タイトル

ミスターN

第1話 タイトル

「ねぇ、世界ってどうやったら平和になると思う?」


 それは彼女が口癖のように繰り返す質問だった。

 幾度となく聞いた定型文。


 その言葉に意味はないのだろうと思っていた。


 それは僕と彼女だけの静穏とした帰り道で。

 話の切れ間に生じた短い沈黙を埋めるように差し込まれた。

 傍を通り過ぎた空と同色の蜻蛉を目で追いながら、僕はいつものように言葉を返す。

 決まった台詞は無いけども。


「またその質問か……。やっぱり天才少女は変わってるな」

「質問じゃなくて、問題提起。そして、私は天才少女じゃないよ」


 二歩程先を歩いていた彼女はこちらを振り向きながら僕に向かって指を差す。

 雨上がりの夕刻。靴の動きに合わせてアスファルトの残水が跳ね、オレンジの夕陽を散らす。


「天才美少女と呼ぶのが正しいね」


 そうやって悪戯っぽく微笑む彼女は絵画の中から飛びだしたように整った容姿をしていた。

 腰まで届きそうな黒髪に白い肌が映える。

 ただ振り向く所作ですらも映画のワンシーンのように輝いて見えてしまう程に彼女は魅力的だった。

 思わず緩んでしまいそうな頬を無理矢理抑える。


「美少女って……。まったく、毎度の事ながらよく自分で自分の事を美少女とか言えるな」

「普通の人は言わないね。だから私は天才なんだよ」

「あー、はいはい。全く……」


 自らを天才と、しかも美少女と名乗る彼女に呆れつつ。しかし、反論する余地は無い。

 理由は簡単。

 彼女を表現するのにはその言葉が適切だからだ。

 彼女は嘘みたいに卓越した才を持ち、しかも冗談のような美を備えている。

 ただし、天は二物を与えずといったところか。身長は小学校高学年辺りから全くと言っていいほどに伸びていない。

 そのことをうっかり口にした日は一日中機嫌が悪くなるのだから、本人はそのことを凄く気にしているようだ。

 既に二物以上与えられている彼女にとって、この程度の問題は瑣末な物だろうに。


「そんなことよりも。さあ、答えて」

「うーん……。前回はなんて言ったんだっけ?」


 世間話みたいに聞かれるものだから自分がどんな答えを出したのか、あまり覚えていない。

 それに、世界を平和にする方法なんて幾つも思い付けるものでは無い。ネタはとっくに尽きている。

 幾度か同じ回答をしたこともあるし、その度に罰金と称して食べ物をたかられるのだ。

 ちなみに、答えられずにギブアップを宣言しても何故か奢る羽目になる。……なんでだよ。

 そういう訳で、『彼女は小腹が空いたからこの質問をしている』というのが僕の中では有力な説となっている。


「『いい事したらその分幸せになる保証があればいいんじゃねーの』って言ってた。ちなみにその前は『ストレスが常に解消されれば』って答えてたね。さらにその前は『人なんていっそ居なくなれば平和だ』とも。全く、乱暴な意見だね」


 こちらに振り向いたまま、後ろ向きに歩く彼女は目を閉じて思い出すように答えた。


「おい、危ないから前を向いて歩けって」

「ははっ。やさしいね。私に気があったりする?」

「うるせーよ」


 聡明な彼女だから心も読めるんじゃないかと疑ってしまう。少し赤くなった顔が夕陽で誤魔化されますようにと祈りながら空を見上げた。

 平和、ね……。

 茜色から暗い青に色相を変える空を水滴が付いた電線が歩調に合わせてゆっくりと横切る。

 梅雨最後の雨だったのだろうか、海の向こうまで雲一つ無い。

 今夜は星が見えそうだ。


「いっそのこと、世界中の人間の心を繋ぐってのはどうだ。相手の痛みが分かれば暴力なんて無くなるだろ」

「ふんふん、なるほど。……あーっ! 猫だぁー」


 木陰で雨宿りをしたまま眠ってしまったのか、黒猫が一匹丸まっていた。首輪が付いているから、飼い猫なのだろう。

 ぱっと思いついた割には結構いい考えだと思って答えたのに、彼女の注目は猫に持っていかれた。

 彼女は猫とアップルパイに弱い。


「はぁー。やっぱり猫はいつ見てもかわいいなー。この世の至宝だよ。うんうん」


 目を輝かせながら熟睡する黒猫をかがんで見つめる姿は本当に小さい子供みたいだ。

 まあ、口に出すとまた機嫌が悪くなるから言わないのだが。


「さっきまでの世界平和はどこ行ったんだよ……。すでに世界は平和なんじゃないか?」

「いやいや、平和なのはここだけだよ。それも猫の額よりも狭い範囲だけ……。うん、君の意見は参考にするね」

「ふん。そりゃどうも」


 何の参考なんだか。

 付き合いは長いが、彼女の考えが分かった試しがない。


「そういえば、お前は一体どうやったら世界が平和になるって思ってるんだ?」

「……私の考える平和は私だけの平和なんだよ。聞くだけ無駄なんだ。平和なんて人の数だけ存在するし、一個人が決めつけて良いものじゃない。だから君にも聞いていたんだよ。忌憚のない意見をね」

「ふーん。そういうものなのか。……でも」

「でも?」

「それでも聞いてみたいんだよ。天才美少女様がどんな平和を描いているのか」


 足を止めた彼女の真っ白な目に見つめられる。どこを見ているのか分からない焦点が定まらない瞳だ。

 実は、生まれつき虹彩に異常があった彼女は視力が悪い。そのくせ眼鏡もコンタクトも嫌だと言って付けようとしないのだ。

 それでも日常生活は問題なく送れている。本人曰く、物の位置と第六感を研ぎ澄ませば目を閉じても問題ないとか。

 『天才っていっても限度があるだろ……』と最初の頃は思っていたが、それにももう慣れてしまった。

 そんな白眉の彼女はこう答えた。


「決まっているよ。皆が幸せであると思える平和を私自身が実現し続けることが私にとっての平和な世界だよ。そして、それは私の目標でもある」

「……ぷっ。あはははっ」

「なんで笑うんだ」


 ムッとした彼女に悪いと思いながらも笑いがしばらく止まらなかった。

 どうやら、彼女は平和を真剣に実現しようと考えていたらしい。


「わるいな。なんというか、本当に世界を平和にすること夢に見てる奴がいたなんてさ」

「夢じゃない。目標だよ」

「その違いは?」

「夢は追い求めるもので、目標はいつか達成するものだ」

「へぇ。じゃあ……」


 僕は彼女の。目標を語る真剣な顔に向かってそう約束した。


「それが達成出来たら好きな物をあげようじゃないか」

「ホントに!? じゃあ、アップルパイがいい。前に焼いてくれたのすっごくおいしかったから」

「えっ……。そんなのでいいならいつでも焼いてやるけど……」

「じゃあ、その分だけ。何度でもあきらめずに世界を平和にするよ」


 たかがアップルパイの為に世界は平和になるか。

 安い動機だな。

 でも、悪くない。


「じゃあ、約束ね。上代」


 そういって彼女は右手の甲を突き出した。

 二人だけの約束の儀式。

 僕も同じく、右手の甲を差し出して合わせる。彼女の冷たい手に触れる。

 最初はどうしてこんなことをするのか意味があったはずだけど、もう忘れてしまった。


「ああ、約束だ。水上」


 その日の夕焼けはひどく綺麗だったのを覚えている。雨上がりの空気は澄んで、すぐそこまで迫る夏の兆しに少し浮足立つ感覚がした。

 それもじきに薄れる日常なんだろう。

 この会話も、この風景も、そしてこの約束でさえも。

 人生よりも長い歴史に希釈されて、いずれ嘘だったみたいに消える。

 僕はそう思っていた。

 彼女と僕の考えた荒唐無稽な平和でさえも。

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