あお

ムラサキハルカ

 一

 ある夏の日、喫茶店内はそれなりの賑わいを見せていました。カウンター席では常連客がカップを拭いているマスターに話しかけては笑い合っていましたし、そこから少し離れたテーブル席もぽつりぽつりと埋まっていて、主婦や女子大生たちが談笑しています。


 冴子さんはそれらのテーブル席の内、窓際に腰掛けてぼんやりと外を眺めていました。手元には、飲みかけのアイスティーが置かれたままでしたが、差してあるストローに唇を押しつける気にはなれず、淡い光を放つ空に目をやります。薄いオレンジに少し混じった紫に染まった大気と、その上を流れていく細かくちぎれた雲、ゆっくりと沈みつつある太陽。どれもこれも、見慣れたものばかりで、新鮮さに欠けます。ちゃんと数えたことこそありませんでしたが、おそらく、何百何千回とこんな風な光景を見てきたはずだと、彼女は思いました。


 店内に響く人々の声は、ごくごく近くから聞こえてきているはずなのにもかかわらず、冴子さんにはどこか遠くの出来事のように感じられました。窓際で一人取り残されたような気持ちになりながら、彼女は待ち合わせ相手の健太さんのことを考えます。


 時刻は六時少し過ぎ。同僚に捕まっていなければ、健太さんはタイムカードを押して、会社を出たあたりでしょう。もしかしたら、冴子さんが早めに待っているのを察して小走りをしているかもしれません。そんなことをしても五分に一度やってくる電車が一本早くなるくらいですが、そのたった五分を大事にするところが彼にはあります。


 気配りのできるいい人。冴子さんの中にある健太さんの印象を端的に表すと、そんなところに落ち着きます。特に運動が得意というわけでもないのに休日に身体を動かすのが好きで、常に笑顔を絶やさず、あまり感情を表さない冴子さんの顔色を読み取って細やかな気遣いをする。一つ一つの特徴を並べれば並べるほど、人の良さが滲み出てきます。


 冴子さんが健太さんと付き合いはじめて既に一年半程が経ちます。合同コンパで知り合った二人は、お互いの休日が合った時に約束をかわし、徐々に仲を深めていきました。当初は彼女もそれほど積極的な付き合いをしているつもりはありませんでしたが、特に不都合があったというわけではなかったので、ずるずると付き合い続けていました。


 印象派の画家の個展、古めのヨーロッパ映画を映している小さな劇場、少し洒落たイタリア料理屋。さほど意外性のない社交場における逢引きは、冴子さんに小さな、それでいてたしかな満足感を与えていきました。


 そして恋人と呼ばれるものがするであろう一通りの手続きをこなし、健太さんといることが当たり前になってきた頃。呼び出された冴子さんは、はっきりと告げられました。結婚して欲しいと。


 /


「待ったかな」


 予想通り、やや息を切らした健太さんは、こめかみのあたりをハンカチで拭きとりながら、対面に腰かけます。冴子さんは窓から目を離してから、首を横に振りました。


「いいえ、そんなに待ってないわ」


 事実とは異なる決まり文句を口にしながら、冴子さんは薄らとした笑みを張りつけようと努めます。顔を紅潮させた恋人と向きあうと同時に、自然と身体が強張っていきます。


「そうか。それだったらいいんだけど」


 健太さんは冴子さんの言葉を特に疑う様子もないまま、通りがかったウエイトレスに向けて軽く手を上げてみせます。席の傍に立ったウエイトレスにコーヒーを注文する恋人の横顔を見ながら、取り立てて特徴のない顔だな、と冴子さんは思います。短い髪の毛、一重瞼の下にあるはっきりと開いた目、低い鼻、薄い唇。好みか好みではないと二択で聞かれれば前者ですが、もしもそれ以外の選択肢があるとすれば悪くはないと答えるでしょう。ともに寝ることができる許容範囲内である、というのが適切な解答かもしれません。


 そのなんでもない横顔を見つめながら、冴子さんは結婚を申しこまれた時のことを頭に浮かべます。その時、彼女は少しだけ間を置いてからゆっくりと頷きました。時間を置いた際、特になにかを考えていたわけではなく、首を縦に振ったのもほとんど反射的なものでした。それでも冴子さんは今にいたるまでその時の首の動きを訂正していません。


 健太さんと付き合いはじめてから、冴子さんの頭には、結婚という言葉が口にしてはいなくても薄らと浮かんでいました。大学卒業後に就職してから数年が経ち、今勤めている会社の環境では、手頃な出会いというものが少ないだろうと察しはじめた頃、ちょうどいい具合に知り合ったのが健太さんです。合同コンパという、出会いを前提とした場を通して知り合ったのもあり、それなりにうまがあったとなれば、当然、現在の交際の先というものを想像します。それは健太さんとなんとなく付き合い続けていた冴子さんも例外ではありませんでした。


 もしも、プロポーズをされたらどう答えればいいのかしら。まだ、それが現実になっていない頃、冴子さんは時々、そのことについて考えました。


 いい人ではある。健太さんとともに過ごすうちに、その確信は徐々に深まっていきます。ですが、そのいい人と一生を添い遂げることができるか、という問いかけにはどう答えていいのかわかりませんでした。冴子さんにとって健太さんが比較的好ましい相手であるというのは間違いありません。ただ、その好ましいはあくまでも、どちらかといえば、という消極的なものです。好きでない、といえば嘘になりますが、特別に好きであるとも言い切れない、そんなどこか煮え切らない気持ちです。


 結婚を申しこまれた日も、その胸の内はそれほど変わりはありませんでした。


 しかし、冴子さんはさして迷うでもなく頷きました。彼女自身すら信じられないくらいあっさりとした心地で。


 たぶん、こんなものだろう。後々になってその日を振りかえった冴子さんは、そんな風にして自分を納得させました。お互いの収入、恋人の容姿や性格、二人の相性。それらの条件の一つ一つを合わせれば、この結婚は決して悪いものではありません。少なくともこれ以上の好条件が今後やってくるとすぐには頷くことができない程度には。こうしたことは、プロポーズされる当日までには、何度も考えた事柄でした。踏ん切りをつけられたのは、直接の申しこみを聞くことができたからにほかなりません。


 きっと、悪くはない。冴子さんは冴子さんなりにそう考えたうえで、この結婚を了承したのです。


「遅くなってしまってすまなかったね」


 目の前には注文を終えて、再び謝る健太さんの姿があります。ややくたびれたスーツが、今日の仕事における、彼の頑張りを伝えているようでした。


「さっきも言ったけど、そんなに待ってないわ」

「うん、そうかもしれない。けれど、待たせてしまったのは変わりがないからね」


 恋人の控え目な微笑みには小さな疲れが見て取れます。それを目にしながら冴子さんはなにもいわずにアイスティーをストローで吸い上げます。氷が溶けて薄まった飲料は、随分とぬるくなっていました。


 健太さんは冴子さんの様子を見てとったあと、忙しげな口を動かしはじめます。話題の中心にあるのは、ここのところ増えてきた結婚についてのあれこれです。


 彼女が少し首を上下させたことで動きだした結婚への流れは、最初こそ緩やかなものでしたが、徐々に忙しげなものになっていきました。お互いの家への挨拶にはじまり、披露宴の形式や会場などについての細かい取り決め、衣装合わせなど。漠然としていた未来が、徐々にではありますが明確な輪郭を描きはじめていました。


 既に式の予定日まで一月を切っていました。近日に迫った結婚式会場での最終打ち合わせについての話が、健太さんの口からこぼれだしています。快活な調子で紡ぎだされる恋人の言葉の一つ一つに相槌を打ちながら、冴子さんは窓から差しこんでくる淡いオレンジの光に目を細めそうになりました。


 横目に映る健太さんはやや興奮した様子で、二人のこれからについて語ります。主に近い未来の話が中心でしたが、時々話が遠くのまだ末端すら見えない出来事へと移りました。それを耳にしながら、冴子さんは自分のことであるはずなのにもかかわらず、健太さんの言う漠然とした未来予想図を他人事のように思いました。


 二人が結婚を決めてから既に半年以上が経過していました。プロポーズをした健太さんはもちろん、それを受けいれた冴子さんもまた着実に手続きを踏んでいっています。彼女も頭の中では、それが自分のことであるというのは充分に理解していましたが、どうもそれが実感に繋がりません。当然、首を縦に振ったのは冴子さん自身です。当日は頭が真っ白なまま頷きましたが、その日まで彼女なりに悩み考えた末の結論でした。しかし、それらの決定は、あくまでも頭の中で細かい損得の差し引きをした末に、消去法に近い形でもたらされたものであり、これでいい、というたしかな気持ちによってもたらされたものではありません。そのうえ、彼女は自らの返答の先にあることを漠然と把握していたはずなのにもかかわらず、選択をしたのならば大きな安らぎがやってくるのだと思いこんでいました。


 冴子さんの実感とは対照的に時は着実に刻まれていっており、どうしようもないほどの遠隔地への片道切符を掴まされたような心地のままでいる彼女を、健太さんの申しこんだ目標へと連れて行こうとしています。


 その内、実感もついてくるはず。プロポーズをされてから今日にいたるまで、そう信じこんでいましたが、いまだに冴子さんはまだ見ぬ未来へと流れていく現実を受けいれられないままでした。


「どうしたんだい。さっきから随分と難しい顔をしているけど」


 いつの間にか、健太さんが先程まで大きく開いていた瞼と瞼の間を細くして、冴子さんの目を覗きこんでいました。手元にコーヒーが届いているところからすれば、それなりに時間が経ったのでしょう。彼女は口の端を弛めながら首を横に振ります。


「そうかしら。特にそんなことはないと思うけど」


 答えつつも、冴子さんの中の煮え切らない気持ちは大きくなるばかりです。ですが、その感情を彼女は表に出さないように心掛けます。


「そうかい。なにかあるなら、隠さずに言ってくれよ」


 健太さんは冴子さんの台詞をそのまま受け止めてはいないようでしたが、深く追求する気もないようでした。彼女は頷きながら、笑みを深めていきます。できるだけ、愛想笑いの色合いが深くならないよう、周到に注意を重ねて、顔の肉を寄せていきました。


 釈然としない表情をしたまま、健太さんは話を元の結婚式会場との打ち合わせの件へと戻していきました。冴子さんもまた、先程とあまり変わらない相槌を打ちながら、今度はできるだけ笑みが絶やさないように心掛けます。


 やっぱり、この時間はそれなりに好ましいもの。空から明るさが失われていくのを窓越しに見てとりながら、冴子さんはぼんやりとそう思います。


 比較的好みの顔を見ながら過ごす穏やかな時間。今はやや重たい約束が付き纏って窮屈なものになりつつありますが、それでも、冴子さんが過ごしている毎日の中でも一際好ましい時間の一つであるのは変わりがありませんでした。

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