ばくのゆめ

西人

壁となった大量の本が不規則な凹凸を作り上げ、ところどこにできた隙間を埋めるように、小さな光が古びたガラスの器の中で踊っている。

どっしりと上に乗っかっている天窓には雲が厚手のカーテンを作り出し、光を遮断している。

逃げ道を失い閉じ込められた空気は湿っぽく重々しくのしかかる。

その中で、今、音が床を這いずりまわっている。

音の正体は見えないが、それは複数いるようだ。

前から聞こえたかと思えば、後ろから。

はたまた左右から、同時にと、至る所を這いずり回っているからだ。

不気味さだけが大きくなり、心臓を強く握りつぶされる感覚で苦しくなる。

のしかかり続けてくる空気が一気に皮膚の表面の体温を吸い取っていき、更には内部の熱までを抜き出そうとする。

何度も何度も皮膚の表面を撫でてくる感覚が、何者かの指先のように思えてくる。

拭たくても、拭えない。

それが苛立ちと恐怖とを植え付け、絡みつくように成長し、消化できない感情となって支配されそうになる。

音の正体が見えてこない中で、また正体がわからない白い何かが、湧き立つように地面から生え、部屋の中心へと歩み出た。

ヒタッヒタッと床面を軽くこする音に合わせるように、音の影は後ずさりまたは打ち寄せたりと波のように騒ぎ立つ。

影の上から影が覆いかぶさっては形を次から次へと変えていくのを、暗闇にようやく慣れ始めた両目がその輪郭をなぞる。

白い不気味な存在は、亡霊のようにゆらゆらと部屋の中央で漂う。

自分の足元で這いずり回る影よりも目線を外してはいけない対象は何であるか、脳が強く指令を出してくる。

目が乾きを訴えても、その目を閉じた一瞬で何かが動いてしまうようで怖い。

それならば、目の痛みを我慢させたほうがマシだ。

先ほどから何重にも降りかかってくる恐怖で、内部から爆発が起きてしまうのではないか、いつ自分自身のコントロールができなくなってしまうのかと、自分自身で恐怖を積み重ねていってしまう。

逃げ出したい。でも、逃げ出せない。

今逃げ出せば、自分の足を動かしてしまえば、その先は、ない。

その警告だけが明確な理由もわからないままに鳴り続けている。

でもそれと同時に、最後までここにいれば大丈夫という保証がないことも気づいている。

その気持ちを見透かしてからかうように、足元から一気に振動が波立ち、壁の本がドンっと、宙に投げ出されたのを合図に、着地した順からカタカタとバタバタと笑い、それにつられるように天窓さえも笑い出す。

そして埃が踊りながら鼻先でお前も笑えと促すようにくすぐりながら落ちる。

全ての音が混ざり合い、不協和音と化す。

重なり合った音達が僅かならがに輝かせていた光を揺らし、焦らすことなく消しとばしてゆく。

闇に慣れたはずの両目にまた一層深い闇がかけられると、もう自分が目を開けているのか閉じているのかわからなくなる。

目の前にいた白い異彩を放っていたものも、白から灰色へ、灰色から黒へと染まっていき周りの景色に溶け込もうとしていく。

風景との境目を見つけることは限界に近い。

最後の悪あがきをするように目をぐっと力みながら細めた。

まだ確かにそこにいる。いるはずだ。

もっと目にぐっと力を入れる。

その場でゆらゆらと漂うだけだった存在を捕らえたと思ったら、急に左右に揺れた。

いや、何かに掴みかかられ揺さぶられた。

目が潰れてしまうぐらい暗闇の中へ目をぎゅっとこらす。

何か、白いものとは別のものが地面から生えて、しがみついている。

それは人の手の形をしているように見えた。

人の手であることが確信に変わるうちに更に地面から人の手が生えては掴みかかってきた。

複数の手が白い存在を乱暴に自らがいる方向へ引き寄せようとすると、更にそこへまた複数の手が生えて手を引き離し自らの方へ呼び寄せようと引っ張り合う。

部屋全体がそれを見ながら大声で笑い始め、不協和音の合唱があちらこちらで奏でぶつかり合う。

口の中が喉を逆流してきたもので膨らみ破裂しそうになる。

それを必死で止めて無理やりしぼませてを繰り返しながら耳を塞ぐしかできることがない。

でもそれもずっと耐え凌ぐことはできないだろう。

今すぐにでも破裂させてしまいたいし、どうせなら泣いてしまいたい。

そうすればまだこの場にいることを耐え凌ぐことができる。でもそんなことしたくない。

苦しい。

辛い。

気持ち悪い。

やめて。

逃げ出したい。

逃げたい。

逃げさせてほしい。

また闇に慣れてきた両目が、目の前の光景をずっと捉えている。

灰色がかっていたはずの存在は、少し白く発光しているようにすら見えてきた。

そしてただただ乱暴な動きに耐えながら、そこから逃げ出すことはない。

ただ、そこにいる。

嫌がってはいない。

ただ引っ張られる方向に身を任せ、その強引な揺れにいつまで耐えきれるかを楽しんでいるようにさえ見える。

そして、その楽しさから笑い声さえ聞こえてくるような気さえする。

いや、実際に聞こえていた。

軽やかに小鳥が朝を告げるような、愛くるしいさえずりが不協和音を切り裂いて響き渡る。

耳を塞ぎたくなるような音はすでになく、さえずりに呼ばれたかのように天窓からは光が差し込んできた。

その光は、とても冷たく感じた。

白くて、剣のように何かを斬りつけるような光。

でもそれは差し込み始めた一瞬だけのことで、今ある光は暖かく優しく包み込んでくれる光へと変わっている。

月の光だ。

サラサラとした音が一瞬聞こえたかと思うと、白い何かがいた場所には一人の女性が立っている。

足元には抜け殻となった光沢のある布が落ちていた。

空に光る小さな星のようにキラキラと輝くも、すぐに影が飲み込んで沈めていく。

だが女性はそんなことは一切に気にもとめず、ゆっくりと顔を上げ天からの光を全身で受け止めている。

その光を反射する肌は陶器のようで、最初に感じた不気味さよりも人の姿が見えた今の方がより一層不気味だ。

そう思わせるのは肌だけではない。

バイオリンの弦のような白く細い光沢のある髪の毛、光を写しても影を写していないようなグレーの瞳、少し歯を覗かせる薄い唇の淡い桜色に、細い白い体をふんわりと包み込む、いくつもの白い切れ端を縫い合わせたようなドレス、そのドレスの間から覗く左の太ももから生える素晴らしくも繊細な彫り物を施された陶器のように美しい義足が彼女の外見を作り上げている。

「……バクサマ」

人の声が一切なかったはずの空間に、人の声が響く。

その声は掠れていて、とてもその場にいる全てが聞き取れるような音ではなかったがそれを皮切りに再び波を立て始め、尊敬を含んだ声色で「バクサマ」と呼び始める。

生まれたばかりの赤ん坊が目の前に差し出されたものを握るように、弱々しく手を伸ばしては、何にも届かない宙でそれぞれの手の指をぐっと丸める。

バクサマは自分を求める影に微笑み見渡している。

その場で何度もくるくると回るから、それに合わせて下半身の布もついて踊る。

光ったり、透けたり、レースの影を落としたりとまるで万華鏡のようにいろんな表情を見せつける。

そして急に動きを止めたかと思うと、白い細枝のような指先を差し伸ばしたのだ。

その先には男の姿があった。

ボロボロなスーツに身を隠すも、もう骨と皮と内臓と、最低限の肉しかないのは想像ができる。

男の周りの影は風で吹き飛ばされる枯れ葉のように隅へ隅へと避けていく。

バクサマと男の間には一本の細い道ができ、スポットライトが差し込む。

白く反射し完成した光の道を、男の方から時間をかけて前へと歩みだす。

じれったいほどにゆっくりとした動作。

これが日常の中の動作なら、迷わず後ろからカバンをぶつけるようにして歩くに違いない。

身内であれば、苛立ちをストレートに言葉で言ってしまうか、構わず置いていってしまうか。

いや、そんな状況を想像するよりももっと遅い歩みのように感じる。

それでもこの空間ではそのことをじれったいとは思わないようだった。

それよりもあともう少しだと応援でもし始めそうな呼吸音がかすかに聞こえ始めるのだ。

先ほどまでバクサマを取り合うように引っ張りあっていたというのに。

ようやくバクサマの目の前までたどり着いた男は、カタカタと砂のように崩れていきそうな手を伸ばした。

その手を、そっと柔らかそうな手の平で下からすくいあげる。

男の口からは掠れた音が一筋漏れる。

その息はとても小さいものだったが、反響したかのように響く。

周りの影たちも、彼と同じように声を漏らしたのだろう。

やっとこの時が来たのだと、緊張を混ざりこませたその声が実際に言葉にしなくともそう皆に思わせる。

皆がすがっているのだ。

皆が同じことをすがっている。

だから今は言葉にすることは必要ない。

そして急かすことはしない。

急かす必要もないからだ。

今、目の前で男の手をとりずっとその者の目を見つめている彼女こそが、自分たちを必ず救ってくれる。

だから、本当は、本当ならすぐにでも目の前にバクサマが来てくれることを望みながらも、お互いにお互いを押さえつけるようにして彼女を待っているのだ。

自分たちを唯一救ってくれる、この世に実在する神を崇める目を向けてただひたすらに己に光が差し込むのを待つのだ。

その間も、男とバクサマはただ見つめあっていた。

バクサマが瞬きせずじっと見ているのとは違って男の目は小さい揺らぎを繰り返してはうるんだ眼を何度も瞬きさせる。

うるんだ目からやっと絞り出た水が枯れた肌の表面に細い道を作るも、最後まで行き着くことなく消えていった。

後から続く水もなく、ただ何かが通っていった痕跡さえもすぐになくなる。

その様子を表情一つ変えずに見届けて、少女はようやく目を細め品の良い可愛らしい薄桜色の唇を動かす。

そこから、予想通りの愛くるしい声が鼓膜を優しく揺らす。

「大丈夫。ゆっくりとおやすみなさい。」

その言葉に枯れきったと思っていた水がまた流れ出し、先ほどよりも大きい道を作りながら尖った顎の先からポタリと落ちた。

途切れることなく水は流れ続け、潤った道が何筋にも縦へ流れていく。

2つ、3つと道はできあがり、時には合流してより大きい道へとなる。

落ちた水は白い陶器のような手へぶつかって、弾けて小さな水の塊へといくつにも飛び散って空中へと消えていった。

白い手には何も残っていない。

次から次へと落ちてくる全ての水も、落ちた後すら残さず消えてゆく。

男は、口をパクパクとさせるが、そこからでるものは掠れた空気の音だけだった。

それでも、男の言いたいことは周りにはわかるらしい。

湿っぽく重たかった空気が軽く優しい空気へと変わって洗浄され始めていたからだ。

床を這っていた音の正体も影の正体も全て人間の形へと変わっていき、それぞれの表情がわかるようになる。

優しい顔をしながらも、目の奥ではまだ表に出せず閉じ込めている何かを秘めている。

しかしその閉じ込められているものももうじき外に出れるのを感じているのか鈍い光を放っていた。

口角ももうじきくる幸福で上がるもの、まだ怖さが残るのか下がるものと半々ぐらいではあったが、わずかに力を抜いて開き始めた口の開きは同じぐらいのようで唇の間にはうっすらと皆、中の色がにじみ出ている。

目から溢れてくる水の量が少し落ちつき、男の口角も他の人と同じく力を抜き始めたのを見計らって、手のひらを優しく自らの唇のほうへと引き寄せる。

ゆっくりと、丁寧に導いた手のひらを灰色の目に写し込みうっとりとした表情を浮かべてから羽毛がひらりと床に着地するように目を閉じた。

長い睫毛がキラキラと光の中で揺らめく。

綺麗な小川で、手の器で掬い上げた僅かな水をゆっくりと飲むように男の手のひらに唇を当てて、何かを飲み込んで喉を通していく。

男はその様子を恥ずかしいような、嬉しいような、不思議な光景を見ていたかと思うと、体をゆっくりと横へ傾かせ始めた。

その体を周りが受け止めると、男の体からは力が抜け、へたりとされるがままに横になった。

冷たく硬い色をしていた皮膚は今はほのかに温かみを帯び、柔らかささえ感じる。そして穏やかな寝顔がそこにはあった。

耳をくすぐるような声が至る所から「おやすみなさい」と優しい囁きを響き渡らせる。

そよ風が揺らす木々の音にも似たその音は、子守唄となって彼を更に眠りの深みへと連れて行く。

一定の音が男の口から漏れ、それを聞いた者たちからゆっくりと目線をバクサマへと戻す。

バクサマは先ほどと同じように微笑みながらなんども周りを見渡していた。

また誰か一人を選ぶのかと思えば、さきほどまで男の手を包んでいた手を暗闇に向かって枝をいっぱいに広げる木のように伸ばす。

体にまとう布が白い葉のようにサラサラと揺れる。

ガラスでできた木に見えて、同じ人とは思えない。

いや、もはや人ではない。

先程の出来事は、インチキをしているようには見えなかった。

疑ってはいけない力を目の前にしているのだ。

そこに確信は一切なくとも。

でも、神さまはこんなことをしてはくれないだろう。

人には平等に試練が与えられるらしいのだから。

なら、精霊か。はたまた化け物か。

バク、の2文字が頭に浮かぶ。

悪夢を食べていい夢を与えるバクという妖怪だったかをふと思い出す。

「みんなもゆっくりと、おやすみなさい。」

現実のように思えない現実へとその一言で戻される。

甘い蜜に吸い寄せられる虫のように、見守る側にいた人間が前へと歩み寄る。

先程の男のようにゆっくりと、だが周りと自分とを見比べては速度を緩めるものだから更にゆっくりとした動きで中央へと滲みよる。

眠りについた男を起こさぬよう、なるべく音をさせないようにヒタヒタと近づいてきた者たちをバクサマは微笑み崩すことなく淡々と迎い入れる。

額に口づけ。頰に口づけ。手に口づけ。

ある者には優しい抱擁も与え、一人一人と眠りへ誘う。

眠りについた者たちの間をふわふわと飛び回りながら奥の者たちも忘れることなく迎えに行く。

眠りにつく人が増えるほど、バクサマの目には光が浮かぶ。

微笑みは笑みに変わり、時に妖艶な表情にもなる。

満足げな顔になった頃には、天窓から見える風景は薄水色へと変色していた。

それは、一夜の夢の終わりの合図でもあった。

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