あるいは蛾

 森を抜けた地点にちょうど設置してあった、バス停のベンチにどちらともなく座る。


「たぶん、蝶でした」


 未舗装の道を眺めながら、彼女はつぶやくように言った。


「さっきまでは動転して、何も考えませんでしたけれど。小さな頃に、図鑑か何かで見たと思うのですが、ジャノメチョウ科の一種です。蛾にそっくりなのですよ。ほら、蛇の眼みたいな模様があったでしょう?」


 俺は、生物は専門外だ。とりあえず、現状把握ができるくらいには彼女は回復したらしい。


「蝶、だったのか?」


 それは、単に分類を尋ねた訳ではない。


「蝶が、私を迎えに来たんです」


 水で薄めたみたいに抽象的な言葉だったが、俺には伝わるものがあった。

 つまりあれは、蝶の姿をした使者であったということだ。彼女には、そのことが理解できて、呼びかけが聞こえたのだだろう。


「――死神みたいなものだったってことか?」

「死ぬはずだったのかもしれませんね」


 意味不明なことが多すぎる。

 文字通りの理不尽だ。

 なぜ彼女が死ななければならない?


「でも、おそらくもう大丈夫ですよ。蝶は去りましたし、森は抜けました」


 マヤカは、力無く笑う。


「どうしてだ? なぜ、アレは去っていったんだ?」

「間違いであれ運命であれ、どうしてか私はあそこで死ぬはずだったのでしょう。でも、あなたが私とここにいると宣言したのです。だから不思議なことに、まだここで生きられています」


 僅かに嬉しそうな声だったが、俺は友が死に臨むのを前にしてうまく表情が作れない。


「『まだ』ってことは、お前はいずれ死ぬのか、マヤカ?」

「死なない人はいません、死ぬから人なのですよ」


 彼女の台詞は、しかし強がりをくっつけただけに聞こえdた。

 正直、俺の想いがどういう理屈で、彼女の命の行方に影響を与えたのか、皆目不明だ。しかし、彼女は猶予を得たのだ。その猶予の絶対量を知る者はいない。


「愛が伝わったんですかねえ。カミサマに」


 彼女は嘯く口調で、いつもは言わないような台詞を発した。

 俺達は、きっと愛を互いへ向けあっている。


「だが、たぶん俺は――」


 マヤカはこちらを見た。月光が明るくて、彼女の顔が見えてしまうのが辛い。


「たぶん、マヤカとは違う場所で生きていくんだ」


 一緒に生きるには、あとほんの少しだけ、愛が足りない。

 これは、恋でも愛でもないから。


「ええ」


 頷いて、立ち上がる。何かを覚悟した背中だった。


「私たちは幸せです。きっと永遠に親友でいられますから」


 とても美しく響いた。ナイフみたいに煌めいて、血みたいに鮮やかな言葉だった。

 僕らは、闇の中で別れる。そうして、夏は終わる。


 肝試しから数日後、ふと通りかかると森の入り口には黄色いテープが何本か巡らされていた。

 噂では、地盤沈下によって一部危険な場所があるため、調査が終わるまでは進入禁止になったという。テープは粗末なもので、くぐろうとすれば可能なくらい、弱い防災意識しかないことを示している。

 それでも俺は果たして、その町を出るまでその森へ再び足を踏み入れることはなかった。何も知ろうとしなかったし、彼女に聞こうとも思わなかった。


 秋が過ぎ、冬が過ぎて。

 あるいは、二つの季節が消え去って。


「二度と森へは行くなよ」


 俺がマヤカにようやくそう言えたのは、受験も終わった春の、上京当日の朝だった。

 彼女は駅前まで見送りに来た。秋冬もよく時間を共に過ごした中で、ようやくあの日の話をまともに交わせた瞬間だった。


「ええ。重々、心に留めておきますよ」


 俺は、一度時計を見た。もうかなり、上り列車の時刻が迫っている。どうして彼女はこんなぎりぎりにやってきたのか。

 どうして俺は、はっきりと別れも告げず去ろうとしていたのか。


「また、会えるよな?」


 その言葉に、彼女は少し照れた表情を見せた。

 俺は、その顔を見つめる。自らの眼に焼き付けるように。人生の欠片を交し合った友がいることを忘れないように。


「また、夏に会いましょうね」


 その笑顔は、春でも夏でも、ずっと変わらない。

 そして回想は、列車がおもむろに動きを止める音で終わる。俺は戻る、現実の何処かへ。


「さようなら」

「さよなら」



彼女は、十年生きた。

 十年も経てば、目に見えないものすら朽ち果てる。



 鹿山真夜夏が死んだ、という温度のない知らせを受けたのは今から一週間前、ちょうど二十六歳を迎えた日の翌日だった。

 そして、彼女と初めて会ったときから数えて、十回目の夏。飴を置いたら、気持ち良いほど一瞬に融けてしまいそうな暑さだ。

 懐かしい駅で下りると、軽く風が吹いている。そのまま、歩いて実家へと向かう。思えば、二年ぶりの帰省だ。親父には会いたくないが、数日前に母へ電話口で、久々に帰ると告げたときは、小さく喜んでくれた。

 不変の町。刺すような日差しのもとで、改めてそれを認識する。

 交通事故で亡くなったんだ、と訃報を静かに伝えたのは、刀城ジンだった。彼も東京で就職しているらしく、電話で話した限りでは厳かだったが、昔の軽薄さは見え隠れした。人さえも、変わらない。

まあ、事故か発作くらいしか、『予期せぬ死』にはならない。

 サイクリングで森沿いの道を通っていたとき、不意によろめいて転んだところを、ブレーキの遅れたトラックに踏みつぶされてしまったらしい。全てを失ったようなトラック運転手は、


『何かを避けて、車道側へ倒れたようでした』


 と後に証言したという。

 例えば、


 蝶とか蛾とか――


 と、俺は心の中で呟く。

 実は殺人だった、あるいは自殺だったなど、そんな売れそうなミステリの如き思考は不必要だ。

 なぜなら、彼女の言葉があったからだ。恐ろしいことに、俺の中に彼女がくだらない嘘を吐いたという記憶は、一つとしてない。俺とは大違いで。

 結局彼女は、本当にいざなわれてしまったのだろう。


 実家での出来事は省略する。あまり楽しい話でもない。

自室で、まだ俺は過去に囚われている。

 大学に入学してから今年亡くなるまでに、確か真夜夏とは三度会った。里帰りするのが盆の時期のみであるため、三度のすべてが夏だ。

 俺にとっての真夜夏は、夏の中で生きていた。名は体を表し終えて、役目を終えた。

 一度目は大学二回生の帰省、時間の空いた夜に電話で呼び出して、居酒屋と川辺で朝まで語り合った。新しい友達、読んだ本のこと、一つ二つくらいの不思議な話。詳しくは覚えていないが、楽しかったのだけが確かだ。大学の友達と交際中、とさりげなく教えてくれた。幸せなら、それでいい。

 次は四回生で集まった同窓会の場だった。それぞれの友達と酒を酌み交わしていたから、軽く挨拶を交わしただけで終わった。俺は二次会には行かなかった。旧友たちの顔を確かめられただけで満足だったのだ。

 彼女の姿も高校時代と何も変わらなかった。酒をよく飲む女性になっていた。

 二年前の夏に、スーパーマーケットで偶然会ったのが最後だ。高校生のときと同じように並んで帰った。介護の仕事をしているのだけは、噂で聞いていた。あまり話はしなかったように思う。あの三叉路で、手を振って別れた。

 笑顔はいつも絶えなかった。

 関係は、少しずつ朽ちていく。俺は、満足だった。

 そんな風に思い出を振り返りながら実家で二日を過ごし、三日目の昼にようやく重い腰を上げた。


 彼女の墓は、田舎の町のさらに隅、小さな共同墓地にあった。向日葵が点々と植わっていて、苦みがあるほどの弔意が伝わってくる。

 墓石を見た感想は、「四角いなあ」だった。墓石はもう少し丸くしてもいい、と意味もなく考える。本当に、無意味だ。

 献花が既に何本かある。名前も知らない、薄青の小さな花だ。優しかった彼女の両親と、職場の友人たちだろうか。彼女は、皆に愛される人間だった。

 墓の前で、しばらく何も言えなかった。

 そして俺は、


「……ははっ」


 笑った。声だけでなく、口角を上げて笑顔にした。

 せめて彼女に、俺がまだ笑えることを伝えたかった。傍目には、ただ気味の悪い不謹慎野郎に見えたかもしれない。

 それでも、笑おう。


「今も霊は信じてないからな。これは独り言だ」


 いろいろと昔は理屈をこねたが、霊を信じない――信じたくない理由は、別だったのだ。


「二度と会えないからこそ、別れられるんだ」


 これで、彼女も納得してくれることだろう。


「グッドバイ、だ。遅くなったけれどな」


 入道雲が、俺を見ていた。

 他にも客がいるのを見渡したところで、視界の隅に何かを捉える。

 二匹。勿論、俺は区別できない。見た限りの印象では、アゲハらしき大きな蝶と、茶色くて動きの速い蛾。一か所で留まって、ぐるぐると回る。


 蝶と蛾の輪舞ロンドだ、と俺は思う。


 恐怖が蘇るかもしれない、と考えていた。だが不思議と、落ち着いた気持ちで二匹を眺めていた。

 その虫たちが、墓のどこかへ消えてゆくのを見届けてから、俺は墓地をあとにする。

 来年も訪れることを、ここに誓う。たとえ、彼女がいなくても。


 鹿山真夜夏。享年二十七歳。

 好きなものは、猫、夏、キムチ、知恵の輪、墨の匂い、オルゴール、芝桜、蝶と蛾、恋愛小説、毛糸の洋服、二度寝、両親、黄色、クロード・モネ、トランペットの音。

 嫌いなものは、忘れてしまった。

 さよなら。


 彼女を夏へ置いていくのは心苦しいが、俺はまた東京へ戻り、日常へ戻ろう。

 愛する人が、待っている。


 秋が来る。寂しくない秋が来てほしいと願う。

 それだけだ。

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蝶と蛾のロンド ノグチソウ @clover_boy

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