ep2 坂の上の天女
坂は変わらずそこにあった。
傾斜の始まりの場所に私は立った。
左手には川、右手には古ぼけたマンションがある。ガラスが空火照りをシャッターにしかと収めようとキラキラと反射させている。
自転車を立ち漕ぎで駆け抜けた、ローラーブレードで必死に地面を蹴った、友人とかけっこして転んで膝を擦り剥いた、様々な思い出がここにはある。
斜陽が坂に降り立った。
ふいに純白の羽衣を棚引かせた女の姿が脳裏に浮かんだ。
その女が坂を駆け上がれば待っている様な気がして、私はいてもたってもいられずその場で二度ジャンプした。
肩甲骨の奥が熱い。その熱がお尻まで降りてきて背中をトンと押した。
短く息を吸い、音を立て一気に吐き出した。
坂のてっぺんを見据えて駆け出した。
風のように身軽に走れるような気がした。だけれど随分と体は重たい。頭に浮かぶ映像では小学生の頃の姿。けれど現実は大きなトートバックを肩から下げた運動不足のアラサーだ。
眺めるよりは傾斜は然程急ではない。それでも私の太腿は悲鳴を上げている。吐き出すよりも吸い込む酸素が少ない。心臓がバクバクと鼓動している。
いっそ止まってしまおうか。
いや、駄目だ。てっぺんにあの女が待っているのだから、走り続けなくちゃいけない。
バッグが腰に何度もぶつかってくる。中に入っているノートパソコンが硬いせいで痛いのだ。どうしてこんなものを持ち歩いているんだっけ。重たい。
体が重たい。でもあと三歩くらいでてっぺんに辿り着く。
もう少し、もう少し。
目をギュッと瞑って象のように硬くなってしまった足を降った。
「わあ!」
何かにぶつかって体が後ろに吹っ飛ぶ。反射的に目を開くと、目の前には男がいた。
「大丈夫?」
私の体は地面に衝突する事はなかった。目の前の知らない男が私の腕を取ったからだ。少女漫画ならば、きっとこのまま男の胸の中に飛び込んで恋が始まるのだろう。
しかし現実はそうじゃない。
全身の筋肉が縮こまって、私の体はピタリと静止した。わずかな苦しさが胸を締め付ける。ああ、呼吸まで止まっている。肺まで縮こまってしまっては困る。
息を吸うと、脳が正常を取り戻した。
アラサーの女が無意味に全速力で坂を駆け上がった果てに他人様に激突した現実は、ゴツゴツした石になり頭をガンと殴りつけた。
「すみません」
頭を下げる。なんてみっともないんだ。
「大丈夫ですよ」
男はさも当たり前のように言った。怒っていないと勝手に思い込み安心する。顔を上げるとやっぱり男はヘラヘラと笑っていた。
ノイズが目障りな映像が脳裏を過った。箪笥の奥にある筈の二シーズンは身に纏っていない服を探し出すように、男の顔を見詰める。見覚えはあるのだけれど、その正体は濃い霧に覆われて一向に姿が明瞭にならない。
ふと小学生の頃の記憶が浮上する。
一番後ろの端っこの席。その席はなんだかいい思い出のような気がする。
「第四小出身ちゃいます?」
「ふへえ?」
男は素っ頓狂な声を上げる。
そりゃそうか。いきなり出身校など聞かれたらストーカーや詐欺を疑うかも知れない。
怪しい女ではないと伝えようとすぐさま口を開いた。
「私、第四小出身の吉本です」
自己紹介をして一体何になるというのだ。しかし身元を明らかにすれば怪しさは少し減るのではないだろうか。
「吉本? うわ、めっちゃ久しぶりやん。え、東京住んでるんちゃうん」
彼は私を思い出したようだ。しかも今現在の私の居所の情報まで持っている。きっと彼は同級生なのだろう。中学からは地元を離れて女子校に通った私にとって地元で顔見知りの異性は、高校時代のバイト先に人間か小学生の同輩だけだ。
「帰省中。久しぶり」
背中にじわりと汗が浮かぶ。
どうやらこの男は私との再会を喜んでくれているようだ。
一方の私は何一つ思い出していない。
お前は誰なのだと正直に言ってはがっかりさせてしまうだろうか。粗略にあしらってこの場を切り抜けるべきかと逡巡する。
「誰やっけって顔してる」
「え」
「うわ、ほんまに忘れてるん」
男は破顔した。
なんだ、こいつは単純な奴だ。
「ごめん、誰やっけ」
「山田や! 思い出せんかったら泣くで」
勝手に泣いてくれて構わないと思った。しかし残念乍ら、山田という存在はすんなりと思い出してしまった。
坂の下のマンションに住んでいたクラスメイト。よく公園でボールを蹴って遊んだ。
羽衣の女は結局いなかった。
子供の頃も同じように走って、同じような結果になり、妙に落ち込んだ事がある。
でもどうしてだろう。
山田の顔を見ているうちに、頭が軽くなっていく。
斜陽の幻想はなくなってしまったけれど、これはこれでいいじゃないかと思った。
短編集『空火照りの錯覚』 檀ゆま @matsumayu
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