夢の夢こそあはれなれ

 途中で事故渋滞に巻き込まれて、高速を降りたのは午前三時。和歌山に入っていた。三段壁さんだんべきに行こう、と二時過ぎに呟いた律果に、紫雁は無言でナビを起動した。死体が上がらない場所はちょうど良い。

 会話は途切れている。律果は頬杖を衝いてぼうっと窓の外を眺め、紫雁はただ前を向いてハンドルを握っていた。

 世界に二人きりとはこんなときに使う表現なのだろう。けれど、それは幻想に過ぎない。遺伝、血。DNAは生きている限り決して解けない呪縛で、だから忌々いまいましくて、だからこそ欲しかった。

 細く開けた窓からしおの香りがする。やがて閑散かんさんとした駐車場に入り、サイドブレーキを踏んだ。地面に引かれた枠線からズレても気にせずに済むのは楽だ。他にまっている車は一台か二台。もしかしたら同じ目的かもしれなかった。

「ああ、着いた着いた。運転お疲れ様」

「いい加減に腰が痛え。お前、本気で一度も交代しねえんだからな」

 軽くストレッチをすると、強張こわばった筋がバキバキと鳴る。あまりの音に顔をゆがめた紫雁を律果がからからと笑った。その手にあったのは桐箱ひとつ。財布もスマートフォンも車内に置いていく。もう、自分たちには不要なものだ。

 砂利じゃりの敷かれた駐車場を、手を繋いで歩く。雑草を踏むと夜露よつゆに靴が濡れた。あだしヶ原の道の、と律果が歌うように呟いた。

 海のにおい。冷たい夜の空気と、吹き付けてくる潮風。崖に近付くと唸るような、叫ぶような波の音がする。顔に触れる細かな飛沫しぶきをくすぐったく感じた。暁の海は、真っ黒に染まって口を開けていた。

「件のバイトの人に頼んで譲ってもらったんだ。きちんと加工してあるものは、なかなかそこいらでは買えなくて」

 街灯に浮かび上がる桐箱の中身は、赤い麻縄だった。紫雁と別れたてから、これを受け取りに行っていたらしい。呆れた顔をする紫雁に対し、なめされた柔らかな縄を解く律果は得意げだった。紫雁の胴に縄を回し、ぐるぐると巻く。手慣れている。

「後悔しないかい?」

「悔やむ後も無いのに、するわけ無いだろ」

 考えるより先に出たその言葉が本心だった。今になって後悔するくらいなら、此処までの道行みちゆきで引き返しているだろう。考える時間はあった。問い直して尚、紫雁は律果と共に此処に来た。

「それもそうだ」

 縄が締まった。お互い、遺書などは遺して来なかった。いなくなった後のことなど、考える必要は無い。

 自分の身体からだに縄のもう一端を縛り付ける律果の手を、紫雁はじっと見守っていた。夜明けは間近に迫っている。陽が昇る前に終わらせるのだ。夏至の夜に、余計なことをしている暇は無い。

 お互いの胴を繋いだ縄が、ほどけないことを確かめた。紫雁は律果の首に両手を添える。細い首だ。指の腹の下で、とくとくと血液が流れているのが分かる。半分、紫雁と違う血が。

ついぞ、下の名前で呼ばなかったよな」

「呼ばれたいかい?」

 愛おしいものを見るような目で問われたそれに、紫雁は否と答えた。そうだな、と頷いた律果も同じことを思っているのが分かった。自分たちの終着点は此処だ。これ以上には行けない。

「頼むよ、四辻。早く」

 自分と同じ目がゆっくりと閉じる。紫雁は両手に力を籠めた。血管をき止め、酸素をはばむ。次第に、白かった頬が色付き、口が開いた。きつい眉が悩ましげに皺を刻む。吊り気味の目が薄く開いて黒い瞳が覗いた。まなじりからぽろりと涙が零れた。

 冷たい指先が自分を絞め上げる腕に触れ、無意識の内に爪を立てる。いくつも赤い線が出来たが、紫雁の手は緩まなかった。

 やがて爪の汚れた指先がだらりと地に落ちる。気付けば紫雁は膝を衝いていた。強張った両手を離すと、意識を失った律果が、指痕の付いた首をかくりと紫雁に預けた。

 心はいでいる。華奢な身体を抱き上げて、紫雁は崖の淵に立つ。東の水平線が白んできているのが、視界の端に見えた。

 いこう、神崎。名前で呼び合えるところへ。腕の中の連れに呼び掛け、宙へ足を踏み出した。

 海水は冷たいようで温かい気がした。波に揉まれて岩に背を打って、開いた口から身体が溶けていく。鼻、喉、肺、背中、頭。痛みも曖昧になって、ただ穏やかだった。ぼやけた目が、天上へ昇っていく白銀の泡の中で、ゆらりとなびく赤をとらえた。離すものかと腕に抱き締めた。今度こそ、一緒に。


 自分たちをエゴに付き合わせた、一人の父と二人の母を思った。




 自分たちのエゴに付き合わされる、まだ見ぬの両親を想った。


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然らば、閉幕。 片桐万紀 @MakiKatagiri0504

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