二日目
腹の虫に起床を促される朝。
朝……?そう、朝。
彼の昨日の最後の記憶は、疲れ切ってコテージについて、ベッドに寝転んだところまで。ズボンのポケットに入れたままのスマホを引っ張り出して時計を見ると
「08:27」。
……気だるいはずだ、十五時間以上も寝てるんだから。
見慣れないベッドに、まだ寝息を立てている彼女。
今は旅行中で、ここは沖縄の離島、平屋のコテージ。
リビングに行くと、朝の涼しい風が頬を撫でた。
九月半ばだからなのかもしれないけど、過ごしやすいのはありがたい。
熱帯夜を危惧したエアコンのないベッドルームも杞憂に終わった。
南の窓から外を眺めると、青空にちぎれた雲が流れている。そういえば、沖縄に来てから入道雲を見ていない気がする。秋を感じさせる、高い空だ。
「お腹すいた」
彼女が起き出してきてリビングに入ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
彼の腹の虫が、無意識に冷蔵庫を開けさせる‥当然だが空だった。
そういえば昨日、オーナーさんが自転車を使って良いと言っていたような。
「座り心地、悪くないよ」
彼女が思考を読んだかのように、テラスにおかれた自転車の荷台に座って足をぶらぶらさせている。
「大人の二人乗りは道路交通法違反だよ」
彼の言葉に彼女は無言で目を閉じて耳をすます。
「……車なんて走ってないじゃない」
確かに、車のエンジン音なんかどこからも聞こえてこない。
「車道じゃないなら、いいか」
「ゆこう」
そういうことになった。
たぶん雨が降ったらぬかるんで動けなくなりそうな柔らかい土道を、必死の思いでペダルを漕いで抜ける。
そこには、はるか昔に舗装したままメンテナンスを怠っていただろう、都会ではまず見かけない凸凹のアスファルト。
でもさっきまでの未舗装道路と比べたら走りやすさは雲泥の差だ。
さらに集落への道はなだらかな下り坂で、顔に当たる風が日差しの暑さを打ち消してくれる。
振り返ると、荷台の彼女も気持ち良さげに目を細めている。
風の音に、かすかに聞こえる潮騒が混ざる。
道端には草木が青々と繁茂している。
人の声も車の音もしない。
集落までのほんの数百メートルの道が、随分長く感じられた。
集落、とは言うものの、実態は数軒の家が並んでいるだけだった。
その中でも一軒だけ昭和の駄菓子さやさんのような佇まいをもつ家がある。
軒先にアイスクリームのショーケースがあったからそんな印象を受けたのかもしれない。
風雨に晒されて褪せたロゴマークが時間の流れを感じさせる。
中に人の気配がしたので、おそるおそる引き戸をスライドさせて
「こんにちは」と声をかけてみる。
「はいよ、いらっしゃい」
しゃがれた老婆の声が二人を迎えてくれた。
店内は駄菓子屋よりわずかにマシという具合、缶詰や瓶詰めなど保存のきくものばかりで生鮮食品をほとんど置いて無かった。
「少し時期が悪かったなぁ」
シーズンが終わりかけて客が少ないから仕入れを減らしているのだという。
しかし寂しい商品棚を前に、彼女は目を輝かせていた。
「なにこれ!お米から作ったジュースだって!塩せんべい?せんべいなのに材料が小麦粉だって!おもしろい!」
彼女の言葉に、彼も品ぞろえをしげしげと見直す。
なるほど興味深い。
わずかにある野菜も缶詰の類も、ふだん店で見かけない種類ばかり。時おり英語オンリーのパッケージだったり、ランチョンミートの缶詰が詰まれていたりでいかにも沖縄!って感じがする。
彼女が楽しそうにしてくれるのが、彼には何より喜ばしかった。
彼女は食材をキープしつつ、今はアイスのショーケースを漁っていた。
「ソーダエイト?包み紙がビニールで透けてる……まさに昭和って感じだね!霜の山の中で眠っていて最近発掘されたのかな」
「二ヶ月前に仕入れたばかりだよ人聞きの悪い」
思いのほか大荷物を抱えることになってしまった帰り道。
目新しい品揃えの誘惑に負けた彼は、コテージまでのなだらかな上り坂に軽い絶望を覚えた。
彼女は荷台でソーダアイスを食べながらご機嫌だったが。
コテージに着くと、
「今度は私が仕事する番だね」
彼女がニコニコしながら食材をキッチンに並べ、手早く調理を始める。
空腹で倒れそうな二人のため、手早く食べられるもの。ロールパンに目玉焼き、ベーコン……は無かったので、火を通したランチョンミートに醤油を垂らした食事が食卓に並ぶ。
「醤油を垂らすと和食って感じがするよね」
「パンじゃなくてご飯だったら立派な和食だと思うよ」
「和食って結構寛容だよね」
「美味しいから許すよ」
二人でくすくすと笑いあう、そんな食事。
食後、一休みしたあと二人は散歩に出かけることにした。
無人のコテージ群を脇に見やり、波の音を目指して南進すること数分、
パームツリーの林を抜けると、白磁の砂浜が眼前に広がった。
遠浅の海はエメラルドグリーンで砂浜の白とのコントラストが美しい。
「本当に沖縄に来ちゃったんだね」
「分かるよ。僕もいまいち実感が無かったんだ」
テレビやネットで知っている「沖縄の風景」に触れて初めて沖縄を感じる。
自分達の頭の中に、いつのまにか既成の沖縄像が形作られていたようだ。
まるでプライベートビーチのように誰もいない砂浜に、
「貸し切りだね。凄い」
彼女は感嘆の声を上げながら波打ち際まで走ってく。
シーズンは終わりかけているけど来て良かったな、彼は心からそう思った。
ビーチサンダルを脱いで直に砂浜を踏みしめると、火傷しそうなくらいに熱くて慌てて履き直す。
「波打ち際を歩こうよ」
彼女はそう言って手招きした。
サンダルを片手に、もう片方の手を繋いで二人は波を蹴りながら歩いていく。
時折、透き通った海の青色にカラフルな色合いが混ざって見える。
「サンゴだ」
彼女が指さす。
ふと足元を見ると、砂浜に白化したサンゴがたくさん打ち寄せられていた。
彼女が白化したサンゴを拾い上げる。
「これってサンゴの死骸なんだっけ」
「そうだよ、サンゴは一定の水温でしか生きられないんだけど、世界的に海水温が上がっていて白化がどんどん進んでいるんだって」
「景色が少しだけもの悲しく感じられたのは、サンゴのお墓だからなのね……」
「……」
彼は無言で繋いだ彼女の手を撫でる。と、
「別に気にしてはいないよ。世界的な問題なら誰が悪いわけでもないし」
握っていた手を離すと、スマホを取り出して写真を撮り始める。
「……感傷的なんだか現実的なんだか」
「世界的な問題なんでしょ?だったら私が悩んだり悲しんだりしていて解決するわけでもないし」
彼女の気持ちの切り替えの早さが、彼は好きだった。
歩くうち、砂浜はいつしか石や岩の地形に変わっていた。
静かなエメラルドグリーンの海が途切れ、波の高い濃紺に変わる。
遠浅の海が終わり、岸から急に深くなっている証拠だ。
これはこれで、あまり見かけない海の色で美しい。
「ね、これ見て」
ふいに彼女が石を差し出した。
よく見ると石に貝の形が刻まれている
「……化石だ」
「すごいでしょ」
彼女は興奮気味に指差す。
「ほら、こっちにもあるよ」
転がっている石や岩を注意深く探って見ると、貝殻の他にも葉っぱや魚のような大小さまざまな化石が見つかった。
「高い波が化石の埋まっている地層を侵食してるのかな」
「よくわからないけど、これも世界的な何らかな問題のせい?」
「……海の底だった地形を隆起させて島にしたって事なら地球の活動の一環だし、そういえなくもないかな」
「だったら世界的な問題とやらも、悪いことばかりでもないね」
彼女はそう言うと、貝と魚の化石を両手に持って楽しそうに笑った。
小一時間ほど夢中で集めてはみたものの持ちきれなかったので、大きくて綺麗なものだけ持ち帰って玄関先に立てかけて飾ておいた。
夕日の差し込むリビングの床に二人で腰を下ろし、そのまま寝転がった。
「ねぇ。次に来た人はコテージ備え付けのオブジェだと思うかな……」
「だといいね……」
二人は目を閉じると、昨日に引き続きそのまま心地よい疲労感に身を任せた。
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