三
フローリングに寝転がってしまいたい気持ちを抑えこんで軽くシャワーを浴びた冴子さんは、手早く冷房をつけてから、ベッドの上でドライヤーをかけていました。瞼が重くなり早く眠ってしまいたいと思いながらも、今そんなことをしてしまえば肩の辺りまで伸びている髪の毛がぐちゃぐちゃになるのは目に見えています。結婚した後も、経済力の問題で当分の間は共働きしなければならない状況が続く以上、多少面倒くさかったとしても毛髪をぼさぼさにしたまま惰眠を貪ることなど許されそうにはありませんでした。
半ば眠りに落ちかけている頭が時折、がくんと舟を漕ぎそうになっています。意識が途切れてしまいそうで途切れないまどろみの中、手から力が抜けてシーツにドライヤーが落ちそうになるのを何度もこらえながら、頭から伝わってくる温かさがより強い眠気を膨らませていきます。
もう少し。そう言い聞かせている間に、髪は乾きはじめ、あと少しでベッドの上に寝転がれる。そのことが冴子さんに大きな喜びをもたらしました。
不意にチャイムが鳴ります。隣の部屋なのではないか。そんな風に思ってごまかそうとしましたが、室内での響き方からすれば、どうに考えても、この部屋の呼び鈴が押されたのは明白でした。
さっさと眠りたいのに。冴子さんは大きく眉を顰めます。時刻は十時を少し過ぎたところ。よほどの急用があるのでなければやや非常識な訪問時間だといえます。とりわけ彼女は眠りにつく前なのもあって、よりこのチャイムを鳴らした相手を恨めしく思ってしまいます。
無視しようかしら。一瞬、そんな考えが頭に浮かびましたが、万が一、急用であった場合を想定すると、後日に禍根を残す可能性がありました。そのうえ、現在、冴子さんは電気を付けてドライヤーを使っているため、電気のメーターの動きや外部に漏れる音によって、居留守をしてもばれてしまうかもしれません。
パジャマを手早く脱ぎながら、傍に置いてあった白い半袖のワイシャツと青いスカートを身に付けます。幸か不幸か髪の毛はもうほぼ乾いていて、外に出ていくのにそれほどの支障はありません。化粧はすでに落していましたが、まだ、そのまま顔を出しても問題ない容姿であるいう自覚はあったので、足早に玄関へと駆けていきます。足の裏でフローリングの感触を味わったあと、サンダルを履きながら、覗き穴から外を見ます。丸いレンズを境にしてよれよれのワイシャツとスラックスを着た中年男性が片手に白いビニール袋をぶら下げて立っていました。冴子さんは目は丸くしたあと、気が抜けたように鍵とチェーンを開け放ちます。
「こんばんは白河さん。今日は随分いい夜だね」
開口一番にそう告げたのは隣の部屋に住む、大隣さんでした。
「こんばんは。どうしたんですか、こんな夜に」
脱力しながらも、冴子さんは申し訳程度にそう聞き返します。しかし、この中年男性の目的は既にわかっていました。
「うぅん、別段、なにってことはないんだがな」
大隣さんは肌の荒れた頬を荒々しく掻きながら、そんなぼやけた調子で応じます。ついさっきまで冷気に包まれていた冴子さんの身体は、既に外の熱気に当てられて不快感をもよおしはじめていました。その間、中年の白いものが混じった髪がやけに目を惹きます。
「なんとなく、酒の相手が欲しくなってな」
なんでもないことのようにそう話しかけられるとともに、冴子さんの中の苛立ちがすーっと抜けていきます。すぐにでも瞼を下してしまいたいという気持ちは相変わらずありましたが、大隣さんのこういった態度を見ると、しようがないな、と思えてしまうところがありました。
「私、もうそろそろ寝ようと思っていたんですけど」
既に断る気などなくなっているに、冴子さんは乗り気ではないよう素振りで応じます。
「まあまあ、そう言わないで、老い先短い俺に付き合ってくれよ」
そんな心の内を察しているのか、大隣さんは一向に引き下がる気配はありません。冴子さんは思わずくすくすと笑ってしまいます。
「老い先短いって。冗談は顔だけにしてくださいよ」
「いやいや、あながち冗談ってわけでもないぜ。人間、なにがあるかわかんないわけだし」
そう言って中年男性は顔面に浮かびあがる皺を大きく歪めます。大隣さんのくだけた調子に、更なるおかしさがこみあげてきそうになるのを押さえながら、扉を大きく開きます。
「しようがないですね。少しだけですよ」
「ああ、もちろんだ。一缶か二缶飲み干したらすぐに帰るよ」
中年男性は気楽な調子でそんな風に請け負いますが、吊り下げられた袋の中には十個以上の缶が入っているのは明らかでした。
明日も早いのに。冴子さんは心の中で文句を垂れつつも大隣さんに背を向けました。その間際に、汗に混じった強い加齢臭が鼻に飛びこんできます。嗅ぎ慣れた臭いに、どことなく肩の力が抜けていくのを覚えながら、フローリングに裸足をぺたぺたとつけていきました。
/
下向きに調整したクーラーの冷気を浴びながら、冴子さんは手渡されたレモンチューハイの缶に口をつけます。夏場の暑さと冷房によってからからに渇いた喉は飲み物を欲していたので、その度数の低いアルコールは比較的早いペースで消化されていきました。味だけであればほとんどジュースと変わらないため、するすると身体の中へと入っていきます。
あまり飲まないようにしなければ。冴子さんはそう思いますが、既に二缶目を飲み終えそうなのにもかかわらず、まだまだ、飲みたいという気持ちは強まるばかりです。ここから先に行けば酷いことになる。そんな予感があるにもかかわらず、今のところブレーキはかかりそうにありませんでした。
一方、ちゃぶ台の向かい側に座ってビールの喉越しを楽しんでいる大隣さんの前にも、既に三缶ほどが積み上がっていました。いつも通りのいい飲みっぷりだと、よく酒の相手をしている冴子さんは思います。
彼女が大学時代にこのアパートで一人暮らしをはじめてからというもの、こうして大隣さんとお酒を飲みかわす機会が何度かありました。これといって仲がいいという意識はありませんでしたが、なぜだか、この中年男性と一緒に酒を飲むという提案には首を縦に振ってしまいます。最初は近所の公園のベンチなどでしたが、お互いに慣れていくにしたがって、飲み会はそれぞれの部屋で行われることが多くなっていきました。
とはいえ、こういった飲み会をするのは、外で偶然会った時の会話の流れというのが大半で、わざわざ夜に部屋を訪ねてくるということは今までほとんどありませんでした。そんな状況を珍しく思いながら、冴子さんは目の前に置いてある裂きイカに齧りつきます。
「娘はどんな態度を示したと思う。久々に会ったのに、まるでゴミでも見るみたいな目で俺を見るんだ。まったく、俺がなにをしたっていうんだよ」
唾が飛びそうなくらい大きく口を動かす大隣さんは、久しぶりに会った娘さんの態度についての文句を惜しげもなく撒き散らしていきます。詳しくいつからと把握しているわけではありませんが、少なくとも冴子さんがこのアパートにやってきた時には、既にこのお隣さんは奥様と別れてしまっていて独り身でした。元々、絡み酒が多い人ですが、別れた奥様とその奥様に引き取られた娘さんの話となると特に荒れてしまいがちです。
「そりゃ、俺はゴミ屑みたいにみすぼらしく見えるかもしれないし、実際中身もそんなものかもしれないが、だからといって、一人娘までそんな目で見てきやがる。誰が産んだと思ってるんだ。なあ、白河さん、あんたもそう思うだろ」
わざわざ聞きたくもないような話にいい加減な相槌を打ちながら、レモンチューハイを喉に流しこんでいきます。それほど興味がない話であるにもかかわらず、大隣さんの目に映る元奥様や娘さんのことというのは、嫌でも頭に入ってきています。大隣さん自身は元家族を悪し様に罵ってこそいますが、おおまかに入ってきた離婚の原因というのがこの酒癖の悪さとたまにならいいだろうと本人が主張する浮気なのですから、冴子さんとしても弁護しようもなければする気にもなりません。とりわけ何年もこの中年男性の生活を見ている冴子さんからしてみれば、普段はあまりお近付きになりたくない人種であるというのは嫌というほど実感しています。身なりにそれほど気を遣わず、ことあるごとに泣き言を口にしては、財布の紐を締めずにひもじそうにしているところなどからすれば、現在の大隣さんの境遇も納得のいくものでした。
大隣さんは普段通り元奥様と娘さんに対する悪口を吐き出したあと、少しだけすっきりとした表情になり、四本目のビールを取り出してそのプルタブに指をかけます。炭酸が吹きだす小気味のいい音を鳴らしたあと、缶を傾けて固そうな喉仏を二三回揺らします。その後、冴子さんの方を座った目で見つめます。
まだまだ愚痴を受け止めなくてはならないのか、と途方に暮れそうになる彼女を、大隣さんはしばらくの間、目に映していましたが、不意にその厚ぼったい唇を震わせます。
「なんだか、浮かない顔をしてるな、白河さん。なんかあったのか」
急な質問に、冴子さんは戸惑いを覚えます。基本的に自分の言いたいことだけを叩きつけていく中年男性が、このように冴子さんを気にかけるような台詞を口にするのは、数年来の珍事といえました。とはいえ、彼女に心当たりはなく、首を捻るほかありません。
「なにもないと思いますけど、そんなに普段と違いますか」
大隣さんは眉に軽く皺を寄せながら、小さく首を横に振りました。
「たいした違いってわけじゃないが、ただでさえ不景気そうな顔がいつにもまして能面みたいになっていたから、少し気になってな」
なんでもないような調子で放たれた一言に、冴子さんは心当たりなどないはずなのにもかかわらず、なにかあったのかと考えはじめます。とはいえ、ここのところ自身の仕事以外にもなにかと忙しいことが多く、なにかに感じいる余裕などないように思えました。やはり、的外れな指摘なのではないのかと言い返そうとしたところで、大隣さんの言葉が被さります。
「そう言えば、白河さんは今度結婚するんだよな。案外、そこら辺が原因なんじゃないか」
その指摘を冴子さんはすぐさま否定しようとして、ふと開きかけた唇を止めます。
たしかな不満があるというわけではありません。しかし、目の前にはこの結婚に対する煮え切らなさのようなものがチラついたままでした。時間が経てばその内、しっくりと来るだろうと言い聞かせつつも、現在のところ受けいれきれていないという状況に変化はありません。
たしかにこれは気がかりなのかもしれない。大隣さんの指摘に、誘導されているような気がしながらも、漠然とそう考えはじめていました。
「おお、その顔は図星か。しっかし、あの青かった白河さんが結婚とはな。俺も年を取るわけだ」
目の前で一人納得する中年の前で、冴子さんは不貞腐れたような気持ちで、ビニール袋からビーフジャーキーの袋を取り出して強引に破ったあと、その袋の中で小分けにされたビニールの包みを開き、中身を口の中に投げこみます。彼女がやや固い肉の歯ごたえを味わっている間、大隣さんは目をニヤけさせながら、ビールを一口含みました。
「気持ちはわからなくもないがな。結婚前っていうのはだいたいそう言うもんだ」
訳知りげに語る大隣さんの口ぶりは、普段通りのだらしなさを漂わせる一方で、経験者のみが持ち合わせる余裕を窺わせています。冴子さんには年上の男性のその態度が気にいりませんでしたが、ちょうどいい反論が思いつけなかったのもあり、桃チューハイの缶を開けてちびちびと舐めはじめます。舌先で冷たく弾けるような桃とアルミの味が混ざりあい、なんともいえない味がしました。
「特に白河さんは初めての結婚だろ。だったら、それがどんなものなのかわかんないんだから、そりゃ不安にもなるよな」
この感情の名は不安というのでしょうか。冴子さんはそんな風にして、大隣さんの分析をどこか新鮮な心地で受けとめます。婚前にそのような心地になりがちだという人並みの知識は、彼女も持っていないわけではありませんでしたが、あらためて自分自身がそのような状態である、といわれると不思議な気がしてなりません。
私にとって結婚はまだ他人事以上のなにものでもないのかもしれない。冴子さんはあらためてそう思います。
「まあ、良くも悪くもそんなに思い詰めるほどのもんじゃないさ。結婚していようといまいと、なにが変わるってわけでもないし。多少、面倒なことは増えるかもしれないが」
そう言って中年男性はビール缶に目を落とします。その瞳は遥か遠くの景色を見ているようでした。大隣さんの表情を窺いながら、冴子さんは唇を開きます。
「私のこんな気分は、おかしくないですか」
常識というものに欠ける中年男性に尋ねることに小さな疑問を覚えつつも、彼女の口は滑らかに動きました。大隣さんは目を細めつつ、缶に軽く口を付けたあと、薄らと笑います。
「どの辺がおかしいんだ」
「彼に不満なんてないのに、どうにも釈然としない、この気分です」
中年男性の問いかけに、彼女は心の中にあるわだかまりに対する素直な気持ちを口にします。冴子さんは今はっきりと、そういった気持ちに対する後ろめたさに似たなにかを自覚していました。このような私は許されるのかしら。自らに対する問いは、そのような形をとって、そこにあらわれました。
冴子さんの心の動揺を滑稽なものだととらえているのでしょうか。大隣さんは唇の端を思いきり歪めたあと、缶を傾けて四本目を空けました。
「おかしいとかそういうのではなくて、むしろ、自然なんじゃないのか。俺だって結婚する前はそれ相応に緊張はしたわけだし」
彼女は中年男性のこの言をにわかには信じれません。少なくとも大学時代からの知り合いであるお隣さんは、そうした類の緊張を感じるような人種に見えたことは一度としてありませんでした。冴子さんの気持ちを敏感に察したのか、大隣さんは、酷いなぁ、と言ったあと、五本目の缶のプルタブを引っ張ります。
「結婚した当時は俺も若造でこれからどうなるかすらもあやふやだったしな。あの頃は、自分で言うのもなんだが、少なくともあいつの一生を支えるくらいの気概は持っていたから、余計に固くなっていたっていうのもあるが」
次々と姿を現す以前の大隣さんの話は、やはり信じがたいものでした。しかしそれも当然のことで、冴子さんは今の大隣さんしか知らないのですから、この中年男性の話の真偽がどうであれ、かつての大隣さんの姿などそう簡単に思い描けるわけがありません。
「そんな風に気負ったままでいて、いざ結婚式が終わってみれば、こんなものかという気持ちになったよ。それでその後の生活も隣に連れ合いがいることが多くなったことを除けばそれほど変わらなかったから、ますます拍子抜けしたもんだ。たぶん、何の根拠もないのに、なにかが起きるって思いこんでいたんだな。それなのに、面倒なことが増えたのと、ちょっとだけ楽なことが増えた以外は、以前の生活と変わりはなかった。それが十数年、ずーっと続いたってわけだ」
いつの間にか、大隣さんは酷くつまらなさそうな表情をしています。中年男性の二つの瞳は先程と同じようにどこか遠くに焦点が合ったままでしたが、その顔はどこか苦虫を噛み潰したようでした。
「そうずっとだ。ずっと、どうってことのない日が続く。結婚していようといまいと代わり映えのない日が、ずっとな」
そう言い捨てたあと、五缶目のビールを大きく傾けて、忙しく喉仏を動かしはじめます。その中身を飲み乾した後、缶を勢いよく卓袱台に叩きつけると、後ろへ軽くよろけました。どこか締まりのない言葉の幕切れに、冴子さんは苦笑いを漏らしそうになります。しかし、結局、ぴくりと表情を動かすこともなく、アルミ缶と桃の炭酸が混じり合う味を舌先でちびちびと舐めるだけでした。
冴子さんは、ぼんやりと健太さんの顔を思い浮かべます。まだ式を挙げておらず、同居もしていない段階でどうこう言ったところで、仕方がないのかもしれません。それでも、今のまま取り立てて何も変わらない生活が延々と続いたとすればどうなるかと想像します。
ずっと、ただずっと続く。それはひとえになにも変わらないということを意味しているように冴子さんには思えました。ある意味、安心材料といえるかもしれませんが、かたやそれはなによりも深い絶望のようにも受け取れます。ですが、思い返してみれば、これまでの人生の中にあった出来事の多くも、似たような形で過ぎ去っていっただけでした。その時々では激しく、強く焼きついた出来事であっても、年月を経て冷静になって眺めてみると、多くは些細などうでもいいことにほかなりません。もちろん、それらの一つ一つの出来事を思い起こして、変え難い嬉しさや、胸を搔き毟られるような悲しみ、言い表しようのないやるせなさといった感情をたびたび思い出しもするでしょう。ですが、それですら、空から見下してしまえば多少目立つシミと変わらない程度の存在感しか持ち合わせていないのです。
これから過ぎ去っていく結婚という出来事は、多少の肩書きと仕事の内訳の変化をもたらしこそすれど、これまでとなにが変わるというわけではなく、せいぜい、なにも変わらない日々に多少の花が添えられる程度のことなのかもしれない。冴子さんは、途方もない想像に呑みこまれそうな感覚に襲われながら、わけもなく天井を見上げました。舌の上を這うなんともいえない甘さと金属の触感、アルコールによってもたらされた浮遊感、輪郭が滲みはじめた天井。この茫洋とした感覚は、今限りのものであるはずでしたが、彼女にはいつまでもいつまでも続くもののようにも思われました。
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瞼を開けるとカーテンの隙間から、薄暗い青が忍びこんできていました。どうやら、夜明けが近くなったようだと、冴子さんは時計も見ずに判断したあと、身体中を覆う気だるさとともに、腹にかけられたシーツをゆっくりと除けます。途端に、すぐ傍から漂っている加齢臭とアルコールの混じりあった臭いの強烈さに、眉を顰めました。しかし、数秒後には、散々嗅いだ馴染みのある香りであることを思い出し、気にならなくなります。
やたらとべたつく身体を気にしながら、目線を下ろすと、気持ち良さそうに大きな鼾を立てる中年男性の姿があります。冴子さんは先程まで身体に触れていたごつごつとした胸板を思い出しながら、小さく溜め息を吐きます。点けっぱなしにしていたクーラーの冷気のせいか、関節の節々に鈍い痛みのようなものがありました。
大学時代から何度か、このようにして隣人を傍らに置いて自室の天井を見あげることがありました。お互いに相手に対してさして興味がないのにもかかわらず、このようなことになるのは、成り行きに近いなにかによるものです。ともに寝たところで、どちらかがどちらかを縛りつけるというわけでもなく、立ち話と飲み会をする程度の人間関係という間柄には少しも変化はありませんでした。強いて変化を上げるとすれば、この中年の肌の枯れたような臭いが酷くなじんでしまったことと、一人で寝ているよりも隣人とともに寝ていた方が、すっきりとしたまま目覚められるという程度の差でしょうか。
ないよりはあった方がいい。冴子さんにとっての隣人との繋がりの位置づけというものはこのようなものです。特に人生の重要な事柄になるでもなく、ただただ、過ぎ去っていくどうでもいいことの一つでした。
ふと、今後はこのような機会がなくなるかもしれない、と冴子さんは思い当たります。来月からは健太さんと同居する予定である以上は、この部屋も引き払わなくてはなりません。特に理由もなく、引っ越しの準備を進めるのを遅らせていましたが、だからといっていつまでもこの場所にいられるというわけでもなく、その時は、着実に迫ってきていました。
何年も住んでいれば、嫌でも今の寝床に対して愛着とも呼べる感情を抱いてしまうのは避けられません。部屋そのものだけでなく、そのお隣さんを含む近所の人々との付き合い、大学や会社とアパートの間にあった景色と歩みのおもいで。そう言ったものを置いていくのだと考えると、やはり、多少の名残惜しさのようなものがあるのは事実でした。
しかし、それと同時になにかを置いていったり逆に置いていかれたりすることには慣れっこだと冴子さんは思います。鼻の先にある変わり目の一部が気にかかり感傷的になっているだけで、これまでも同じくらいの重さを持った出来事やおもいでがいくつも過ぎ去っていっても、たいして変わらずに生きてこられたのですから。
髪の上に大きく硬い掌が乗せられます。隣に寝ている男性が起きたのかと勘繰って、そちらへと視線を向けますが、少なくとも表面上は目を瞑っています。ただの寝相なのか、狸寝入りをして楽しんでいるのか。どちらとも判断しかねましたが、その手馴れた動作が比較的心地良かったのもあって、黙ったまま受けいれます。
もしかしたら、これが最後になるのかしら。そう思う冴子さんがこの部屋を後にするまでの日取りに、それほど間があるわけではありません。巡り合わせが悪ければ、顔を合わせる機会すらなく、たいした挨拶もできないまま別れるということもあり得ます。ですが、冴子さんはこのお隣さんとのそんな薄絹のような縁をとても、自分達らしいと感じていました。
一筋の温い浜風が肌を掠めて微かな気持ち悪さに気付いた時、既に風は止んでしまってどこにいったのかもわからなくなってしまい、時間が経つにつれてその気持ち悪さもどうでも良くなり忘れていってしまう。この隣人との付き合いはそのような性質のものであり、この部屋を出てしまえば程なくして薄れていく程度のおもいでになってしまうのだろうと、冴子さんは思いました。
目を固く瞑ったままでいる中年男性をなんとはなしに見つめながら、冴子さんは健太さんとのこれからについてぼんやり思いを馳せます。すぐ近くまで迫ってきているはずの結婚は、いまだに実感に乏しく、これから誰かの妻になる、ということがいまだに上手く消化しきれていません。その日はすぐにやってくるのだと言い聞かせても、どこか他人事である感は拭えませんし、彼女自身も他人事であることが望ましいような気すらしています。
いずれにしろ、たいしたことではない日々が続いていくことには変わりがない。まだ、なにが起こるのかもわからないうちであるのにもかかわらず、冴子さんの中にはそんな思いが満ち溢れています。
すぐ傍の窓の方を見ると、外側から入りこんできた青が部屋中を染めていっています。夜明け前の薄暗さに包まれながら、冴子さんは、あと何度、こんな朝を迎えるのだろう、と漠然と考えました。
すぐ近くでは鳥たちが鳴き声を交わしあっています。
あお ムラサキハルカ @harukamurasaki
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