第7話 そして、君は「フラテルニテ」と私に囁いた
曙色の夕暮れが、カラスの鳴き声とともにやって来た。あまりにも衝撃的だった今日を強引に締めくくるために。
果南の家は郊外にある築年数の浅いアパートの一室。一人暮らし用のワンルームで、オレンジと緑を基調とした小奇麗なところだった。果南の部屋は2階だった。
後ろポケットから取り出した鍵をガチャりと。そのまま、私達はなにも話すことなく黙って家の中へと入る。
「おじゃましまーす……」
果南が部屋の電気を付ける。靴をぬぐために足元をみると、きちんとサンダルや革靴、スニーカーがキチンと並べられていた。果南の几帳面さが出てていいと思う。部屋の匂いも混ざりけもなく、清潔感にあふれていた。
「散らかってるけど、入って」
「ここが果南の部屋なんだ……全然、散らかってないと思うんだけど」
茶色のフローリングの上には抜け毛一本なく、とてもつるつるとして綺麗。汚れ一つなく磨かれたガラスの机にはノートPCが一つ。筆記用具もきちんと並べられていた。
中型の液晶テレビの横には、きちんと立てかけられた本棚が並ぶ。私の部屋みたいに横積みしてることもなく、ちゃんとナンバーも揃えて並べているのに感心した。果南の趣味が出てるファッション雑誌以外に、青年誌のマンガもちらほら。
「果南って、百合好きなんだね」
その中には私の知ってる百合マンガも入っていた。アニメ化していたので知っている程度ではあったけど。中身は読んだことはない。けれど、果南の部屋にあるのは不思議では無かった。
「そこのベッドに座って。飲み物取ってくる」
キッチンの方へ行く果南の背中を見ながら、私はベッドに腰を下ろし、ギシっとスプリングをきしませる。
普段、ここで果南が寝てるんだなぁと思う。けど、人間特有の臭いとかはあまりしない。ちゃんと定期的にシーツを洗ったり、布団干したりしてるんだろう。私とは大違いだ。
「麦茶で良かった?」
「うん、大丈夫だよ」
クローバーが描かれたグラスに口をつけ、果南が入れてくれた麦茶をくいっと飲む。ちょうど、体が火照ってたから美味しかった。眼の前にあるガラスデスクにグラスを置く。
先に飲み終えた果南は私の横顔を真剣にじっと見ていて、それに対して何食わぬ顔で振り向いた。
「摩耶、僕になにも聞かないんだね」
「聞いてほしいんだったらいくらでも聞くよ。聞いてほしくないなら聞かない」
「………知ってほしい。本当のことを知って、嫌われたくないけど。知らないままだと、僕たちの関係は冷めてしまう」
「果南のご家族が新興宗教信じてたってことは確かに驚きだったけど、それで嫌いになるわけじゃないよ」
「ありがとう。とりあえず、そのことについてちょっとずつ話す」
しょんぼりとした果南の表情は、いつもの凛としたものとはまったく違う。自分の弱さが嫌みたいだ。
一呼吸入れてから、果南は私にゆっくりと語りだした。
「僕の家は元々、母親がキリスト教を信じてた。共和主義的キリスト教研究会って言ってね、だいぶ古いところ」
「お父さんは信じてたの?」
「いや、父親は無宗教だったし、信仰することはなかった。当時は新興宗教が危険視されてた時代だったけど。ネットがそこまで普及してなかったから、母親が入ってる新興宗教は大丈夫な方だって父親は考えてたみたい。いまじゃ、結構やばいところって有名」
新興宗教も無数にあるから、共和主義的なんちゃらっていうのは私は知らなかった。
でも、宗教が原因で果南の家がかなり複雑な構造をしているのは分かる。
「まだ僕が小学生で、私って言ってた時だったかな。僕は母親の影響で教会に行くことが多くなった。父親も習い事としていいかなと思ってたらしいし、僕も母親と一緒になにかをするのは楽しかった。それは本当」
「無理やりって感じじゃなかったんだ」
「無理やりではなかったし、僕が母親と一緒ならやりたいと思ってやってた。でも、宗教って色々ルールがあって、『左手は悪魔の手だから』って理由で右利きに調整させられたこともあったよ。ずっと、辛い辛いっていいながら、頑張って右手でも文字が書けるようにした。『魔の手から脱するのよ!』って母親以外の大人にも何度も怒られて……本当に辛かった」
それで摩耶は両利きだったんだと改めて知った。はじめての授業で見せてくれたのは、そういう背景があったんだ。
確かに、私のお母さん世代になると、左利きが差別されてた時代が残ってて。右利きに矯正される人たちが珍しくなかったって聞いたことがある。今では左利きは神のギフトだって言う人も居るくらいだけど。
くるくると両手を回して握る果南を私は見つめる。枯れた笑い声がとても私の心に響いた。
「でもね、辛いことばかりじゃなかった。聖書を覚えるのは大変だったけど、ちゃんと暗唱できたら周りからとても褒めてくれるし。僕は頭が良かったから、大人に褒められることも多かった。同い年の子たちと一緒に賛美歌を歌うのも、楽しかった。嫌なこと含めても、楽しいことが勝ってたんだ。うん、悪いことばかりじゃなかったんだ……本当に」
悪いことばかりじゃなかったと、なんどもつぶやく果南。哀愁感のあるその姿に、私は心が痛くなる。
震え始める声を天井に吐きかける果南。まるで、私から顔を隠そうとするみたいに。
「でも、善行を積もうって言いあってる人たちの中にも、悪いやつは沢山いた。自分の権威を盾にして、悪いことをしようってするやつはいるんだ。例えば……訓練と称して、子供を食べようとする悪魔が。僕がちょうど中学生になる辺りかな」
「それって……」
「今でも思い出す……吐き気がするッ!! 僕は他の子よりも出来が良かったし、可愛いから。その教会の一番偉いやつに選ばれて、この体を弄られた、舐められた、キスを奪われた……口にするだけで、気持ち悪いッ!! グゥウ!!」
バンッバンッ! と自分の膝をたたき始め、果南は声を荒げた。フラッシュバックで衝動が収まらないんだ……自分の体を傷つけないと、苦しみが取れないのかもしれない。
私はゆっくりと、果南の背中をさすって抱きしめた。猫背になったその背中は熱を帯びていて、呼吸も荒く震えている。
「何度も何度も、そのクソデブ野郎に呼ばれてセクハラされて。嫌だ嫌だって言っても殴られて怒られて。母親にも嫌だって言ったんだよ。でも、あいつなんて言ったと思う?」
「………分からない」
「『大司教様はあなたのためにやってくださってるのよ!! そんなのも分からないの!?』って……絶望するしかなかった」
「酷いね」
「あいつは母親じゃない。母親であるもんか。そのせいで、父親にも言えなかった。また否定されたら、両親ともに敵になるのがとっても怖かった。なら、自分が我慢すればそれでいいんだって。自分が悪いんだって思い込んだ」
絶望したんだと。絶望してしまったからこそ、果南は人間を信じづらくなってしまったんだ。自分の親にも信じてもらえず、だれも味方がいないんじゃないかって思い込んでしまったんだね。摩耶は賢いから、気づいてしまったんだ。
ワナワナと震える果南の目尻には、小さな涙が溜まっていた。ワナワナと肩は震え、呼吸は途切れ途切れ。嫌なことを、無理やり思い出して私に投げかけようと必死なんだ。
「でも、そのなかでも助けてくれる人がいた。宗教を信じている人の中には、本当に戒律を真面目に守るような優しい人が居て。僕がクソデブに何されてるかを気づいてくれて、すぐに止めてくれたんだ」
宗教を信じてる人って、ただ盲目に信じてるだけじゃなくて。ちゃんと清く正しく生きようって、真面目な信者さんもいるのもおかしくはないのか。なるほど……そういう人に摩耶は助けてもらったんだね。
「僕を助けてくれたその人もまた、クソデブと同じ背格好のおっさんだったんだけどね」
「その人がフラテルニテを教えてくれた人……」
「うん、だから僕は人間そのものに絶望しなくてよかったんだ。でも、未だに男は嫌い。特に、おっさんは死ぬほど嫌い。加齢臭が鼻につくだけで吐き気がする」
少しだけ顔色を取り戻した果南に私は小さく微笑む。果南もちょっとだけ肩の荷が下りたのか、表情が和らいだ。
「摩耶の匂い、いっぱい嗅がせてよ」
「え、ちょ!? うわぁ!!」
ガバって、果南が抱きついてきた! そのまま、ベッドに腰を打ち付け、マットの柔らかい感触を身に受ける。
仰向けになった私に対して、ぎゅっと果南が抱きついてきた。そのまま、鼻先で私の耳元をすんすんと鳴らして、荒っぽく嗅いできた。
「やっぱり、女の子の匂いがいい」
「ちょっと、果南! やりすぎだって……」
鼻先で私の髪をかき分けて、すぅーって深呼吸されるのはめちゃくちゃ恥ずかしい……でも、とても落ち着いてるのは分かる。私の匂いで、というのはかなり恥ずかしいけれど。
汗ばんでいるのか、果南の頭からもふんわりとフェロモンの匂いがする。すこし、クラっとするような、ちょっと刺激的な女の子の匂いだった。
「僕を助けてくれたのは、僕がとっても良い子で周りにも気を配れる優しい子だったからだよって教えてくれた。人にやさしくしていれば、きっと困ったときには誰かが助けてくれる。フラテルニテ、友愛の精神があれば、友情を持った誰かが犠牲を厭わず救ってくれるんだよって。僕はそれをいつも大事にして生きてきたつもり」
「動物園でも言ってたやつだよね……私は果南を助けてあげることが出来たのかな?」
「うん……優しくするってことは、種をまく事と一緒。産めよ育てよって。僕の心の庭に、赤いヒナゲシの花壇を作ってきた。勇気を出して、誰かに優しくなれるようにがんばってきたつもりだよ」
「ヒナゲシ? 虞美人草だったっけ」
「ヒナゲシはフラテルニテの花なんだ。フランス国旗の赤もフラテルニテ。私だった頃の小さい自分はもう死んでいて、埋められた死体から赤いヒナゲシが沢山咲いてくれるような生き方を心がけてきた」
昔の弱い自分と決別して、強い自分に果南はなろうとした。だから、僕と自分のことを呼称しているのか。少なくとも、ひ弱な女の子のままではいられない事情があったからだ。
果南が私を助けてくれたのは、フラテルニテを自分のこの手で得ようとしたからなのかもしれない。昔と同じようにひどい目にあいかけた私を救ったのは、果南の勇気だったんだ。
「あの後、父親は僕がなにをされてきたかを知って、母親と大喧嘩になった。本当は僕のことが大事だったんだって、疑心暗鬼だった自分がバカみたい。あの宗教と僕は縁を切ったけど、母親とは縁を切ることは出来なかった」
「それは……」
「もし、離婚したら母親に親権が移る可能性がある。だから、父親は母親と離婚できなかったし、宗教上の理由で母親は絶対に離婚したくなかった。だから、母親は相変わらずのカルト信者で、父親は僕のために仮の夫婦を続けていて。僕はその蚊帳の外にいたってわけ」
ぎゅっと、私の両手首を握りしめ、果南は耳元で小さく呻く。小さく嘆息し、体をこすり合わせてきた。
私はそれに対して、何も出来ず。ただじっと、私の足に絡ませてくる果南の太ももの感触を覚えた。
「それから、僕は私立の女子校に通うことになったんだ。だって、男なんて信じられないし、父親の方も理解してくれた。その父親さえ、僕は男だから信用できなかったけど」
「男嫌いって大変だね……」
「大学は共学のところに行ったほうがいいって父親から言われたんだ。ずっと、男を避けて生きていくわけにも行かないし。だから、大学生からは一人暮らしをすることにしたんだ」
「もしかして、実家って大学から近いの?」
「うん。だから、あいつと当たるとは思わなかったけどね」
「なるほど、そうなんだ………」
意外にも果南が私と同じ地域に住んでいたことを初めて知った。小さい時にどこかで会ったりしてたのかな。
「ねえ、摩耶は僕がレズビアンだって知ってる?」
「………知ってた」
わからないほうが鈍感すぎるというか。
安心したのか、果南は私に覆いかぶさり、お互いに胸を重ねた。豊満なおっぱいが、私の小さな胸で潰れる。
「消去法だよね。男が無理なら、女の子を好きになるしか無い。多分、体がそうやって性欲を満たそうとしたんだと思う。女子校だったし、そういうのも悪くないかもって」
「あの。女子校で、彼女を作ったことはあるの?」
「……ない。言えなかった」
「自分が、同性愛者だからってことかな」
「否定されたら嫌だったし、自分の生い立ちを知られたくなかった。僕は昔、悪い男にレイプまがいの事をされて、汚れてるってことも言いたくなかった。噂されて惨めな目に会うのも嫌だったから」
今ならまだ同性愛について一般的にも受け入れられるような下地があるけど、それでもまだ厳しい。私は同性愛者じゃないから、どれだけそれを隠すのが大変だったのかは想像だにしない。
でも、果南のおどおどとした表情を見ればすぐにわかった。果南はボーイッシュに振る舞うけれど、恋をするのがまだ怖いんだ。人を信頼するのがとても怖かったんだ。
「果南と最初に会った時、僕は一目惚れしたんだ」
「そうだったんだ……」
「私よりも小さくてか弱くて、それでもまっすぐ優しく生きてこれたんだなって。嫉妬もあったけど、憧れさえ抱いてた」
「ありがとう。私はべつに特別な生き方はしてないし、個性もない人間だけど。果南にそう思ってくれたなら嬉しい」
上半身を起こした果南は私の顔を見下ろす。涙でぐしょぐしょになったその顔はとても美しかった。
「摩耶は、宗教を信じる人は神様を信じるからだと思う?」
「違うの?」
「その宗教を信じる人を信じられるから、宗教を信仰できる。あの人がそう言うんだから、信じようって。そういう積み重ねが宗教なんだよ。僕は摩耶のことを、信じてる。摩耶のことを信じてるから、フラテルニテの存在を確かめられた。僕を救ってくれる、愛してくれる大事な人を信じることが出来るようになったんだ」
「そっか………」
「僕の、僕の恋人になってよ……摩耶」
今日この時、私は果南の本心を知ることになった。いや、知らしめられた。知ることが出来た。
私はゆっくりと、今まで思ってきたことを告白しよう。
「私は同性愛者じゃないからそれは無理だよ。でも、私は果南のお母さんの代りにならなれるのかも」
「お母さん……」
ずっと喋ってきたからわかってる。果南が本当に欲しいのは、恋人として愛してくれる人ではなく、母親として愛してくれる人だと。
「私の摩耶って名前、ブッダのお母さんの名前なんだって。だから、それでわかったんだ。果南は、果南を大事にしてくれるお母さんが欲しかったんだって。さっきの話を聞いて、理解したよ」
「お母さん……」
「ぎゅーって抱きしめてほしかったんでしょ? それくらいなら出来るから。私だって果南のこと好きだし、それくらいの友情というか、友愛というか。隣の人を愛する、隣人愛っていうのはしてあげられるよ」
「じゃあ、いっぱい甘えていいの?」
「うん、いっぱい甘えてよ。あ、エッチなことはだめだからね」
私は果南の腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめて頬ずりをしてあげる。いいこいいこって、頭を撫でてあげると、果南は嗚咽混じりにひくひくと泣き出した。
「お母さん、お母さん!」
「今まで頑張ったね、果南。偉い、偉い」
「うぅ、ううううう!!! 僕、僕いっぱい頑張ったんだ。これまで、ずっと頑張ってきたんだ!」
「果南ががんばり屋だったって、私も知ってるから」
クールで大人びていた姿とは打って変わって、今のか何は泣きじゃくった甘えん坊のように私を抱きしめてくる。
本当に、果南はいままでずっと我慢してきたんだなと。それが痛いほど伝わってきた。
フラテルニテという言葉は果南をずっと傷つけてきたのかもしれない。けれど、それを愛さずにはいられなかったのも確かなのだろう。なぜなら、この世界の何処かに、自分を受け入れてくれる約束の地が必ずあると信じなければ、生きてこれなかったから。
私は、フラテルニテという言葉が偽善っぽく聞こえてしまう。でも、果南を支えてきたこのフラテルニテという言葉を好きになりたいとも思った。
「お母さん、おっぱい欲しい」
「だめ」
約束の地、カナンに私との百合の花は咲くことはないだろうけど。そこには、果南がいっぱい育ててきた赤いヒナゲシが咲き誇っている。フラテルニテという言葉が、沢山咲いていることを私は知っている。
「フラテルニテ」と君は囁いた 如何ニモ @eureikar
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