第4話

そして血まみれの手を握りしめ増田の頬を殴った。

 「やっぱりな」増田は高峰の怒りに震える顔に唾を吐いた。唾液が彼の頬を流れる。「やっぱり、お前は口もしょうもない」

 増田は床に激しく叩きつけられた。部屋全体が揺れた。蛍光灯の傍で落ち着いていた蝿が玄関のほうに飛んでいくのを、健一は見つめていた。

 顎を強く殴ると、冬の風に頭を冷やされたようだ。台所で血と酒で汚れた手と顔にかけられた唾を洗い流して、タオルで拭くこともなく、出ていった。玄関を開けるとストーブで暖まった空気なんて最初から無かったかのように部屋が凍えた。言葉も無く出ていった高峰の去りゆく足音を追う様に佐賀辺も退室した。佐賀辺は手を叩いた。

 「なんだ」健一は尋ねた。なんでもないよ、と佐賀辺は言い、お邪魔しましたと礼儀正しく帰っていった。

 蛍光灯しかない天井を見上げる増田の身体を起こした。殴られたところが腫れあがっている。夏場に使った氷枕を冷凍庫から取り出してタオルでくるんで渡した。増田は泣き始めた。すまなかったと、何度も言うから気にする必要は無いだろと無意味に慰めた。

 「知ってたはずなんだ。高峰がこうなるかもしれないことを。ずっと前から見て見ぬふりをしてたんだ」増田は一滴も酒を飲んでいないはずなのに、誰よりも感情的であった。

 「まだ、やるって決めたわけじゃないだろうさ」

 増田も立ち上がった。

 「俺も、今日は帰る」

 「泊って行ってもいいのに」

 「今の気分と違うんだ」

 トレンチコートを羽織ってリュックを背負って出ていった。着替えを用意していたにも関わらず、足早に帰っていった。

 健一はユニットバスの扉を開けた。すると空の浴槽で福盛はくつろいでいた。

 「せまいな」

 「ワンルームだからな」

「俺も帰った方がいいのか」

虚ろな表情だった。タクシーを呼ぼうかと聞いた。

「冷たいな。増田なら泊っていかないのかって聞く癖に」

「クリスマスは、家族に愛をつたえるんじゃなかったのか」

彼は自分の腕時計をみた。

「十一時五十分。まだイブだ」

「一緒のようなもんだろ」

彼の頬が吐瀉物で汚れているからタオルで拭いてやろうとして近づいた。

健一は濡れたタオルで彼の顔を拭った。どんな態勢で寝転んだのか、耳の裏まで汚れているから笑いそうになった。されるがままの増田はどこまで許容するのかと、洗顔フォームを泡立てて彼の顔を洗った。やめろ、と言われたが頬や口元の汚れを落とされるのが気持ちよかったのか、目を閉じて睫毛や眉や額も汚れていないのに洗った。洗面台にお湯をためて、洗い流した。 

一連の動作が終わると、彼はまた浴槽に座り込んだ。福盛が手招きをした。水がふき取りきれなかったのかと健一は思った。すると、健一の不意をつくように胸倉をつかみ自分の顔の前に引き寄せた。増田のキスは乱雑だった。彼のデジタルの腕時計は全ての文字が0になっていた。

 「タクシーは呼ばなくていい」

 茫然とする健一をよそに、ふらつきながら立ち上がった。

 増田は自分の靴すらろくに履けないほど酔っていたため、玄関まで付き添った。スニーカーの紐をほどいて、まるで幼児を世話するかのように靴を履かせて紐を結んだ。

 「大丈夫か」

 「大丈夫、大丈夫。メリークリスマス」

 増田は片手をあげて、その手をぶらぶらと揺らして、おぼつかない足取りで出ていった。雪がさっきよりも強くなっていた。

 健一は玄関マットに黒い影を見つけた。冬の蝿は動かなくなっていた。

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前夜 古新野 ま~ち @obakabanashi

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