朝
バクサマの腕の中で、寝息を立てている女性の顔は柔らかく、穏やかな表情を浮かべている。
目の周りの赤みが先ほどまで泣いていたことを物語り、ヒリヒリとした痺れる熱が伝わってくる。
赤と肌色の境界線に細い枝のような白い指がそっと触れ、そこからゆっくりと指の腹で撫でてやる。
その指先を追う目は、ただただ絵画に描かれた聖母のように優しい。
月夜の中で見えた、目をうっとりとさせ満足げな笑みを浮かべていた顔の片鱗はそこにはなく、愛しい我が子を慈しむ微笑が彼女の美しさを際立たせ品の良さを滲み立たせていた。
生まれたばかりの赤子を揺りかごにそっと戻すように、腕の中から女性を解放し、周りの者らの中へと寝かせる。
ぐっすりと深いところで眠っているのか、温もりが体から離れても気づくことなく寝息を立て続けている。
周りの寝息も混ざり合い、それは朝方の穏やかな湖にわずかに響くさざ波の音にも聞こえた。
歴史を刻み付けてきた深い木目調の床で寝ている顔は寝息と同様にいつまでも穏やかで、そして赤子のように幼く弱い。
それなりに生きてきたと思われる人たちだと言うのに、この先の苦難も苦痛も絶望も知らず、明るい何かでこれからずっと満たされ続けるし、守られ続けるのだと思っているかのように、苦悶に歪ませることもなく、泣きそうな顔もなく、ただ今は健やかな夢の中に浮遊している。
さざ波の中の光景をしばらく見届けると、バクサマは一枚の布を雑に拾い上げた。
月の光で煌めいていた白い布は、太陽の光の下ではクタクタになってくすんでいる。
もみくちゃにされ、踏まれ続け、ほつれてところどころに穴も開いてしまったボロ布を、一度宙へ広げ埃を放り投げる。
そしてくるりと背中へ回し肩にかけると異様なまでに白い髪色や肌の色が際立って見えてくる。
飛び石をひょいひょい飛ぶように、もしくは、軽やかなワルツを踊るように、寝ている人の間を通り抜けていく。
幽霊が通っているような、ただ風がそよいでいるかのような、彼女の足元から音はなく、跳ねるたびにふわふわと広がるボロ布がクラゲのようにも見えてくる。
少しも迷う素振りはなく、右へ、左へとステップを踏み、時にくるくると回る余裕も見せながら、無邪気に一人遊びを楽しんでいる。
サラサラと揺れる髪の毛に隠されて表情はよくは見えないが、きっと笑っている。
その笑った顔を想像しようとして真っ先に月夜の下の顔が思い浮かんだ。
十分すぎるほどの回り道を終え満足した体は、部屋の扉の前へと着地した。
彼女の背丈の2倍はありそうな重厚感のある扉に細枝のような指が触る。
いとも簡単に軽い音をたてて折れそうなほどの指が、扉に負けないほど重厚感のあるドアノブをひねると隙間から入り込んできた風に足元に転がっていた体が少しばかり丸くなった。
夜の間、閉じ込められて湿り気と熱を溜め込んだ空気は、外と比べても少しばかり生暖かい。
丸まった体を覆うように肩からかけていたボロ布を落としてやると、丸まった体からすぐに力が抜けて関節が伸びてゆく。
眉間の間にでき始めていた影もあわせてなくなった。
問題なしと判断したところで、改めて扉を開けようと再びドアノブへと手を伸ばす。
見た目以上に簡単に開いたドアは、人一人通るには十分なほどの隙間を広げていく。
「待って」
さざ波の中からすぐにかき消されてしまうほどのかすれたわずかな音にドアもバクサマも動きを止めた。
音の方へ振り向くことなく、ドアノブにかけていた指を話すでもなく、マネキンのように全く動かなくなった姿に、かすれた音の持ち主はそのまま話しかけ始める。
「私、も…私、は、助け…て、くれない、の…ですか?」
近くまで滲みより、布の合間からでもわかる美しい義足にしがみつきたくとも、何もできずにただ立ち尽くし、声を絞り出す。
幸せのさざ波の中、両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、小刻みに体を震わせている。
両手に込めた力でなんとか立てている、そういった様子だ。
その力を少しでも弱めれば、砂が崩れるようにそのまま彼女も崩れていきそうなほどに弱々しい姿。
黒い髪の毛に、黒い瞳。真新しいセーラー服をきた少女。
彼女は全く動かなくなったままでいる姿が次の行動を起こさないかと細い足を不規則に震わせながら待つ。
その震えは、緊張から起きている現象の他に、一睡もせず肌が青白くなり、肌も髪の毛もパサつかせていることも原因の一つらしかった。
まぶたが不自然にピクピクと痙攣を起こし、その下にある白目の色からも原因が推測できる。
だが、待っている少女がかわいそうになる程、バクサマは気を使う様子もなく少女が求める行動を一向にしようとはしない。
立ち尽くす二人の間で、いつのまにかバイクの音が通ったり、止まったりをさせながらカシャンとアルミのような金属音を軽く鳴らすのを何度か繰り返している。
一定のリズムを刻んでいるようで刻んでいない音はまたしばらくして遠くの方へと消えていき、また寝息のさざ波が戻ってきた。
先ほどよりも差し込むようになった光と共に、今度は鳥のさえずりが聞こえ、さらに行動を合わせてくるように靴音や、何かを開けるような音なども含まれるようになってきた。
「あの…」
何分、何十分、何時間とそうしていたかわからないが、しびれを切らした少女が再び苦しげな音を出す。
そろそろ限界に近づいた体をさらに支えるように、胸の前で組んでいた手は互いの甲に赤いあとをつけ、目をきゅっと細くさせ、眉が真ん中へと寄っていく。
だんだんと呼吸音の速度が乱れ、早くなり、それでもまだたっていなければいけない必死さが先ほどよりも足を震わせる。
ひとつひとつの空気は、肺に届く前に消えてしまうのか喉奥のほうでヒューヒューと音を立てて危険信号に気づかせようとする。
それでも、一向に少女を見ようとも声を出すこともしない姿が、先ほどから自分はマネキンか人形に話しかけているだけの愚かな行為をしているのではないかとさらに絶望を与える。
息をしている音もなく、上下運動もなく、体温すらもそこにはないただポーズを取らせられたままの人の形をした何かに話しかけ続ける姿を他に見る者がいないが為に、無駄な意地がこのまま続けなければダメだとうまく機能しない頭の中を縛り付ける。
光で温められてきた空気と、床から温まってきた空気とで、朝方よりも一段と生ぬるくなった部屋の温度が気持ち悪く感じ始めた。
そこにすっと涼しい風が通り、まずその場の空気を動かした。
少し高めの音を奏でながら止まって扉がバクサマの指を離れ動き始め、外側にいた人間が頭だけをまず先に前に出した。
少女は新たに現れた人に目を見開いたが、それでもなおバクサマは身動き一つしなかった。
身動きしなかったことで目の前に何もないと油断していたのか、視界の下にあったものをようやく認識した時には驚きで少し体が上へと跳ねる。
「驚かさないで、くれないかな…。あっ、いや…それより、何をして…」
優しい声の持ち主は、何かに気づいたように部屋の中を左側からゆっくりと首も動かしながら自分の目で確かめると少女の姿を見つけ、えっと小さい声を漏らした。
そして今度は目だけをバクサマへ戻す。
少女の時と同様に、未だに動かずただそこで止まっている。
じっと見つめても何も反応しない為、ゆっくりと呼吸と瞬きをしこの状況を整理しようとしながら、目線を少女の方へと戻した。
「大丈夫?」
少女の元に届く程度の音量が鼓膜をわずかに揺らすと、少しずつ空気が肺の中に入るようになったが声を出したらその空気もまた一瞬にしてなくなってしまうかもしれないと思い、わずかに下に向くことで返事をした。
相手の口角があがるのをみて、今度は少しだけ手の力が緩くなり手の甲にできていた赤い痕の色も淡くなる。
「あまり、大丈夫そうには見えないな」
顔だけでなく体も部屋の中に入れると青年はその場で靴を脱ぎ揃え、水辺からちょっとだけ顔を出している頼りなさそうな地面や岩に飛び移るように、フラフラとしながらも最短距離でこちらへと近く。
少女の横に到着すると、身長はすらっと高く、細身の体に着ているシャツからはとても懐かしいような香りが漂う。
その身長から香りにまで気を取られていると、確認もなしに軽々と少女の体を持ち上げて扉の前へと戻っていく。
部屋の中は生暖かかったとはいえ、それでも冷え切っていた少女の体に青年の体温がじんわりと伝わってくる。
飛び移るように左右へ跳ねるものだから、それ揺れに耐えようととっさに肩へしがみついた手が首筋に当たるたびに、体温の差に驚くのだった。
戻るのもあっという間で、青年から体を離してもらうと横にはバクサマがずっと変わらぬ体勢でそこにいる。
異様だけれど、神のように賛えるべき存在と思っていたその姿は、近くで見ると小さく細く、尋常じゃないほどに白い肌の表面をツルツルとさせていてちょっとした血管の凸凹さえも隠している。
本当に人形だったのではないかと白い艶やかな髪の毛へと手を伸ばした時だった。
体が急に動き出し少女の姿を両の目に写しこんだ。
前動作もなく音もなくさっとこちらを向いた顔に少女は後ろへ飛び跳ねて背中を青年にぶつける。
ガラス玉のような目の玉からは何一つとして感情が読み取れない。
むしろ、こちらの感情を読み取ろうと瞬きせず見つめてきた目に再び体温がさがり体全体がピリピリとした感覚を伴いながら硬くなる。
青年は、怯えた少女の背をそっと支え、ガラス玉の目にもう一度向き合うように促した。
頑張って一歩二歩と近くたびにガラス玉の目の奥が暗くなりそこに写り込んでいる自分の顔も暗くなってそのまま溶け込み輪郭だけがわずかに映るのみとなる。
二人で向き合うだけで話そうともしない姿にしばし青年はどうしたものやらと行き場がない開いた左手を後頭部へと伸ばした。
「ほ、かの、人…た、ちは…眠る、ことができ、たのに…私は…苦しめ…って、こと?」
途切れ途切れながらに口にした言葉と共に、真新しいスカートをシワを刻むように握る。
口を開く瞬間を逃してたまるかとなるべく瞬きをしないよう力一杯開かせた目はすぐに力をなくして細くなり、見るのが辛いのではなく開けるのが辛いと顔自体を下へと向かせた。
うつむく間もうつむいた後も寝息をたてている人たちの寝顔が目に入ってきて、カサついて薄皮が浮いてきている下唇にぐっと歯を押し当てる。
「そうではない」
月夜の中で聞いた声が耳に届く。
目の前にいるその声の持ち主の顔を見ようと頭に力をいれるものの誰かがそれを力で押さえつけて静止させる。
少女の目の前に広がるのは、床板と白い片側の素足ともう片側の白い義足の足の甲。
「ただ、お前のは、お前自身のものではない。眠らせないのはその為だ」
ゆっくりと頭を抑えていた力がなくなると、白い素足と義足とが視界から移動した。
そのまま視界が床板へと近づいてゆきおでこに痛みが走る。
その衝撃の反動か、すでに限界を超えていただけなのか、視界は真っ暗となる。
耳はまださざ波に、鳥の声に、靴音など様々な音。そして自分を呼んでいるのか部屋から出ていったものを呼んでいるのか青年の声が聞こえていたもののそれも次第に聞こえなくなっていった。
ばくのゆめ 西人 @nishin0k0
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