ハニーワゴン・メモリーズ
立方象牙工
第一話 - なめらかなうんちと、その敵
ー 5月8日 午後11時 ー
まずは顔に三発。続いて、胸を二発。
そのままトイレの壁に打ち付けられて、思わずしゃがみこんだ。
腹を殴ると
「今回は、筋肉の質が素晴らしいんだ」
幽霊は、整備された筋肉を他人の持ち物のように絶賛しながら、丸太のような腕で俺の首を掴んだ。そのまま持ち上げられて、衝撃を逃さないようにしっかりと壁に固定される。
バキッ
予想外の音量に、自分でもビックリしてしまった。どうやら、鼻の軟骨がイカれたらしい。直後、口元に生暖かい感覚がやってきた。
「いい顔になった、それでこそだ」
幽霊は、糸の切れた操り人形みたいになった俺をみながら、自分のあご髭を触っている。そんなに俺は、料理しがいがありそうか。
うーうー呻くだけで起き上がらない俺を、期待の眼差しでみている。まるで、反撃を待っているみたいだ。軽口を叩こうとすると、もう一発。今度は、トーキックで胸を蹴られた。ヤツは溜息をついて、背中に手を伸ばすと、僧帽筋の隙間に収納してあったボーン・ナイフを取り出す。
「短期間でよく育ったもんだな」
自分のナイフを眺めて感心している。真っ白い刃先が、黒い血で濡れていた。
「痛くはないのか」
俺は、余裕を声色に貼り付けて尋ねた。
「痛くなければ、意味がないんだよ」
自傷癖のある殺し屋は、決まってロクなヤツじゃないんだ。
そう、こいつはどこか辻褄が合ってない。俺を襲う前だって、律儀に自分の名前を名乗りやがった。
どうせ、俺をビビらせようとして名前を騙っているだけだ。だが、もし万が一コイツが幽霊だったとしたら。
今回の
幽霊は、ご自慢のナイフで俺のYシャツを引き裂き、へそをナイフの先でカリカリと掻いた。挑発するような表情のままこっちを向いて、俺に選択肢を提示する。
「この場でクソをひるか、腹をかっさばいて腸を盗まれるかを選べ」
もし個室に誰かが隠れていたら、この奇妙なやり取りに当惑するだろう。だが、俺はそんな質問に対し、当然かのように答える。
「無理だよ、ここではクソは出来ない」
生まれてからずっと、俺は快便だったんだ。
毎日一回、それも朝7時キッカリにしかクソは出せない。そう設定しているんだ。
だから、ここでうんちをしてくれというのは、どうしても無理なお願いだった。幽霊もそんな心情を察したのか、俺の答えを噛み締めながら何度も頷いている。
「そうだろう、もちろんそうだと思う。実際のところ、おまえに選択肢はない。腹をサバかれて、俺に腸を盗まれるしかないんだ」
顔に似合わず、とても低い声。ねっとりとした湿っぽさを含んでいる。そう、この喋り方だ。俺はこの喋り方をどこかで聞いた。だが、思い出せない。思い出そうとするとすぐに忘れてしまう。
ともかく、今の俺に重要なのは、殺されるまでの時間を引き延ばすことなんだ。そのために、まずは行動をしなければ。なんでもいいから。
「お前、どこかで会ったか」
俺は思ったことを卒直に尋ねてみた。すると、男が不意を突かれたような顔をする。やはり、俺たちはどこかで会っているのか。それを、俺だけが忘れているのか。
「なるほど、おかしいな」
ヤツは、ふいに立ち上がって俺に尋ねる。
「お前、どこまで知っている」
「お前の陰気な声だけだよ、どこかで会っているのか俺たちは」
そう答えると、幽霊は俺から離れてトイレの入り口で考え始めた。なんだかよく分からないが、ともかく時間は稼げたようだ。ちょうど襲われてから、5分くらいか。もうちょっとだ、もうちょっと時間を引き延ばす必要がある。
それにしてもなんだ、このくそったれな状況は。
そもそも今回の依頼は安全だと言ってたじゃないか、店長。あんたが斡旋してくれた仕事で、こんなことは一度もなかったのに。彼女が裏切ったのか、もしくは、彼女も騙されているのか。
もうひとつ、気になることがあった。今、俺は誰に助けを求めているんだろう。全く身に覚えはないが、時間さえ引き伸ばせば、誰かが助けてくれそうな気がしている。俺の感じている、この無駄な自信はなんなんだ。
ふと、トイレの入り口に目をやると、幽霊はナイフの柄の部分に施された装飾をしげしげと見つめていた。まったく、変わった男だ。急に集中力が切れたのか、何を考えているんだろう。いっそのこと、人違いだったよ、って感じで帰ってくれないかな。こっちはいつもと同じだ、何もヤバいブツは運んでない。そう言い訳すると、コイツは納得するだろうか。
俺がやれやれとばかりに幽霊から目を外すと、左肩にナイフが貫通する。肩の骨が砕かれ、刃先が背中側から突き出ていた。小さくうめき声をあげて、痛みを逃すために体を捻る。
幽霊のほうは、綺麗な投擲フォームでピタッと静止している。待ってくれ、あまりにも動きが速すぎないか。これが
そのままゆっくりと上体を起こしたヤツの顔は、感情がすっかり漂白されている。その佇まいは、まさに幽霊という名にふさわしかった。ヤツは、手早く背中から二本目のナイフを取り出す。どうやら、遊びは終わりみたいだ。これは思ったよりも時間がないぞ。
幽霊はそのまま腰を下げてこちらに近づき、俺の左手首に照準を定めた。避けるつもりで腕を振り上げるが、ヤツはナイフの導線をなめらかに変化させ、狙い通りに手首を貫く。すぐさまナイフを離すと、今度は同じ手で耳を潰しにきた。鼓膜が破裂し、脳が衝撃で揺れる。俺は唸りながら、うつ伏せに倒れこんだ。
直後に、左手首にふたたび激痛が走り、すぐさま左肩にも鋭い痛みを感じる。歯を食いしばりながら仰向けになろうとするが、うまくいかない。左手首に刺さっていたナイフが、今度は左肩を貫いている。俺はそのまま気絶しそうになるのを堪えて、ゆっくりと、壁を背中にして這い上がろうとした。
「今度は引っ掻かれないぜ」
幽霊はゲラゲラと笑った。どうやら、感情が戻ってきたようだ。もう反撃される心配はない、と確信したのだろうか。まったく冗談じゃないぞ。
確かに、俺のほうは両腕が使いものにならないさ。
左の鼓膜は破れて、軽い脳震盪を起こしている。
反撃に使えるのは、足と顔だけだ。
確かにこれは、かなり望み薄だな。
そのとき、脳に蛇のイメージが湧いてくる。どこかの草原だった。なめらかな足のない肢体が、空を飛ぶワシに向かって毒を吐きかけている。反撃の手段が、ひらめきという形で提示される。そして俺は、その素晴らしいアイデアに震えてしまった。
ついに、
いまや幽霊は、三本目のナイフを握っていた。あれで俺の腹をサバいて
まさに一騎打ちってやつさ。
幽霊は姿勢を低くして機を伺っている。今度は、ヤツが近づいてきたところを見逃してはならない。幽霊は、獲物の腹を裂こうと頭を下げた。その瞬間、俺は顔に向かってツバを吐きかける。幽霊は顔を反射的にそらしたが、どうやら目に命中したようだ。
「どうだい、勝負ありかい」
ヤツの低い声を真似て、皮肉っぽく言ってやった。
しかし、幽霊はそれに答えることなく、目を押さえて苦しみの叫び声をあげ、そのまま床に倒れてしまう。転げ回る幽霊をよそに、俺は勝者の気分でゆっくり立ち上がった。
ネクタイを拾い、洗面台の方へ向かう。どうにも唾液が止まらなくなってしまった、ポタポタとトイレの床に滴る。
「ここおお、ほうてなくては」
呂律の回らない幽霊が、焦点の合わない眼で俺をみながら笑っている。むき出した歯は真っ白で、綺麗に整頓されていた。俺は固まった鼻血を洗面台で洗い落としながら、勝敗を分けた必殺技の説明を披露してやる。
「知ってるか、フィリピン・コブラって。こいつらは蛇の中でも珍しく、毒を飛ばすコブラなんだ。その毒素を唾液に混ぜてあんたに飛ばした。毒の主成分であるリガンドは、筋肉の
幽霊の方を振り向くと、すでに息絶えている。仰向けで目を見開いたまま、口の端に泡を付けていた。おいおい。いくらなんでも効きすぎじゃないか。
さて、
こんなことがあった後でも、俺は不思議と安心した気持ちでいる。今回は気が合いそうだよ、ハニー。
ー 5月7日 午前7時 ー
俺は快便。クソは毎朝、一日に一回しか出ない。
それも7時ちょうどと決まってる。俺は必ず6時45分に目が覚めて、それから約15分間のストレッチをする。ストレッチが終わる2分前に便意が来るから、7時にクソをする。シャワーに入るのはその後だ。
だけど、全世界の人間がそうだろ。
別に俺に限ったことじゃない。
すべてハニーが管理している。かつては、便秘や下痢と呼ばれた便の異常があって、人々の安全な生活を脅かしていたらしい。だけど、いまは違う。なめらかな
7時5分。
ノブを捻ると
俺は便器から立ち上がって手を洗うと、出勤の準備を始めた。カバンにラップトップと、仕事用具が入った箱、いくつかの書類を入れて外へ出る。仕事場は、玄関から出た道を左へ曲がって、7キロメートル歩いた先の道路をさらに左折し、そこからまた7キロメートル歩いた場所にある。
7時8分。
だが、今日は右へ曲がる。
昨日、ドアノブにうんちのキーホルダーがかかっていたからだ。それが、裏の仕事の合図だった。俺は、右折した道路に続く信号を四つ通り過ぎてから、
みんな、とにかく歩くようになったんだ。
電気代がバカみたいに高くなって、バスも電車もどんどん廃止された。車も全然売れなくなったし、トヨタもニッサンも潰れちまった。俺は日本車が好きだったのに、最悪だよ。
石油も、ウランも、天然ガスも、みんな枯渇しかかっている。みんなは甘く考えてたけど、最近になっていよいよマズくなってきたわけだ。今の石油の相場は、リットルで大体2万ドルらしい。まさに黒いダイヤだよ。
未来のエネルギーだって注目されていた核融合炉も、結局のところまだ完成してない。安価で膨大なエネルギーが手に入るってことだけど、夢のまた夢だ。エネルギー利権のやつらが色々圧力をかけて、研究が遅れてるって噂もあるけど。どっちにしろ、ヤツらも今頃は大騒ぎだろ。
クリーン・エネルギーってヤツは、長距離移動の交通手段とインフラ、研究機関の電力供給にほとんど使われてしまって、我々一般人までなかなか回ってこない。俺たちは19世紀に逆戻りだ。
そして俺は、クソを運んでる。こんなクソな世界で。
8時00分。
俺は、CLOSEと札のかかった
俺は、入口からみえない奥まった指定席に座った。机の上に置いてる小さなキャンドルが、机の隅までを
「こんにちは、ええと......」
「
「では、ハニーワゴン」
店長が注文を取りに来たので、いつものようにドリップコーヒーを頼む。綺麗に染めた青い髪をボブカットにした彼女は、黒いYシャツとズボンに、白いエプロンをしていた。古いアニメキャラを真似てるんだよと、ずいぶん前に話していたことが奇妙に記憶に残ってる。そんなタイプにみえないけどね。
俺は上着を脱いで、早速依頼の検討に取り掛かる。
店長が依頼人の選別もやってくれるとはいえ、最後に信じられるのは自分の直感だ。怪しげな人間の依頼は絶対に断れって、
依頼人の男は、50代ぐらいの白人だ。俺にはブランドが分からないが、高そうな深緑色のスーツを着ている。ポマードでピッタリと押さえつけられた黒髪が、ロウソクの光に反射してグロテスクだ。このポマード、ワセリンで出来た油性ポマードか。死んだ親父がつけていたヤツだから、匂いでわかる。
今の時代にこの高級ポマードを常用する男は、おそらく中国系の
「どうぞ」
「ありがとう、店長」
店長が、優しく微笑みかけてくれた。彼女はどういう経緯で、この仕事を斡旋したのだろう。疑っているわけではないが、普段の依頼人とはタイプが違う。
運ばれてきたコーヒーを啜る。この味だけはいつも通りだ。裏取引のついでに喫茶店をやってるにしては、店長も妙なこだわりを持ってる。以前、喫茶店だけでやっていけないのかって聞いたときは、もしそうなったら君はどうするんだって笑ってたけど。
俺もこんな仕事やめて、表の仕事だけでやっていければと思っている。だけど、落ちぶれてしまったニューヨークでは、それも夢だろう。
「今回あなたに運んでほしいのは、これです」
男は運搬物を袋から取り出して、机の上に乗せた。ステンレスで出来た20インチくらいの正六面体。側面の電子掲示板には、37.2と記されている。
男が蓋を開けると、箱の内側に向かって強い風が吹き始めた。内容物が周囲に飛散するのを防ぐための装備だ。箱の中を確認すると、人差し指ほどの大きさの試験管が鎮座している。中には、褐色の混濁した
「用意がいいな、もう持ってきたのか」
「ええ、運搬に際してどの様な形式を指定されるのかも、しっかりと調査してきました」
普通は、適切な運搬と俺の安全対策のために、まずは依頼の確認と、容器の厳密な指定を行う。だが、今回の依頼人はいきなり荷物を持ってきた、依頼人はこの世界と深い繋がりがあるか、もしくは過去に同じ企業の仕事を受けたか。
「成分を調べさせてもらってもいいか」
「どうぞ、ご自由に」
俺は、持ってきた仕事道具を開けて、|スポイトと
--------------------------------------
1 % Peptone 140
0.5 % Yeast Extract
1 % sodium chloride
50 mg/L Carbenicillin
--------------------------------------
なるほど、俺がいつも指定する組成だ。
俺が指定した培養液、俺が指定した試験管、俺が指定した
しかし、運搬物の危険度は、培養液の組成で決まるものではない。中身が何かが重要だ。だが、当然こいつらは教えるつもりがない。もちろん俺だって知りたくはない。お互い、余計な危険を冒すべきではない。
さて、第二選考へと進む。要は、仕事内容の確認だ。あらかじめ決めている質問を、依頼者にぶつけていく。
「で、これをどこまで運べばいいんだ」
「北京です、航空券はこちらで用意しています」
「明日、夕方の便か」
「そうです」
「北京に着いてからはどこへ」
「こちらが地図になります、空港から4キロ地点にある南楼医院です。裏口が空いているので、そこから中に入ってください」
「期限は、どれくらいだ」
「5日以内です」
「仕事の危険性は。武器の取得が必要か」
「ご自由にして頂いて構いませんが、特に必要ありません」
「
「必要ありません」
「回収方法は」
「
「なるほど、ごく一般的だな」
「ええ」
「それで、報酬は」
「前金で、まず5万ドル」
「ほう」
「不満でしょうか、不満であれば」
「不満はない、だいたいの相場だ」
「ありがとうございます」
「いや」
「それでは、これを飲んでくださいますか」
そう言って、依頼人は仰々しく試験管を差し出した。確かに、ここで俺が培養液を飲めば依頼は成立。今日から五日間の運搬業務が始まる。
だが、果たしてこの依頼を受けるべきだろうか。
半分飲んだコーヒーをスプーンでくるくるとかき混ぜてから、ミルクを
確かに、依頼内容に不自然なところはない。仕事内容は普通だし、報酬の相場も普通、培養液も指定のものだった。だが、あまりにも用意周到な普通さに、警戒してしまう。違和感があったら、断ると決めているんだ。
「すまないが、他を当たってくれ」
「それは、困ります」
「申し訳ない、今回は断る」
「いや......」
これ以上は話を続けたくないので、すぐに立ち上がった。今回の依頼の出どころについて、こいつが帰ったあとで店長に聞いてみよう。何かはわからないが、なにかがおかしい。しばらく、仕事は受けない方がいいか。
「ちょっと」
出口に向かって歩き出すと、店長に呼び止められた。俺に向かって、早足で一直線に近づいてくる。なんだ、まだ依頼人がいるのに。ここで、喋らなければならないことなんてあるのか。
「後にして」
そう言い終わらないうちに、とんでもない力で殴られた。不意打ちを食らって、俺は床に倒れこんでしまう。どうなってるんだ、この状況で店長が俺を殴るなんて。
「やめろ、俺に触れるな」
近づいてくる店長に向かって、思わず叫んだ。
おかしい、彼女も知っているはずだ。今の俺に触れると死の危険があることを。
「いいんだよ、俺は死なない」
店長は、今まで聞いたことがないほど低い声で喋った。すると依頼主が立ち上がって、自分の左手を店長に向ける。まるで知人を紹介するときの調子だ。
「彼は、
「・・・
かつて、仕事仲間から話を聞いたことがあった。ヒトの記憶を乗っ取る能力を持つ男。ヒトからヒトに乗り移り、対象を殺していく肉体を持たない幽霊。確かに店長の様子はおかしい。だけど
依頼人は、
「これで、契約成立ですね」
床に倒れこんで咳き込む俺をみて、依頼人が言った。さっきまでとは違い、やけに澄み切った声だ。店長は床に座り込んで、腕の引っかき傷を押さえている。俺が抵抗したときに、ついてしまったらしい。
「直ぐに傷口を洗え」
それをみて、俺は咄嗟に言い放つ。いま流れている俺の汗は、ドクガエル由来の猛毒がたっぷり含まれているはずだ。それが傷口を伝って血管に入れば、本当にまずい。
「心配するな、死ぬのはこの身体だけだ」
店長は、余裕の顔つきで答える。息が上がっているが、妙に落ち着いた喋り方が神経に障った。やはり、本当に幽霊が取り付いているのか。
「それでは、契約内容について確認しましょう」
俺が状況を飲み込む暇もなく、依頼人が着席して説明を続けようとする。
「あなたに飲んで頂いた
量子コンピュータ・レベルの演算能力を持つ
「話を続けるな、俺に運ぶ義理はないだろ」
ふいに依頼人に近づいた俺を、店長が素早く制止する。毒のせいで顔が紅潮して、脂汗が額に滲んでいた。もし、この幽霊が彼女の人格を乗っ取っているだけなのだとしたら、俺はどうすれば良いんだ。
「いえ、あなたは運ぶことになるでしょう」
「どうして」
「この
「つまり運んだら治してやる、ってことか」
「そういうことです」
とりあえずは悠長に話している時間がない。
店長のためにも、まずは依頼を飲まなければ。
「わかった、依頼を受けよう」
「ありがとうございます」
依頼人はニコッと笑った。覚えておけよ。
「やけにすなおだな」
店長が俺の肩をポンと叩く。毒のせいで、呂律が回っていない。間に合うかは分からないが、早く解毒しなければ。
「依頼は受けただろ、早く店長から出ていけ」
幽霊はそれを聞いて、オーバーにやれやれ、という意味のボディ・ランゲージをした。
「このからだはもう必要ないんだが、それはむりだ」
「くそっ」
思わず店長に殴りかかったが、スムーズな動きで脇腹を殴られ、腕を掴んで床に組み伏せられてしまった。背中に回された右腕を、ミシミシと上の方に締め上げられる。
「あふないやつだな」
俺を座布団にしながら彼女が耳元でささやく。湿っぽくて冷たい、嫌な声だ。この毒を喰らってどうしてこれだけ動けるのか、不思議で仕方ない。
「彼は一度入ると、死ぬまでは抜けられないんです」
依頼人が、聞いてもないのに余計な情報を付け足した。つまり、救う方法はないって言いたいのか。
「それに、まだ説明に続きがありますよ」
依頼人は時間がないんだと、自分の時計を指差しながら言った。時間がないのはお互い様だ。
「彼女から出ていったら受けてやる」
「そうですか、ともかくこれは重要なことです。これから5日間の運搬業務のあいだ、
「嘘だろ」
俺は再び抵抗しようとするが、彼女に耳を殴られる。嫌な高音が脳天を貫き、地面がぐらぐらした。
「しょうたんではないあ、たのしもほうぜせ」
「そうそう、もうひとつ」
依頼人が人差し指をあげた。まだあるのかよ、勘弁してくれ。
「あなたに投与した
俺はため息をつくしかなかった。
「つまりあれか。俺は五日間のあいだ、覚えておくことができない不死身の殺し屋から逃げ続けて、北京までクソを届けないと死ぬってことか」
「そうですね、素晴らしい。ついでにもうひとつ、あなたがこの依頼を快く引き受けたという記憶も、追加で植えつけられます。そうしないと、整合性が取れないですからね」
これまで冷静だった依頼人も、最後は笑いそうになっていた。俺のことがそんなに滑稽なのか。
「……クソだな」
死にかけた店長に組み伏せられながら、俺は床にツバを吐く。彼女が死ぬまで、おそらくあと数分しかない。
(第二話へ続く)
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