第二話 - 再来する、匿名的なもの
−5月9日 午前8時 −
俺は空港の椅子に腰かけ、搭乗までのゆったりとした時間を過ごしていた。巨大な窓の前の席に座り、まずいコーヒーを啜る。かれこれ2時間ほど外を眺めているのに、まだ数えるほどしか飛んだ飛行機を見ていない。
今朝は、スッキリとした目覚めだった。店長は、今回の運搬物を優秀な生物群コンピュータだと話していたけど、もしかしたら目覚まし機能までついているのだろうか。だとしたら、俺にとっては最高だ。寝相が悪かったからか、痛んだ左肩をほぐすように関節を回すと、広い空間に軋むような音が響いた。
今回の仕事は、慌ただしいことはないだろう。ただ、改造した腸内細菌がつまった俺自身を国から国へと運ぶだけ。違法行為ではあるが、トラブルがない限りこれほど楽な仕事はなかった。バレなければ、何も問題はない。出張先で視察や研修をやる必要もなければ、中国語でプレゼンすることもない。
ぼんやり外を眺めていると、旅を終えた機体が音をほとんど立てずに地面に降りてくる。ここに座ってから、ようやく二機目だ。白いボディには、黄色く長い髪をなびかせた女性キャラクターが描かれており、その下部に
「健康を志向するあなたに、さらに
着陸した機体の移動に従い、ゆっくりとキャラクターも移動する。満面の笑みを讃えた彼女のイラストが、どんよりとした曇り空のなかで一人だけ主役級の活躍をみせている。
そんな
そもそも、最初は腹のなかに
そしてその流行に一役買ったのが、いまや90億もの人々と共生しているといわれる改造生命体、
彼女は、体内の病原菌を始め、血糖値やコレステロール値、ホルモンバランス、腫瘍マーカーの存在をリアルタイムでモニターし、異常があれば直ちに治療用タンパク質を血中に放出する。そして、我々のあらゆる生体情報も、
だが、その日のクソと一緒に溜められた情報は、隅から隅まで然るべき場所へ送られるわけだ。いくつかの
まさに総うんち監視社会だよ。笑ってしまうよな。
すこし前ならバカバカしいと一蹴できるような話だけど、実際のところ、その監視効果は抜群だった。いったい誰がうんちによって
冷めかかったコーヒーを啜るが、饐えた匂いに思わず咳き込んでしまう。どうやら俺の
「長らくお待たせ致しました。ユナイテッド航空北京行き、547便の優先搭乗を開始致します」
アナウンスを聞いて、仕方なく残ったコーヒーを飲み干す。念のためだ。俺は手荷物を持って立ち上がると、ガラガラの優先搭乗口へ並んだ。
列に並んでいるのは、高そうなスーツを身に纏い、高級そうな時計をつけているようなヤツばかり。なかには、ポマードを頭につけているヤツすらいた。いくら店長が航空券の手配までお願いしてくれたとはいえ、いけ好かない金持ちと一緒に並ぶのは、どうも見下げられている気分になってくる。
だが、そもそも数人しか並んでいないのだ。NYの富裕層が、平日にたったの数人だぜ。この国も没落したものだ。金がないのは、みな同じなのさ。
「搭乗準備を始めますので、列に並んだ皆さんはスタッフにチケットを提示し、薬剤を受け取ってから搭乗準備室に移動してください」
スタッフにチケットを渡すと、代わりに整理券と
「おじさん、ちょっと」
通路を進もうとすると急に呼び止められ、後ろを振り返る。不思議に思っていると、窓の方にいた女の子がこちらに近づいてきた。そのまま、俺にピンク色の錠剤が入った薬包を手渡す。どうやら、落としてしまったらしい。
俺が礼を言うと、彼女はニコッと微笑む。あまりに屈託のない笑顔に、俺は思わず羨ましさを感じた。俺のほうは、ぎこちない笑顔でそれに応えるしかない。笑顔というのは、生まれついての才能なのだ。
彼女はピンク髪をツインテールにしていた。鋲のついたジーンズに、半袖の黒いティー・シャツを着ている。胸のところには、パックマンに出てくるようなかわいいゴーストのロゴが描かれていて、その下部に
俺たちは、灰色のカーペットが敷かれた手狭な通路を進んだ。彼女の手荷物はひとつ。これから一人で旅行するのだろうか。
「家族はどこ」
「いないよ、ひとりなの」
「ひとりで?」
「いいの、どうしてあたしみたいなのが旅行できるのって言いたいんでしょ」
ひと握りの富裕層以外は海外を知らずに一生を終えることがほとんどのいま、どうやって旅行費を捻出しているのかたしかに興味はあった。
「そんなつもりはないよ、だけど」
「そもそもあたしに家族はいないのよ」
「……変なことを聞いた」
「気にしてないよ、でもなんで旅行ができるのかは教えてあげない」
「分かった、野暮なことは聞かないよ」
「それが正解、賢く生きていくにはね」
俺たちは、広い長方形の部屋に辿り着く。突貫工事で作ったのか、鉄骨がむき出しで骨ばった構造をしていた。網鋼板の床を歩くたびにバンバン、という乱暴な音が鳴る。天井には無数の鉄パイプが迷路のように走査していて、機械生命体の内臓のようだ。だがいっそう特殊なのは、クリーム色の扉をした個室が、左右に何十個も並んでいることだった。
そこで俺たちは別れの挨拶をして、それぞれが空いている個室に入った。扉が勝手に施錠され、小さな部屋に閉じ込められる。
目の前には
そういえば、彼女の名前を聞いておけばよかった。
1分ほどで錠剤の
ゴロゴロとお腹が蠢く内臓感覚が、自律神経をスパークさせ、便意が強制的に催される。そのまま少し下腹部に力を入れ、排便をアシストしてやると、うんちがスルリと肛門から排出された。
ー ポチャン!
美しい水滴音が個室内に響いた。トイレットペーパーで肛門部を拭くのは余韻のひとときだ。その間に、うんちは
「
「
「
便器に内蔵されたスピーカーから中性的な声が聴こえて、俺のうんちに残された腸内細菌の情報が隅々まで調べられていく。もし、ここで腹に
ここは、うんちをしないと出られない部屋。それもただのうんちではいけない、法的に正しいうんちをしなければならないのだ。
面白いことに、政府は3世紀前に決められた国際協定を批准してまで、徹底した厳罰化と管理体制の強化を図った。カルタヘナ議定書の後ろ盾によって作られた法律には、糞便の徹底的な殺菌に加え、一日一回の腸内細菌叢の検査、国外渡航時のスクリーニングなどが含まれている。それでご覧のとおり、登場前に乗客全員の検便をやってしまうくらいの徹底ぶりだった。
だが残念なことに、俺は腹に
「
ポーン、という音が頭上に響いて、入ってきた扉の反対側の壁がスライドして開いた。俺はゆっくり立ち上がると、自分の荷物を担ぐ。
条件を厳しくしてくれるほど、活躍の場がプロに与えられる。
だから俺にとっては、この時流は願ったり叶ったりだった。検査なんて、なんの意味もない。俺は揚々とトイレから出ると、長いタラップを渡って搭乗口へと向かった。出口を出た後は、女の子の姿を見ることはなかった。
*
− 5月9日 離陸から数時間後 −
目を覚ますと、すでに飛行機は離陸していた。
いったい、どれくらい寝ていたのだろう。機内は既に暗くなっている。俺は眠気を覚ますために、席から立ち上がる。
乗客たちは、蓄電光を利用して本を読んでいるか、あるいは眠っていた。二つ席を挟んだ右側に、先ほど話したピンク髪の女性がいる。大きなヘッドホンをつけ、毛布を口元まで被って眠っていた。
まったく。
俺は自分の間抜けさに呆れて、ため息をついた。この様子だと、おそらくもう最初の食事は終わっているはずだ。
俺は、頭上の荷物棚に入れておいたカバンを下ろして、小さな紙袋を取り出す。袋を空けると、深緑色のキャンディを口に放り込んだ。ゆっくりと、舌で転がすようにする。ほんのりとした甘さと、ぶどうの匂いが口のなかに広がった。
何もプリントされていない、白い紙で出来た袋に包まれたキャンディ。店長特製のこれさえあれば、おそらく問題はないだろう。
「カフェインを取ると、
ワックスが綺麗にかけられた木材の床に、白い漆喰の壁。
こじんまりとしたカフェのカウンターには、古びたサイフォン式のコーヒーメーカーが4台並んでいて、そのうちの一つが、アルコール・ランプの熱を受けてくつくつと表面を揺らしている。
俺はカフェのカウンター席に座り、コーヒーを飲みながら店長に話しかけていた。この記憶は、俺がまだ仕事を始めて間もない頃のことだ。
「君に出すコーヒーは、カフェインなしだよ」
黒服にエプロンをした店長が、カウンターの奥に座ってぶっきらぼうに言った。彼女とは10年来の付き合いで、俺の運搬業をいつも斡旋してくれる。見た目は会ったときから変わっておらず、今でも20代くらいにみえた。しかし、実際の年齢はまったく不明だ。
「良いんだよ、カフェイン入りのコーヒーでも」
俺がそう言うと、店長は鼻を鳴らす。青い髪の束を鼻と口で挟んで、不服そうだ。
「ここで腹が痛くなって、クソを漏らされても困るよ」
俺は、自分が飲んでいる黒い水を指して抗議するように言った。
「実際、これは何で出来ているんだ」
「それは教えられないね。だが、不思議と美味いだろう」
俺は無言でコーヒーを啜る。確かに美味いのだ、まさにコーヒーそのもの。だが、美味いだけあって、何を抽出して作っているのか興味が沸いてくる。しかし、聞いてしまうと一生飲めなくなるかもしれない。俺は葛藤していた。
「それにしても、君のハニーのコーヒー嫌いも何とかならないものかね」
店長の質問に、どうだかね、と返す。彼女ですら、俺の飼っている菌を知っているわけではない。
それに、正確にいえば、俺のハニーはコーヒーが嫌いなわけじゃない。俺が腸内のうんちを法的に正しいうんちに
俺の大腸は、横行結腸からS状結腸にかけて無数の改造憩室を持っている。憩室っていうのは、腸壁面から風船のように膨らんだ小部屋のようなものだ。これはときどき炎症の原因になったりするのだが、俺の憩室は特別だった。いくつかの
それぞれの小部屋には、それぞれ異なる
この憩室は、俺だけの細菌の
そして、
このやり方の欠点は、運搬物が機嫌を壊しやすいってことだ。考えてみればそりゃそうだよ、仲間が勝手に殺されるんだから。
「ともかく、こいつらの機嫌が治ってくれるだけで良いんだけどね」
俺ははぐらかしつつ、そう答えた。店長はそれを聞いてしばらくのあいだ黙っていたが、突然エプロンのポケットに入っていたものをこちらに放り投げた。
それが小さな紙袋に包まれたアメだったわけだ。
「これは」
俺は困惑して、彼女に尋ねる。
「アメだよ、
袋を開けると、深緑色の見た目をした小さなアメが入っていた。いかにも毒々しい、店長が邪悪な顔で作る様子がありありと想像できた。
「すごい色だな」
「例に漏れず、味だけは保証するよ」
店長の自信に負け、おそるおそる口のなかに入れてみると、予想と反してほんのりした甘さとぶどうの匂いが口のなかに広がる。だが今度は、こんな普通の味で効果があるのか不安になった。
「あるさ。君はこれまで何度も助けられただろう」
私の心を読んだかのように、店長が胸を張って言った。
確かに、その通りだったのだ。これまで、運搬物が暴走して俺自身を攻撃しまったことが何度かあったが、いつでもアメに助けられた。俺は貰ったアメをゆっくりと舐めながら、ぼんやりと考えていた。
フラスコのなかで、お湯がグツグツと沸騰を始めた。店長が漏斗を正位置に戻すと、蒸気圧に押されてお湯が漏斗をゆっくり登っていく。お湯は上のカップから溢れ出て、熱湯に晒された真っ黒い粉末が膨らんだ。
すぐに、部屋が白熱光のような暖かい匂いで満たされた。俺は大きく息を吸い込み、光を身体に閉じ込めようとする。
「匂いでお腹を壊さないでくれよ」
店長は笑いながら、木ヘラで何度かコーヒーの粉末をかき混ぜ、熱湯と馴染ませた。
「嗅がせるくらいさせてくれよ」
「どうだかね」
アルコール・ランプの火を止めると、液体はゆっくりとフラスコに還ってくる。お湯だったものが、コーヒーへと変わっていた。店長は満足げな顔を浮かべ、温めたカップへと注ぐ。
「客はいないだろ」
「これはあたしの」
俺は呆れて笑う、店長は笑みを浮かべながら一口だけ啜った。
「これは正真正銘のコーヒーだよ。だからあたしの」
彼女は客がいないのをいいことに、カウンターを出て俺のとなりに座った。
「みせつけるつもりか」
「文句なら、君のハニーに言ってくれよ」
彼女は俺を見つめながら、黙ってコーヒーを飲む。彼女がコーヒーを啜るたび、香りが強くなっている気がした。
テーブルに置かれたランタンの光がゆらゆらと、彼女の目に反射している。青く染めた髪と合わせるように、彼女がエメラルドの虹彩を持っていることに初めて気づいた。
急に気まずくなり、俺は目をそらす。綺麗に磨かれたコーヒーカップに、俺の困惑が写っていないか確かめようとするが、うまくいかない。手巻き式の壁時計がカチカチとうるさく鳴っていた。
「ひとつ言わせて」
彼女はグッと真剣な面持ちになって、俺に近づいた。吐息からはコーヒーの匂いがする。
「気をつけて、隣の女に」
俺は、彼女が自虐的な冗談を言ったのかと思って微笑んだ。安心した気持ちと残念な気持ちが一緒になった。
「何だそれ、わかったよ」
彼女も微笑んでいる。
だが、俺は勘違いしていた。
「わたしのことじゃないわ、ピンクの髪の女よ」
さらに奇妙なことを言い出した店長に、俺は戸惑ったことを覚えている。辺りを見回すが、カウンターには二人を除いて誰もいない。後ろの、テーブル席もカラだった。そこには、俺と店長しかいなかった。ピンクの髪の女、どういうことだろう。
「何を言っているんだ、ここには誰もいない」
「わかってない」
彼女は、俺の困惑を無視して続ける。
「いるよ、あなたの隣に。それに、怪しいのはピンクだけじゃない。前の席の初老の男、三列前方、左斜め前の座席にいる男の子にも気をつけて」
「だからどういう……」
突然、男の子がいることに気づいた。左斜め前の座席から、背もたれを乗り越えてこちらをじっと見つめている。狭い機内で眠れないのだろうか、目を擦ったり口を尖らせたりして暇そうにしていた。
どういうことだ。
俺は、混乱して思わず座席から立ち上がった。焦って前の座席をみると、初老の男性がノートに何かを書き込んでいる。右側には、確かにピンクの髪の女性がいる、空港で会った彼女のことだ。
隣の女に気をつけて、店長は確かにそう言っていた。もしかして、店長は今のことを話していたのか。俺は、必死にその後を思い出そうとする。
「なんだこれは……」
記憶のなかの俺が、店長に尋ねていた。
それは、確かに今の俺自身の気持ちだった。しかし、すべては思い出になっている。彼女は、本当にこんなことを言っていたのだろうか。あのとき、本当に俺はこんな質問していたのか。
「飛行機のやつらに気をつけるんだ」
店長の口調が唐突に変わる。
「なんだこれは、デジャヴか、それとも夢なのか!」
かつての俺が、大声を出していた。現実が記憶を侵食していくような感覚。お互いが混線して、パニック状態に陥りつつある。もしかして俺の記憶が、何者かによって干渉されているのか。
俺は脂汗の滲んだ顔で、続きを必死に思い出す。俺の記憶が正しければ、この後で店長はこう言っていたはずだ。
「それより、おまえに危険が迫っている。おまえの視覚情報から得たデータによると、その三人はこれから機内で君を攻撃するかもしれない。今すぐに撃退用のハニーを増殖させろ」
それ受けて、俺はこう答えたはずだ。どういうことだ。今回の運搬は安全だと言っていたじゃないか店長、と。そして、彼女はこう返した。
「私も分からない。記憶領域がなぜか不完全だ。しかし、私の視覚解析をまずは信じろ。そして、いますぐ起動すべき憩室番号をいえ。そうすれば、私が数分以内に栄養素を合成し、指示したハニーを増殖させる。使用できるまで、おそらく10分だ」
店長のよそよそしい口調が気になる。彼女は、まるで別人のように話した。
思い出せ、次のやりとりを。確か、こういう感じだ。俺が、ちょっと待て、なぜあんたが憩室のことを知ってる、と聞いた。それで、店長はこう言った。
「君は余計なことばかりうるさいよ、状況を把握したらどうだい」
そうだ、急に店長らしい口調で諭されたのだった。俺の頭では、店長の聞き慣れた口調が再生された。そのおかげで、現実の俺も少しだけ冷静さを取り戻す。落ち着いて続きを考えるんだ。
店長は、何か伝えたいことがあったのだ。それを探さなければ。俺は冷静になるために息を大きく吸った。何か異常なことが起こっている。現実と記憶が混線している。その答えを探さなければ。
お腹がギュルギュルとなった。
「それは問題ない、まずは落ち着くんだ。君のお腹の問題は、私が腸内の蠕動運動をうまく制御できないだけだ。数時間前に
落ち着いたおかげか、当時の鮮明な記憶がどんどん頭に流れ込んでくる。もはや、記憶の続きをこちらから思い出そうとするまでもなかった。
「それでいい、焦るとこちらがうまく干渉できない」
店長が微笑みながら言う。
「活性化因子、何だそれは」
俺は既に別のことが気になっている。
「錠剤だよ、君が女の子から渡された」
「あれは俺が落としたもので」
「違う、あれはすり替えられたものだ。下剤の他に、私の機能を向上させる物質が含まれていた」
「どういうことだ、なぜそんな真似を」
「私にもわからない、だがあのピンク髪はおそらくお前に敵意がある」
敵意があるのに運搬物を助ける理由は、実のところいくらでもある。
最も有力なのは、生きたまま運搬物を盗むために都合がいいから、という理由だ。彼女は俺の運搬物を狙っているのか。空港でみた感じでは、まったくそうみえなかったが。
「正確には私にも分からない、ただ視覚解析ではそういう結果が出ている」
そして俺も、このやりとりでわかったことがあった。
「なるほど、つまりお前は店長のふりをしている
「そうだ、それが正解だ」
店長は満足げな表情で言った。こいつ、自分の口からすぐ言い出せなかったのか。
「君の思い出を汚さないように配慮しなければ。今のところ、君の記憶を改竄することでしか意思疎通ができないのでね」
「あんたは、これで配慮しているつもりなのか」
俺は大切な思い出を蹂躙されたことと、気味の悪いものを腹に飼ってしまったことでひどく腹が立っていた。くそ、記憶を改竄できるなら、俺を強制的にコントロールする方法はいくらでもある。こいつは、かなり危険な
「まあそんなことより、周り状況をもう一度確認してくれないか」
そう言われたことを思い出し、言い返そうとしたが、諦めて従うことにした。腹は立つが、こいつに反発しても何をされるかわかったものじゃない。とりあえず今は、俺に協力的なようだ。
仕方なく立ち上がって隣を確認すると、いつのまにかピンク髪の女の子はいなくなっていて、ヘッドフォンと毛布だけが席に残されている。なるほど、
「ピンク髪が最有力候補だったが、これは良くない傾向だな」
カウンターの奥に戻った
「だが、やつも一般客や搭乗員がみているなかで目立った行動はしてこないだろう。まずは機内のトイレに入れば安全だ、そこで反撃用のハニーを調合しよう」
後ろにある機内トイレを確認したが、何人か順番待ちがいる。前のほうは、機内中央の階段を降りたところと、最前列の前か。ガラガラの機内だが、人の目があったほうがまだ安全だろうと考えて、後部のトイレへと向かった。
「とりあえず、はやく憩室番号をいってくれないか」
店長がカウンターの奥から、こちらを急かしている。
「まて、今考えているところだ」
かつての俺は、相変わらずカウンター席に座っていた。そんなところで油を売ってないで、早く帰れと忠告してやりたい。でも、こうなったら、ハニーが偽装した記憶にとことんのってやるしかないだろう。俺はコーヒーカップの金模様を眺めながら、今やるべきことを考える。
まず、第二十一番憩室のB.ビフィダム【モウドクフキヤガエル由来バトラコトキシン株】はここでは使えない。
「狭い機内で、効果的に攻撃できるものがいいね」
流石に俺は我慢の限界だった。ひとこと言ってやる。
「思考が読めたとしても俺が発言するまでは待て」
「どうだかね」
ニヤニヤ笑いを顔に貼り付けたまま、彼女はタバコに火をつける。煙を吐き出すと、立ち昇る細い線条が蜘蛛の糸のように拡散していった。
「十一番、三十二番、五十七番」
俺は、ほとんど聞こえないくらいの声で囁いた。店内の空気は、しんと張り詰めている。店長は、言葉を返すのにかなりの時間をかけていた。
「
「第五十七番憩室【カモノハシ毒爪株】だ」
「わかった、10分で用意しよう。それまではこちらからの支援は期待するな。なるべく個室に閉じこもっていろ」
記憶のなかの俺は、店長の吐くタバコの煙を見つめながら、大きなため息をついた。
「大丈夫、君の
ともかく、状況が良くなかった。
今回のハニーはとんでもないヤツだ。さらに、
仮に敵がいるとすれば、機内という密室空間では情報を多く掴んでいる相手の方が確実に有利だろう。そしておそらく、相手も
しかし、こちらは百二十一の憩室に百二十一種類の
トイレから出てきた先客に軽く微笑みかけて、開いた扉に手をかけた。すると突然、後ろから強い力で押し込まれる。背後で鍵をかけるガチャンという音が聞こえた。
「これで一回目だな」
驚くほど陰湿な声が聞こえる。後ろを振り返ると、ずんぐりした体型で40代くらいの男。脇が汗ばんだ薄青のYシャツとジーパンを履いていた。
誰だこいつは。
「誰だお前は」
「俺は
男は、俺の鼻柱を砕く。
鼻血がポタポタとトイレの床に滴った。こんな素早いパンチが、この肥満体から放たれるとは思えない。今度は間髪入れずに俺の肩を掴んで背後に回り、太い脂肪の詰まった腕で俺の首を締め上げる。
「安心しろ。着陸するまでにはまだ時間があるからな」
俺は、朦朧とする意識のなかで男のつぶやきを聞いた。視界が暗くなり、意識は徐々に遠のいていく。くそ、偉そうに言いやがって、役に立たないやつめ。
(つづく)
ハニーワゴン・メモリーズ 立方象牙工 @solidivory
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ハニーワゴン・メモリーズの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます