最終話 十万本の雷(いかづち)
二年の月日が経った。
あの僕の誕生日の『サジタリアス』でのお祝いディナー以来、僕と舞花は一度も会わなかった。
店を軌道に乗せ、オーナーや常連客の慰留もあり、後進の育成もあって、結局翌年の秋までいたものの、舞花は円満退職した。あの才谷が泣いていたそうだ。憎めない。とても人間臭い男だと思った。
父親である三崎奏太郎の人脈もあり、舞花は仙台に赴いた。知名度の高い舞花は、結構様々な店から引っ張りだこだったようだが、目的は、将来店を経営するために、仕事を通して接客や店の経営ノウハウを学ぶことだ。
その目的に合致した先として、結局、仙台の有名ホテルにあるフレンチレストランに契約社員として就職した。一年の修行を経て、戻って来る予定だった。
離れても、舞花とは毎晩のようにメッセージを交換し、彼女は写真も、時には動画も頻繁に送ってくれた。職場のレストラン、店長やシェフや同僚、休みの日に歩く仙台の街や、舞花の好きな海辺。海にはよく出かけていたようだ。つき合いだした時の、あの僕とのドライブを思い出すらしい。
『ソーダ水に朝陽が昇るか試してみた件』というタイトルで、グラスに海から昇る朝陽を重ねた写真を送ってきたりした。
(そうか、海岸は東向きだもんな)
休みは概ね一人で、愛車の『流星号』(自転車だが)を駆って行動している。色んなものに名前を付ける癖は相変わらずだが、「何で『流星号』なの?」と聞くと、「ほら、久保田利伸に『流星のサドル』って歌あったでしょ」と言う。んー、わかるけど、ちょっと古いな、昭和かも知れない。
遠距離で会えないながらも、舞花だらけの日々を僕は送っていた。それが突然、途切れた。
2011年3月11日。
この日に何があったか、知らない日本人はいない。
あと半年で舞花が帰ってくる。住む場所や新しい生活のあれこれについて、考え始めないと、と思っていた矢先だった。
あの地震が来た。
前日の夜を最後に、舞花と全く連絡が取れなくなった。
その日は舞花は休みだった。もしレストランに出勤していた日ならば、まったく状況は違っていただろう。休みは一人で海辺に出かけることが多かった。津波に遭遇したのか…手掛かりはそれしかない。
東北の太平洋側三県を中心に、日本中が揺れに揺れた。
未曾有の大地震、津波。こんなことが現実に起こり得るものなのか。1万人をゆうに超える死者。そして行方不明者。その何倍もの家族や恋人、その何十倍もの親戚や友人が、理不尽に大切な人を奪われた。
数日のうちに舞花の弟の賢太郎と現地に赴いたものの、倒壊を免れた舞花の独身用マンションはもぬけの殻。様々なものが壊れ、散乱していたが、ついさっきまでそこにいたような、住んでいた舞花の体温までが感じられる状況だった。二点の肖像画が、大切に飾られていた。絵はどうにか無事だった。
「何が起こるか分からないから、絵は持ち出そう」
賢太郎の意見に同意し、絵だけは運び出し、持ち帰ることにした。舞花がどこかで無事で、この部屋に戻ってくる可能性も考え、書き置きを残した。
主にこれまでに僕がもらった画像やメッセージを頼りに、ただ舞花が立ち回りそうな場所を歩きまわる。どこもかしこも凄絶としか言えない光景で、行けない場所、どこか分からない場所もあった。そこここに安置されている、見て確認できる遺体は、手を合わせてから確認した。舞花を探している、でも舞花であって欲しくない、脳味噌に無数のガラス片が突き刺さったような気分で、倒れそうだ。僕も賢太郎も、途中で嘔吐した。そして自分でも気付かないうちに、大の男が二人とも泣いていた。結局、舞花は見つからなかった。一旦ホッとしたものの、それは実は、終わりの見えない捜索が始まることを意味していたんだ。
以降、月に1回か2回、都合をつけて現地に赴く。賢太郎だったり、舞花の両親だったり、舞花の友人と一緒に行く時もあった。今も続けている。
ある時は、二年前の舞花の映像が公開され、視聴者から情報が寄せられたこともあったが、残念ながら全部、確実な手掛かりには繋がらなかった。
地震以降、無理を重ねて一度大きく体調を崩したこともあり、平日夜は努力して考えないようにした。考えると全く眠れなくなる。忘れたい、眠りたいと酒量も増えた。酒を飲んで、酔いが醒めると眠れない悪循環が重なっていく。
仕事の時はまだいい。むしろ、現地に行けない週末が辛かった。焦燥に駆られ、でも何もできず、思考は堂々巡りを繰り返すばかり。不眠と酒で起きているか寝ているのかも不明瞭になる。僕はこのまま腐っていくのだろうか。
(絵を描こう)
そう考えたが、僕は舞花以外の絵を描いたことがない。そんなことに今さら気づいた。
舞花以外の絵。描きたいテーマがない、描けない。じゃあ、舞花を描くか。それすら何故かできなくなっていた。僕は筆を折った。舞花が戻らない限り、もう永久に絵は描けないと思った。
「寂しい椅子」お気に入りのアームチェアの『岳くん』の上で、舞花の幻を見る。今日は長いTシャツを着て、素脚の片膝を抱えてペディキュアを塗っている。上目遣いに僕を見て、微笑む。
君に会って、君を見て、君を描きたい。そして細い身体をこの両腕で抱きしめたい。優しい言葉を、時には意地悪な言葉を、無言の慈しみを、君に投げかけたい。笑顔に、泣き顔に、拗ね顔に、得意顔に、澄まし顔に、怒った顔に、寝顔に、いつものウィンクに、全ての表情に会いたい。もう一度君に会えるなら、その後、僕は死んでもいい。
僕はもう、誰も愛せない。君がいなければ、生きる意味すら見いだせない。
時は容赦なく
僕は一人で暮らしている。アラフォーになってしまったが、もちろん一度も結婚はしていない。恋愛なんてもう考えられない。
僕の心の傷を気にかけてくれた両親には、親孝行ができなかった。まず親父、次いでお袋が、この五年で病死した。なんだか急な死というものが身近になってしまい、僕自身、抜け殻のままで、取り立てて死ぬ理由がないから生きているに過ぎなかった。
舞花は、結局見つからなかった。
舞花の父親である奏太郎の憔悴の仕方と言ったらなかった。2010年に自分が娘を仙台に送ったことを自分で責め続け、一気に老け込んでしまった。そして、昨年、癌で呆気なく亡くなった。最期はとても安らかに逝ったと言う。死ぬことを待っていたんだ。僕にはそれがよく分かる。
賢太郎は二年前に結婚した。彼にお似合いのとても明るくて気持ちの優しい奥さんだ。さすが嫁選びも抜け目がない。今は未亡人になった自分の母親と三人で暮らしている。いつもなんだかんだ理由をつけては僕を家に呼んでくれ、気にかけくれる。
「兄貴もそろそろ結婚しろよ」
「そうだな」なんて会話も交わすが、僕にまるで結婚する気がないのは賢太郎が一番よく知っている。
僕はずっと舞花と生きている。毎日、舞花の幻を見て暮らしている。そんな男が、他の女性を幸せにできる訳がない。思えばずっとそうだったんだ。昔、それに気づかず、あるいは気づかない振りをしてつき合って、多くの女性を傷つけてきた。この上誰かを傷つけるくらいなら、さっさと死んでしまった方がいい。
僕は不幸ではない。それに孤独でもない。
僕のそばに、いつも舞花がいる。これは絵のために舞花と向き合った成果なのか、いないはずの舞花に、イメージの力でいつでも会える、そんな技能を、僕はすっかり身につけた。
街を歩いても、店で食事をしても、常に隣りに舞花がいる。幸せそうに僕を見つめている。けして触れることはできないけど、あの素敵な笑顔で微笑みかけてくれる。
僕はなるべく舞花と一緒にいたい。それが幻であったとしても。ただこんな僕は見知らぬ人からも、どこか奇異に映るかも知れない。だから、人混みや、大勢の人の中にいるのは苦手だった。僕は僕のイメージの中で、できればずっと舞花と会話していたい。きっと僕は病気なんだろう、それは自分でも分かっている。
少し気晴らしになる出来事もあった。盆休みの時期に、初めて高校の同窓会が開催された。僕も今回は出席することにした。連絡の取れる範囲で学年全体に声をかけたようで、当日30人くらいが集まった。見渡すと懐かしい顔、顔、顔。みんなどこかに十代の面影を残しながら、思い思い歴史を刻んだ、という顔をしている。
昔は無愛想だったのに社会に揉まれて処世術を身につけたのか、やたら愛想のいい奴、名刺を配りまくる地元の中古車ディーラーの社長、こいつは当時グレてたよな。それに、卒業後、大学時代もサークルでつるんでいた奥山、柳田、藤岡。みんな家庭を持った。子供もいるいい父親だ。
女子も、見事に垢抜けた子もいれば、もう完全に逞しいお母さんになった子、歩んできた道筋によって、人の見た目は変わってゆく。一体僕は、みんなの目にどう映っているんだろう。
奥山の顔で予約したという有名店で、焼肉を頬張りながら、酒は進み、話は弾む。しかし、僕に気を使っているのか、みんな三崎舞花の話題は避けているようだった。
舞花はそもそもミス桜高と言われていたから、みんな大概、覚えているはずだ。一時テレビに出る有名人だったし、『サジタリアス』のプレオープンイベントの事件のおかげで、ゴシップとして取り沙汰され、僕も一緒に時の人となった。そして、それがあっただけに、舞花が震災で行方不明になったこともテレビで取り上げられ、ほとんどみんな知っているだろう。
我慢できずに、僕から舞花の話題に触れた。三崎舞花は
「鈴木くんと三崎さんは、前世でも恋人だったのね、きっと。また次生まれ変わっても出会うよ。縁ってそういうものなんだって」
この子、森村あゆみ、だったっけ。高校の頃と雰囲気があんまり変わっていない。
「だとしたら、次の人生が楽しみだ。ありがとう。久し振りに希望が持てた気がする」
悪友3人が、ビール瓶を持って、僕のそばに来た。
「お前は過去に生きるのか。まだまだ人生長いぞ」奥山が言った。「本当にそれでいいのか」
「それでいいのかも何も」僕が答えた。
「俺にはそうしか、生きる術がないんだ。舞花がいない世界に馴染めず、今生きていることさえ不思議なくらいなんだよ」
時は悲しみを洗い流しはしない。悲しみは毎日降り積もる。舞花のいない時間そのものが、責め苦に思えた八年間だった。
「まあ、そんな奴がいてもいいさ」柳田が言う。
「でもお前、ちゃんと生きろよ」
ヘラヘラ曖昧に笑って受け流すと、いきなり胸ぐらをつかまれた。
「おい、返事しろ。お前、死ぬんじゃねえぞ!」
周りの会話が途絶え、参加者たちの注目が集まった。
すると、藤岡が柳田の頭をバシッと
「弱ってる奴に絡んでんじゃねえよ」そして僕を見て、
「好きにしろよ、骨は拾ってやるよ。俺たち、告白を見守った腐れ縁だからな」
お前らみんな、本当にいい友達だ。
僕はおもむろに立ち上がった。
「今日来れなかった、僕の彼女を紹介します。こちら、三崎舞花」
僕は持って来ていた『陽溜まりの花』の布を外して、胸の前に掲げた。おおっと、会場全体がとよめいた。
「どうせ、海くんだけみんなに会ってずるいって言われるので、連れてきました。彼女はミス桜高と言われてたし、一時テレビにも出てたから、皆さん覚えてますよね。ちょうどテレビに出てた頃、二十代半ばの舞花です。僕が描きました。どうですか、綺麗でしょう」不覚にも、涙が溢れてきた。
「彼女は八年前のあの震災で行方不明になりました。僕の中でも、この時期で時間が止まっています」
僕は何が言いたかったんだろう。
「どうか、どうか…これからも舞花を覚えていて下さい。こんな女性がいたことを。皆さん、舞花のために、献杯してもらえませんか」
柳田が立ち上がった。泣いていた。
「それでは、我らの永遠のマドンナ、三崎舞花に」
奥山が被せた。
「そして、いつまでもめそめそしている、その下僕、鈴木海斗に」
みんなグラスやジョッキをカチーンと合わせた。その後、全員がグダグダになるまで飲んだ。僕のまわりに人は集まり、舞花のことを中心に、想い出話に花を咲かせた。
この夏はやたらと雨が多い。重なり合うように繰り返し、台風が来る。
今日は土曜日。一番苦手な曜日だ。僕は今日、明日と長い一人の時間を舞花の幻と過ごすことになる。
朝からかかりつけの歯医者に行き、コインランドリーに行き、買い物といくつかの用事を済ませると、俄然、雲行きが怪しくなってきた。天気予報では、午後からとてつもない荒天になるとのことだった。急ぎクルマで、部屋に向かう。近所なので10分程度で部屋に着くのだが、辿り着く前に稲光がストロボのように光り、遠くで雷鳴が轟き始めていた。
部屋に入る。舞花が見えない。
時折、こんなことがある。前にもあった。舞花の幻がそこにいない。僕の精神状態なんだろうが、むしろその時が正常なのかも知れないが…寂しい。
ド…ドーン!
雷が近づいてきた。
僕の頭に、この部屋で記憶を取り戻した朝の、舞花の映像が浮かんだ。あの時、舞花のバラバラになっていた記憶のピースが、雷の音と光を借りて、それに花火大会の夜のシーンとイメージが重なり合ったことで、奇跡が起きた。あの時も、アームチェアの『岳くん』が、一役買ってくれたっけ。
ドーン!!
雷雲が近づいて来ている。その度に光は強くなり、雷鳴は大きくなる。インターバルも短くなってきた。
ドーン! ドドーン!!…ドーン!!
ザーッ…
いきなり、雨の音が聞こえてきた。すぐに雷鳴にかき消されるが、やがて雷鳴の隙間を埋めるように、競演する形になった。
おかしなもので、耳の防衛犯行なのか、あまりの騒音が続くと、個別に耳が認識しなくなるらしい。
岳に座ってみよう。不意にそう思った。
舞花の居場所であるそのアームチェアに、僕は以前から滅多に座らない。ごく稀に、舞花とシンクロしたい時だけ、座っていた。しかし…
ドカーン!!
僕が座ったその瞬間、特に大きな稲光と雷鳴と同時に、椅子はバラバラに壊れた。僕は今まで岳だった木片の中に尻餅をつく形になった。
「寂しい椅子」は、主人のいない寂しさに耐えかねて、死んでしまったんだ。
もう、ひっきりなしに稲光は光り、絶え間なく雷鳴は轟き続けて、絨毯爆撃のように暴力的な雨が叩きつける。
何故か僕は、外に出ようと思った。岳の亡骸の背骨にあたる、背もたれの長い棒を1本手に取って、僕は立ち上がった。
つっかけを履いて部屋の外に出る。エレベーターで、古びたマンションの屋上に向かう。
十一階にあたる、屋上に着いた。体当たりをするように重いドアを開けると、雷の轟音と共に、凄まじい雨風が吹きすさんでいる。
(確か、あの日の花火は二万発だったな)あらぬことを考えていた。
(だとすれば、今日の雷は十万発は落ちてそうだ)
僕と舞花の星座は射手座。守護星は木星、成功の星ジュピターだ。守護神はゼウス。万能の神で、雷を武器にするとも言われている。
ゼウスの怒りなのか、いや、違う。これは、祝福だ。今日、舞花に会える。何故だか分からないが、確信めいた思いが湧き上がってきた。
天空には無数の雷光。耳をつんざく雷鳴、とてつもない雨風に蹂躙されて、屋上から今にも飛ばされそうだ。なんて馬鹿なことをやってるんだろう、笑いがこみ上げてきた。それが最後の正気だった。
これはこの世の終わりか、天地創造のフラッシュバックか。神聖なる時間に僕はいる。生きていようが死んでいようが、そんな些細なことはどうでもいい、僕はただ、舞花に会うだけだ。
そうだ、このために連れてきたんだ、岳の骨を。僕は、ゆっくりと天に届けと突き上げた。
「舞花-!!」
ピシャッ!ガラガラッ、ズドーン!!
0コンマ0何秒の間に、僕の意識は宙に飛ばされ、豪雨の空にひらひらと舞った。体勢を立て直し、見下ろすと、屋上で黒焦げになった『僕だった物体』が見えた。この状態で生きていようはずもない。僕は即死した。
その時、雷とは違う、柔らかい光が天空から下りてきた。清らかで、美しくて、柔らかで、暖かくて…
やっと会えたね、舞花。
寂しい椅子 鈴木 海斗 @taka-k
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