四日目
開け放たれたドアから入り込んだ風に頬を撫でられて目覚める朝。
「やっぱり欠航になったって」
彼女は乱れた髪を撫でつけながらベッドに腰かけた。
コテージのオーナーさんが心配して伝えに来てくれたのだ。
「『小さな台風だからすぐ通り過ぎて、明後日には船が動くだろう』ってさ」
延泊分の宿泊費は無料で良いと言ってくれた。
覚悟はしていたが、決まってしまったものは仕方ない。
彼は勢いをつけてベッドから立ち上がった。
「とりあえず港まで行って会社に連絡しよう」
「そうだね。食材も少し買い込もう」
外に出ると、湿気を含んだ生暖かい風が彼女の帽子を攫いかけた。
昨日までの晴天は見る影もなく、曇天の黒い雲が飛ぶように流れていく。
いつ雨が降ってきてもおかしくない。
風が強すぎて自転車では危ないので、二人は徒歩でなるべく急いで港に向かった。
「はい、ソーキそば二つににラフテー、豆腐ようね」
二人の前に湯気の立つ丼が並べられた。
昨日は定食に甘んじて失敗したので、今回はコテコテの沖縄食にチャレンジすることにした。
食事なんか食べている場合かと思われるかもしれないが、
〜二十分前〜
「台風が通り過ぎたら船に乗って帰るよね」
「もう店で食べてる時間ないかもな」
「台風の最中に食べにくるわけにはいかないもんね」
‥そんなやりとりをしたのち、店へと自然に足を運んでいた。
濡れ鼠になるよりも、大事なことだった。
悔いは残したくなかった。
ソーキそばを前にして驚いたのは「ぜんぜんそばじゃない」ということだった。
ラーメンに近い。しかし色の薄いスープにカツオだしの香り、太麺の上にどっさり盛り付けられたスペアリブに散らした輪切りの青ネギは初めてお目にするビジュアルだ。
豆腐ようは、冷奴みたいな感覚で注文したら全く異なるものが出てきてびっくりした。
二センチ角のピンク色の「何か」。
ツンと鼻をつくお酒のような匂い。
漆器でできた小さな椀の中、まるで宝石のようにどっしりと鎮座していた。
しかし二人は手を伸ばしたくなる気持ちをグッと抑える。
昨日の刺身と違って、今日は温かいソーキそば。
冷める前にいただきたい。
まずはスープを一口するる、と。
「美味い!」
二人は顔を見合わせた。
カツオだしのさっぱりとした旨味が脳をズキンと刺激する。
味噌でも醤油でも豚骨でもない、まったくしつこさを感じさせないスープ。
そのスープが絡んだ太麺は、少しもっちりしていて歯ごたえがあり空腹を癒す。
しかスープも麺も、上に乗ったスペアリブを引き立たせるための存在であることがすぐにわかった。
肉がとろけている。
丹念に茹でられた肉と脂が、口の中でとろけていく。
その中で軟骨のコリコリしたアクセントが、緩みきった口中を引き締めてくれる。
スペアリブ自体は薄味に仕立てられているが、肉と脂の旨味を邪魔しないための措置なのだろう。スープも麺も、スペアリブの邪魔をせず味合わせるための存在なのだ。
他の具は邪魔なんだ。
「おふたりさん、コイツを入れるともっと美味いぜ」
島民の客が、二人の前に置かれた瓶を指差す。
透明な小瓶がこれまた透明な液体で満たされ、小指の先くらいの人参のような物がいくつも浮かんでいる。
「ハハハ、まぁ少しだけ入れてみなよ。少しでいいから」
勇気を出して瓶の中の液体を二滴、三滴と振りかけ、スープをすする。
「これは!」
辛味だ。体が一瞬で火照るくらいの。
しかし辛さはすぐさま抜けて、火照った体に外気が涼しく感じられる。こんなスッキリした辛さははじめてだった。
「そいつは『コーレーグース』、島とうがらしの泡盛漬けだ」
合点がいった。
他の唐辛子入り調味料のように唐辛子を粉にせず、泡盛につけることによって辛さ成分と旨味を引き出す。
そして辛味と同時に泡盛の効果で体を火照らせ、すっきりとした涼しさを感じられるようにする。
暑い地方だからこそ生まれた調味料だということが理解できた。
少しだけ残るスペアリブの脂のしつこさも、辛さがさわやかに吹き飛ばす。
美味い、美味い。
二人は夢中で食べ尽くした。
豆腐ようの味についても、全くの杞憂だった。
おっかなびっくり爪楊枝で削り取り、せーので口に入れた。が、
「おお‥」
二人同時に語彙を失った声が口から漏れた。
大豆の旨味が凝縮され、口の中で蕩けた。
まるでチーズのような濃厚さで大豆の味わいを主張する。
くどくならないよう舌を刺激してリフレッシュする紅麹の濃厚な香りが鼻を抜けて、爪楊枝でつついて口に運ぶ手が止まらない。
スプーンで掬って食べるとか、そんな発想は出てこなかった。
わずかな欠片だけで旨味が十分に口を満たすから。
これはきっとお酒に合うだろう。ものすごく。
二人ともお酒が飲めないのが残念でならなかった。
後に残ったのはラフテー。つまり豚肉の角煮。
甘い醤油味の濃厚な脂身が、また美味い。
少し変わった香りづけをしていて食欲をそそった。
豚の肉も脂身も味わいが濃い。
店主のおじさんが、沖縄産の黒豚について詳しい説明をしてくれた。
二人は頷きながら、味に夢中で話の9割を聞き流した。
百の言葉より、一の体験集中したかったから。
店を出る頃、二人は心の底から幸福だった。
当たり前のように土砂降りの雨だったけど、今の二人には甘美なスパイスにすら感じられた。
たぶん一生この味を忘れない。
二人で味わったこの幸せな時間も。
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