Billie

タッチャン

Billie

Oh, oh I love you

Oh, oh I do

I got a sentimental illness for you

Please don't go away, oh yeah


 ビリーの甘い歌声が俺よりずっと年上のステレオから流れ部屋の中を漂い、そして、満たしていく。

曲に合わせて俺の右足はリズムを取るように動くが、それは調子外れたものだった。

 コーヒーや酒がこぼれて作ったシミだらけのカーペットの上に転がるスプーンを拾い上げて、何に使ったか分からないティッシュで拭いて乾かす。

 細長い針をはめた注射器でスプーンの中のものに水滴を垂らす。ポケットからライターを取り出して、火を付けて、スプーンを火の上に運び炙る。水溶液はすぐに沸騰して、左手で持っていたライターをステレオに投げつけようとする。けどそれは手元から滑り落ちて、俺の足元のカーペットの上に横たわる。

 俺は熱したスプーンが冷めるまで、窓の外を眺めていた。どんよりと暗く、重たい雲が空を覆っているだけで、他には何もなかった。

 ビリーは歌い続ける。俺の為だけに歌う。

冷めたスプーンの中に針先を沈めると、気持ち悪い音を立てながら透明な液体が注射器の中に溜まっていく。ゆっくりとソファーの上に注射器を置いて、左腕を紐できつく縛り、浮き出る血管に針を射し込む。注射器の中は黒と赤の中間の色でうねりながら、混ざり合い、俺の中へ入っていく。

 一瞬で俺の意識は遠い所へ運ばれる。遠い、遠い記憶の中へうねりながら、ゆっくりと、消えていく。



 俺はソファーの右側の端に座り、一度も染めていない彼女の黒く長い髪が曲のリズムに合わせて揺れ動く様子を見ていた。

「これ、いい曲だね」

右耳に収まるイヤホンのRの部分を触りながら彼女は言った。「曲名はなんて言うの?」

俺は弱々しく答える。「Too Dumb to Die」

 左耳に収まるイヤホンのLの部分から横に座る彼女の熱が伝わるのを感じながら続ける。

「俺の好きなスリーピースのロックバンドなんだ。気に入ってもらえて良かった」

「うん。すごく格好いいよ、疾走感があって。それにボーカルの人の声が甘くて、でもサビの所で力強くなってさ。すごく聴きやすかったよ。普段ロックなんて聞かないから新鮮だったな。あれ?どうしたの?何かやらかしたのかな?そんな顔してるよ?」

突然の鋭い指摘をされて、彼女には一生敵わないなと改めて思い、本音を漏らす事にした。

 「…本当はね、美樹さんの好きなCarla ThomasのB-A-B-Yを聴いた後、Green Dayじゃなくて、美樹さんのお気に入りのMaroon5のSugarを流していいムードにする為に曲順をセットしてたんだけど、ランダム再生になってたの気づかなくてさ。作戦失敗だよ」

顔が熱くなってきたのを感じて、反射的に顔を隠す。

「ははーんそういう事か。だからいきなり一緒に音楽聴こうなんて言ってきたのか。わざわざ一つのイヤホンを二人で使ってさ。突然ロマンチックな事するなぁって思ってたけど、そういう事ね」

「そういう事」

「そういう所も好きだよ」と彼女は俺の目の奥を覗きこんで囁く。それを言われた俺同様、彼女の顔もまた赤くなる。

「無理して言わなくてもいいのに」嬉しさを隠す為に、出来る限りぶっきらぼうに言うが、どうせ隠せていないだろうし、彼女にはバレてる。

 穏やかな空気が狭い部屋の中を漂い、俺達が座る小さな二人掛けのソファーを優しく包み込んで行く感じがした。俺にはそう感じる。

 「無理して言ってないから。それよりさ、美樹さんってさん付けで呼ぶの止めてよ。これ言うの何回目?毎回そうやって呼ばれると君より7個も年上なの思い出しちゃって何だか辛いんだよ?」

「ごめんごめん。癖で。それじゃ……美樹」

彼女の目の中に写る俺の表情は自然と優しくなる。そして、続けて言う。

「俺達さ、今日で付き合って3年半になるじゃん。俺は美樹以外の女性なんて考えられないし、これからもずっと俺の隣にいて欲しいって思ってる」

前々から考えていた告白を区切り、ポケットから小さな箱を取り出して中身を彼女に見せる。

「だから…美樹さん、俺と結婚してくれませんか」

「……またさん付けで呼んでる」

「いや、こうゆう時は、さん付けで言うでしょ…あれ、もしかして泣いてる?」

「泣いてない!」

「まぁ、そうゆう事にしとくよ。それで美樹さん、返事を頂きたいのですが…」

「…勿論、はい、です。有り難う。これからもよろしくお願いします」

そう言って深々と頭を下げる彼女に見えないようにガッツポーズをする。

「俺の方こそよろしくね。あと…何かごめんね、ムード無いしさ、家でプロポーズなんて、変だよね」

「全然そんな事ないよ。君らしいからいいかな」

誰よりも自分自身を理解している彼女の笑顔を見ると俺の心は高鳴る。そして、ゆっくりと蕩ける。

 「俺ね、今まで恥ずかしくて言わなかったけどさ、俺が長い髪が好きって言ったの覚えてくれてて伸ばしてくれてるのも、同棲してから毎日弁当作ってくれて毎回タコさんウインナーを入れたり、仕事から帰って来ると、当たり前の様に今日もお疲れ様って言ってくれるのが本当に嬉しいんだ。これ本心だよ?本当に幸せでさ、外見だけじゃなくて、そうゆう所も好きで…うん。とにかく、俺は美樹の事が好きです」

「うん…私も幸せだし…好きだよ」そう言って俺の背中に手を回す彼女の頬を涙が伝うのを感じる。それはそのまま流れ、俺のシャツに染み込んでいく。それは俺の体の一部となって、これからも一緒に生き続けると思うと、体が熱くなる。

 「美樹のお陰でクスリも止める事が出来たしさ、本当に感謝してるんだ。仕事も順調に続いてるし、毎日楽しいし。ほんとにありがとね」



Oh, oh I love you

Oh, oh I do

I got a sentimental illness for you

Please don't go away, oh yeah


 ビリーの声が聞こえる。俺のすぐ隣で。

リピート再生にしていたせいで、何度も同じ曲が流れ、その度に俺の鼓膜は震える。

 朦朧とする意識の中で目を開けると、暗い空が見える。さっきよりも一段と重々しい雰囲気がする。いや、変わらないかもしれない。

 吐きたいのを我慢しながら、ソファーに深く体を沈めた後で気づいた。いつもの癖で右側の端に座っている事に。動く度に腹の奥から込み上げる物を耐えて、無理やり左腕を伸ばして、彼女に触れようとする。何度も。でも誰もいないと気づくのに長い時間がかかった。実際は10秒くらいかもしれない。でも俺には長く感じた。

 鈍くて重い痛みが俺の心臓を痛めつける。手で口を抑えつけて、ゆっくりと息を鼻から出す。目を閉じて深く沈んでいく感覚を感じながら意識を手放す。



 「結婚式、明日だね。楽しみだね」

俺の先を歩く彼女が振り返って言う。彼女が歩く度に、振り向く度にその黒く長い髪は、日の光を反射させて俺の目を疲れさせる。素敵だ。俺は呟いた。俺の声は隣でスピードを上げて通る車が消してくれた。

 「うん。楽しみだよ。どんな風になるのかな?美樹のお義父さんとお義母さんも、友達も泣くのかな?間違いなく俺は泣くんだろうな。ウエディングケーキってさ、切った後皆で食べるのかな?この前テレビでさ、新婦のお父さんがサプライズでトランペット吹いてさ、感動的だったよ。物凄く練習したみたいで、所々音が外れてたけど感動したよ。一生懸命な姿を皆が見て、皆が泣いてたよ。俺達の式でもそんなサプライズがあるのかな?」

「どうかな。あったら嬉しいよね」

 隣を走る車の数がだんだんと増えていく。中にはスピードをぐんぐん上げて走り去るのもいた。

そのせいで俺の声はかき消されて、彼女に届かないかもしれないと怖くなり、少しだけ大声になる。

「ほんと、俺みたいな人間が結婚出来るなんて昔は想像すら出来なかったよ。俺の両親とかはずっと昔に縁を切られたから式には来ないけどさ、でもそれってやっぱり寂しいもんがあるよね。後悔しても遅いけどさ」

喋り出した彼女の声もさっきより大きかった。俺と同じ事を思っていたんだ。

「ねぇ、昔を思い出すのはもう止めようよ。これからは二人で楽しい未来と家庭を作って行こう?ねぇ、早速だけどさ、子供は何人欲しい?私は二人欲しい。君は?」

 たぶん、彼女は笑顔だったと思う。笑ってたはず。彼女の顔を見ようとしても頭上に昇るギラギラした太陽の光が俺の視界を遮る。辺りは白一色になった後、黒と赤の中間の色が見え出した。それはゆっくりと俺の目を通り、脳へ流れていく。

昔、毎日見た注射器の中でゆっくりとうねる色と同じ様だった。そしてまた、俺の体の中へ入っていく。

その色は横たわる彼女を覆っていた。



 目が覚めると涎を滴ながらぐったりとソファーに沈んでいた。効き目が切れかけている。

 今日だけでこの曲を聴くのは何回目なんだろう。30回かもしれないし、50回かもしれない。ぼんやりとする意識の中で、何度も何度も、ビリーの甘い歌声が部屋の中へ響き渡る。今となってはその声はどこか寂しげの様に聞こえた。そして俺は一緒に歌う。

Oh, oh I love you(あぁ、君を愛しているよ)

Oh, oh I do(本当に)

I got a sentimental illness for you(君に対して、もはや感傷的な病気なんだ)

Please don't go away, oh yeah(どこにも行かないで)

 俺は歌った。喉の奥がズキズキと痛みだしても構わずに歌い続けた。

 曲が終わると、静寂が訪れる。でもそれはほんの一瞬で、また同じ曲が、同じ甘い声で流れてくる。

俺はソファーから立ちあがり、ステレオの電源を切った。

 ソファーに座り、汚れたカーペットの上に転がるスプーンと注射器を拾いながら、踏みつけた一ヵ月前の新聞の見出しを見る。これを見るのも何回目だろう。

「歩道に車が突っ込む。跳ねられた女性は即死」

ソファーに体を深く沈める。

もう終わったことなんだ。

頭の中で何度も浮かぶサビのワンフレーズを呟く。

「Too Dumb to Die(死ぬなんてバカげてる)」

俺の声は部屋を漂い、埃が被さるステレオのスピーカーの中へ吸い込まれていく。

いつもより多い量を用意する。

彼女に会う為に。

隣を見た。誰もいないと分かってるのに、首が勝手に動く。

 頬を伝う涙がやけに冷たい。

「その通りだよ。あんたらの言う通りだよ。でも…俺は…俺はどうしても彼女に会いたいんだ」

 隣でビリーが俺の為だけに歌い続けていた。

 俺にはそう感じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Billie タッチャン @djp753

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ