十譚ノ弍 錆猫の硝子目玉

 嗚呼最悪だ、最悪だ。

 折角見付けたと思った眼球候補は不適合で、直ぐに手許から離れてしまった。

 おまけに不貞寝して寝落ちしたその日の夢見も悪い。

 何で命日直前の今、貴方の夢を見るんですか。

「あらぁこの子ったらまあまぁ。こんなに生意気になってもうて」

「止めてくださいよ、こいさん」

 私がそう呼んだ、人語を解す三毛の猫又は目を細める。

「そないなに畏まらなくても、お母さんでええんだよ?」

 そう言えばそんな時代もあったか。

「今はこいさん、とお呼びしたい気分なんです」

 ふと気付けばこいさんがヒト型になっている。

 昔の主人を真似た、ヒトの世界に暮らす為の姿なんだとか。

 陶器の様な透き通る肌。琥珀色の目。

 流れる様な黒髪には団十郎茶の髪束が混ざっており、鴇色の平打紐で前髪を緩くした女優髷にしている。

 大正の芸者上がりの主人が、物好きでよくしていた髪型らしい。

 そこへ気紛れに櫛やかんざしを刺す事もあれば、時に舶来品のバレッタなどをつけていた。

 特に編み込みには趣向を凝らしており、金細工を編み込みした髪に絡めていた。

 着物は主に朱や曙を中心に、柄を細かくした銘仙ばかりを着る。

 普段着でさえお洒落着か余所行きかと思う程だったが、数は持っていなかったのでその代わり余る小物で足していた。

 夏でも道行を着て、折角の柄をわざわざ隠す様な真似をしていたが、これがお洒落なのだと言って譲らない。

「なんやぁ。生意気じゃ飽き足らずに、詰まらなくなってしもたんやねぇ」

「そりゃ、成長すれば誰だって思考も趣向も変わるよ。だって例外じゃない」

 私は明晰夢の中で幼少の姿になってこいさんと話していた。

 こいさんの手が入ったかつての糸猫庵で、私は窓側の畳が敷いてある席に腰掛け、こいさんは水煙草を吸った。

 水煙草も舶来品を追い求めて漸く手に入れた珍品だと言う。

 私はこの場面に見覚えがあった。

 私がこいさんに拾われて直ぐの事である。

 当時まだ珍しかった車に轢かれ、死ぬ寸前で気紛れに拾われた後だ。

 どう生かすか悩んだ挙げ句、影法師を憑依させて今に至ったと言う。

 どうせ嫌われ者の錆猫なんだから、そのまま放ってくれたらどれ程有り難かったか判らない。

 私が彼岸に仲間入りした時分に、こいさんが好んでいたのが水煙草だった。

「折角彼岸に来たのそやし、もう人間様に執着するのは止めたらどうなん?」

 そう言ってこいさんは水煙草特有の白煙を吐いた。

 そんな事をしたら、私が私で無くなってしまう。

 今までずっと人間に飼われ、主人に捨てられ、主人が失踪してはまた別の他人に媚びて文化的な生活を手に入れ、依存してきたのだ。

 この依存症を治す特効薬は無いし、恐らくこれからも重症化し続けるだろう。

 前肢も失った昔を見せ付けられるくらいだったら、一刻も早く明晰夢あくむから醒めてくれ。

「これが明晰夢思てるのなら大間違いや」

 内心を読まれているかの様な発現に、背中を冷や汗が伝った。

 いや。明晰夢なのだから、私が勝手にしているだけなのか?

 考えようとした瞬間、世界が溶ける。

 柱に掛けられた古時計も、数える程しかない席も、細長い窓と向こうの景色も、こいさんも、私でさえ、全て、全て。

 溶けて薄くなって徐々に消えて最後は──


          *


「そろそろ起きろよ……」

「うっわ最悪」

手前てめえ!」

 起き抜けに馬鹿ましかの声が目覚ましになった。

「オハヨウゴザイマス」

「お前いい加減巫山戯んなよ」

 今は視力が無いので馬鹿の声だけが聞こえる。

 中々に新鮮な気分だ。

「昨夜は店内にでも泊まりました? 困りますよ私の手の届かない場所でも勝手に使われちゃあ」

「それよりお前、昨日の飯食ったんだな。偉いぞ」

 普段なら嫌味に皮肉で返す仲だが、今日は違う。

 私の嫌みは無視され、頭をわしゃわしゃと撫でられたのだ。

 突然の変わり様に混乱し茫然としていると、不意に手を引かれる。

「ほら、起きられるか? 朝食は出来てるからな」

「え」

「ああ、介助有りが良かったか?」

「気持ち悪いんですよ」

 いきなり態度を変えて接したって。

 私は手を患わさせる落ちこぼれなのだから、もう構わないで欲しい。

 用意してくれた朝食だって、私一人で手探りでも食られる。

 家の中や店内を歩く時だって歩数を覚えているから平気だ。

「……そう言えばお前、あれはどうしたんだよ。見える様になる布」

「不要かと思い、捨てました」

「はあ!? おまっ、それこいさんが見繕ってくれたやつだろうが」

 あぁ五月蝿い。

 捨てた布も、必要であればまた作り直せば良い。

 それなのに隣で騒ぎ立てる友人は、執拗なまでに私に声を掛け続ける。

 失敗した私にもう構わないでくれ。

「っもうここから出て行ってくださいよ!」

 堪えられずに叫んだ瞬間、隣で発せられていた声はぴたりと止んだ。

 諦めたか。

 私は蒲団から抜け出し、手探りで探しあてた壁に手をついて歩き出す。

 取り敢えず自宅の勝手に行き、冷蔵庫を開けた。

 視力の完全に無い状態で火を使うのは危険なので、作り置きの惣菜と、炊飯釜の飯を適当に食べる。

 茶碗にご飯を盛るのでさえ支障を来した。

 その後食後にお茶を飲み、何をするでもなく只茫然と時間を潰した。

 ふと思い出す。

 今朝話していた友人は誰だったか。


          *


「っもうここから出て行ってくださいよ!」

「ああ!?」

 必死に堪えていたが、そう言われた以上俺も黙って優しくする理由が無くなった。

 顔でも叩いて寝惚けた目を醒ましてやろうと、左手に力を込める。

 流血沙汰になろうがお前が原因だからな。

 頬に狙いを定め拳で打つ。

 しかし、それが糸に届く事はなかった。

 は、と漏れる様に情けない声が飛び出す。それを最初、糸が漏らした声だと思い込んだ。

 俺は糸を殴ったが、すり抜けて不干渉に終わった。

「なっ」

 糸は蒲団から抜け出し、ふらついた足取りで壁伝いに部屋から出て行く。

「おい、まだ話は終わってねえぞ!」

 慌てて追い掛けるも、肩に手を掛けて強制的に振り向かせる事も出来なかった。

 糸は俺を見えない様に振る舞っている。

 干渉出来ないすり抜け。届かない声。

 真逆とは思うがお前──

 もうこっち側には居ないんだな。

 普段は誰にも気付かれない様注意を払うが、今日は気にせず舌打ちする。

 兎に角今は考えるより行動あるのみだ。

 俺は心当りの場所へ急ぐ。

 道中にあった駄菓子屋に立ち寄り、ラムネを二つ買って中のビー玉を回収して懐に入れた。

 通りから離れた路地に入り、細く九十九折つづらおりになった階段を行ったり来たりする。

 道順を考えながら往くと必ず迷子になるので、何も考えず、寧ろ他のことを考えながら往くと辿り着く。

 辿り着いたそこはむじなの巣穴の様な家で、入口は石造りになっている。

 玄関ポーチは、上から簡素な石油ランタンが吊るされていた。

 木製の扉に呼鈴はついていないので、大袈裟に叩く。

「はいはいはいはいはい! そないに叩かへんでも今出るでっと」

 扉の向こうから、床をぎしぎしと踏み鳴らしながら駆ける不穏な音が聞こえた。

「はいはい。お待たせしました~ってあんたかい」

「こちとら火急の用事があるんだよ」

 中から出て来た痩せぎすの男は、その長身で俺を見下ろしている。

 俺は苛立ちを舌打ちで紛らわしてずかずかと室内に入った。

「あ! ちょい、困んでえ」

「工房まで案内しろ、鑑。依頼はそれからだ」

「はあ~。小さいくせによう張り合うわ」

「ああ!?」


 薄暗い上に埃とカビ臭さで充満する鑑の工房に通され、適当に座れる場所──比較的綺麗な場所を探し当てて腰を下ろす。

「で? 依頼って言うのんは何。わざわざ俺の所まで来るって事はそれ程なんやろうな。馬鹿」

「ああそうだ」

 鑑とは昔からの馴染みだが、俺にだけ守銭奴を発揮してくるからどうも依頼をする気にはなれない。

 だがこれも問題解決の為だ。

 俺は懐からビー玉を取り出し、鑑に手渡す。

「これで義眼を作って貰いてえんだ」

「はあ。よりにもよって義眼、ねえ」

「人形の目ぇ作る要領で出来んだろうが」

「そら出来るけどな。この硝子玉、色悪いわ」

 確かに急拵えだが、こいつが何度も素晴らしい作品に仕上げるのを俺は何度も見ている。

 鑑は掌でビー玉を転がしながら、口許に手を当てて考え込む様な仕草をした。

 その最中、不穏な色が鑑の目を通り過ぎる。

 今まで経験から多額の金を請求される事を覚悟した。

 鑑は俺の眼前に人差し指を立て、要求を述べる。

「馬鹿。この依頼受けても良いけどな」

「ああ」

「報酬は糸はんの食事向こう一ヶ月分や。あんたから何がなんでも話通してくれ」

 確かに少なく見積もっても、大仕事の報酬には見合っていると思う。

 だが、俺から話を通すのではなく義眼を作る鑑本人から話した方が遥かに早い気がするが。

「そこはまあ……。俺、慣れてもない初対面と話すの苦手やし面倒なの知ってはるやろ?」

「ん、まあ確かにな。お前昔から誰かの仲介挟ませてたからなあ」

「だからこそ、や」


 話が纏まった後、気が散るからと俺は早々に工房から追い出された。

 一旦集中し始めた鑑に声を掛けようものなら、骨が折れる程度に殴られて帰って来るのが関の山である。

 俺はその間手持ち無沙汰で、先の見えない不安と脳内戦を繰り広げていた。

 若しも糸が義眼を嵌め、より人間の側に近付いたら。

 今朝の不可思議な現象は、人間に少し戻った、或いは近付いたが故の彼岸との隔絶かもしれない。

 糸は、器に影法師を憑依させているだけで元々の実体は人間に飼われた猫だ。

 憑依されているが主導権は糸にあるだけで、命は影法師に握られている。

 主導権の想いが強ければ強い程、彼岸に引き戻せない可能性もある。

 そうなれば次に起こるのはもっと面倒な事だ。

 糸は系列上、こいさんの跡継である。

 そしてこいさんは現世にいる間、さる猫又衆の主として手腕を発揮していた。

 つまり後に残された糸が彼岸から離れれば、一騒動起きるのは目に見えている。

 あの人直々に、糸の奴の世話を任されている以上、否が応でも引き戻せなければ最悪俺の首が飛ぶ。

 何故あいつはそれ程此岸に戻りたがるのか。

 自分を軽率に路頭に迷わせた人間に、何の執着があると言うのか。

 問うても返って来るのは同じ答ばかり。

「自分が自分でなくなる」

 口に出した言葉は、きっと俺には理解出来ないだろう。

 あいつにとっての譲れない信念なのだとしても、俺は尊重出来ないだろうし、また人間の側に戻ろうとするのならいとも容易く踏み潰す。

 そう言う契約で、そう言う世話係として俺は居る。

 せめてあいつが望む姿に限りなく近い姿になる事で、妥協してくれれば一番良いのだが。

 工房と廊下を隔てる薄い扉に耳を傾ければ、研磨音だけが漏れ聞こえる。

 昔は全て手作業だったが、今は機械を導入したお蔭で作業効率が飛躍的に上がったと聞いた。

 先の戦前までは一から鑢で地道に磨いていたのを思い出す。

 此岸に行って市販の品を買うのも良いが、こいつは歯車から手造りした。

 今思い返しても天才的な技術だ。

 回想に耽っていると、不意に工房から音が消える。

 二回ノックすると、扉の向こうから気の無い返事が僅かに漏れた。

「入るぞ」

 埃の舞う工房では、疲労困憊の鑑が作業机に突っ伏している。

 これはいつもの事なので軽く肩を叩いて起こした。

「ああ……取り敢えず完成した。もう納品出来るくらいやわ」

「そっか。お疲れさん」

 労いの言葉をかけると、そこにあるから、と指を差してまた突っ伏す。

 本当に疲れているらしい。

 鑑が指差した方に、白い清潔な布が敷かれた小ぶりな台があり、そこに二つの球体が鎮座していた。

 布越しにそれを手に取って見ると、麦茶色の目が俺を見詰めた。

「……一瞬放り投げようかと思った」

「ちょ!? 止めろや力作を放るとか。冗談でも笑えへんからな」

「知ってる。それにしてもよ、これ元はくすんだ青だったろ? どうやって色変えたんだ」

 素朴な疑問を投げ掛けると、鑑はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに口を三日月型にしている。

 いつもは閉じている目も、細いが開いていた。

 これ、疑問でも迂闊に聞いたら厄介なやつだった。

「よく聞いてくれたわ。それな、俺の叡知と技術の結晶やからな」

「へえ」

「硝子を半球に削ってな、その後うす~くうっす~くする。厚さはミリにも満たない、完璧なレンズ型や。それをさっきのビー玉に被せるやろ?」

「ああ成る程な。判ってきたぞ」

 コンタクトレンズの要領で色を変えたのか。

「どうや! 俺すごいと思わん!? 褒めてくれや~」

 先程までの疲弊が嘘の様に、鑑は頑是ない子供の様にはしゃぐ。

「あとな、光の加減で青く見えるくらいの薄さにしてんねんで」

 言われるがままに卓上灯に義眼をかざして見れば、元来の青が顔を覗かせた。

 こいさんの目もこんな風に光の加減で変わっていた。

 これならあいつも満足するだろう。

 あとはこれを持ち帰って話を通すだけだ。

 すり抜け現象の対策は考えてある。

「なあ鑑、これ包みたいんだがどっかに箱ねえか?」

「あるでえ。商品専用の桐箱」

 何から何まで用意が良いな。

 底に綿の敷かれた桐箱に義眼を収め、懐に入れる。

「じゃあ糸さんの食事一ヶ月分の件、宜しゅうな」

「わあってる」


 鑑の家を出て、九十九折の階段を上ったり下ったりして狭い路地から通りに出た。

 更に二段坂を上って行く。

 日は真上に君臨していた。

 糸猫庵のある路地に硝子戸の入口が表れている、と言う様な都合の良い事は無かった。

 もうここは此岸なのだろう。

 地べたに腰を下ろして待ち構えた。

 懐に仕舞った桐箱を手に持ち、眺め、また仕舞う。

 一連の動作を、思い出した様に繰り返して暇を潰していた。

 それは一種祈りにも似ていて。


「馬鹿さん?」


 頭上から幼い声が投げ掛けられる。

 目をやると、そこには昼食を買いに来たらしい小鳥遊が立って俺を見下ろしていた。

「お、良い所に来たな」

「嫌な予感がするんですが」

「お前なあ……」

 俺は先日からの異変と状況を全て話し、兎に角まずは小鳥遊に納得してもらった。

 驚きを隠せない様子で話を聞いていたが、飲み込みが早くすぐに状況を理解してしまった。

「糸さん……これからどうなっちゃうんですか?」

「判んねえ。この義眼を嵌めたら少なくとも何かしら変化があると思うんだよ。だからな」

「ぼくに、義眼を届けて欲しいんですね」

「ああ。……いや本当理解早すぎて助かるぜ」

「でも、これで元に戻らなかったらどうすれば……」

「そん時はそん時だ。俺が頭ぶっ叩いてでも戻す」

 手の骨を鳴らすと、そうですか……、と心配そうな声音で答える。

 実際そうする心算だ。

 桐箱を小鳥遊に手渡し、店内に入ってもらい、俺は肩に手を乗せる。

 小鳥遊がまだ干渉出来て良かった。


          *


 糸猫庵の硝子戸は、馬鹿さんに見えていないらしい。

 見えていない、と言うより、見えていないし触れも出来ないと言う。

 ぼくは、「準備中」の札が取っ手に掛かったままの扉を開けた。

「ごめんなー。俺じゃ入れねえからよ」

「大丈夫ですよ」

 店内はいつもより暗く、何より縦長の窓が無かった。

 そのせいか、いつでも夕方の様だった室内はまるで少し時間が進んだ夜みたいだ。

「どうなってんだ? いよいよここの存在も怪しくなって来たな」

 馬鹿さんは不安を押し殺す様に言った。

 唯一の採光窓が無くなって明かりが入らないのと比例して、不安も積もっていく様だった。

 ぼくは手渡された桐箱を胸に抱える。

 仄暗い室内で、梁から吊るされた橙色の提灯の灯りに照らされ、糸さんはカウンター席で突っ伏していた。

「あの……」

 具合でも悪いのかと、少し肩を叩いてみる。

「ん。誰です?」

「ぼくです、小鳥遊です。えっと、お届け物があって、来ました……」

 糸さんはカウンターから起き上がると、一つ欠伸をした。

 寝ていただけらしい。

 ただいつもと違う。

 それだけの先入観があるだけで、こうも話しかけ辛くなるものなのか。

 あの赤くて分厚い布は頭に巻かれていないし、敬語を使いこなすはっきりとした雰囲気は微塵もない。

「何です? 届け物と言うのは」

「あ! これ、これですって言っても見えないか……」

 桐箱の蓋を外して、義眼を糸の掌に乗せる。

「義眼です。糸さん、ちょっとそのまま持っててください。一人じゃ嵌められないと思うので」

 空になった桐箱をカウンターの端に置き、え、と困惑して素の声が出る糸さんと向き合う。

「そう言えば馬鹿さんは今触れないですか?」

「んー……、お前に一部が触れている限りこいつに干渉出来るけどな」

 そうですか、と答え、義眼を手に持った。

「馬鹿さん、頭押さえてるので義眼入れてもらっていいですか?」

「いいぞ。任せろ」

 すみません、と言ってから糸さんの頭を固定する。

 馬鹿さんに義眼を預けて、眼窩に嵌めてもらう。

 ぐちゃ、と粘性の音が漏れ聞こえた。

 馬鹿さんが瞼を無理矢理抉じ開け、義眼を嵌めようと動かす度、ぐちゃ、ぐちゃ、と聞こえるものだから、思わず目をそらす。

 糸さんは小刻みに震えているし、痛いのか馬鹿さんの腕に爪を立てていた。

「よっし、右目終わり」

 片方終わると、一つ息を吐いて左目を嵌める。

 ぐちゃ、と嫌な音が耳に残った。


「っあ……」

「左目も終わったぞ。あとはこれで放置して癒着するのを待つだけだな」

「ありがとうございました、馬鹿さん」

 桐箱を馬鹿さんに預け、心配で糸さんの横に座って寄り添う。

 あれから糸さんはずっと両目を閉じたまま、何も言わず、黙ってカウンターにもたれ掛かっていた。

 目を閉じている所為か、吐息が寝息の様に聞こえて面白い。

 今はあの赤い布が無いお蔭で顔が見えるので、今の内に拝む。

 鼻筋がシュッと通っていて、案外目尻は上がっていて睫毛も長い。

 眉毛は少しだけ薄いけど、二重の線がくっきりしている。

 誰もが美人と認める容貌をしていた。

「あの」

「え、あっはいっ!? 何ですか糸さん!」

 不意に声をあげた糸さんに、驚きを隠せずに飛び上がってしまった。

「えっと……確か馬鹿さん? と小鳥遊さん、でしたか」

「はい!」

「お前、今見えてんのか?」

「誰です? 私には心当たりが無いのですが」

 ぼくも馬鹿さんも、口を開けて呆然とするしか無かった。


          *


 私には眼球が無い。

 だがそれによって出来た、理不尽に怒鳴り散らす飼い主の顔を見なくても良い免罪符に救われた。

 嫌われ者の錆猫なら、それらしく過ごすだけである。

 長い髭で距離を測って、階段を飛び降り、脚の高い椅子に飛び乗った。

 丸まって静かに息を吐く。

 ここの家は一体何人目の主人のモノだったか。

 それすら思い出せないくらいに、僕はニンゲンと言うモノへの興味関心が薄れたのだろう。

 僕はニンゲンに頼らなければ、生きて行くことを諦めなければならないのに。

 主人が帰って来るまで一眠りしていよう。

 でも全く眠気が来ない。

 わざわざ起きているのは辛いことにまみれる事だから眠っていたいのに、何で。

 ふと、すぐ近くでどこかの扉が開いた。

 一人分の軽い足音。

 何か言っているが、一人で会話は成り立たない。

「あの……」

 さっきまで誰かと話している様だったが、何故僕に話しかけるのか。

 適当に返答すると、何やら届け物だと言う。

 それに名前もタカナシやマシカとか言うらしい。

 確か主人は魚みたいな名前だ。

 なら、このニンゲン達は一体全体何なんだ?

 義眼とやらを持って来たと言ったが、義眼などあって何になる。

「マシカさん、頭押さえてるので義眼入れてもらっていいですか?」

 何だって?

 抵抗する間もなく頭を固定されて瞼を抉じ開けられる。

 そのまま何かの球体を両目共に捩じ込まれた。

 冷たくて、気持ち悪くて、怖くて、助けを呼ぶにも主人らしき人物は直ぐ近くに居ない。

 漸く解放されても、動いたり文句を言う気も無くなってしまって、黙ってじっとしていた。

 そうしている内徐々に体力が回復して来たから、今隣にいるタカナシとか言う奴に話してみる。

「あの」

「え、あっはいっ!? 何ですかイトさん!」

 へえ。次の名前はイトになったのか。

「えっと……確か馬鹿さん? と小鳥遊さん、でしたか」

 そう言って確認しただけなのに、タカナシはまるで大事の様に騒ぐ。

 それから今の状況が全く判らない事も伝えると、いよいようるさくなった。

 本当に君の事は判らないんだって。

 側に居ると言うもう一人も、僕の鼻には匂いもかすらない。

 本当に判らないのか、ここにマシカさんも居るじゃないか、イトネコアンでの記憶も抜け落ちてしまったのか。

 うるさい。うるさいうるさいうるさい。

 僕はイトなんて名前も知らない。いい加減に止めろ。

「うっるさい!」

 出せる限りの大音声で言ってやると、声はピタッと止んだ。

「ごめんなさい」

 まず最初に謝ったのはタカナシだったが、何故謝るのかそれすらも判らない。

 怒鳴ったのは僕なのに。

 僕の新しい主人はどこに居ると言うのか。

 今居るタカナシはニンゲンの様な匂いがしないから信用出来そうにない。まるで死臭と線香の様な匂いだ。

 匂いだけでは頼りにならなくて、思わず目を開ける。

 そこは変に仄暗く、僕はそこの天井に、手を伸ばせば届く程狭かった。

 タカナシは僕の腰よりずっと背丈が低い。

 そして僕もタカナシと同じ様な姿で、二本足で立っていた。

 タカナシは状況が判らないと言っていたが、解らないのは僕の方だ。

 ニンゲンの姿になっているのは面白いけど、今それを楽しんでいる時ではないだろう。

「本当にぼくが判らないんですか? マシカさんも……見えないですか?」

「知らない。僕は只の錆猫だし、今は新しい主人を探すのに忙しいから」

「ご主人ですか」

「そう。多分この家に居ると思うんだけど、知らないかな」

「ぼくは知らなくて……すみません」

 残念だ。

 それよりも、タカナシと話すのに一々屈むのが面倒になってくる。

 ニンゲンに頼らなければ生きていけないから、ニンゲンはどれ程すごいモノかと思っていたけど、存外に不便だ。

 タカナシの目も僕の方を向いていないし、ニンゲン同士の会話は背丈が違うからってこうも面倒なのか。

「……その、しっぽ動くんですね」

 無意識で尾を振っていたのを、目で追っていたらしい。

「不機嫌になれば尾だって動くし耳だって動くさ」

 べしべしと床に尾を叩きつけると、タカナシは目を輝かせる。

 やっぱりニンゲンは変だ。

 暫く見ていると、飽きたらしくその辺を彷徨き始める。

 ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。

 室内を回る様に歩き、口許に手をやって。

 いつかどこかの主人が、考える時あんな風に口許に手をやっていた。


          *


「どうしますか?」

「ああ、駄目だな。俺も見えてないどころか、糸としての記憶が抜け落ちてるみたいだな。こいさんの事も覚えてないのか?」

 馬鹿さんの口から出た「こいさん」と言う言葉に引っ掛かるけど、若しかしてその人が、糸さんの言っていた新しい主人なのだろうか。

 それよりも、手遅れだったらどうすれば良い?

 人間の側に近付いたから、人間の側に居た時の記憶だけがある状態なんだろう、と馬鹿さんは言う。

「しっかし懐かしいな。錆猫時代のこいつ」

「言ってる場合じゃ無いですよ……。それにぼく知りませんし」

 何か抜け落ちた記憶を、少しずつでも戻す方法が見つかれば良いのだけど。

「俺が上に行って色々持ってくるぞ」

「ありがとうございます。でも、干渉出来るんですか?」

 尋ねると、馬鹿さんの口角がひきつった。

「そん時はまた頼んだ……」


 結局馬鹿さんが扉などを開けられなかったので、ぼくが同伴して上の階へ諸々の小物を取りに行った。

 携帯灰皿と煙管、墨壺、おはじきや花札、がま口財布、キャラメルの空箱、縫目のほどけたお守りに、三毛猫の縫い包み。その他諸々。

「あいつ昔から蒐集癖があってなー。うわっ、これ何十年前の鉛筆だよ」

 そう言って笑う馬鹿さんが、馬鹿さん以外に知らない糸さんの一面があるのを羨ましく思った。

 店内では猫の様な仕草で、だるそうに毛並みなどいじっている。

「糸さーん。これ見て何か思いだしませんか……?」

「んー……判りませんねえ……」

 置時計や掌サイズの達磨。壊れた懐中時計。

 馬鹿さん曰く、これら全て糸さんの執着が強いモノらしい。

 糸さんは一つひとつ手に持って見て、ひっくり返したり、蓋を開いていじくり回してみたり。

 そして時折懐かしむ様な表情を見せる。

 その度に希望を見るも、直ぐ別の小物に興味を示した。

 数十年前のマッチ箱、ほつれたリボンタイ、どこかの機構からはぐれた歯車。

 全て眺めて、全て特にこれと言った反応も無くて。

「これで駄目だったら無理だな。腹括るしかねえ」

 項垂れた馬鹿さんが手に持っているのは首輪だった。

 赤くて細い、金具も壊れて使い物にならない古ぼけた首輪だった。

 馬鹿さんはそれを糸さんに手渡す。と言っても、糸さんにはそこに首輪が置いてある程度にしか見えないらしい。

 糸さんは首輪を手首に通したりして観察していたが、不意に目を見開いてまじまじと見詰める。

「ああこれ僕のだよ。わざわざ持ってきてくれてありがとう」

 すると馬鹿さんが興奮気味に食い付いた。

「あ? それってこいさんがくれたモノだぞ?」

「? ……つまり」

「こっちの記憶が少し戻って来たって事だ」

「本当ですか!」

 他にも見せれば何か進展があるかと、抱える程の雑貨や小物に目をやる。

 だがそこにはもう、既に糸さんに見せて反応が無かったモノがあるばかりだった。

 希望をかけて店内を見回す。

 もう無いとしても、ここにも何かある筈だ。

「馬鹿さん、店内も何かあるか探してみてください。ぼくも色々試してみます」

「おうよ」

 机、提灯、本棚、食器類。どれもいまいちぱっとこないモノばかり。

 ふと視界の端に何かが引っ掛かる。

 カウンターの一番端。仄暗くてよく見えないけど、見覚えがあった。

 あ、と思わず声を漏らす。

 表紙が裏葉色の帳面。

「皆で書いた自由帳……」

 鉄穴さんを初めとした糸猫庵の常連さんや、初めてお店に来た人、気紛れに立ち寄る妖怪。

 色んな、皆が加筆して出来上がった糸猫庵の記憶。

「馬鹿さん!」

「お? どうした!?」

「これ……出来るんじゃないですか?」

「あーそれな。確かに見落としてた、ありがとな」

 そう言って馬鹿さんは頭を撫でてくれた。

 糸さんに帳面を持って行くと、目にした時の反応は変わらなかったが、徐々に興味を示す。

 鉛筆が掠れて判読不能になりかけている頁までも、食い入る様に見ていた。

 ぼくや馬鹿さん、鉄穴さんに四月一日さん、春秋さん、池鯉鮒さん、茉莉。

 全員がふざけたり、真剣に悩みながら書いた合作。

 これでもどうにかならなかったら、と不安がよぎる。

 ふと、糸さんが何か呟き始めた。

「鉄穴、小鳥遊、馬鹿、四月一日……」

「糸さん、小鳥遊がぼくですよ! 何か思いだしましたか……?」

「鉄穴さん、小鳥遊さん、馬鹿、四月一日さん。それから春秋さん!」

 エウレーカ! とでも叫びだしそうな声で、糸さんは次々に名前を呼んでいく。

 大きな目には涙が溜まり、やがて支えきれなくなって零れ落ちた。


          *


 私は或る日、一度だけ人間に限りなく近い場所まで戻った事がある。

 結果、高望みによる恐怖を思い知った。

 私の記憶は一時的に惨めだった錆猫時代に戻り、よりにもよって、友人と店の常連客にその醜態を晒してしまった。

 私はその状態から元に戻してもらった恩があり、友人にはよくいじられる。

 しかし一つだけ、喜ばしい結果が残った。

 念願の眼球を手に入れたのだ。

 特別に作らせたと言う義眼を嵌めているが、義眼で景色が見える筈が無い、と言われる事もしばしば。

 なので、最近は義眼である事を隠している。

 それは個人の隠し事ではなく、契約上の隠匿事項でもあった。


「糸さ~ん、肴のお代わり~!」

 先日から増えたこの常連客が、件の契約者である。

「はい只今! 刺身ですね?」

 私は厨房でさっと一皿作り、卓に配膳する。

 その卓には、人形師をしている貘が陣取っていた。

「なあ、ちょい付き合ってくれへんか?」

 言って、向かいの席を細い骸骨の様な指で指し示す。

 断る理由も無いので、判りました、と一言。

 刺身を人切れつまむ。

「……義眼の事は言うてへんどすやろ?」

「ええ。口外すれば、私も鑑さんもどうなるか判りませんし」

 それは良かった、と鑑さんは笑みを咲かせた。

 鑑さんの技術は明らかに人智を超えている。

 ヒトの作り出すモノで回っている市場に出回ると、市場どころか世界がひっくり返ってもおかしくはない。

 私にそう言う代物が預けられていると思うと、気が気でない。

「そやけど目ぇ見える様になって良かったなあ。生まれた時からなんも見えへんかったんやん」

「本当に感謝しかありません」

「ええでええで。わしは本来の任から外れた様な事してるけどな、それで夢見もよなれば儲けものってこっちゃ」

 忘れられ勝ちだが、鑑さんも仮にも貘だ。

 人間の夢を回収する以上、人間に近い場所にいるが、人形を作ったりするのは関係が無い。

 あくまで只の趣味なんだそうだ。

 人間相手には義肢を制作、提供して暮らしている。

 しかし本気になれば、この義眼の様に、人智を超えた品を作ってしまう。

 面倒事になるからこそ、色々な業を背負い、彼岸の住人達にも気取られぬ様生きるだけだ。

 私は鑑さんに合うこの場所と料理を提供することで、均衡が保たれている。


          *


 本日の料理

・具沢山鮭手鞠寿司

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