車中にて
「死は生命の状態の一つに過ぎないのです」
数年前、数多のカメラの前でそう語ったその男は、十数分後に自ら命を絶った。
否、彼に言わせれば、命は絶えない。
ただ状態が変わるだけだ。生きている生命から、死んでいる生命へ。
「たかだか血液を循環させるポンプ一つが止まっただけで損なわれるようなものだと本気で思っているのですか。この生命が、人格が、精神が、魂が」
そう言って、彼は記者の目の前で服薬自殺を図ったのだった。
僕たちは死を克服しなかった。死を受け入れ、死に寄り添ったのだ。
だって、そうするしかないじゃないか。確かに死んでしまったはずの人たちがその眼鏡越しには確かに存在していて、彼ら彼女らは皆一様にこう言うのだ。
「ごめんね、突然死んじゃってさ」
2人がけの座席に腰を下ろした僕の隣で、ハナさんは少しだけ寂しそうな声色でそう言った。
その声は眼鏡のつるに内蔵された小型スピーカーから聞こえるもので、それはつまり、彼女が死人であることを意味している。
その眼鏡は、死んでしまった人の姿と声を捉えるものだからだ。
――シノグラス。
そのように名付けられたARグラスが発売されたのは三年と少し前のことで、その頃の僕はまだ中学生だった。発売に至るまでの紆余曲折は僕の与り知るところではないけれど、その衝撃的な製品発表から市場に出回るまでに五年以上の歳月を要したというのだから、それなりに大変なものがあったのだろう。
その五年間は、いわば準備期間だった。僕たちが新たな死生観に馴染んでいくための。あるいは、死者という隣人の存在を認め、彼らとうまく付き合っていく覚悟を決めるための。
当時小学生だった僕にとってシノグラスの存在は『幽霊が見える眼鏡』程度のオカルトだったと記憶しているけれど、それに初めて触れた高校一年生の夏には、僕の死生観はすっかりアップデートされてしまっていたから、初めて見た死者に何かしらの新鮮な驚きや恐怖があったかと問われればノーと答えざるを得ない。
僕は『幽霊』という言葉が差別語として糾弾されて当前の世代に生きている。
「なんだろうね。うーん。ほら、天気悪いじゃん、最近」
背を丸めて膝に頬杖をついたハナさんは、慎重に言葉を選ぶように、それでいてどこか軽い調子で言う。
「傘を差すっていうか……雨宿り、的な? うん、雨宿り。そんな感じでね、雨から逃げたかったのかなあ、多分ね」
肩と肩が触れる距離にあって、そこに温もりはない。ハナさんの姿が見え、声が聞こえる。レンズ越しに息遣いだって感じられそうな距離で、伏し目がちなまぶたと長いまつげが揺れていることまでわかるのに、僕はもう彼女に触れることはできない。シノグラスは死者との交流を可能にしたが、それは視覚と聴覚に限定した話だった。
「……ハナさん、そんな風には見えなかったので」
「びっくりした?」
「まぁ、はい。ちょっとだけ」
車窓の向こう、はるか遠くに巨大な鉄塔が見える。バスは住宅街を抜けて幹線道路に入っていた。このバスの行き先を、僕はよく知らない。
「だったら良かったあ!」
窓の向こうに目をやった僕の視界の外で、努めて朗らかにハナさんは続けた。
「にゃーから見たハナがそういう人だったのは嬉しいな」
そういう人、死にそうにない人。
その一言に込められたものの重みを正しく理解できない悲しみが僕の中には確かにあって、けれど同時に、ハナさんが命を賭して守りたかった最後の一線がそこにあったのだろうという確信もあった。
そして、それを嬉しいと感じてしまう自分がいることをはっきりと自覚し、鼻先がツンと痛んだ。
「……別に、君が気にする必要はないんだよ、にゃー」
先程と寸分違わず同じ台詞を、先程よりもゆっくりと口に出して、それきりハナさんは口を閉ざした。
それをずるいと僕は思い、思っただけで。不自由な僕はそれを言葉にできないから、いつだって自由な彼女のことを眩しいと思っていたのに。
バスが停まり、わずかに乗客が増える。
喧騒と言うにはささやかな彼らの声を聞くともなしに聞きながら、ぼんやりと僕は考える。三門ハナのこと。そして、彼女の言う、その雨について。
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