二
喫茶店で結婚式についての話を終えたあと、冴子さんは健太さんに腕を引かれて夜の街を歩きます。
今二人がいる一帯は、都市部からはやや離れたところに位置してはいますが、飲み屋やラーメン屋など、夜間営業をしている店が比較的多く、色取り取りのネオンに挟まれた路地は、サラリーマンや大学生などで賑わいを見せています。それらの人々の話し声の渦の中に身を置きながら、冴子さんはやや聞きとりにくくなった健太さんの言葉に耳を澄まします。
「ここのところうちの部署ではテニスが流行っているんだ。僕はそれほど得意ではないんだけど、これがなかなか馬鹿にできなくてね」
話題は、先程喫茶店内で口にされたものよりも、随分と砕けたものになっています。実に楽しげな様子の健太さんの街灯りに照らされた横顔を見ながら、冴子さんは薄らとした微笑みを張りつけて相槌を打ち、必要なところ以外を聞き流します。
もしも、この日話したことについて深く問い詰められたとすれば、口を詰まらせてしまいかねませんでしたが、現在のところ、彼は話し終えた事柄に執着することがないので、彼女もこのような態度をあらためようとしません。
デートの時は室内で静かなところにいるのを好む冴子さんに合わせて美術館や映画館に行くことこそ多いものの、健太さんの方はどちらかといえば外で身体を動かすことを好んでいるため、二人の話題はしばしば噛みあいません。合わないならば無理に合わせる必要はないと考える冴子さんとは対照的に、健太さんは時間のある限り相手の趣味について勉強し合わせようとします。そんな恋人の気遣いを、冴子さんはありがたく思うのとともに、重たく感じていました。たしかに話題に困らないに越したことはありませんが、それは相手に無理をさせてまでということではないと考える彼女にとって、付き合っている相手に合わせて自分の形を変えようとする恋のあり方には気後れしてしまいそうになります。
そうしたことを踏まえたうえで、冴子さんは恋人が楽しげに話している際は、できうるかぎり、気持ち良くなってくれればと相槌を打つようになりました。こういった態度は、他の人々と接する際にも多少は行っていたことではありましたが、健太さんを相手にする時には、より自然に見えるようにと注意して振る舞っています。
健太さんが私に合わせて、わざわざ無理をする必要などない。そんな思いの皺寄せが自分に降りかかってきているのを冴子さんも理解していましたが、表情を作るだけであればそれほどの苦にはなりませんし、話自体は半ば聞き流しているので、たいした気疲れもありません。
今もまた建物と建物の間で反響する人々の声の中から、健太さんのものに耳を澄まします。やはり、内容自体は冴子さんにとってどうでもいいことであり、適当に相槌を打ちます。おそらく、話の多くは明日にでも忘却の彼方へと葬られてしまうに違いありません。しかし、二十代の男性らしい溌剌とした低い声は、やや聞くのに体力が必要になりはするものの、決して悪くはない。そんな風に彼女は思うのです。
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明日も健太さんは出勤日で、まだまだ家で片付けなくてはならない仕事があるとのことでした。それほど忙しくなければ、どちらかのアパートでともに過ごすのも珍しくはないのですが、今日はどうしても一人で集中したいと告げる恋人の申し出を断る理由もありません。冴子さんもまた明日は仕事でしたし、恋人と長い時間ともにいるという状況に慣れはじめてはいても、いつでも一緒にいたいというほどの強い感情を持ち合わせてはいませんでした。
普段通り、冴子さんをアパートの二階にある部屋前まで送り届けたあと、健太さんは爽やかに微笑みます。
「それじゃあ、お休み。忙しくならなければ、また明日」
名残惜しげにそう口にする健太さんに対して、冴子さんもまた笑みを繕って応じます。
「おやすみなさい。できれば、また明日」
短くそう答えたあと、冴子さんは目を瞑ります。程なくして、唇に柔らかい感触が被さりました。恋人から与えられるそれは、いままで知りあってきた男性に比べると、女性のもののようだと彼女には思えます。決して不快というわけではありませんが、どことなく不思議な気持ちで受け止めているというのが現状でした。
十数秒後、唇が離れていくのと同時に、冴子さんは瞼を開きます。満足げな様子で眼尻を和らげる健太さんに、彼女は軽く目配せをしました。
手を振りながら階段を下りていく健太さんに、冴子さんは同じように手を振り返します。徐々に遠くなっていく恋人の姿を少しだけ名残惜しく感じる一方で、胸には深い安堵が満ちていきました。
健太さんの姿が闇に紛れたあと、冴子さんはすぐにアパートの扉に身体を滑りこませ、鍵とチェーンをかけたあと、ゆっくりと肩の力を抜きます。ハイヒールを脱いだあと、フローリングの玄関にへたりこみ、大きく息を吐き出しました。
電気を付けていない天井を見上げながら、コンセントに繋いだままの電化製品が立てる微かな音を耳にして、自宅に帰ってきたという実感が冴子さんの身体に染みいっていきます。
冷房をつけていない温い室内にいるのは冴子さんだけです。しかし、その事実がなによりも彼女の心を安らがせました。
力を抜いたままでいながら、彼女はもうしばらく立ちたくない、と思っていました。頬から汗が流れるのとともに、冷蔵庫が、ごとりと音を立てました。
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