夜想曲(ノクターン)

賢者テラ

短編

 1812年。イタリアはトスカーナ州、フィレンツェ。

 夜の九時を回り、一日の仕事や用事を終えた人々はいそいそと家路につく。

 闇の支配する領域からは、人の姿が一人、また一人と街の風景から消えてゆく。

 情緒あふれるイタリアの町並みが続く、ピレーノ大通りの一角の、とあるレストランには——

 この時間になってもまだ、こうこうと明かりが灯っていた。



 まだ駆け出しのシェフ、マルコは誰もいない店内で一人、頭を抱えていた。

 彼は若くしてこの名店『トラットリア・アマローネ』のシェフとなった。

 海岸沿いの田舎町で育った彼は、15歳のときに父親に連れられ、初めてミラノの地を踏んだ。

 ミラノ屈指の、あるリストランテ (高級レストラン)で食事をした。

 マルコは、目をむいて跳び上がった。舌が、歓喜の悲鳴を上げた。



 ……世の中には、こんなにうまいものがあったのか!



 プリモ・ピアット(パスタ)は『ヴェネチア風ペスカトーラ』(海鮮風スパゲッティ)。

 セコンド・ピアット(メイン)は 『アバッキオのカッチャトーラ』(仔牛のトマトソース煮)。

 イタリア料理に魅せられたマルコは、父の漁師業を継がず、このレストランの門を叩いた。

 そのあふれるばかりの情熱と、もともと料理のセンスがあったこととが幸いして、次第にその実力が認められ、まだ25歳という若さでパスタ場を仕切るチーフ・シェフとなった。



 しかし。マルコは今、行き詰っていた。

 それまで、料理は彼にとって『芸術』であり『創造』であった。

 しかし、レストラン内で地位ある立場を得た彼に、別の試練が待っていたのだ。

 料理のクオリティの保持。

 上に立つ者として『管理職』のような業務も、仕事のうちに入ってきた。

 そして、何より客入りが多く忙しいこのトラットリアでの激務を終えた後で、彼はヘトヘトであった。

 追うのではなく、仕事に追われる日々。

 仕事一筋で、プライベートを顧みない彼に、恋人のカニーナは見切りをつけた。

 ある朝、テーブルに置手紙を残して去っていった。もはや行き先さえ分らない。

 とにかく、殺到するオーダーを高速機械のようにさばく日々の中、彼の中の発想も貧困になっていった。



 つい先日、総料理長から、新メニューの考案を命じられた。

 しかし、無理に何か考えようとすればするほど、頭の中は真っ白になった。

 ちょうど、昔学校で作文の宿題を出された時、何も書くことが思い浮かばなくて苦しんだことを思い出す。ちょうどその時と同じ感覚が、マルコを襲った。



 ……うまい料理なんて、完璧なレシピが出来てしまえば、あとはそれを忠実に作り続けるだけ。

 これだけ世界中で料理というものが作られ続ければ、本当の意味で新しいもの、なんてこの世にない。新しいものを無理に考えたところで所詮、昔あった何かの真似か焼き直しにすぎない。

 歴史の中で、ひとりの人間の考えることなんて、世界のどっかの人間がとっくに考えてしまっていることさ——

 今のマルコは、そんな思いに囚われてしまっていたのだ。




 突然、ギイイ……とドアの開く音がした。

「すみません、もう閉店なんですが——」

 マルコは厨房を出て、入り口に駆け寄った。

 ドアの隙間からわずかな冷気とともに、二人の男が入ってきた。



 一人は背の高い、彫りの深い顔立ちをした40代位の男。

 髪は、見事な銀髪だった。

 二人目は、20代前半位の華奢な青年だった。

 青年のほうが声をかけてきた。

「……実は、所用あってはるばるイタリアまで来たのですが、手違いでホテルの予約が取れていなくて、困っているのです。今からでもどこか泊めてくれそうな宿屋を、ご存知ではありませんか?」

 話を聞くと、彼らはドイツ人で、背の高い男は音楽家らしい。

 そして青年の方は音楽家の弟子であり、マネージャーも兼ねているのだという。

 閉店時間すぎを過ぎているが、マルコは人付き合いの苦手そうな音楽家の男に、なぜだか説明のつかない親近感を抱いた。

 時間を忘れて創作に没頭していたため、食事もまだだという彼らのために、マルコは料理を作ってもてなすことにした。



 前菜(アンティパスト)は『キアーナ牛のカルパッチョ』。

 プリモ・ピアット(パスタ) は、『ジェノベーゼのリングイーネ』。

 セコンド・ピアット(メイン)は『ザンポーネ(豚の前足に詰め物をしたソーセージ)のレンズ豆添え』 。

 ドルチェ(デザート)は、リコッタチーズのタルト。



 一品置くごとに、テーブルの前の彼らは顔を輝かせ——

『ほう。これはうまい!』と、口々にマルコの料理を褒めた。

 マルコはこの時、不思議な感激に浸っていた。

 客が多すぎて、ただただオーダーに忙殺される日々。

 今のように、客の反応を見ながら自分で給仕をするなどというのは、日常業務ではあり得ない。

 二人のドイツ人が、一口一口に感嘆の言葉を添えて食べてくれるのを見ていると、遠い昔に忘れてしまった大事な何かを思い出しそうな、そんな感情が彼の胸に押し寄せた。



 一通りの食事を終えたあと、音楽家の弟子の青年は言った。

「素晴らしい食事をいただいたお礼に、先生が一曲弾かせていただきたいと言っています」

 青年は、レストランの片隅にあるグランドピアノを指して遠慮がちに言った。

「……あれを使わせていただいてよろしいですか?」

 マルコが是非に、と伝えたので、銀髪の音楽家はピアノに向かった。

 ふと、心に引っかかるものを感じて、マルコは青年に尋ねた。

「あなたの先生は、さっきから全てあなたを通してしか会話をなさらない。それはなぜです?」

 ああ、言い忘れてましたとでも言うような顔つきになって、青年はマルコに耳打ちした。

「先生は……耳が聴こえないんです」



 絶句したマルコは、フラフラとピアノ近くの客席に腰掛けた。

 音楽家なのに……耳が聴こえない?

 料理人に例えると、味覚が分らないのに人が「うまい」という料理をつくる、というのと似たようなものじゃないか? 耳が聞こえないのに音楽家として活動しているこの男に比べると、マルコは今の自分が大変な愚か者のように思われ、恥じ入った。



 ……私は神から、仕事を成すのに十分な力を与えられていながら、何と低い次元で戦っていたことだろう!



 目の前の男は、乏しい中からその残ったものを最大限に生かそうとしている。

 いや。乏しいのではない。

 逆 『表現したい』という強い想いが、豊かにあふれているのだ。

 そして、致命的なハンデさえそれを押さえつけることができないのだ!



 窓からの月光が、幾筋も銀髪の音楽家を突き通す。

 一瞬目を伏せた彼は、ゆっくり両腕を高く挙げた。

 淡く光った白い鍵盤は、彼の長くしなやかな指を呼び寄せる。



 とたんに、重層な和音が響き、室内の隅々までも満たした。

 数秒の余韻。

 すぐさま急に世界が変わったのように、音たちが踊り始める。

 雨粒が激しく叩きつけられるような、音の嵐の中。

 そこに、まるで一陣の風が吹き抜けていったかのようであった。



 やがて、優しい木漏れ日がのぞく。

 黒雲はすでに流れ去り、光のプリズムが織り成す暖かな調べ。

 音のさざ波は揺れる。上へ下へ。すぐそばへ、そして彼方へ。

 月の神秘は宙に満てり、夜の街は人の憩いに、そして愛に満てり——。



 ついに音の世界は、全ての終局に向かって動いた。

 オペラの役者が、フィナーレで全て揃って、挨拶するかのように。

 音の洪水。

 狂おしく最後を飾らんと激しく燃え上がる旋律——。



 もはや、全ての糸が手繰り寄せられた。

 もつれ合い、編み上げられたそれは大きなうねりとなって天空へ駆け上る。

 男は、渾身の力を、そして想いの全てを指先に込めた。

 最後の和音が、しばし静寂を支配する。



 それからしばらく、誰も動けなかった。

 マルコは、自分の体という入れ物の中にある全てを、ひっくり返されたような気がした。

 彼の心からは、真っ赤な血が流れていた。

 しかしそれは、マルコ自身が新しく生まれ変わるための、聖別と再生の血であったのだ。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「うまい」

 一口目を口に含んだ総料理長・ビアーノは感嘆した。

「マルコ。この一皿について説明してくれ」

 かたわらで、緊張の面持ちで立っていたマルコは、さらに身を硬くした。



「基本は、『ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ 』。

 ご存知、トスカーナの郷土料理です。

 一見、よくある炭火焼のTボーンステーキのようですが——

 ただそれだけでなく、もっと広い客層に食べてもらえるように、工夫を凝らしてみました。

 レア気味に、表面を焼き付けたステーキの上には、旬のボルチーニとサイコロ角に刻んだサンマルツァーノ(イタリアのトマト)、ルッコラ。

 肉にはソースの代わりにブロード(イタリアのだし汁)に各種ハーブと白ワインを入れてひと煮立ちさせたものをかけました。好みでオリーブオイルをたらすのもいいでしょう。

 食べにくさを考慮して、調理後に肉をある程度カットしてあります。

 肉のうまみと一緒にスープも沢山口に含めるように、皿は深くしました。

 彩りを考えて、牛肉の周りにはストロッツァプレーティ(マカロニの一種)をあしらってみました」

 一気に説明したマルコは、かしこまってビアーノの審判を待った。



「なるほど。ステーキというよりは『肉のたっぷり入ったスープ』と言えなくもないな。素材本来の持ち味を生かす、というのが信条のイタリアンとしてはちょっと変わった代物だが……」

 ビアーノはさらにひと口分、スプーンで肉とスープを一緒にすくって、口に入れた。

「ん、やっぱりいける。まぁ理屈抜きで『うまいもんはうまい』ってこった。気に入った! さっそく来週からうちのレギュラーメニューに加えよう。賭けてもいいが、これは絶対にウケるぞ」

 席を立ったビアーノに、マルコは一礼した。

「あ。それはそうと料理名は何かつけているのか?」

 振り返って尋ねる総料理長に、彼は万感の想いを込めて言葉にした。

『ノクターン(夜想曲)。』



 マルコの考案した新メニュー『ノクターン』は、大反響を巻き起こした。

 口コミでうわさが広がり、地元トスカーナはもちろん、イタリアの各州からもからも食通の客が押し寄せてきた。

 彼は、幸せだった。

「よう、シェフ! 今日も舌がとろけるほどウマイもんをありがとよ!」

「ホントに、ここのお店、何度来ても飽きないわぁ」

 声をかけてもらったり、料理を誉める客の声がもれ聞こえてきたりすることもある。そんな時、彼はどんなに疲れても喜んでフライパンを振った。

 ターボラ担当(テーブルの意。つまり接客)のトルーニャが厨房に首を突っ込み、声をかけてきた。

「マルコ! お客さんがどうしてもこの料理作った人にお礼が言いたいって。ちょっと来れる?」



 呼ばれて行った先のテーブルでマルコの 『ノクターン』を食べていたのは——

 かつての恋人、一度は去ったカニーナだった。

 肩を震わせていた彼女は、マルコを見上げた。

 とめどなく彼女の頬を伝う涙が、白いテーブルクロスの上に落ちる。

「マルコ。一体、何を想いながら、この料理を作ったのか、聞かせて」

 それはほんの数秒であったが、互いを見つめあった二人は、言葉もなく多くを語り合った。

 やがてマルコは口を開いた。

「月光。喜び。……そして君」



 トラットリア・アマローネを訪れ、ピアノを披露した音楽家は、実はベートーベンであった。

 彼がその後、イタリアを訪れることがあったのか、そして時の料理人・マルコの噂を耳にする機会があったのかは、今となっては謎である。

 あの月夜の晩に弾かれた曲は、ベートーベンが公に発表せず、楽譜さえも残さなかった曲であった。

 それを唯一耳にできたのは、マルコと供の弟子だけだったのだ。



 現在も、往年の大作曲家が触れたそのピアノは、レストランの片隅で、大事に奏で続けられている。

 そして店の味と共に、その音色も人々に愛されている、ということだ。

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夜想曲(ノクターン) 賢者テラ @eyeofgod

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