」

 疑問を飛ばす岩垣に、白河がじとりとした目で見遣った。

「善男……キミが警察でどこまで詳しく犯罪心理について勉強しているのかは知らないけれど、秩序型と無秩序型くらい頭に入れておいてくれ。凶悪な連続殺人犯を追い続けた元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをキミは知らないのかい?」

 呆れ眼で岩垣を見る白河に、岩垣はぶっきらぼうに答える。

「知らねぇな」

「キミに期待したぼくが馬鹿だった。簡単に説明しよう。犯罪者プロファイリングにおいて臨床心理学、精神医学といった立場からアプローチするのが臨床的プロファイリングと言うんだが、秩序型と無秩序型はこれに基づいて1970年代にFBIの行動科学によって産み出された類型だ。秩序型というのは計画的な犯行でかつ被害者や殺し方に好みがあり、無秩序型というのは衝動的で相手も手段も問わない。前者は知性が高く凶器や証拠は残さない。後者は知性が低く、社会的能力を欠いている場合が多いと定義されているね。あくまでそのパターンが多いというだけで、このパターンを外れる場合も勿論あるとぼくは考えている」

 さて、と白河の唇が三日月型に歪む。魔性の美しさだ、と愛は思った。

「気になる人は多いにいるだろうが、みんなでここで考えてみようじゃないか。今回、世間を騒がせている連続殺人鬼について。今回、この白河探偵事務所に犯人についての依頼があったのは皆、知っているね? じゃあその犯人像をプロファイリングごっこをしようじゃないか。さて、それじゃあキミ。今回の殺人鬼は秩序型? それとも無秩序型?」

急に指差された愛は迷いなく答えた。

「秩序型ですね。ニュースでも殺害の手口は同一って言われていますし……それに、まだその、捕まっていないですし」

 刑事である岩垣を前に言って良いものかと憚られたが正直に答える。白河は深い琥珀色の瞳を猫のようにすっと細めて、ふうん、と鼻を鳴らした。

「そうか。確かにそうだろうね。キミはそう答えると思っていた」

 謎めいたその発言に愛は眉根を寄せるが、白河は「そんなに怖い顔をしないでくれ」と愉快そうに笑った。

「確かに秩序型かもしれない。殺害方法はどれも同じだからね。それに余程計画しないと被害者の自宅で殺すことなんてできやしない。頭が悪い犯人だったら、無理矢理にでも部屋に押し入って殺して、証拠だって残したかもしれないだろううしね。じゃあここから犯人像に近づくにはどうしたらいいか? はい、山崎さん」

「計画性があるということは、慎重な性格。衝動的な殺人じゃないということは理性がきちんと働く人間で、確かに知性は人並みかそれ以上ということになりますね。少なくとも感情で動くようなタイプ……例えばそう、失礼ながら良い意味でも悪い意味でもカオルさんのような方には無理な犯行ということです」

「山崎さん~勝手に私を例に出さないでくださいよぉ~。確かにぃー私は考えるとかメンドーなタイプですけどォ~」

 べろべろに酔い始めたカオルは気を害した様子もなくけらけらと笑っていた。それでも山崎さんは「すみません」と謝罪し、ペットボトルの水をカオルに渡してあげた。本当によく気配りのできる人である。カオルはそれを手に持って「つめたーい」と言いながらへらへら笑っている。白河はそんなカオルを見てやれやれといったように溜め息を吐くと、気を取り直すように再び喋りはじめた。

「山崎さんの言う通り、計画を立てて実行する、ということをする人間は一定の賢さが必要になってくる。特に殺人という大仕事に於いては、何度も何度も石橋を叩いて渡るような慎重さを持っているともいえるだろう。そしてこの慎重ということは、目立たない人間になろうと努力するということだ。この『目立たない』というのは地味に生きるということだけではなく、それよりも社会に馴染む平均的な人間を装ったり、殺人なんて残酷なことをしそうもないくらい善人だと周囲から認められる、という意味での『目立たなさ』だ。モンスターが人間の皮を被って生活するようにね。要はこの『目立たない』、というのはイコールで『殺人』と結びつかないような人間になるよう努めているということだ。例えばアメリカの連続殺人鬼、ジョン・ゲイシーはチャリティー活動にも熱心な、地元でも信頼の厚い善人だった。結婚もし、仕事も持ち、チャリティーにも参加する所謂模範的市民だった。だがその裏では少年を言葉巧みにおびき出して強姦し、三十三人も自宅の地下室で殺していた。六年間、そんな血なまぐさいことが行なわれていたというのに、誰も気付かなかった。というより、ゲイシーと少年の失踪がイコールにならなかったんだ。だからこの凄惨たる殺人は六年もの間、続いた。近隣住民も配偶者も警察も誰も疑わない、そもそも捜査線上に持ち上がりもしない人物なんだから仕方ない。既にゲイシーは『この人はそんなことをしない』というラベリングをされていたんだ。同じように連続レイプ殺人鬼として有名なテッド・バンディも、犯罪とは無縁の好青年だっだと言われている。だがそんなバンディも三十人の女性を強姦し殺していた。その被害者全員が、長い髪の女性だった事、そして手口が同じだった事、二つを合わせても彼は秩序型の人間と言えるね」

 つまり、と白河は続けた。

「今世間を騒がせている連続殺人犯もまた、人並みか、それ以上の社会的立場にあると考えられる。でもこんなことが分かったとしても、そんな人間そこらじゅうにいるね。模範的市民なんて普通に生きていればどこにでもいる。じゃあどう狭めていくか考えた時、地理的プロファイリングを用いていく。ああ、善男。きみのそばに丁度地図があるから、それをこっちのホワイトボードに貼り付けてくれないか?」

「お前地図なんて持ってたのかよ」

 岩垣が渋々地図を手に取ると、白河が形のよい眉をぴくりと跳ね上げさせた。

「キミ、ぼくはこの連続殺人事件の遺族に依頼をされているんだよ。善男。知っての通りぼくは、依頼人からの依頼だけは絶対に守る。わかってるだろう?」

 意味深に強調した白河の瞳には真剣さが宿っていた。岩垣は後ろ頭を掻き、のっそりと動き出した。その無骨な手がホワイトボードに一枚の大きな地図を貼り付ける。

「……はいはい、そうだな。おら、ちゃんと貼ったぞ」

「どうも。さて、この地図を見て欲しいんだが、ここが第一の殺害現場」

 椅子から立ち上がり白河は赤いマーカーで×印を書いていく。

「それから第二、第三、とマーキングしていくと……こうなる。トライアングルだね」

 キャップを元に戻した白河は、またどかっと椅子に腰掛けてワインを手にした。赤いワインが透明な、磨き抜かれたグラスのなかでとぷんと揺れる。

 地図には三カ所、×印が描かれ、それが線で結ばれていた。確かに歪ではあるが三角形になっている。こうして見るとそう遠くない距離――電車で移動しても三十分ほどしか距離が離れていない。

「こうやって見た時に二つ、考えられるタイプがある。一つはこの三点が集まる地域の中心や近隣に通勤や通学するタイプ。もう一つはこのトライアングルの中心に居住地を置くタイプ。そして中心というと……」

 白河は座ったまま伸縮性の指示棒を伸ばし、かつん、とホワイトボード上の地図を差した。そこには黒猫のシールが貼ってあった。

「ここ、白河探偵事務所も入っているという訳だ」

 白河は黒猫シールを差してにやりと笑うと、満足したように指示棒を縮めて机に穂折り投げた。ころころと転がったそれは寸でのところで落下を免れる。

「それじゃあ皆、面倒だろうがどこに住んでいるかシールを貼っていって欲しい。ああ、ちゃんと分かりやすいよう色は変えてくれたまえよ。山崎さん、悪いが皆にシールを配ってくれ。ちなみに猫のシールは駄目だ。人間が使うには勿体なさ過ぎる」

 よく分からない論理を振りかざす白河にも、山崎さんはマイペースに「分かりました」と微笑んでこの場にいる全員にシールを配った。各々が席を立って――カオルは七緒の肩を借りて――地図にシールを貼っていく。それを眺めている白河に愛は声をかける。

「あの白河さんは貼らないんですか?」

 すると白河はつまらなそうな顔をして、

「ぼくの家はここのようなものだからね。貼る必要はない」

 ときっぱりと断ってきた。何だか不平等だ。だが確かに白河がこの事務所から帰るところを今まで見たことがない気がした。三階には風呂もトイレもあるらしいので、おそらく白河は三階を根城にしているのだろう。

 全員がシールを貼り終わると、愛は思わず目を瞬かせた。

 全員が全員、トライアングルの中に自宅があったからだ。これには七緒も「あらあら」と意外そうな声を上げた。

 それを見た白河はというと満足そうに微笑み、口を開いた。

「よろしい、皆シールを貼ったところでひとつ、可能性の話をしようじゃないか。もし今回の殺人鬼が前者の通勤通学タイプならば、このトライアングルの範囲に入っているぼくらも被害者になり得る可能性を持っている。だが、もし後者で殺人鬼がこの近くにいるのだとしたら、ここにいるぼくら全員、加害者像に当てはまる訳だ。いや訂正をしよう。バカなカオルは除いて、だな。カオルはどちらかといえば被害者像に当てはまるタイプだ」

「ちょっと待てよ希」

 声を上げたのは岩垣だった。

「お前、ここにいる奴らが被害者か加害者になるって言いてぇのか?」

 それは皆、思っていたのだろう。皆の視線が一斉に白河に向かう。白河はそんな視線をそよ風でもなでるように受け流すと、微笑みを湛えたまま告げた。

「可能性としては否定できないだろう? 例えば、ぼく。白河希という人物も加害者の可能性は捨てきれないさ。職掌柄……と言っていいのかな。とにかく情報というものを多く獲得できるし、ぼくは自分の顔面の良さだけは自負している。被害者たちを誘惑し自宅に入れてもらって……というのも十分考えられるだろう? それに善男。キミだって刑事という悪を追う正義のヒーローだがその裏で殺人を犯しているかもしれない。警察の動きに詳しいキミなら捜査の手を掻い潜ることだって簡単だろうし、刑事であるからこそ簡単に相手を信頼させることができる。一般の人々の半数以上が、刑事が来て家に上がらせろと言われたら、ノーとは言えないだろうしね。自宅での殺害ももってこいだ」

「おいッ希! てめぇふざけたこと言ってるんじゃねぇぞ!」

 すさまじい剣幕で白河に詰め寄る岩垣に、白河は「いやだなぁ」と相好を崩す。

「善男。ぼくは可能性の話を言っているだけだ。それにだ、さっきも言った通りぼくだって殺人鬼の可能性は十分ある。誰にも今の所は否定できない。ただ謎なのは……そうだな。『戦利品』の話だ」

「戦利品?」

 眉をつり上げて訝しげな顔をする岩垣に、白河は首肯する。

「そうさ。この犯人が何を『戦利品』としているかが、ぼくには分からない。色々と考えてはみたんだがね」

「ちょっと待てよ希。戦利品っつーのは、もしかして……」

「ご想像通りだよ、善男。連続殺人犯の犯人は大抵の場合、被害者を殺した記念に何かを持っていく傾向が高いんだ。例えばアメリカの連続殺人鬼、エド・ケンパーは幼い頃の祖父母への殺害により精神病院への入院歴がある。その一方で知能指数は140と天才並みの知能を持っていて、精神病院を五年で退院したんだ。医師たちを巧妙に欺いてね。その後彼は若い女性を殺し、時には屍姦し、遺体をポラロイドカメラで写真に収めた。ケンパーにとっての戦利品はこの遺体写真だとぼくは思っている。他にもエド・ゲインという有名な殺人鬼がいるが、彼にとっての戦利品は遺体の一部だ。兎に角彼は肉体を捌いて、色々なものを造った。人の皮を剥いで造った乳房付のチョッキとかね。勿論、連続殺人犯全員が全員、戦利品というものを持っている訳じゃない。だが、ある種の拘りを持つ連続殺人犯にとって殺人は謂わば記念日なんだ。初デートの記念日。若しくは初めての狩りの記念日。そんなものに、記念品なり戦利品を持って帰りたいのは当然のことだろう? それを持ち帰って取り出して眺めたりすることで、してきた殺人を頭の中で再上映することができるんだから。可哀想にも被害者は加害者の脳内で何度も殺害されるわけだ」

 だが、と白河は続ける。

「今回の連続殺人事件の犯人だが……この犯人が何を記念品としているのか、ぼくにはまだ皆目見当がつかない」

 形の良い眉を寄せ思案に耽る白河に、岩垣は盛大に溜め息を吐き出した。

「気分の悪い話だぜ。しかしよくもまぁ、本当にお前は殺人犯のことは詳しいよな」

「あらあら善男ちゃん、それが希ちゃんのイイトコロじゃない!」

 そう言った七緒は、いつの間にかスパークリングワインを一本ひとりで空けて、すっかり上機嫌になっていた。岩垣は「ちゃん付けはやめろ」と言うが、七緒は取り付く島もなく「いいじゃない、可愛いんだから」と声を弾ませた。

「それに希ちゃんの話、あたしは好きよ。不謹慎だけど連続殺人とか猟奇殺人ってワクワクしちゃう」

「七緒はミステリやスプラッタが好きだからそうなのかもしれないな」

 白河がそう言うと「そうなのかなぁ」と可愛らしく七緒は小首を傾げた。明らかに見た目は恋愛映画やお涙ちょうだいの感動ドラマが好きそうなのに、人は見た目によらないものである。かくいう愛も、恋愛映画は苦手だ。退屈で。

「それにしても本当によく知っていますね。白河さんもミステリーとかサスペンスが好きなんですか?」

 愛が尋ねると白河は首を横に振って否定した。

「まさか。ぼくが殺人犯について色々調べたり考えたりするのは、それが必要不可欠なことだからだよ。彼等の思考の海に潜ること。それがぼくの役目だ」

 正直趣味が悪いけれどね、と。

 そう言うと白河は赤ワインを呷った。その薄い唇が薄らと赤く濡れて、長い指先がワイングラスを机に置く。置いたその手は本物の手だ。きれいな手をしている。

 白河希というひとは、本当に完璧な造形をしていると愛は思い、小さく感嘆の溜め息を吐き出した。義手も一つの「欠落」の美のように感じてしまう。それこそミロのヴィーナスやサモトラケのニケのように。

 一目惚れというものは恐ろしいものだと愛はつくづく思った。ただ見ているだけでもドキドキするのに、こうやって知れば知るほど、胸が締め付けられるような、兎に角言葉にはしがたい、たまらない気持ちになるのだ。見ているだけでは耐えられない。それこそ、この想いが成就すればいいとさえ、貪欲に思うほどに。

 こんな気持ちになるのは、初めてのことだった。

「あの、話はすっごく変わっちゃうんですけど」

 酔った勢いで愛は口を開く。

「皆さんって恋とかしたことあります?」

「あらあら、突然どうしたの? 何か悩み事?」

 七緒が嬉々とした様子で尋ねてくる。愛がこんな話をし始めると思わなかったのだろう。岩垣やカオルもちょっと驚いたような顔をしていた。

「悩みなんですかね。私、人よりずっと恋愛経験が少なくて。だから恋ってどんな感なんだろうなーって思ったんです」

「やだ、まさか今まで恋のひとつもしてこなかったの?」

 可愛い~、などと七緒は言うが愛は苦笑しか返せなかった。白河が口を開く。

「恋愛について聞きたいなら善男に聞くといいさ。なぁ、善男」

 急に振られた岩垣はぶふぉっと呑んでいた缶ジュースをふきかけて、噎せ込む。げほげほと咳をしながら岩垣はじろりと睨み付けるようにして白河を見た。

「おい、ふざけんなよ希。何で俺なんだよ」

「ん? だってキミ、案外恋多き男じゃないか。最近もふられたし」

「えーッ、善男ちゃん振られちゃったの? かわいそうに……でも元気出して! またいい恋見つかるって!」

 七緒の励ましに岩垣は微妙な表情を浮かべた。

「いい恋も何も……まぁ、あれだな。新人。恋っていうのは、四六時中相手のことばかり考えてしまうようなモンだ。でもって七緒と希。もう俺は恋なんてしねぇ」

 ふんと鼻を鳴らして宣言する岩垣に愛は首を傾げる。

「え、どうしてですか?」

「新人。失恋というものはどうやら相当な精神的ショックになるらしいよ。まぁぼくには分からない感情だがね」

 そう言ったのは白河だった。愛は思わず声を上げる。

「え! 白河さんも恋をしたことないんですか?」

「ないね」

 さらりと答えるとワインを飲み干す。意外と言えば意外だが、納得できるといえば納得できるものがあった。ただ博識な白河でも知らないことがあるというのは新鮮だ。思わず愛が、ふふ、と笑ってしまうと白河がじろりと見た。

「なんだい新人。恋愛経験がないから初心だとでも思っているのかい? そこに母性本能のようなものがくすぐられているとでも?」

「う、ご名答です……でもうれしいです。私と同じ人がいるなんて」

 それがしかも一目惚れした白河だったなんて、と思うとたまらない気持ちになった。

 隣にいる七緒が、

「希ちゃんも新人ちゃんも、みーんな良い恋できるといいね!」

 新しいスパークリングワインを空けて快活に笑う七緒に、愛もまた頷いた。

 確かに良い恋になればいい。





 十月も下旬に差し掛かった頃、外は一層空気が冷たくなっていた。秋の匂いを感じながら愛は友人である水橋祐子を連れて職場である、白河探偵事務所の扉を開いた。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

 事務所がある階段をのぼりながら祐子が不安そうに尋ねてくる。愛は勿論と頷いた。

「大丈夫大丈夫。白河さんは少し変わっているけれど、依頼は絶対守ってくれる人だし」

 基本的に動くのは山崎さんだけれど、というのは口にしなかったが、実際白河探偵事務所の依頼完遂率は高い。高い理由は偏に山崎さんの活躍と、たまに見せる白河所長の推理――と言ったら本人に嫌そうな顔をされるが――のお陰だろう。

「おはようございます」

 愛が事務所の扉を開くと、ソファに寝っ転がって眠たげにしているカオルがまず最初に目に入った。窓辺から差し込んだ光でその金髪はきらきらと輝き、また、カオルの美しいかんばせを照らしていた。だが、だぼだぼのパーカーにデニムとは社会人としていかがなものなのだろうか。けれども美人なカオルがソファで寝転ぶ姿は、まるでひなたぼっこしている猫のようで素直に愛らしいと思った。黒髪だったら黒猫みたいでもっと良いのに。

「あら、新人ちゃん。おはよう」

 そう挨拶してくれたのは、七緒だった。スタイルが良くカオルよりも背が高くて、まるでモデルさんみたいだ。今日も化粧がばっちりしてあって、茶色い髪もくるりとゆるく巻いてある。そのアイメイクでぱっちりとした瞳が瞬いて、愛の友人である祐子を捉えた。愛は七緒が何か言うより先に、祐子を紹介する。

「おはようございます七緒さん。この子は私の友だちの水橋祐子って言います。それで今日、この子の相談をちょっと聞いて欲しくて……」

「依頼の話かい?」

 凜とした声で言ったのは、白河だった。ステッキをついて応接間のソファに寝転がるカオルを蹴り落とすと、どうぞ、とにこやかに祐子へと椅子にかけるよう告げた。蹴落とされたカオルはというと文句は言わなかったが、ぶすっとした表情でベランダへと出て行った。多分、煙草を吸うんだろうが、まるで居場所を取られた野良猫のようだと思う。

 祐子は、対面に座った白河の美貌に見とれるどころか、気圧されているようにも見えた。気持ちは分かると心の中で苦笑する。男も女も一目惚れしてしまいそうなくらい、白河希というひとはうつくしいのだから。

 愛は緊張で縮こまる祐子の隣に座ると、

「依頼というか……その、白河さんに相談したくて」

 と切り出した。するとぴくりと白河の眉が跳ねる。

「なんだ依頼じゃないのか。だったらぼくじゃなくて他をあたってくれ」

「あ、その、いえ。待って下さい」

 腰をあげかけた白河を無理矢理ソファに戻して「話だけでも聞いて下さい」と愛は頼む。白河は大変白けた表情をしていたが、仕方ないというように溜め息を吐き出した。

「話ね。それで? その彼女はどんなストーカーに悩まされているんだい?」

「え」

 思わず愛と祐子の声が重なる。驚愕だった。まだストーカーのスの字も言っていないのにどうして分かったのか。目をまん丸くしたまま白河を見遣る。

「あの、どうしてストーカーだって……」

 戸惑う愛に、淡々と白河は答えた。

「探偵事務所に来る若い女性の依頼のうち、浮気調査が大半を占めて残りがストーカー被害に関する相談となっているからね。それで最初は浮気調査を疑ったんだが、左手の薬指に結婚指輪がない。最近はつけない人もいると言うが、それでも女性のおそらく半分以上は結婚指輪というものに憧れを抱くものだろう? これがまず既婚者ではないと思った理由の一つだ。もう一つの理由としては年齢だね。新人と同じ年齢ということは、まだ二十五歳ということになる。昨今は晩婚化と言われているし結婚するにしては早いように思える。ということは浮気調査の確立は低い。それにご友人のその格好。その格好もまた、ストーカー被害に関する相談に繋がると思ったんだ。つばの広い帽子に、だて眼鏡。極力おしゃれというものを避けた、地味な服装。にも関わらず化粧はそれなりにちゃんとして髪だって整えてある。つまり元々は地味なタイプではないのに、今は変装して外出するようになってしまったということだ。――となるとキミがこの新人に此処に連れてこられた理由は、ストーカーに関係する相談、という可能性が非常に高い。だからぼくが、ストーカーについて言いだしたことについて何も驚く必要はないんだ。こうやってちょっと想像力を巡らせて適当に言ってみただけなんだからさ」

 そこまで言うと白河は煙草を取り出して、唇に咥え、火をつけた。

「それで実際のところ、どうなんだい?」

「あ、当たってます」

 紫煙をくゆらせる白河に、まるで素晴らしいマジックでも見せられたかのように祐子が何度も頷いて答えた。

「そうです、仰るとおり今、私ストーカーされてて……それで困って、最初は警察に行ったんですけど、追い返されちゃって。そうしたら愛がここにって」

 祐子がそう説明すると、白河は紫煙を吐き出した。

「へえ、警察に追い返された。何たる悲劇かな。ストーカー規制法が成立したというのに、いつだかのニュースでやっていたようにストーカー殺人は絶えないようだからね。ま、警察も具体的かつ早急に対処すべきだという判断材料がないと、なかなか動けないというわけか。警察も警察で判断が難しく、大変なんだろうね。けれど一方で怠慢な警察というのは悲しいかな存在するもので、そういう奴らは全員善男にしょっ引いて欲しいね。ああ、すまない。話が脱線してしまった。警察に追い返された、ということは、キミが被害に遭っているよいうのはもしかしてネットストーカーの類いかな?」

「え、な、なんで」

 動揺する祐子をよそに白河の弁舌は止まらない。

「ネットストーカーということはキミ、ツイッターがインスタグラムにでも自撮り画像をアップロードしているね? ぼくは正直、そういったものには疎いんだが、大抵の場合は最初はよくコメントやらリプライを送ってくれる人だと思って、キミも好意的に感じた……いや違うな。承認欲求が満たされた筈だ。見ず知らずの人が自分のことを褒めてくれる。認めてくれる。この他者評価はキミの承認欲求を満たすに相応しかったに違いない。このままだったらきっとお互いに良いアイドル紛いの存在と盲目的なファンという構造で終わっただろう。だが、その均衡が崩れたのは至極単純明快だ。相手からの発言が、より一層個人的なものになったのだろう。例えば何処に住んでいるのか、だとか、どんな仕事をしているか、果てには質問に留まらず好きだと愛していると一方的に告げられる。ぼくにとっては全く理解できない世界だがね。だが危険があると知っていながら自ら素っ裸で飛び込む人間の心理というのはある程度理解できる。オーストリアの精神医学者である、かのフロイトが、人間にはタナトスという自己破壊本能があると唱えているように、ネット世界が危険を孕んでいても飛び込むのはある種この自己破壊本能だと思うんだが……いや、誰しもが持つ自殺願望、深淵を覗き込みたい危ない好奇心といったところだろうか。インターネットがない時代、こういった承認欲求を人はどう解消していたのかぼくは知らないが、インターネットが普及したことで承認欲求という単語が注目され始めたのは間違いないだろうな。人々の中にはこういった欲求を剥き出しにすることを嫌悪するらしいんだが、これは実に日本人らしいとぼくは思う。日本人は沈黙に美徳のようなものを持っている……というより、そういう幻想に取り付かれているように見えるんだがキミの意見は?」

 祐子はぽかんとしていたが、すぐに我に返った。だが白河の言葉の波にどう反応していいか分からなかったらしい。

「え、ええ、いやちょっと私には難しい話で……すみません、でも私が自撮り写真をインスタとかツイッターに上げたのは事実です」

 そう告げると、白河は求めていたような答えが返ってこなかったことに落胆したのだろう。その落胆を隠さないまま、低いテンションで口を開いた。

「そうかい。じゃあさっきぼくが言っていた事は大方当たっていると?」

 どこか咎めるような白河の視線に祐子は恥ずかしそうに目を伏せた。

「はい。最初はその、いい人だなーって思ってたんですけど、私が上げる写真とかに何処でいつ撮ったのかとか、そういうことを聞くようになってきて……最近になってからは何処に住んでいるのかとか、会いたいとか、言われ始めて何だか怖くなって。アカウント変えてもすぐに見つかっちゃうんです。どうやって探してるのか分からなくて、本当に、いつか殺されちゃうんじゃないかって……」

 ぎゅっと手を握って震える祐子の肩を愛はさする。

 しかし、

「なるほど。それじゃあぼくは力になれないな」

 さらりと白河はそう言うと、それじゃあお帰り下さいご足労頂きありがとうございました、と言わんばかりにひらひらと手を振る。

 愛はそんな白河の、あまりにもつれない態度に思わず声を上げた。

「どうしてですか? 探偵事務所ってストーカー対策もしてくれるんじゃないんですか? というか、そういった謳い文句を掲げてるじゃないですかウチも!」

 この白河探偵事務所だってストーカーを一度、警察に突き出したことがある。愛は入社してまだ日が浅いが、白河が早々にそんな仕事をやってのけたのをこの目で見たのである。

 けれど白河の意見は変わらなかった。

「お帰り頂く理由はシンプルだ。そういったサイバー犯罪関連に特化した従業員がウチにはいないからだ。以上。他の大手探偵事務所をあたるといい。そこでなら解決できるかもしれない。それとツイッターもインスタグラムも、アカウントを変えるなんて馬鹿みたいな事をしていないでさっさとやめたまえ。もう手遅れのところまで来ているが、これ以上ストーカーに情報をくれてやることもない。そもそもぼくは疑問なんだが、どうして不特定多数が見ている場所に自分の顔をさらすことができるんだ。自分から犯罪者の手を引いているだけじゃないか。もちろん顔出しによって成り立つアイドルなんかは宣伝のために仕方ないのかもしれないが、そうでもない一般人がどうしてそんなことをする? 身内だけで楽しんでいるつもりなのかもしれないが、身内以外にも見られていることに気付かないものかね。やっぱりフロイトの言う自己破壊本能が働いているのか? 死に惹かれる気持ちは多少なり理解できるが、満足感を得る為だけに自ら死を引き寄せようとするのは全く理解できないな。自殺志願者ならまだしも」

 白河は呆れたように煙草をふかしている。完全に嫌なヤツなのだが、白河の言っていることは愛にも理解できた。今やインターネットは殺人者や犯罪者にとっては、恰好の画像付の選別リストだ。だが、だからといってここで引き下がられては困る。

「確かにその、大手探偵事務所に依頼すれば良いかもしれませんが、私は白河さんに御願いしたいんです。白河さんなら、祐子を必ず守ってくれると思って」

 食い下がる愛に、白河はきっぱりと言い返す。

「無理だ。ぼくはこの通り片足も不自由だし、左腕は義手だ。体格だって良くはない。そんな男がストーカー男を撃退できると思うかい? それだったら岩垣善男という男を紹介しよう。あの正義感に満ちあふれたデカブツなら何とかしてくれるかもしれない。出世しているのか警察でもそれなりの地位にいるようだしね。幼馴染みとして鼻が高いよ」

 そんな胡散臭いことを言うと白河はスマートフォンを取り出して連絡を取り始めた。電話は何度かのコールのあと繋がったらしく、白河は明るい調子で話を切り出した。

「やぁ善男。元気かい? ちゃんと今日も働いているかい? ああ、切らないでくれ。今回はキミに頼みたいことがあってね。いや、違う。真面目な話さ。だから少しだけ話を聞いて欲しいんだが――え? なんだって?」

 明るかった白河の表情が曇る。吸っていた煙草を灰皿に押しつけて消した。その表情は真剣なものになっており、琥珀色の瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。

「……なるほど。今度も手口は同じか……なるほど、そうか、分かった。ぼくの事務所で今夜十時に落ち合うことはできるかい? そのほうがいい」

 それじゃあと言って白河は電話を切ると、難しい表情を浮かべた。その鋭利な雰囲気に気圧され、声をかけることも躊躇っていると、白河が立ち上がった。そして今気付いたというように祐子と愛を見下ろすと、冷徹な声で言い放った。

「悪いがキミたちに構っている暇はない。帰ってもらおう。ああ、新人。キミもだ」

 そう口早に言うと白河はぐるりと事務所を見渡して声を発した。

「すまないが今日はもう事務所を閉める。皆、帰ってくれ。ぼく一人で考えたい」

 その声を聞いた他の事務所の面々は、すぐに得心したように帰り支度を始める。もしかしてこんなこともしょっちゅうなのだろうか。誰一人文句を言うことなく、「お疲れ様でした~」と次々と事務所を立ち去っていった。

「ほら、キミたちも出て行った出て行った。今日はもう終いだ」

 そうやって白河に愛と祐子も追い出されるような形で事務所の外へと追いやられてしまった。十月下旬の空気は冷たく、二人は呆然としたまま寒い秋の風を受けていた。

「い、一体なんなの、あのひと……」

 祐子が信じられないという気持ちと、全く理解できないという気持ちを込めて言う。その祐子の気持ちはよく理解できた。白河のような経営者が本当にいていいのだろうか。いや、実際にいるのだからいていいのだろう。

「すっごいイケメンというか美人かと思ったら私の悩んでいること、こっちが何も言わなくても当ててくるし……かと思えば急に出て行けとか」

「ごめんね、祐子。白河さんってああいう人なんだよね……連れてきたの、間違いだったかな?」

 愛が申し訳なさそうに謝れば、祐子は「そんなことない!」と予想外にも声を弾ませた。

「依頼は引き受けてくれなかったけど、粘り強く会いに行ったらイケそうな感じじゃない? それにあんな頭の良い美形に守られるってサイコーじゃん」

「祐子……ストーカーに狙われてるかもなんだよ?」

「だからこそこの乾いた心にはオアシスが必要なの~目の保養ってヤツ?」

 分かってよ、というように口を尖らせる祐子に愛は苦笑する。気持は分からなくもない。

「それよりさ、一体何の電話だったんだろうね?」

 共に歩き始めると祐子が思い出したように言う。

「さあ……なんだろう。あの人、色々と忙しいみたいだから」

 よくわからないけど、と付け足す。祐子は「そうかあ」と納得したみたいに言っていたが、本当は愛には岩垣から白河がどんな連絡を受けたのか、おおかた予想がついていた。

 ――死んだのだ。また新たに。

 愛は寒空の下で一旦立ち止まり、白河探偵事務所を振り返った。さて、白河はどうするつもりなのだろう。何をあの明晰な頭脳で考えるのだろう。あの琥珀色の瞳を思い出して、どくん、と胸が高鳴る。本当は岩垣とどんな会話をするか、それが気になったが、愛は祐子と仕方なく帰路につくしかなかった。



* * *



 夜の十時きっかりに岩垣は白河探偵事務所を訪れた。二階の事務所の扉を開くと、案の定というべきか予想通りというべきか。岩垣が渡した資料や本が床のあちらこちらに散らばっていた。それを一つ一つ拾い上げてやろうとしたところで、奥の席についていた白河が――厳密に言うと机に長い脚を載せて、眼を瞑っていた美しい顔が、音に反応して目覚めた。繊細な睫毛が震え、開くと琥珀色の不思議な色合いをした瞳が、岩垣を捉える。

「ああ……来たね」

 その声には珍しく疲労が滲んでいる。ずっと此処で思案の海に潜っていたのだろう。

「来たね、じゃねぇ。この散らかしようは一体何なんだ」

 遺体の写真までおおっぴらに置いてあるのを見て、岩垣が声を上げれば、白河は臍を曲げたみたいに唇をへの字に曲げた。

「心外だね。というより、散らかっているようにはキミには見えたのか。まあそれならそれでいい。けれど一応ぼくなりの秩序がここにはあるから、甲斐甲斐しく片付けなくてもいい。むしろ動かさないでくれたまえ。折角秩序が生まれ始めてきたというのに、また無秩序になってしまう」

 そう言われてしまえば仕方在るまい。岩垣は拾いかけた遺体の写真をその場に戻した。

「へーへー。それよりてめぇ、また何も食ってねぇんじゃねーか?」

「ブドウ糖を摂ったから思考能力には問題ないよ。それより早く例のものをくれたまえ」

 高圧的とも取れる言葉だったがこれが白河希という人間の通常運転なので、岩垣は「ほらよ」と捜査資料の写しを手渡した。

 白河は右手でそれをさっと受け取ると、すぐさま目を通し始めた。その速度は速く、あっと言う間に白河は最後のページまで読み切ると、ステッキを持っておもむろに立ち上がった。そして今岩垣が渡したばかりの捜査資料を種を蒔くように床に置いていく。

 ぱっと見岩垣には無秩序的に置かれているようにしか思えなかったが、白河は床に置かれている資料を見渡し、振り返った。

「電話で話していた、四人目の被害者は男性のことだが、ちゃんと腹はきれいに裂かれていたのか? 四方に皮膚をめくられ、翅を広げた蝶みたいに」

「ああ、何もかも手口はこれまでと一緒だ。皮膚にはきちんと固定するみてぇに釘打ちもされていた。ただ場所だけが違う。自宅じゃなくラブホテルだ」

「ラブホテルということは加害者は女性か?」

 言われると思った事について、岩垣は苦々しく顔を歪めた。

「いや……どうやらその可能性は半々だ」

「……? ああ、なるほど。もしかして被害者はバイセクシャルだったのかい?」

「そうだ、てめーの言う通り被害者の男性はバイセクシャルだった。裏は取れている。男も女もいけるクチで、しかもホテルは自動受付。監視カメラもチェックしたが、丁度被害者の陰になって身長がどの程度か分からない。少なくとも被害者よりは低いってことは分かるが、被害者の身長は180センチ。なかなかの高身長だ」

「なるほど。それだったらぼくも隠れてしまうだろうね。つまりラブホテルで被害者が男性であっても、犯人が男か女か絞りきれないということか」

「そうなるな。身長180センチ以下の、普通か細身の男女が対象になる。収穫といえば小さいなりに収穫ではあるが……それよりも困ったことは」

「現場に第三の被害者である清水ゆかりの同居人もとい恋人の、村上信五の毛髪が発見されたということかい?」

 渡した捜査資料に書かれていたことを、そのまま白河は口にする。岩垣は首肯した。

「ああ。今、村上は取り調べを受けているが、容疑を否認している。だが清水ゆかりとは同棲していたものの、別れたいと清水は友人たちに相談していたらしい。村上信五は元々、清水ゆかりに対してDVじみたこともしていたとか証言していた。なぁ希。村上信五みてえな暴力的な男が、今回みたいな酷い殺人を起こしたんじゃあねぇか?」

 そうしたら警察としては万々歳である。物的証拠があるというのは強く、村上信五には事件当日のアリバイがどれもない。被害者が四人まで増えてしまったことは刑事として悔恨の念を抱くが、それでもこれ以上被害者は増えない。どうかそうであってくれと岩垣は内心願ったが、その願いを白河はあっさりと、粉々に砕いた。

「彼は違うよ」

 白河は右手で煙草を取り出し、唇に咥える。岩垣は思わず声を上げる。

「何?」

「だから村上信五はシロ。どう考えても彼じゃない」

 火を付けてジリと焼ける音が聞こえた。白河はすうと煙を吸い込んで、ふう、と吐き出す。断定形でそう言ってのけた白河に、岩垣は濃い眉を寄せた。

「何でそう言い切れるんだよ。現場には村上信五の毛髪が見つかっているんだぞ。暴力的な男だったとも清水ゆかりの友人たちからの証言を得ている」

 ふう、と溜め息と一緒に煙が吐き出された。

 そして、

「バカかキミは」

 ぴしゃりと白河はそう言うと、ウイスキーの瓶をとった。

 冷蔵庫から氷を出してグラスに入れ、ウイスキーを注ぐ。からんと氷が鳴り、それを白河は問答無用で岩垣へと突き出した。呑めということなのだろう。無言でこうやって勧めてくるときに突っぱねると厄介になることを岩垣はよく知っているので、仕方なく受け取った。

 白河は大きく一口、ウイスキーを呷り嚥下すると、一気にまくしたてた。

「善男。キミは先日のぼくの似非プロファイリング講座をちゃんと聴いていたのかい? DVだか何だか知らないが、そんな感情的になる暴力男がここまで巧妙な連続殺人なんてできるわけないがないじゃないか。いいかい? この犯人はどう考えても秩序型だ。大体毛髪が落ちていたって言うが、報告書にある毛髪なんて清水ゆかりを殺害した現場で真犯人が拾ってきたものに決まっているじゃないか」

 その言い分に納得しかけたが、岩垣はすぐに反論を唱えた。

「待てよ。そう言うが、清水ゆかりが髪の毛が一本も落ちてねぇくらい綺麗にしていた可能性だってあるじゃねぇか。潔癖症、っていうのか? そういうヤツだった可能性だってあるだろ?」

「その可能性も否定できないがね。けれど清水ゆかりはそういった几帳面なタイプじゃない。これを見れば分かる」

 そう言うと白河は床に落ちていた写真を一枚拾った。それは清水ゆかりの遺体写真のうちの一枚だった。白河は黙ったままそれを岩垣へと渡した。受け取った岩垣は「ううむ」とうなり声を上げてしまった。何度見ても慣れない。

 写真に映っていたのは清水ゆかりの遺体を上から撮った写真だった。その腹は切り開かれ、長い黒髪は扇状に広がっている。その白い肢体と赤黒い血のコントラストが生々しく、写真を見ただけでも実際現場で見てきた記憶が蘇ってくる。だが、これを見てなぜ、清水ゆかりが几帳面な性格じゃないと分かるのか。岩垣が渋面を作っていると、

「善男。まずは爪を見るといい」

「爪?」

 助言されてじっと目を凝らして爪を見ると、ピンク色の愛らしいマニキュアが塗られている。だが、これが一体どう繋がってくるのか。分からない。

 そんな岩垣の気持ちを察したのように白河が違う写真を手に取って渡してくる。

「すまない。こちらの方が分かりやすかったね。こっちならキミでも分かるだろう?」

 そう言って渡された写真は、結束バンドで拘束され鬱血した手首と手だった。その手は女性らしくやはりピンクのマニキュアが塗られていて、鬱血した肌には不釣り合いだった。

 だがやはりこれが何だというのか。

 分からないというように白河を見遣ると、白河はやれやれと溜め息を吐き出した。

「しっかりと見てみるといい。ご覧、爪の手入れが疎かだ。確かにマニキュアは塗ってあるが、地の爪が見えているくらい伸びているのに、塗り直していない。面倒くさがりか、爪の手入れまでも行き届かないくらい忙しかったかのどちらかだ。そして遺体以外にも目を向けてみろ。さっきの全身写真の方に写っているが、写真の中にある観葉植物は枯れかけているし、窓も窓拭きされていないのか汚れたままだ。明らかに清水ゆかりは几帳面なタイプではないか、若しくは掃除をゆっくりできるほど忙しかったかのどちらかだ。ちなみに人間は一日で平均百本程度の抜け毛があっても不思議じゃないという。だとしたら同居していた村上信五の毛髪も勿論落ちていることになる。だが二人分の毛髪を区別する方法は? これなら善男。直接村上信五を見たキミでも簡単だろう?」

 頭の中に村上信五を思い浮かべ、岩垣は頷いた。

「ああ、確かに判別できるな。村上信五の髪の毛は明るい茶髪だ」

 その答えに白河は満足したように「よろしい」と頷いた。

「そう、対する清水ゆかりは黒髪。村上信五の写真を見たけれど、殆ど金髪に近い茶髪だった。それなら採取するのも簡単だ。間違って清水ゆかりの髪を拾うこともないし、村上信五は短髪だ。髪の毛の短さでも判断できる」

「それじゃあ犯人が持ち去って利用したってわけか」

「すぐにこんなことは警察も気付くだろうけど、おそらく犯人は楽しんでいるんだろうね。捜査の攪乱を面白がっている。だが日本の警察もそこまでバカじゃない。村上信五の足取りを追えば、それなりの成果は得られるかもしれない――なんて言いたいところだがね」

 白河がそこで溜め息を漏らす。

「結局、犯人には辿り着かないと思うよ、ぼくは」

「あ? 何でだよ。つまりお前は迷宮入りするとでも言いたいのか?」

「失礼。言葉が足りなかったね。今は、辿り着かないと思う。警察はね」

 ならばお前なら辿り着くというのか、と言う罵倒は、呑込んだ。もしかしたら白河はとうに辿り着いているか、辿り着きつつあるのかもしれない。けれどこの白河希という男は百パーセント確実でないと疑うことをやめない。思い込みで突っ走ってしまうと、もう何も周りが見えなくなってしまうのを白河は痛いほど分かっているからだ。

「そういえば善男。新しい被害者、加原亮一郎の髪の色は何色だった?」

 問いに岩垣は我に返ったあと、渋面を浮かべた。

「また髪の色か? 何でそこに拘る?」

「言っただろう? ぼくらは犯人についてよりも被害者についての情報を多く持っている。ならば未だに分からない犯人が求めてやまない被害者像をぼくたちで作り上げるんだ。そうすることによって、犯人の気持ちになることができる。この眼を通さずとも犯人の心を知る術はいくらでもあるんだ」

 そう言った白河は視線を伏せる。その琥珀色の瞳に哀しみの色が揺らいだのは、白河が過去のあやまちを思い出しているからだろう。岩垣もそれを知っている。知っているからこそ、気付かないふりをして、白河の問いに淡々と答えた。

「被害者の加原亮一郎の髪の色は黒だった」

「やはり黒か」

 白河が瞳を瞬かせる。きらりと光る瞳。そこにはもう哀しみの色はなかった。岩垣はソファに腰掛け持っていたウイスキーを一口、呷ってから口を開いた。

「だが希。今お前が考えていることは俺にだって大体分かるが、被害者の髪の色が全員、黒って訳じゃないぜ。二番目の被害者、小林悠は金髪だった」

「そこがおかしいんだ」

「……というと?」

 岩垣が尋ねると、白河は立ち上がって、二番目の被害者である小林悠の写真と資料をとり、また奥の座席へと戻ってどかっと椅子に腰掛けた。そしてその艶やかな黒髪をくしゃりと握り込むと、仏頂面でぶつぶつと何やら言い始めた。

「小林悠……金髪……性別男……年齢は十七歳。性別には注目しなくていい。年齢も、容姿も犯人の好み通りだ。顔立ちが整っていて……それで身長175センチ、体重六十一キロ、平均より痩せ型……ということは、女性でも不意を突けば後ろから刺すなんて簡単なことだ。だが何故、小林悠だけが金髪なんだ?」

 白河は自問するように呟く。それに対してウイスキーを口にした岩垣が口を挟む。

「やっぱり髪の色は関係ねぇんじゃないか? たまたま黒髪が続いた。んでもって、たまたま小林悠が金髪だった。それでいいじゃねぇか」

 ぎろりと鋭く白河が岩垣を睨み付け「ちっとも良くない!」と声を上げた。

「考えてみろよ、善男。仮にだ、キミが殺人犯だったとしよう。そしてキミは男女については関係なく殺すが、年齢は十代後半から三十代前半の端正な顔立ちをした人間をターゲットに選ぶ。ああ、そうそう。以前言っただろう? 不細工な事務員と美人な事務員だったら後者を選ぶだろうって。その通り、殺人犯のキミは美しい被害者を選んだ。選んだからこそ、その時点でキミはこだわりを持つ殺人犯だということが分かる。手口も一貫して変わらないということもその証左さ。確かにキミの言う通り、偶然黒髪と金髪だったという可能性もある。それは否定できない。けれどぼくがこの犯人だったら、こんな気持ち悪い殺しは許せない。許せないのに……何故、金髪である小林悠もこの殺し方で殺した?」

「オイオイ、何言ってんのかわかんねぇが、どうして小林悠を例の殺し方で殺しちゃ駄目だったんだよ? いつもの話だが、お前おかしいぞ?」

 岩垣がそう言うも、白河は全く耳に入っていないようだった。

「おかしいんだ。仮に犯人が黒髪にこだわっているとしたら、金髪である小林悠はあの殺し方で殺される必要なんてなかったんだ……いや、善男。キミの言う通り本当に犯人と髪の色は関係がないのかもしれないな。そう考える方が、楽だ。だがぼくは楽をしてはいけない。ぼくは、遺族である彼女たちから依頼をされたのだから。もっと、もっと深くに潜る必要がある……だがそうするにはどうしたらいい……?」

 そう言いながら白河は長い睫毛を伏せ、瞳を閉じる。

 その力を持った眼が閉じられると、まるで眠っているというより死んでいるように見えるほど、奇妙な静けさが白河を包む。それこそ蚕の繭のように。端正な顔は白く、微かに血の気が通って色づく唇は、艶やかな白河の黒髪によく映えた。昔からそうだ。考え込みたい時はこうやって岩垣を呼び出して、結局ひとり置き去りにする。

 そのくせ、

「善男。今日は泊まっていけ。なにせ今のぼくは無防備だ」

 なんて勝手なことを言うのだ。端的に言えばボディーガードになれということだ。

 それを断ることができない自分は、やはりこの奇天烈な幼馴染みを甘やかし過ぎているのだろう。だが、岩垣も帰ったところで待つ人はいない。別れてしまった彼女はもう戻らない。けれど生きているだけで、いいのかもしれない。岩垣はぐっと拳を握る。

 犯人がどのような人間なのか。白河にとってはそれが大事だが、岩垣にとっては捕まえられさえすれば、そんなのどうだっていい。ただ被害者と遺族と、同じほどの痛みを負って欲しいとは思っている。だがそうなることは、殆どと言ってない。

 だから正しく罰して欲しいと思う反面で――壊れてしまえ、と思うのだ。

 死刑よりも残忍に、冷酷に、殺人鬼を壊し続けて欲しいと思ってしまったのだ。

 そしてそれを執行するのは白河だ。

 だから岩垣は時折、自分を嫌悪する。まともそうな皮を被った、自分の残虐性に。



* * *



 男を狩るほうが、女を狩るよりも簡単なのかもしれない。

 何故なら男の方が性欲というものに忠実だからだ。女だと、なかなかこううまくはいかない。狩り方を変えてみたが、これはこれでありなのかもしれないと思った。場所はどこだっていいのだ。大事なのは人間。すがたかたち。そして殺し方。それが重要だった。

 自分にとって何故、これほどこの殺し方や獲物のかたちが重要なのか。考えてみたが、やはり幼い頃の環境や出来事が自分をそう作り上げたのだと思った。どうだっていいことかもしれないけれど、それは大事なことだった。

 黒髪の男はベッドの上に転がっている。見目の良い、爽やかな男だ。腹の皮は蝶の翅のようにべろりと切り広げられ、ネイルガンで釘打ちした。きれいだ、と呟く。

 美しい男の腹で赤い翅を広げている、美しい蝶。濃いピンク色の臓器は見ているだけで愛おしく、できることなら貪りつきたいくらいに深くキスをしたかった。想像しただけで涎がじゅるりと口の奥から溢れた。腰が重く疼いた。食欲と性欲は似ているのかもしれない。でも決して自分は、食べたいわけではない。屍姦したいわけでもない。これをただただ愛しているのだ。脳裏に浮かぶのは美しい黒髪。懐かしい情景。

 果たして自分は産まれる前からずっとこうだったのだろうか。それとも産まれてからこうなったのだろうか。考えてみることは何度もあった。周りの人間と自分は違うと気付いたのは、友人たちと集まってスプラッタ映画を見ている時だった。気持ち悪い、もう見たくない、と痛々しい表情で言う友人達を尻目に、どうしてだろうと思った。どうして自分はこんなにドキドキしているのだろう。興奮しているのだろう。下半身が熱くなるのを感じて、最初は戸惑った。けれど他の人達が性的に興奮するというアダルトビデオを見て確信した。アダルトビデオには全く興奮しないのに、死体や死にかけの人間に酷く興奮する自分を見つけてしまった。同時にまだセックスも何も知らない幼い頃に感じたあの高揚は、絶頂に近いものだったのだと。だから、幼いころの「あれ」がなかったら今、この世界に自分という連続殺人鬼は存在しなかっただろう。ベッドに腰掛けて夢想し、回帰する。

 この男を解剖する瞬間のことを反芻するように、何度も何度も頭で繰り返す。

 その度に脳がじんと痺れて全身が細波立ち、たまらない気持ちになる。ただ刺すという行為には足りない。やわらかな素肌に刃を入れ、切り開く時が、一番ゾクゾクして、その皮膚を四方にベリベリと広げる瞬間は、絶頂よりも鋭く重い快楽を得るのだ。

 次はいつ殺せるのだろう、いつ、解剖できるのだろう。

 それを思うと未来は明るく、光り輝いているように思えた。

 その光に群がる蝶を、自分は摘み取るのだ。




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