理不尽

三津凛

第1話

春江が夕飯を炊く音がする。

今日は脂ののった鯖を魚屋から安く仕入れてきたと得意げだった。鯖を炙るいい匂いが漂ってきた。ぱちぱちと炭の上で鯖の脂が跳ねる。わたしは春江の出す飯の音に耳を澄ませる。腹の空き具合がむしろ心地よい。

飯を炊きながら、味噌汁もこさえているようだ。鍋の中で湯の沸く音がする。泡の潰れる音がする。春江が忙しく厨を立ち回る。

オルガニストがペダルを巧みに繰るようだ。

味噌をたまじゃくしで濾して、豆腐を掌の上に乗せて包丁を刺し入れる。冷たい豆腐は今しがた溶けたばかりの味噌の中で途端に温められるだろう。

わたしは夕刊の乾いた感触に、指を舐めた。それから、退屈な紙面を眺めた。

「また首相が変わるそうだね」

半分は独り言で、わたしは春江に言った。

春江は野菜を刻みながら、「へえ?」と調子を合わせる。飯の炊ける音がして、春江は鍋にかけた瓦斯を止めた。

わたしはいい気分で、煙草に火をつけた。

貰い物だが、なかなか上等なもので胸いっぱいにまず吸う。吐き出された煙は橙色の電灯の中で獣のように膨れていく。

わたしは畳に寝そべって、春江の忙しく動く尻を眺めた。春江は肉の薄い体をしている。顎は幼さを感じるほど、骨っぽい。そのくせ腰から下はゆったりとふくよかである。顔はどこにでもいるような一重の特徴のない顔立ちである。わたしは親の勧められるままに春江と結婚したが、それは間違いでなかったと思う。春江はよく働き、よく尽くす。

わたしはむらむらと男が立ち昇るのを感じた。

日に灼けてささくれた畳が、わたしを咎めるようにちくちくと刺す。夕刊をめくりながら、ちらちら春江を見た。

春江が不意にこちらを見る。それから、思い出したように呟いた。

「あら、大根おろしが作れないわ……」

わたしは首をあげた。

「それはいけないね」

「えぇ、いけないわ」

野良猫が往来をゆく人々を不躾に眺めるように、春江はわたしをじいっと、見た。

「味噌汁はできたかい」

「いいえ、あと鯖もまだですわ」

「それはいけないね。僕は厨に立てないからね」

春江は笑った。

わたしも笑った。

「大根は買ってこよう。ついでにつまみも買わなきゃあ、ないだろう」

「あら、そうね」

春江は含み笑いをした。

「どれ、僕が買ってこよう。お前はなにか他にもいるかい?」

「いいえ、なんにも」

わたしは起き上がって、懐に財布を入れた。思ったよりもそれが重くて、春江の用意の良さにわたしは少し訝しく思った。

「では、お気をつけて……」

春江は玄関までわざわざわたしを見送った。煙草を一つ、ふかしながらわたしは玄関を出た。春江の方は振り返らなかった。



大根を買って帰れば、脂の乗った鯖が食えるのにわたしは自然と涎が出てきた。煙草の灰が、水溜りの中に落ちてそれを灰色に染めた。

顔馴染みの八百屋で良い大根を購い、その帰りにわたしは肉屋で出来立てのコロッケを余分に買った。そのうちの一つを別に包んでもらい、食いながら家路へ向かった。

刻は折しも黄昏時である。子ども達が家へ急ぎ、泥濘みを乱暴に乱していく。着物の裾が泥に塗れるのも構わない。それから郵便局員が自転車で遮二無二駆けていく。勤め人が連れ立って飲み屋の暖簾をくぐって、騒ぎ出す。

肋の浮く野良が焼き鳥のお目こぼしを狙って、甘く鳴く。路地裏には一目で売春婦と分かる何人かの女が立ち、街は夜に向かって走り出す。

わたしはその最中を、残り少なくなった煙草を喫みながらコロッケをかじった。

安いパン粉はすぐ油のために柔くなる。くず肉ばかりのコロッケを飲み込んで、わたしは春江が夕飯を炊く家まで急いで帰った。



だがわたしが帰った家は、全く他人の家になっていた。見慣れない4人家族がそこにいた。

春江は跡形もなくなっていた。

「わたくしどもは、ずうっとここに住んでおりますが」

家の主人はそう言って、困った顔をした。わたしは残りのなくなった煙草を吐き捨てて、家へと上がり込んだ。

炊きたての飯がそこにあったはずである。味噌汁がそこにあったはずである。脂の乗った鯖が焼かれていたはずである。そして、忙しく働く春江がいたはずである。

だが、厨には誰もいない。

この家族は今日祝いがあるのか、寿司の出前を取っている。艶々した光物の光沢が、わたしを嘲笑うようだ。醤油皿に広がった黒光りのする小さな湖が、悪意のようである。揃えられた割り箸と、茶碗蒸しが鼻につく。それはそのまま、この家族の揺るぎのない歴史と、祝いを誇示しているようであったからだ。

わたしは途端に自分の抱えるコロッケの安っぽさに嫌気がさした。

「あのう、なにか勘違いをしていらっしゃるのでは……。この辺は番地がひどく複雑でございますから」

奥方が控えめに言った。その向こうから紺のセーラーを着た顔の端正な女学生が不安そうに眺めている。

家の調度品も、人々もまるで憶えのないものだった。だが、ここは紛れもなくわたしの家であった場所だ。

それなのに、そっくり他人の家になっている。

春江はどこだ。炊きたての夕飯はどこだ。

赤の他人の見知らぬ家族は、いつのまにかわたしのことなどお構いなしに寿司をつまみだした。

春江はどこにもいない。わたしを知る人々もどこにもいない。だがここは間違いなく、わたしの家だった。


誰もわたしに用はなくなって、わたしのことなど構わなくなった。目の前が暗くなり、いつものように夜が来た。

だが春江も、わたしの見知った人々も誰もいない。誰もわたしに用がない。


理不尽だった。

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理不尽 三津凛 @mitsurin12

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