完結 夏
九月。晴れの日。運動会。
「ミキ!」
「イェイ」
会心のハイタッチ。四年生の男子リレーで、僕ら白団は見事にトップをもぎ獲った。
まず、第一走者の良太郎君がダンプカーの走りで、トップと接戦の二位につけた。第二走者、第三走者でややトップから離されつつも順位をキープして、第四走者の僕が一位に躍り出た。そのままアンカーの俊平君が先頭でゴールを切って、物凄い歓声が僕らを取り囲んだ。
クラスのみんなも喜んでいた。その中でも、やっぱり僕と良太郎君の喜びが、一番大きかったに違いない。密かに練習をしてきた成果は、勝利の喜びを何倍にも盛り上げる。
「出足、良かっただろ」
「完璧」
巨体の良太郎君が前に出れば、出遅れた選手はそうそう追い越せない。
「でも二位だったしな。次は……」
「こら、二人とも。早く退場しなさい」
静久先生に促されて、いそいそと退場ゲートへ駆け込んだ。ゲートの向こうには、次の団体競技に挑む一年のチビたちが並んでいた。
今日の静久先生は、もちろんジャージの運動着だ。シンプルだからいつにもまして、先生の背の高さと、姿勢の良さが際立っている。何より表情が晴れやかだ。僕らを叱りながらも、目は笑っていた。
「次は一位になるぞ。四年の徒競走」
ゲートを抜けてテントに戻る途中、良太郎君が不敵な笑みを浮かべた。
僕らにとってのもう一つの晴れ舞台が、学年ごとの徒競走だ。全員が出走する徒競走は、選抜リレーに比べれば地味な種目だし、個人ごとの点数も低い。
ところがこの種目で、僕と良太郎君は同じ組で走ることになっている。つまり、さっきのリレーでは協力し合う仲間だったけれど、こちらでは競い合うライバルになるというわけだ。
「負けないからな、ミキ」
「僕だって」
白い歯を見せて笑った。その肩越しに、野球のバックネットのあたりを目で探す。ラフな格好をしたお父さんが、誰かの保護者らしき人と一緒に、チビたちのお遊戯を眺めていた。
さっきのリレーで、アンカーにバトンを渡した直後、ちらりと見たお父さんの顔は、僕にも負けないぐらい晴れやかだった。
嶋田のおばさんは、保護者席でもかなり目立っている。何しろ地声が大きいし、実の娘を含めて子どもが五人もいるのだから、誰かが出場するたびに大きな声援を飛ばしている。夏希さんが名前を呼ばれて、恥ずかしそうに手を振り返していた。
今まであのおばさんを好きになれなかった理由が、やっとわかった。おばさんは子どもに対して口を出す割に、娘の夏希さんは、学校であまり楽しそうな顔をしていなかった。そのためだ。そのせいで、あの人の教育というものが信用できなかったんだ。でも、夏希さんも女子リレーの一員として、立派に走り切った。その笑顔は輝いている。
おばさんは、その笑顔が欲しかったんだ。
僕らが笑えば、大人も笑うんだ。
校門の側には、お母さんが来ていた。一度東京へ帰ったお母さんが、この日のためにまた来てくれた。その隣には体格の良い男性と、中学生ぐらいの女の子が、物珍しそうに学校全体を見渡している。
「あれ、ミキの姉ちゃん?」
視線に気づいた良太郎君が、声を潜めて尋ねた。
「……そう、なるのかな」
血も繋がっていないし、戸籍でも他人だけど、同じ人を母親と呼ぶという点では姉弟みたいなものだ。
どこがどうとは良くわからないけれど、一目で都会育ちとわかる父と娘。お母さんがこの町に来て、僕にあれこれ口を出したのは、ああいう精錬された人たちと暮らすうちに生じた、諸々の感情のためだった。都会は子どもの数が多いから、その社会の中で我が子の『地位』と『格』を確立するのが大変なんだとか。そして子どもの格は、母親の格で決められてしまうのだそうだ。
――都会の人、初めまして。どうか僕を見てください。お母さんの育てた僕を見て、お母さんの事をもっと知ってください。
――お母さん。僕、頑張るから。お母さんが胸を張って自慢できるぐらい、この町で、力いっぱいやってみせるから。
無言のエールを胸に秘めて、プログラムは進む。
「良太郎君、知ってる? お母さんに聞いたんだけどさ、赤団、白団、っていう呼び方は、余所では使わないんだって」
「へえ、じゃ、何ていうんだ」
「赤組と白組、だってさ」
「それじゃ普段の、四年二組っていうのと変わらないじゃん。運動会は特別なんだからさあ、組より団の方がいいよな」
「団結って言うしね」
町内音頭。綱引き。昼ご飯を教室で食べて、いま、六年生の組体操が終わった。
アナウンスが勝負の時を告げる。
「次のプログラムは、四年生の徒競走です」
入場ゲートに整列して、アナウンスに合わせてスタート地点へ駆ける。同じ横の並びに良太郎君がいる。同じ列に並ぶ、僕たち以外の四人は、それほど足の速くない人たちだ。勝負は僕と良太郎君の一騎打ちになるだろう。
順番を待ちながら、グラウンドを取り囲むテントを、ぼんやりと眺めていた。
学校には、色んな生徒がいる。そのそれぞれに親がいる。家族の周りにも大勢の大人がいる。みんな、それぞれ違うものを求めている。この徒競走だって、まったく興味のない人もいるだろう。だけど、僕を知る人たちにとっては、待ち遠しい瞬間だ。
「良太郎君」
「ん?」
「もし、僕が転んでも、全力で突っ走ってね」
誰かが転んだら、わざと足を緩める。そういうのが美徳だという大人もいる。転んだすきに追い抜くのは卑怯だという人もいる。そんな評判は、僕らには関係のないことだ。
「あったり前じゃん。ミキも、最後まで本気でやれよ」
「もちろん。手加減なんてしないよ」
本気。全力。それこそが礼儀だ。
僕たちの絞り出す精一杯の笑顔と汗が、可哀そうな子、乱暴な子という烙印を跳ね除ける唯一の手段だ。
順番が来た。
僕を知るすべての人に、全力を見せてやる。それが僕たちの戦いだ。
「よーい」
スターターは静久先生だ。練習通りの、ひと呼吸半。
ドン、の代わりの銃声と同時に、僕らは飛び出した。
烙印 狸汁ぺろり @tanukijiru
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