雨のすべて

水瀬

バス停にて

 ぶるりと小さく振動して、スマホのバッテリーが切れた。

 僕はまるで祈るようにその小さな板切れを両手できつく握りしめ、パーカーのポケットにそいつを放り込むと、短く小さな息を吐く。

 それから、何も持っていない両手をどこに置いておくべきかを少しばかり考え、同じようにパーカーのポケットに突っ込んだ。

 六月の東京は梅雨のど真ん中に沈んでいて、見上げれば空一面を鈍く重い雲が覆っている。その視界の隅にバス停の標識が映り、そこから視線を下げれば、バスの発車時間が書かれた時刻表がある。

 けれど、今の僕には次のバスが来るまでの時間はもうよくわからなかった。その理由は二つで、一つ目は現在時刻がわからないから、二つ目はバスの時刻表なんて全く当てにならないということを経験則として知っているからだ。

 バス通りの割には交通量の少ない閑静な住宅街に設置されたバス停はやけに静かで、まるで自分の存在が現実から浮き上がった染みのように思えた。

 申し訳程度に設置されたボロボロのベンチに腰掛け、大きく膨らんだポケットから眼鏡ケースを取り出す。艷やかな光沢で覆われた黒いケースを開けば、そこには同じ色のフレームをした眼鏡が収められている。

 僕は少しだけ躊躇して、ゆっくりとその眼鏡をかけた。

 そのままつるを二度タップ。その一動作で指紋認証と虹彩認証が完了し、ロックが解除される。視界の右上に表示された現在時刻は17:19。次のバスが来るまで三分といったところだ。


「別に、君が気にする必要はないんだよ、にゃー」

 と、隣に座ったハナさんが口を開く。

 にゃーというのは僕――谷屋アキラのニックネームで、彼女はその間抜けな呼び名を好んで使っていた。

「……気にしてるわけでは、ないですよ」

 僕は周りを気にしながら小さな声でそう答えた。

「ええー、それはそれで寂しいなあ! いや待てよ、表現を変えよう。えーと、責任を感じる必要はないから、ハナのことは気にして!」

 その楽しげな声色に、僕は思わず振り返る。

 両足を投げ出すようにしてベンチの半分を占領している三門ハナの姿がそこにあった。真っ白に光を反射するブラウスにプリーツスカートという彼女の出で立ちはいつも学校で見ている姿と寸分違わず同じもので、ぼくはただそれだけのことに強烈な懐かしさを覚えたのだった。

 懐かしさ、いや、安堵だろうか。だってそうだ。僕はつい先週にもハナさんと会っているし、話もしている。ほんの一週間のブランクから生じる感情は、きっと懐かしさなどではないはずだ。

「やだなあ、それじゃあまるで……」

 僕がハナさんのことを好きみたいじゃないですか、と言おうとして急に気恥ずかしくなり、僕は思わず彼女から目をそらした。

 そういう台詞を軽々しく口にできるほど、僕は自由な人間ではなかった。

「まるで何だよー。ハナがにゃーのこと好きみたいだって? 言わせんなよなー」

 対して、三門ハナという女性はそういう台詞を軽々しく口にできてしまうほどに自由な人で。

 だから僕にはどうしてもわからなかったのだ。

「ねえ、ハナさん」

 遠くからエンジン音が聞こえてきた。

 意を決して左側を向けば、微かに首を傾げたハナさんが変わらずにそこにいて、その肩越しに近づいてくるバスの小さなシルエットが見える。

 あのバスが停まる前に、どうしても一つだけ訊いてみたかった。

 僕は彼女ほど自由な人間ではなかったから、この一週間その疑問にずっと囚われ続けていて、いくら考えても答えを出すことができず、だから彼女の言うような『責任』を感じることすらできていないのだ。何にどう責任を感じるべきなのか、あるいは感じないべきなのか、それを考える段階にすら、僕は至ることができていないのだ。

 だったら、もう正直に訊いてしまおう。


「ハナさんは、どうして死んでしまったんですか」


 バスが停まり、ドアが開く。






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