5、約束

「……ごちそうさま」


 気が付けば、あたしの手のひらからおにぎりは消え失せていた。代わりに空腹感が消え、僅かな満足感が全身を支配している。


「ふむ、本当に腹が減ってたんだな。物凄い食いっぷりだった」


 そう言いつつも、男も同じくらいの大きさのおにぎりを食べきっていた。女のあたしよりも食べるのが早いのは当然だけど……そっちも腹減ってたんじゃん。


「さて、腹も膨れたところで本題だ」


 びくっ! と肩が震えた。男の纏う空気が、研がれたかのような鋭いモノに変わったのが感じ取れたからだ。


 やっぱり殺される……? でも逃げられるわけないし……。色んな思いが取り留めもなく浮かんでは消えていく中、男はあたしをまっすぐに見て言った。


「お前に頼みがある。俺の精気を吸って欲しい」

「……………………は?」


 予想だにしていなかったその言葉を噛み砕こうとして、あたしの思考が停止する。と、男は腕を組んで一つ頷いた。


「まぁ戸惑うのも当然だろう。人間が魔物に何かを頼むなど、前代未聞だ」

「いや、まぁ、頼む頼まない以前に……精気って、どういう事?」


「お前は淫魔……じゃなく、夢魔だったか。どちらにせよ、人間の精気を吸って糧としているのだろう? 俺にも同じ事をしろ、と言っている」


 何言ってんだこいつ……この感想、何度目だっての。


 男の瞳には、一点の曇りすらない。冗談だとかからかってるだとかじゃない。完全に本気で真面目に、言っている……と思う。


 緊張だとか警戒だとか恐怖だとか、そういった毒気を根こそぎ抜かれた気分だった。


「えっと……それ、弱くなりたい、って言ってるようなモノなんだけど、分かってる? あんた、勇者候補なんじゃないの?」


 ……てか、何であたしの方がこんな気遣いしなくちゃならないのよ。


「無論だ。吸精行為は、人間が培った経験や力を同時に抜き出す。それ故に、レベルドレイン、などと呼ばれる事もままある」


 だからこそ、と男は語気を強めた。


「淫魔の噂を聞いて、まだ街に隠れているかもしれないと思い、探していたのだ。淫魔の吸精だと、魔物の女などと性行為に及ばなければならないのが唯一の懸念だったが、お前が夢魔だと言うのならむしろ都合が良い」


 ……魔物の女〝など〟、ね。


「ふん。さっすが、人間様は随分と偉そうな事を言うわね」

「む、気に障ったか。だが、そうだな。お前達魔物も、人間をすべからく卑下しているだろう? 同じようなものだと思って欲しい」


 確かに、そうか。今ちょっと忘れかけてたけど、人間と魔物は不倶戴天の宿敵。相容れる事が出来るわけがない。


 とりあえず、男の事情は分かった。いや、実際は何にも分かってないけど、主張を理解する事は出来た。


「あんた、変な人」

「だろうな。で、返事は?」


「……断ったら?」

「殺す」

「ですよね」


 これ、頼んでるんじゃなくてただの脅迫じゃない? 腰の剣に手を掛けてるし。全然笑わないし。


 しばし逡巡し、あたしは大きな溜息を吐いた。


「まぁ……いいけど。あたしは精気を得て強くなれる。デメリットないし」

「感謝する。一度に吸精出来る量はそれほど多くない、と聞くが?」


「うん、別腹の食事みたいなものだから。限界はあるかな」

「回数を重ねる必要がある、か。そうなると落ち合う時間をあらかじめ決めた方が良いな。日が暮れてから、はどうだ?」


「別に、大丈夫。そもそもあたし、ずっとこの中にいるから昼夜の感覚ゼロだし」

「よし、決まりだ。これからよろしく頼む」


 そう言って、手を差し出す。幾度となく剣を握り、振るい、数多の魔物を血に沈めて来たであろうその手は、優男の風貌に反してごわごわと角ばっていた。


「よ、よろしく……?」


 おずおずと手を差し出す。まさか、人間に初めて触るのが握手になるだなんて。


 手を出すばかりでいつまで経っても握らないあたしに焦れたか、ぐっと引き寄せるようにあたしの手を握る男。大きなその手は力加減が分かってないのか、すごく痛い。


 けれど、温かくもあった。


「しかし、お前はこんな場所でずっと暮らしているのか。何か必要なモノはあるか? 可能な限り工面しよう」

「いや、至れり尽くせりで逆に怖いんだけど」

「? 何が怖いんだ?」


 そういうとこだよ、ちくしょう。もぉいい、毒を食らわば皿までだ。


 ボロボロになった服の代わりだとか、まともな寝床だとか、ここで生活する上で重要であろう道具は、何故か浮かばなかった。代わりに思い浮かんだのは、強烈に頭の奥に焼き付いた、覚えていないはずのその味。


「じゃあ、おにぎり、作って来て。今度は、2人分」


 男は目を見開き、ふっと、柔らかい笑みを浮かべた。


「お安い御用だ。約束しよう」




 こうしてあたしは、血の気の引く出会いを体験すると同時、この男――フリードレッグとの妙な協力関係を強制される日々が始まったのだった。

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