愛のカタチ ~自動車教習所での惨劇~

賢者テラ

短編

 M大の外国語学部に通う女子大生、神田美鈴の憂鬱の種は、学業以外のところにあった。



 大学生活自体は、すこぶる快適であった。

 親からの仕送りを受けて、ちょっと上品なワンルームマンションで下宿している。

 一人暮らしというものは意外に物入りなものだが、ある程度の仕送りがあるお陰で、バイトのシフトもさほど頻繁に入らなくても十分にやっていけた。

 講義自体も、本気で勉強したいと思う者にとっては(一体、そんな学生が何人いるのか、ということは別として)幾らでもすることはあるのだが、「ただ単位だけが取れればよい」と考える学生には実にラクチンなシステムになっていた。

 美鈴の専攻が外国語(特に英語)という性質上、文系の他学部より少しは厳しいのかもしれないが、高校時代に比べれば明らかに「思いっきり遊ぶためにある学生生活」と言えた。



 さて。そんなキャンパスライフを謳歌していた美鈴も——

 あることに手を出してしまったために、苦悩の日々を味わうことになった。

 それは、自動車免許の取得。つまり、自動車教習所に通いだしたのだ。

 動機は「周りはみんな取ってるし、自分でも運転できたら便利だろうなぁ」というありきたりのもの。

 でもまぁ、これは仕方のないところだろう。逆に、運転免許を取るのに人をうならせるような深い動機や立派な目的を語れる人など、そうそうお目にかかれるものではないから。

 美鈴は必死で親に頼み込んで、17万ほどの教習代を普段の仕送りに追加で振り込ませることに成功した。

「ゲッツ!」と叫んでおかしなポーズを決めた美鈴は、しめしめとほくそ笑んだ。

 おめでたい彼女の頭には、カッコよくハンドルを握って、海辺のハイウェイをオープンカー(現実に使おうとする人は少ないのに、人の想像の世界になぜかよく登場する)で疾走する自分の姿が浮かんでいた。



 しかし。それは『取らぬ狸の皮算用』であった。

「学科」に関しては、別にどうということはなかった。

 四年制の大学へ入るだけの頭脳を持つ者には、楽勝でさえあった。

 一番の問題は……実技の方。

 つまりは、車の運転それ自体であった。



 実技教習の一番初めに,美鈴がやらされたこと。

 それは、『運転のシュミレーション』であった。

 よくゲーセンに、カーレースのゲーム機がある。あれを想像してほしい。

 ブース内はちょっとしたコクピット(運転席)のようになっており、シフトレバーやハンドルを操作して遊ぶアレの『真面目くさった』バージョンだと思ってもらえればよい。

 ゲームではないため、迫力も爽快感もゼロ。

 しかし反面、ゲームよりも難易度は高いと言えた。



 美鈴は、ガシャンガシャンと面白いくらいにぶつかりまくった。

 中日ドラゴンズの野球帽を被った鼻タレ小僧を跳ね飛ばして天国に送り——

 電柱をへし折り、住宅の前の鉢植えをなぎ倒し——

 仕上げに、八百屋に突撃した。

 結果映像まで出てくるほど手の込んだ機械ではなかったのが残念だが、さぞかしy八百屋の野菜たちはぶちまけられてえらいことになり、店主のオヤジは青ざめたことだろう。

 その時から美鈴には……イヤな予感はしていたのだ。



 案の定、美鈴が教習所の敷地内のコースを走るようになってから、苦悩の日々は始まった。

 まず、美鈴の最大の敵となったのは『エンスト』であった。

 そう。彼女はわざわざMT(ミッション)車のコースにしたのだ。

 要は、シフト(変速)をガチャガチャ変えないといけない、特に渋滞時などには頭をかきむしりたくなる……あの種類だ。

 今じゃスポーツカー好きと商業用以外でわざわざそれに乗る人は、特に女性などでは、ほぼいないのではないだろうか。

「AT(オートマ)車限定にしときなって! そっちのほうがラクチンだよ」

 そう言う友人の助言も聞かずに「なんだかカッコイイ」というただそれだけのフィーリングだけで、ミッション車に挑むことに決めたのだ。



 大雑把で鈍感な美鈴には、なかなか『半クラッチ』という概念が理解できなかった。ゆえに、ローギヤで発進する時に、エンストしまくった。

 方向音痴で、コース順路を覚えることも苦手だった。

 美鈴は一度、クランク(角度のついた、ジグザグ道)で思いっきり脱輪したことがある。

 その時、どういうわけか教習車がパンクした。

 もちろん教官から叱られはしたが、 「教習車が敷地内でパンクなんて、この教習所始まって以来だ!」と、逆に職員達の間では美鈴は『伝説』となってしまった。



 そんな美鈴が、既定の講習だけで次に進めるわけがない。

 美鈴は泣く泣く、余分なお金を払って補習を受けるハメになるのであった。お陰でその月の美鈴は出費を抑え、友人と遊び歩く機会をかなり減らさなければならなくなった。

 すったもんだした美鈴であったが、何とか終了検定をクリアしいよいよ『路上教習』、つまり仮免許を取って天下の公道を走る、という段階に突入した。

 美鈴に外を走らせるのはある意味、凶暴な熊を人里に放すのに匹敵するくらい危険であったが……とにかく、彼女はそこまでは現実にクリアしてしまったのだから、誰も文句は言えない。



 運転センスは最悪の美鈴であったが、彼女はなかなかの美人であった。

『CanCam』や『non-no』で常に最新のファッションやコスメのチェックを怠らない(この情熱をなぜ勉強に注がない?)美鈴は、本人さえ望めばモデルになれるんじゃ、というほどの『美人オーラ』をプンプンと発散させていた。

 香水にも、凝り性なほどに気を使っていた。

 教習所のオヤジ教官どもは、そんな美鈴の隣りに座っただけで、視覚と嗅覚から骨抜きにされた。

 そういう事情もあって、美鈴の引き起こす数々の失敗も、鼻の下を伸ばし点数の甘くなったオヤジ教官によって、厳しい叱責を免れてきた世界もあった。



 しかし、である。

 それが全く通用しない人物が、教習所にたった一人だけいた。

 彼は四十半ばで体格が良く、背も高かった。

 そして……何より目を引く特徴は、パンチパーマの頭。

 ほりの深い、男気のプンプンする暑苦しい顔。

 安田という苗字だったが、教習生の間では「ヤス」というコードネム(?)で通っていた。



 とにかく彼は、教習生(特に若い女性)には評判が悪かった。

 元々怖い顔をしている上に、ヤクザまがいのオーラを放ちながら教習生のことをケチョンケチョンにけなしてくる。

 ただ、ヤスが怒ってくるのは運転に関することだけ(当たり前である。他でけなしたら免職ものである)だったから文句は言えないのだが、気の弱い子なら例え男性でもかなり萎縮してしまう。

 美鈴は、ヤスの教習車から出てくる女性が涙ぐんでいたのを何回も見ている。

 彼女自身は今までに二回、ヤスの教習に当たっていた。

 それはもう、5秒が1分にも感じられる苦痛な時間だった。

「私、生きて下宿に帰れるかしら?」と思ったほどだ。

 とにかく、美鈴の美人オーラは、ヤスに関してだけはまったく効果がなかった。



 日もずいぶん傾いた、ある秋の夕暮れ時。

 今日も、美鈴の路上教習の予約時間がやってきた。

 待機している教習所のロビーで美鈴がカミサマに祈ったことはただひとつ——

「どうか『ヤス』にだけは当たりませんように」

 もしかしたら、自分も教官側から同じように祈られているかもしれない、ということはこの際棚に上げた。



 教習所内に、ベルの音が高らかに鳴り響いた。教習開始である。

 美鈴は、手をこすり合わせて拝むような仕草をしながら、教習車が配車されている場所へ向かった。



 ……え~っと、私への配車は14号車、14号車っと。



 美鈴はキョロキョロと首を振って、14号車を探した。

 果たして、路上教習の発進を待つ車列の最後尾に、その車はあった。

 車に駆け寄る美鈴のスピードは、10メートル手前でガクンと失速した。

「……今日って、仏滅だったかしら?」

 今時の若者らしくない、ジジむさい発想で絶望した美鈴は、クラクラする頭を両手で抱えた。

「おりゃ! 14番のヤツ、はよう来んかい! 時間がもったいないやんけ、ボケ!」

 ある意味、美鈴が最も熱望していた(?)ヤスの雄姿がそこにはあった。

 逆の意味で、神は見事なまでに美鈴の願いをかなえたのだ。



 発進は、何とかエンストせずにいけた。

 意地悪なことに、教習所の前は国道に出るまではゆるやかな坂道になっていた。

 信号が赤のタイミングならば、一度停止した教習車に要求されるのは、言わずと知れた『坂道発進』である。

 AT車なら、まったく悩む必要もないことなのだが——

 あえてMT車にした美鈴にとっては、自業自得の試練だと言えた。

 今日の神様は、徹底的に美鈴のことを訓練するつもりらしい。

 赤信号のため、坂の中腹で停止した。そして今、信号が青に変わる。

 美鈴は焦った。



 ……えっと、ブレーキを踏む足をアクセルに置いて、

 左足で切ったクラッチをじわじわつなげながら——

 サイドブレーキを戻す……



 マニュアルを復唱するかのように、頭の中で行うべき一連の動作を整理したが、いかんせん体の方がついていかなかった。

 半クラッチとアクセルの連動がうまくいかず、プスン! という情けない音とともにエンジンは沈黙した。

 しかし、それだけでは済まなかった。

 頭の中が真っ白になった美鈴はとっさにブレーキを踏むことを忘れていたのだ。

 車体が45センチほど、ユラリと後退した。

 それ以上の暴走を阻止したのは、ヤスであった。

 彼がとっさに、教官席側にもあるブレーキを彼が踏み込んだお陰で、信号待ちの後続車と衝突せずに済んだ。

「アホう!」

 ヤスは、冷たく言い放った。

「お前、そんなにバックが好きか! その顔と若さで、盛んなこっちゃのう」

 ウブな美鈴にも、不本意ながらその意味するところが分かり、顔をしかめた。



 ……バカッ。そんな下品なこと、私がするわけないじゃない!

 でも、実際やってみたらどんなカンジなのかなぁ?



 思わず彼氏とそのスタイルでいたしている架空のシーンを想像してしまった美鈴は、真っ赤になった。そして、心のはたきでパタパタとそのシモ系の想像を頭から追い払った。



「ゴルルルァァ、そっちちゃうわ!」

 普通にコラと言えばいいものを、わざわざ巻き舌を使って 『リエゾン』という高等技術まで使ってきた。ヤスは、本気でフランス語をマスターすればかなり上達するのでは?

 そんな、くだらないことを考えた美鈴だった。

「道が違う! 路上のコースは、もう一個むこうの筋やったんや。確かにこっちの筋にはええキャバクラがあるけどなぁ。お嬢ちゃん、いくら来たい思ても、今はさすがにマズイで」



 ……なななななななな何ですってぇ?

 何をどうしたら、アタシがキャバクラ行きたかったことになるわけぇ!?



 美鈴の怒りは心頭に達したが、そもそも道を間違えたのは美鈴のほうだ。

 ため息をついて、美鈴は前方に意識を集中させた。



 間違えて進入してしまった脇道をゆっくり進んでいる時。

 急に、ボン! という間抜けな音を立てて、ガクンと車体が停止した。



 ……もうっ。今度は一体何よぉ!



 美鈴は泣きそうになった。

 しかし一方で、泣いた時の化粧崩れを心配するところは、さすがギャルの鏡であった。

 こりゃまた怒鳴られる、と思って身を固くした美鈴だったが、意外にもヤスは、美鈴に対して罵詈雑言をぶつけてくることはなかった。ただ静かに「ちょっと見てくる」と言ったきり、外に出てボンネットを開け、何やら調べだした。

 上がったボンネットのせいで運転席からはよく見えないが、エンジンがシュウシュウと白煙を撒き散らしているらしい、と分かった。



 やがてヤスが首を振って戻ってきた。

「故障や。部品が一部イカレとる。これはお前のせいちゃう。整備上の問題や」

 そう言って彼はケータイから番号を呼び出してかけ、会話を始めた。

 会話を聞いていると、どうやらJAFを呼んだようだ。

 ケータイをたたんでポケットにしまったヤスは一言。

「おい。JAF来るまで3~40分かかるらしいわ。ちょっとそこの喫茶店にでも入っとくか」




 二人はそのまま、脇道のそばにあった喫茶店『ルミ』に入った。

 いかにも、安っぽいドラマの中で登場しそうな、安逸なネーミングである。

「JAFの人来たらケータイに連絡いれてくれるさかい、それまではジタバタしてもムダや。まぁ、ゆっくりしよやないか」

 席に案内された二人は、オレンジ色の夕日が差し込む窓際の座席で向かい合った。美鈴は居心地の悪さを感じて、モジモジした。



 ……な~んでワタシが、よりによってこんなヤツと一緒にお茶しなきゃいけないわけぇ!?



「オイ。なに体揺すってんだ。トイレ行きたいなら、そこの突き当たりだぞ」

「違いますっ」

 美鈴はムキになって言った。



「お待たせいたしました」

 ウェイトレスが持って来た大盛りのチョコレートパフェに、美鈴は唖然とした。

 これは、彼女が注文したのではない。

 これを食べるのは……なんとヤスであった。

「お前、何不思議そうな顔してるんや? オレはこう見えて甘いもんが好物でな」

 そう言って、幸せそうな表情を浮かべたまま恐ろしいスピードでチョコパフェをかきこんで行く。その食べっぷりは、往年の大食い王・ジャイアント白田を彷彿とさせた。

 不覚にも、美鈴はヤスに見とれてしまった。

 それはイケメンに見とれる、というのとはまた次元が違う感情だった。

 今まで鬼教官として、イヤなやつとしてしか認識していなかったヤスの人間臭い一面を初めて見て、なんかいい笑顔だなぁ、と吸い込まれるように見てしまったのである。。



 ヤスに対する認識が少し変化して、彼に対するわだかまりの減った美鈴は、思い切って聞いてみた。

「ひとつ、お聞きしてもいいですか?」

「ん。何だ?」

 口の周りのクリームをナプキンで拭き取ったヤスは、パフェに埋めていた顔を上げて美鈴を見た。

「……教官は、どうしてそんなに厳しいんですか? 何か、信念っていうか、ポリシーみたいなの、あるんですか?」

 そう言って美鈴は注文したカフェオーレをすすり、ヤスからの返答を待った。

「そうだな」

 ヤスはポツリ、ポツリと言葉を選んで語りだした。

「実はな。オレが教官になりたてのころな。同期のヤツがな、路上教習中に事故で死んじまったんだ。教習生もソイツもな。即死だったそうだ」

 ヤスはそこまで言ってから、お冷をグイッとあおった。

 カラン、という氷の触れ合う音がかすかに聴こえた。

「……確かに、オレは自分でも、厳しくしてることは自覚している。他の教官は、お前らに受けよくするために優しかったり、冗談のひとつも言って愛想よくするやつがいるのも知ってる。オレはそれを間違ってるとは言えねぇ。ただな——」

 ヤスは窓の外を見て、遠い目をした。



「お前らが免許取った後も、違反したり事故を起こしたりせず、快適に車と付き合っていってほしい。そう強く願うからこそ、オレは厳しくなってしまう。

 例え、嫌われてもいい。そうすることで、きちっとした技術とマナーが身についた上で車社会デビューさせてやれるのならな——」

「……そうだったんですか」

 美鈴もテーブルに肘をついて、ヤスの見つめる夕焼け空をともに見つめた。

 なんだか、車の運転だけじゃない、大事なものを学んだ気がした。




「ゴルアァァァ! なにヘタッピイな運転さらしとんじゃああああ」

 左から、耳を塞ぎたくなるようなヤスの怒号。



 ……ああ、私は甘かった。



 あの一件以来、今まであんなにキライだったヤスに対して、妙に親近感が湧いた。下手したら、ヤスに当たることを望んでるかもしれないような心境になっていた美鈴だったのだが——

 しかし、そこはプロ。

 ヤスは、教習に関して一切の私情をはさまないことでは一貫していた。

「おらあぁぁぁ 何が『巻き込みよし』じゃ! 口で言うてるだけで実行してへんやないか! ひょっとしてお前のは『今から人巻き込みますよ~』っていう意味での巻き込みよし、かぁ?」

 やっぱり変らない、苦悩の路上教習の日々だった。



 やがてめでたく卒業検定をクリアした美鈴は——

 運転免許試験場に行き学科試験はそつなくこなして、見事免許証を手に入れた。

 以来、愛車であるマツダの『デミオ』を乗り回し、カーライフをエンジョイしている。

 厳しいヤスの薫陶を受けた美鈴は、あのひどかった最初を考えると見違えるような優良ドライバーへと成長していた。



「お、やってるやってる」

 あれから、二年後。

 近所のデパートからの帰り道。

 国道を走っていると、あの懐かしい教習車が数台、路上教習で走っていた。

 信号が赤になったので、美鈴は車を停止させた。

 そして、左の車線で並んで停車した教習車を見て、ビックリした。

 偶然ににも、教官席にいたのはヤスだった。美鈴は窓から手を振った。



 ……まだ、ここで頑張ってるんだね。



 美鈴は教習所での日々で、つらいことや厳しいことの中にも『愛』があるんだということを学んだ。

 もちろん、世の中の厳しいこと全部がそうだ、というわけにはいかない。



 ……しかし、人が他者の成長を願ってあえて自分が悪者になり、厳しくする必要のあるケースだってあるんだ。私は、そういうのがちゃんと見分けられる人間になりたい。

 人は『たかが車の運転』と言うかもしれない。しかし、見方を変えれば『ある意味、人や自分の命を左右する行為』なのだから。

 たとえ厳しくても、それはそれで悪いことではないはず。



 ヤスのほうも、美鈴のことを覚えていたようだ。

 美鈴に気付いて、苦笑しながら頭を下げてきた。しかしまたすぐに鬼教官モードに戻り、教習生に何やらガミガミがなりたてていた。

 美鈴はうれしくなって、再びデミオを発進させた。



 信号が青に変ったのだ。

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