五日目②
「‥ねぇ起きてる?」
「ああ、起きてるよ」
昨晩も早々に眠りについたせいだろうか。
彼女の呼びかけで彼は目を覚ました。
「雨と風、止んだね」
「そうだね」
互いのささやき声がよく聞こえる。
風雨が雨戸を叩く音は、いつの間にか止んでいた。
「雨戸、開けてみようか」
「そうだね」
「いつも肯定ばかりね」
「否定する理由もないし、それでいいやって思っただけさ」
彼女は軽くため息をつく。
「あまり話を聞いてないような気がするの、今度から気を付けたほうがいいよ」
「だって否定すると、君は怒るだろ?」
「そんな事ない‥‥私に合わせておけば場が収まるって事?私のせい?」
彼は言い返そうとして、慌てて首を振った。
「……止めよう。ケンカをしに来たわけじゃないんだ」
「そうね、笑ってさようならしたいもんね」
雨戸の隙間から差し込む光が、闇を切り裂いて部屋に世界を作る。
彼が雨戸を一気に開くと、闇に慣れた目が潰れるかと思うほどの光が降り注ぐ。
もしかして、もう朝だったのか?
「見て、満月!」
彼女のはしゃいだ声に我に帰る。
真っ白に煌々と輝く巨大な月が、雲の晴れた夜空をまるで太陽のように照らしていた。
「仲秋の名月‥」
「すごい、こんなの見た事ないよ!」
彼女は裸足のまま、開け放った窓から飛び出した。
「サンダルくらい履けよ!」
彼は玄関にいき、彼女の分のサンダルを手に駆けつけた。
冷静ぶってはいたが、彼女が飛び出さなければ自分が飛び出していただろう。
月がこんなに明るいなんて。
まるで巨大な街灯のように、建物を、道を、道端の雑草を、遠くの丘を、そして普段なら真の闇に包まれている浜辺を照らし出していた。
「すごいね」
「すごい」
すっかり語彙力を失う二人。
この島に来てから今まで見たことのない景色をたくさん見てきたが、この満月下の光景はたぶん一生忘れられないだろう。
「海、見に行こうよ!海!」
言うが早いか走り出した彼女の手を、彼は慌てて掴む。
「波が高くて危ないだろ!」
彼女は一瞬ムッとした表情を作ったが、
「その否定、良いね。好き」
そう言って笑った。
「素直に受け取ってくれるなら、俺もいくらでも否定したのかな」
「二人とも大人になったんだよ、きっと」
彼女は、今度は少し悲しそうに笑った。
「海、見るくらいならいいでしょ?近づかなければ平気だよ」
彼女に導かれ、海と砂浜を見下ろす高台までやって来た。
景観の邪魔にならない腰くらいの高さの古びた柵に手をかけて、二人で静かに景色を眺めた。
満月のおかげで、灯りはいらなかった。
思ったより海は静かで、風も収まって頰を撫でる潮風が心地良いくらいだった。
涼しく心地良い風が二人の間に流れていく。
「もうすっかり秋だな‥‥そりゃそうか、九月も半ばだもんな」
「秋なんだね」
「良かったな、明日には船が動きそうだ」
「嬉しいの?」
彼女は背を向けたまま呟く。
「それはそうだよ。仕事も溜まってるし」
「‥‥私は帰りたくない」
「何を言っている」
彼は彼女の肩に手を置いた。
彼女はその手に、そっと手を重ねた。
振り返らず、顔は海の方を向いたまま。
「ずっと夏のままが良かった。夏のあの頃のまま、ずっと遊んでいたかった」
一瞬だけ吹いた少しだけ強い風が台風で散った落ち葉を舞わせ、道路の端でカサカサと音を立てながら飛んでいく。
「‥‥それは無理だよ」
「どうして?私たちの関係がおかしくなったの、就職してからでしょ」
「だからって学生のまま遊んでいるわけにもいかないよ」
「分かりたくない」
弾かれるように、彼女は高台の柵を飛び越えた。
「おい!」
彼も慌てて彼女に続く。
高台から海へ、低く生えた植生の中を二人で転がるように滑り降りていった。
濡れた砂浜を素足で踏みしめる。
サンダルはどこかに消えていた。
彼女は砂浜を走り抜けて一直線に海へと走る。
でも彼の方がわずかに速かった。
海に入る数歩手前で、彼は彼女の手を掴む。
「泳ぐの!」
「こんな波が高いのにか?死ぬぞ!」
彼は彼女を海から引き剥がすように抱きかかえ、そのまま砂浜に倒れこんだ。
押し寄せた波が引いていく。まるで二人から逃げていくように。
彼の体の下で、彼女は嗚咽をあげ始めた。
彼女だって分かっている。
夏がいつまでも続くはずなんてないってことくらい。
「‥‥俺たちの夏は、終わったんだ。もう何年も前に」
「大人になんかなりたくないのに」
「大人になって仕事をして、自立してお金を稼いで。俺は誰かの庇護を受けながら生きていたくはないんだ」
「それって何のために?私はあなたとの生活を続けて行くためだと思ってたよ」
「俺だってそうだったよ。でも普通に暮らそうとすると、キミとの生活がストレスになった」
「あなたは私との生活から逃げたかったように見えた。仕事の方が大事みたいな」
「違う、早く一人前になってキミとの生活を守りたかった。足を引っ張ったのはキミの方だろう」
「違う、あなたが!」
押し寄せて来た波が二人に被り、激昂した二人はひどく海水を飲まされた。
二人して砂浜で咽せる。
ひとしきり咽せてから、よろよろと立ち上がって水際から離れた。
「‥‥水、冷たいね」
「季節外れだからな」
「秋だもんね」
彼女はそう言ってクスクスと笑った。
彼もずぶ濡れの彼女の姿を見て笑った。
「この話は止そう。もう終わった話だ」
「綺麗に思い出を作って終わろうって決めたもんね」
「そうだね。もうケンカしたくない。言い争いもしたくないんだ」
「綺麗な思い出が作れたかな」
「キミが海に飛び込もうとして言い争った部分以外は。カットしておいて」
高台まで引き返し、二人で海を振り返る。
「いろいろあって楽しかったね」
「最後の旅行にするのが勿体ないくらいだ」
「‥‥旅行中はケンカせず穏やかに過ごせてたよね」
「それは‥‥これが最後だからって気持ちがあったからさ。日常で一生続けていくのは無理だ」
彼女は無言で海を見つめていたが、
「やっぱり無理だよね。私もそう思う」つぶやいて、苦笑いした。
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