蝶と蛾のロンド

ノグチソウ

それは蝶

 ちょっと昔の、とある夏。


「蝶が、私を迎えに来たんです」


 彼女は、そう言った。


 鈍行――という名ほどゆっくりではない、と俺は揺られながら思った。車窓に広がる町並みでは、列車の前方にある点が次の瞬間には線路沿いの人間となり、そして次には後方へ点となりゆく。

 そんな風に、退屈な里帰りの道中は過ぎる。忙しい大人になるほど、退屈が増えるのはなぜだろうか。

 不死鳥でも飛び出してきそうな酷暑だ。列車は、いよいよ山と田だけの景へ突入し、故郷の面影と共に、俺へ遠い回想をもたらす。


 そこは、きっと真夜夏マヤカと俺だけが知る世界だ。



「ふと思ったんですけれど、電柱と電信柱って、違うものなのですか?」


 夏期補習からの帰途で隣を歩きながら、マヤカは純粋な好奇心を持って尋ねてきた。


「信じるべきなのが電信柱で、信じるべきでないのが電柱だ」


 俺は勿論答えを知っていたが、意味もなく冗談を嘯く。

『意味もなく』というのは、究極の不規則性を持つ。


「はあ、なるほど。この世には信じられるものと疑うべきものの二種類なんですか。残酷ですねえ」


 マヤカの万人へ対する敬語――同学年へも年下へも――は、こういう会話においてはむしろふざけているようにも聞こえる。

 しかし彼女は、極めて慇懃な高校三年生である。折り鶴みたいに、折り目正しい。長く整えられた黒髪も、そこに通じるものだ。


「やっぱり、物知りですね。上京しても、特に心配するようなことはなさそうです」


 上から物を言って、満足そうに微笑むマヤカ。彼女は地元の近く、俺は東京の大学へ進学する。三十センチある今の距離が、数百万倍に広がるわけだ。


「それにしても、どうして東京なのですか。別に、大学なんてどこでも同じですよ?」


 彼女の口調は、特段責めるようでもなかった。そして、大学に対する見解は俺も同意する。市場で野菜を手に取ったとき、良し悪しが判らないようなものだ。


「ここは、自然が豊かすぎるんだ」


 俺たちが歩いているのは畦道で、通学では必ず通らなければならない。高校の裏には杉の山、蛇やら兎やらが無数に住んでいる。時代の死角に置かれた地だ。


「何か問題があるのですか?」

「いや、別にないよ」


 流石にマヤカも怪訝そうな顔をした。俺は少し考えて、


「『問題』がなくて、『答え』もここにはないっていうことなんだろうな。……ははっ」


 くだらなくて、笑ってしまう。それでも哀しいかな、なかなか的を射た冗談だと自分でも思う。


「その『答え』を東京へ探しにでも行くんですか」


 少し強い語気に、俺は横の彼女に目を向ける。怒っているのではない、しかしどこか寂しそうな眼だ。


「……冗談だよ。安定した将来を探したいだけだ」


 俺はそう言った。嘘かどうか、俺は知らない。


 その後は、他愛無い雑談が続いた。


「『刀』と『カッターナイフ』って似ていますよね」

「『かたな』と『かったーなイフ』ね……」

「まあ、全く逆でもありますけれど」

「どこがだ? どちらも刃物じゃあないか」

「一方は創造するため、一方は破壊するためのものだからですよ」


 そんな感じだ。


 しばらくして、家々の寄り集まった三叉路まで来た。俺は東へ彼女は西へ、別れる。


「またな」


 狭い集落だ、またどこかで会うだろう、と別れの挨拶をした俺の背に、


「ああ、ちょっと待ってください」


と、声がかかった。

 振り返ると、マヤカは笑っている。さっきとは違う種類、女子の笑顔は駄菓子みたいに多彩だ。


「もう夏が終わるんですね」


 言われて思い出す、今日で補習は終わりを迎えていた。蝉などの夏の虫は死にゆき、秋が来る。


「最後の夏だったんだなあ」


 我ながら柄にもなく、しんみりとしてしまった。すると、彼女は俺の前に立ち、正面から俺を見た。

 彼女は、悪戯っぽい眼で言う。


「肝を、試しませんか?」


 もう少しだけ、あの夏の話を。

 八月の盆明け、夏が果てるところの話を。

 

 霊の存在を信じるか、という石ころみたいにありきたりな問いをされるとき、俺は「信じない」と即答する。人間は所詮、電気信号で動く生命なのだから、死んだら電池が切れて失われるのみだ。

 そして電池は、二度と使えない消耗品。

 マヤカはこの理屈にしばらく納得しなかったが、切り替えてベクトルを変化させる。


「それなら、超常的存在についてはどうですか?」


 問いに対して、四秒だけ思考する。


「信じるよ」


 半月が白く浮かぶ夜。心なしかその月は、空を揺蕩っているようにも見えた。

 集落の近辺において最大の森、その前に俺とマヤカは二人で佇む。のろのろと訪れる夏の夜も、午後九時を過ぎればいちだんと闇を濃くする。まさに、彼女の名に相応しい時間だ。


「ところで私、この前までイタコは海の食材のことだと思っていました」

「自分で馬鹿を証明するな」


 肝試しをする高校生というのもおかしな絵面だ。未だに俺は、彼女へこのイベントの目的を訊けない。


「行きましょうか」


 それでも森へ、足を踏み入れる。

 かなり大きな森で、進むと実は隣の村の神社に突き当たる。そこから帰ってくるというのが、暗黙の森巡りの流れだ。


「それにしても霊を否定するのに、何故、超常は信じるのですか? 異なるものだとは分かりますが、どちらにしろ物理法則に反するものを肯定するなんて、理系らしくないでしょう」


 理系という言葉を生き様のように使われても困る。困りつつも、説明は論理的になっていく。


「蝶と蛾の違いを知っているか」

「信じられるか否か、ですか?」


 俺の唐突な問いに、どこかで拾ってきたような返答をしたマヤカ。賢い。そうして彼女は、少し考え込む表情に変わった。

 まだ森の始まりには、明かりが点々とある。


「昼夜の活動時間の違いですかねえ? まあ、形状もちょっとは違うのかな。あと模様が――」

「ない」


 俺が言葉を遮ると、不思議そうな顔でこちらを見た。


「その二つに明確な違いなんてないよ。同じなんだ」

「それはいくら何でも……」


 暴論だ、と誰もが言う。でもそれは、もしかすると先入観なのかもしれない。

 先入観は、人を殺しうるほど強い。


「勿論、いくつかの区別する指標はあるさ。だが、そのすべてに例外が存在する。しかも多数だ。活動時間も、形状も、模様も。それに国によっては、両者を呼び分ける言葉を持たない。どちらも、パピヨン(papillon)だしな」


 マヤカは視線を上へ向ける。灯りが減るとともに俺たちは各自の懐中電灯をつけたが、対して空には星が映えだした。


「つまり……どういう意味ですか」

「意味は様々だよ。どんな法則にも例外があるとか、美しさと醜さに違いなんてないとか、日常と超常なんて認識によって変動するとか。結局はそんな二項対立が、仲良く舞っているんだ」


 俺はまくし立てながら、いつの間にか懐中電灯と月しかない闇の中にいる自分たちを知る。


「とにかく、確率の問題だ」


 マヤカは黙った。数学が苦手だからうんざりしたのかもしれないし、何かが伝わったかもしれない。

 沈黙に浸りながら、俺も確率について考える。


 俺とマヤカは交際関係にはない。思えば、初めて出会ってから一年と少し。とはいえ、きっとどちらかが「好きです」「好きだ」と陳腐な言葉を口にするだけで友愛は恋愛に変質しただろう。

 結局は、運が良かったのだ。否、悪かったのか? 

 彼女が口にするか否かの二分の一と、俺が伝えるか否かの二分の一、掛けて四分の一の中に生まれた可能性の世界を生きただけだ。

 俺と彼女は、ずっと親友なのだ。おそらく永遠に。


 悲劇的なことに。


 森を進む。肝試しというのは、もう少し人為を加えるべきものじゃあないのか――という思いを遮って、驚きが襲う。


「うわっ」


 俺は、その仰天の声にこそ驚かされた。それは若い声で、高校生、しかも俺たちのよく知った声だ。

 闇にうっすらと在る人影に懐中電灯を向ける。


「びっくりした。こんな時間に何をしているんだ?」

「それ、そっくりそのまま返しますよ……ジンくん」


 三人皆が動じてしまっていた。


「僕は、夜の散歩をしているだけだよ。物語的だろ?」


 刀城ジンというのが彼の名前で、俺達のクラスメイトだった。いつも「ジンと呼んでくれ」と自己紹介している。

 口癖は、『物語的』だった。


「君たちは、探検かい?」

「そんな中学生みたいなことはしない。肝試しだ」

「そんな小学生みたいなことしているのか」


 俺とのやり取りで、ジンは笑った。


「思い出としては最高のイベントだね。ただし、この森はあまりに肝試しに適しすぎていると思うけれど」

「……どういうことですか?」

「森っていうものは、きっと何かを隠しているから恐ろしい、ってことだよ」


 滅茶苦茶暗いしね、とおどけて付け加えるジン。

 いつも、こんな『知ったような口』を利く男なのだった。


「まあ、僕はもう帰るよ。闇夜に気を付けてね」


 俺たちに有無を言わせず、彼はすれ違って去っていく。相変わらず掴みどころの無い奴だ。

 彼の後ろ姿を見送って、少し考える。

 散歩という線は、まずありえない。この先には神社があって、住宅街はさらに先だ。特に用事がなくて、来るような場所ではないはずだ。

 ジンは、森の奥で一体何を見てきたのか――


 うっすらと周りの様子が見えてきた。目的地の灯りが近付いているのだ。


「着いたらどうします? 神でも捜します?」

「やめておく。見つけても困るからな」


 まだ頭の回転は緩んでいない。もう十時くらいだろうか。


「参ったらすぐに帰るぞ」

「超早割の合格祈願ですね」


 ふふっ、とマヤカは笑った。彼女の顔が視認できるようになって、少し安心する。

 そうしていよいよ神社の裏手に到着した。石段と小さな古い石灯籠だけがあって、本殿の後ろ側なのだろう。来たのは久し振りで、夜の訪問は初めてだった。何本かの樹々の枝に、安っぽいコンセント付きの電灯が掛けられている。


「超常的なことは、何もなかったな」

「……」


 無言で、俺と眼が合う。マヤカは小さく微笑んだが、灯りの当たり方のせいか、奇妙な表情に見える。

 二人で尾花神社の前へ回り込もうとして歩き出す。すると、隣の彼女が立ち止まった。どうかしたのか、と尋ねる前に俺は言葉を飲み込む。

 マヤカの顔が、青ざめていた。怯える眼だ。


「おい、マヤカ」


 幽かに震え出したマヤカ、咄嗟に肩を揺さぶる。いつもならお互い照れてしまうような向き合い方だが、今は話が違う。

 マヤカの挙動は異常の域だ。


「がが……」


 彼女が喉の奥から絞り出すように出した声は、俺を困惑させた。眼が俺の背後の一点へ向かっている。

 意味不明だ。彼女は何を見ている?

 俺はどうにか脳の回転数を上げる。彼女の視線の先にあるものを追った。そして俺は、理解する。


「蛾が……」


 一匹の蛾が、電灯の近くを舞っている。正確には、蛾らしき虫――泥みたいな褐色と、眼玉のような不気味な模様からそう感じただけだ――あるいは他の虫かもしれない。

 いずれにしてもそれは蛾であって、霊などではない。彼女は虫が苦手だったか、と思い返して、その可能性は消える。

 昨年の秋、彼女と鈴虫を捕まえに行った野を思い出す。


「命に触れるのを苦手になったら、生きていけませんよ?」


 そう嘯いていた彼女は、至極当たり前にそう考えているようだった。

 ともかく、彼女は今この瞬間、俺の眼前で蛾を恐れている。


「――嫌だ、いきたくない……」


 言葉は、誰かに応えている。だがここにいる人間は二人だ。何が聞こえているかも分からない。

 彼女を説得する? 蛾は何もしないんだ、と? 違う。俺の何倍も賢い彼女は、とっくにそれを知っている。

 論理を超えれば、俺の次の行動は一つしかない。

 俺には蛾に見える。しかるべき者には蝶に見える。

 そして、マヤカには――


「やめろ」


 俺は、努めて冷静に声を出す。蛾に対して。


「殺すぞ。こいつは今、俺とここにいるんだ」


 俺は彼女の前に立ち、蛾を睨む。蛾の姿をした何かへ強く言葉をぶつける。

 それはきっとこの世のものでなく、同時に善でも悪でもないものなのだろう。

 蛾はしばらく舞っていた。まるで俺達へ近付こうとしながら、灯りの檻から抜け出せないようでもあった。

 不意に、高く上がる。蝶や蛾があれほど高く飛べる生き物だとは知らなかった。やがて、遠い闇に紛れて消えてしまう。

 俺たちは何分も、不動で天を仰いでいたように思う。ようやくその蛾が去ってしまったことを実感して、マヤカは膝から崩れ落ちた。

 哀しい音がした。彼女の嗚咽と、鼻をすする音。泣いている。俺は彼女を本殿横へ移動させ、石段に座らせた。そして彼女が涙を止めようとする隣で、死について考え続けていた。


 あの蛾はたぶん、死を引き連れていた。


 数分後に俺達は、神社を参拝した。手水も含め、正しく礼を尽くした。だけれど皮肉なことに、俺にはその祈りすら空虚なものであるように終始感じられた。

 そのまま家路へ着く。無論、森を通る。マヤカは俺の後ろに付いて、やはり震えていた。懐中電灯だけに縋って二人で歩みを進める。

 一度も、口を利かなかった。

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