十譚ノ壱 錆猫の硝子目玉
私の自室には、錠前の下ろされた棚に贅沢な寄木細工の箱が仕舞ってある。
大仰に大事な
故に、ヒトの真似をする事しか知らない。
寄木細工箱には底に綿を敷いてあり、保管物に傷をつけない様配慮している。
そんな私の宝物は硝子玉だ。俗にビー玉と呼ばれる只の硝子玉。
やっと揃った、と溢し、指でつまみ上げる。
午前六時の朝日にかざせば、藍がちらつく濃い琥珀色のビー玉は、私を拾ったこいさんがくれた。
もう一つは碧に金が散っており、時折光を反射する。
他にも手に入れたモノはあるが、最終的に絞った結果がこれだ。
私は片手にビー玉を握り、無い視力を支えている分厚い布を解く。
眼窩に嵌まっている球体を取り外した。これが無ければすぐ肉が眼窩を埋めてしまう。
そして二つの硝子玉を代わりに眼窩へ入れた。
毎朝の店内清掃を終え、朝食を摂る。今日は赤魚のみぞれ煮。
未だに馴染まないのか少しだけくすんだ世界を見ながらの食事だ。
「綺麗じゃない」
「そうだけど何かが違うんだよ。術式で誤魔化していた頃よりは鮮明だけど、何かが……」
「もう、贅沢言わないの」
「痛」
手鞠は愚痴と受け取ったのか、食事中の手を容赦無く突いた。
「ぼんやりするなら今日は休んじゃいなさいよ」
「やだ」
我儘を通してでも、この店は守らなければならない。
お昼時に店を開ける。
最初の客に
「あっ」
「あら」
硝子玉の目を入れて店に立てば流石に注目を浴びる。
「ようやく両目分揃ったんですね」
「おめでと~」
「ありがとうございます」
琥珀と碧は合わせが悪いかとも思ったが、趣味を優先した。
右が琥珀で左が碧。
布が無いとどことなく寂しいものだが、それもじきに慣れるだろう。
顔を隠せていた安心の喪失。
そう考えると慣れるのは先になるかも知れない、と苦笑した。
その後直ぐ小鳥遊さんが来店。
暮れに春秋さんが、帳が下りる頃には
一通りの業務を終えて酔っ払いを閉め出すまで、目の違和感は残っていた。
「本当に大丈夫なの坊や。夜だけでも外した方がいいんじゃないの?」
そんな私を案じて、手鞠が
「でも慣れないと」
「そんな事言わないの!」
「……疲れたからもう寝るよ」
「あら珍しいわね。坊やが疲れたなんて……若しかして──」
心配し続ける手鞠を余所に、私はかなりの疲労を溜め込んでいたらしく、そこからの記憶が曖昧だ。
*
夢を見ている、と自覚が現れ始めたのは何時の頃からか。
夢は何かの切っ掛けで見るモノだが、彼岸の世界に来てからも見られるとは思いもしなかった。
私は錆猫になっているのだが、かつての醜かった姿とは違う。
両の目も揃っているし、前肢が片方もげていたりもしていない。
目は右が琥珀で左が碧。
立派な錆猫の私は良家で生まれ育てられ、三毛と呼ばれ、生涯を何不自由なく過ごした。
最期は家の主人によって埋葬され、私はそれを第三者の視点から眺めている、と言った具合の夢である。
生涯を恐らく幸せに過ごした代わりに、私はこいさんと出逢う事も、糸猫庵を継ぐ事も、影法師として彼岸に来る事もない。それを幸せと思う自分を見ていて不快になる。
私はそこで目を醒ます。
まず枕許に手を伸ばし、空を切った。
手癖でいつも頭に巻いていた布を手にしようとしたらしい。
区切りがつかないのを情けなく思いながら、朝支度を進める。
寝間着から着物に着替えて
手鞠は今朝はあまり鳴かなかった。
味噌汁だけは毎朝新しいものを作るのが慣例で、それさえ作って仕舞えばおかずは適当につまむ。
今朝は気力が湧かなかったので鮪の
前日までに手鞠に手を抜く許可は取ってある。
その手鞠が机に飛んで来た。
毎朝の様になっていない
「手鞠?」
声をかけてみると、ふと我に返った様に自らの鳥籠へ戻っていった。
朝食を終え、店内の掃き掃除と卓の拭き掃除。
お昼時には店を開け、来客を待つ間少しの仕込み。
暫くして、小鳥遊さんが来店される。
「
「本当ですね。その
「良いですねえ。ここでも園芸を始めてみましょうか」
「! だったらぼくがお世話になっているお店があるんですけど──」
会話が弾むに連れ弁当の調理も進む。
今日は良い野菜が入ったので、定番の卵焼きと野菜炒め、塩揉みを詰める。
米は麦を入れて炊いたものを。
隙間埋めにと人参飾り切りも詰めたら完成だ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます! あの、目綺麗ですね」
それだけ言って店を去って行った。
そうだ。
私にはもう両の目が揃っていて、罠にかかって失った前肢も揃っている。
かつて私が望んだ姿に成ったのだ。
日が頂点に昇り誰彼時を過ぎ、月が夜のしじまを連れて来た頃には店を閉め、手鞠を籠ごと自室に連れて行き、三味の練習と読書をして寝る。
また夢を見るのかと思うと楽しみではあるが、稀に恐ろしい夢にも当たるので何も見たくない時もあった。
結局、手鞠は今日一言も話さないままだった。
どこか調子でも悪いのか、そうだったら後日動物に詳しい誰かにでも見て貰おう。
予定を整理しながら浅い眠りについた。
*
違和感が残る琥珀と碧の目が、未だ脳裏に焼き付いて離れていない。
「何で硝子玉なんかでやろうとしたかな……」
ごく稀に糸がやる行動には驚かされるが、今回は褒められたモノではない。
確かに硝子玉を眼球の代替品には出来るが、只の硝子では脆すぎる。
それに一度流通に回った物品ならば、不特定多数が触れているから濁っているのだ。
研いて瞳孔くらいの大きさまで調整し、加工するしか無い。
糸はずっと目を欲しがっていたが、性急に求める事などしない性分だった。
それが何故今、この時期にわざわざ危険に手を伸ばすのか腑に落ちない。
硝子玉を入れた糸は、確かに見惚れる程美しい目を手に入れたかも知れない。
こいさんの様に、といつか言っていたが、あいつは成れない。
こいさんは教えていないのか?
明日にでも色々言ってやる心算だ。いや、今直ぐにでも行ってやろうか。
そうと決まればとっとと仕事を終わらせて暇をもぎ取るまで。
その日、仕事中の形相が仲間内で話題になっていたらしい。
酒とその肴代を懐に入れ、二段坂の街を歩いて行く。
今日は何を注文しようか、糸の奴は急に来た俺に対して何を言うだろうか。
「やっぱ開口一番に『バカ』だろうな……。あー可愛げが無え」
死にかけの錆猫だった時分はそれこそ可愛かった。それが何故あんなひねくれ者に。
こいさんに合わせる顔が無い。
糸猫庵に通じる路地が見えた。
無意識の内足早になる。
行き止り路地硝子戸を勢いよく押し開き、あいつを驚かしてやるのだ。
この時間帯は糸にとって、客入りが少なく読書をしている時間だ。
その辺のスツールに行儀悪く傾いて座っている所を、驚かして床に転げ落ちる様を見てみたい。
足音を殺し、不可視の細長窓から逃げる様に体を屈める。
そのまま硝子戸を押し開き──開こうとした。
「──は?」
打ち捨てられた木製の電信柱が残されているばかりだ。
嘘だろ?
溢しそうになるが、ここでどうこう言っている場合では無い。
踵を返して駆け出した。
恐らく糸は店に居るんだろうが、俺達に視えなければそうである、としか結論付ける外はない。
*
「爺さん!」
「まずはその口を縫うか」
「すまん」
「宜しい」
「だから老爺と漫談紛いの事してる暇は」
言い終わらない内に、眼前に縫針を突き付けられる。
「落ち着け」
糸猫庵から真直ぐに訪ねたのは、
酔わせて居所を聞き出しておいて良かったと、心底から思う瞬間だった。
正座をさせられて漸く話が出来、訪ねた
店が唐突に消え失せた事、糸と連絡がつかない事、所在も何も情報が途絶えている事。
それから──
「成る程な。目を硝子玉に変えたと」
「それからずっと調子が悪いってのは聞いてたけどよ、それが何で今に至るのか解らねえ」
今まで無かったモノを足しただけだ。
糸はこいさんに拾われた頃から様々なモノが不足、或いは欠けていたから、昔から色々と
最初は罠で壊死した前肢。
その次は影法師として彼岸に存在する為の依り代。
「……話を聞く限り、糸さんには何の非も無いと見受けるのじゃが」
「やっぱそうだよなあ……春秋の爺さんなら何か思い当たると思ったんだがな」
思わず頭を抱える。
打開策を閃く訳でもなく、意味も無く畳に寝転がった。
己の角が邪魔する為、適当な座蒲団を引寄せて折り畳み、その上にうつ伏せになる。
春秋の爺さんは顎に手をあて、暫し考える仕草をしていたが、何か心当りがあったらしい。
のっそりと緩慢な動作で立ち上がり、側の文机から硯と筆、棚から和紙を取り出した。
文机に向き直り、俺にこちらへ来いと手招く。
起き上がって四つん這いで向かうと、春秋は俺を側に座らせて紙に書き込んでいった。
肩越しに覗き込む様にして、その様を見る。
「のしかかるな、重い」
「爺さんは肩幅でけえから見辛いんだよ」
「そうか。兎も角講義じゃ、見とれ」
生返事をして、紙を滑る筆を見詰めていた。
「ここに糸さんが居るとするじゃろう」
言って、爺さんは猫を描いた。
その猫は様々な部位が欠けていて、ヒトから見れば尋常ではない。
春秋はそこにどんどん描き足して行く。
「この様に、糸さんは欠損した部位を継接ぎしていった訳じゃが……」
「何で足す意味があるんだろうな」
欠損も、余りも、それら全て唯一無二の自分を示す象徴だろうに。
それをわざわざ潰す真似をするあいつとは、昔から全く解り合えなかった。
糸曰く、欠けている事と言うのは生活に不便なだけでなくヒトに見向きもされない辛い事なんだとか。
彼岸で暮らす以上、此岸の常識は捨てるべきである。
「元はヒトの世界に居て、その恥が消えないが為に悩んでいたのじゃろうて。こちらについて行きたいが、またヒトに触れたい。その為にヒトに近く、あわよくば戻りたい」
「美事な二律背反だな」
「その通り。今回はその片方──つまり『ヒトに戻りたい』と言う願望が叶った」
「? それが……いや」
春秋のヒントで疑問が溶解する。
つまり糸は今──
「人間の側に近づいている。だな?」
「その通り。そして、店の入口が消え失せた事にも関係しておる」
「境界は不安定だが、それでも彼岸として居られた事だろ?」
あいつが依り代だからだ。
あいつの存在があってこそ彼岸が引寄せられ、あの店は境界線だったのか。
立ち上がって開け放しの縁側から外に出ようとすると、足をかけられて盛大に転んだ。
「
睨みつけて声を荒らげても、春秋は涼しい顔を崩さない。
「既に結論は出ておると思うが、性急に物事の解決に走るなよ」
「あ、そ……」
この老爺が言葉を並べても、正直足をかけたかっただけにも感じた。
*
再び糸猫庵に向かう。
決定的な打開策がある訳では無いが、糸の奴が外に出るまで粘る事にした。
端から見れば不審者だろうが、些細な事だ。
確かに此処は、より一層境界が薄くなっているのを肌で感じられる。
暮れの日に染まる行き止りの路地に、灯っていた光は失せている。
此岸と彼岸が交雑するこの時間帯なら若しくは、とも考えたが、矢張無理だった。
接触すら不可能だとすれば、最早俺達の領分でどうにか出来る自信は無い。
糸が出て来るまでここで待ち伏せても良いが、時間がかかり過ぎる。
何かしらの切っ掛けを作らねばならない。
そうと決まれば行動あるのみだ。
試しに先ずは石を投げ付けてみる。
一定の距離から放られた道端の石は、高い石垣に当たって砕けた。
それを何度か繰返すも、惨めに散った石が増えるばかり。
店からの反応は無い。
そうなれば次は騒音攻撃だ。
溜まった愚痴でも叫ぶか。
心を鎮め、息を吐き、吸い込む。
「っぁあーーーーーーーーーーーーーーー!! 糞上司! 手前だけは許さねえからなあ!? 毎日毎日船の操縦が下手糞だの何だかんだ難癖つけやがってよぉおお? 天国行きの奴はバカ丁寧に運んでるじゃろうがーーーい!! それから同僚もよってたかって俺の名前いじんの止めんかい! こちとら由緒ある京の家柄だぞ!? 実家でマウント取ってみろや俺お前らの実家の水準把握してるからな? 全敗だぞ! やだやだもう仕事行きたくない! 親の仕送だけでも割と生きていけるからもう引き込もっていいだろ? なああああああああーーーーーーっこの世界本当やだぁあああああああああああああ!!」
「うっさい!」
「うわあああああ糸だぁああああああああ!」
突如糸猫庵の硝子戸が出現し、そこから糸が顔を出した。
方法はともあれ、誘導には成功したから良しとする。
「何なんですかわざわざ大声出して……」
「店の入口が消えてるんだよ。どうにかしやがれ」
そう言って硝子戸があったであろう場所を指さす。
苛ついている俺に対し、糸はその方向を見て不可解そうに首を傾げた。
「ありますよ?
もうふっかけられる挑発に乗ってやる時間も無い。
硝子玉が癒着してしまったら力ずくでも外せず、肉ごと抉るしか無くなってしまう。
「危険だから今直ぐ目え外せってんだよ」
「……厭ですよ」
「硝子玉の所為でお前、これからどうなるか判らねえんだぞ! こう言う時だけ面倒臭えな。人間には戻れねえんだよ、諦めろ!」
わざと深い溜め息を吐くと、糸は肩を強張らせた。
こいつ、まだ人間に執着するつもりか。
今直ぐにでも硝子目玉を割ってやりたい衝動に駆られ、襟首を掴む。
しかし糸は抵抗も何もしない。
せめて反応の一つや二つあっても良いだろうに。
軽く首を絞めて脅してでも、こいつに解らせなければなんねえんだよ。
「わざわざ仕事放って忠告しに来てんだ。よく聞け。……今直ぐ、その目を外せ。さもないと」
「目なんて外せる訳無いでしょう!」
「あ? どう言うこった、説明してみろ」
糸の発した掠れ声は、とても嘘をついている様には思えなかった。
「もう一体化し始めているんですよ」
まずい。
「私は何でも取り込んでしまう、尽きる事のない影法師だと、判っていた事でしょう」
敢えてでかい溜め息を吐いた。
昔からこいさんに口酸っぱく言われていただろうに、何でこんなに焦ったんだよ。
「取り敢えず中入れてくんねえか、話はそれからだ」
糸は黙って頷く。
糸に干渉出来る様になって、今は見えている硝子戸を開け、ふらついた足取りで歩いて行くのを咄嗟に支えた。
窓側の糸を席に座らせ、顔を上げさせて強引に瞼を手で開いて状態を見る。
「やっぱりな」
硝子の奥で、肉が硝子玉を逃がさない様に包み込んでいた。
もっと時間が過ぎていたら僅かな隙間にでも入り込んでいたかも知れない。
例え俺達彼岸の住人と言えど、実態があれば肉体も魂だって在る。
俺に医学の知識は無いから正攻法は知らない。
だが今の内に対処しなければ、それこそ手遅れだ。ここで躊躇している暇も無い。
「馬鹿さん?」
ずっと顔をいじっていた為に、糸は怪訝な表情を浮かべていた。
「ああ、
「悪気ありませんよね」
「なあ手鞠、包帯ってどこにある?」
「聞いて下さいよ。それに、ここ最近手鞠はずっと喋っていません。だから──」
「そりゃ聴こえて無いだけだ。手鞠は今も喋ってるぞ」
遂に聴こえなくなったのかよ。
ヒトに近付いている以上、俺が引き戻すまでだ。
「包帯なら上の引出し……場所は判るわよね?」
「おうよ」
勝手知ったる他人の家だ。厨房奥から階段を駆け上がって、こいさんも住んでいた住居部分に入る。
一直線に居間へ向かい、飾棚の一番上の引出しを開けた。
そこには木箱が一つ入っており、そこに包帯やら薬草やら、なんなら調合した自前漢方やらが詰まっている。
救急箱、と糸は言っていた。
俺は救急箱を小脇に抱えて店に戻る。
糸の待つ席に箱を置くと、より一層怪訝な顔をした。
「厭な末路しか見えてこないのですが」
「挑発出来る体力も温存しておけ」
その言葉で全てを見通したらしく、糸はわざとらしく両手を宙に浮かべる。
俺は箱から薄く伸ばされたゴム製の手袋を両手に嵌め、包帯と
便利な時代になった。
これから硝子玉を外すと思うと、緊張で手が震える。
その間も硝子玉はじっと見詰め返している。
諦めの色が通り過ぎた一瞬、漸く覚悟を決めた。
眼窩に指を滑りこませ、硝子玉と癒着した肉を静かに剥がす。
反射的に瞼が降りて阻害するも、それも無視だ。
「……っ」
「ごめんな。我慢してくれ」
普段なら、判っていますよ、とでも返しているところだが、今はそれ程の余裕も無いらしい。
指先の感覚だけでの作業も中々に神経を使う。
硝子で滑りやすいから、間違っても傷つけない様に。
ぷち、と引っ付いた肉のちぎれる音が僅かに聞こえ、血が滲み出る。
ぶち、と不穏の滲む音が聞こえる度に、心臓が跳び跳ねた。
指先に筋が絡み、それを引っ掛けて千切る様に硝子から剥がす。
手前の分を剥がし、漸く奥にある太い筋に取り掛かる。
ここは強く癒着しているらしく、少しずつ剥がして行くしかない。かと言って時間はかけられない。
薄いゴム越しに爪で引っ掛けて剥がす、引っ張って徐々に、確実に進んでいく感覚を掴んだ。
閉じようと足掻く瞼は小刻みに震えている。
そろそろ限界か。
指で手前に転がし、碧色の硝子玉を抉り取った。
「──っ痛」
蚊の鳴くか如くか細い声でやっと答える。
黒ずんだ血が、空になった眼窩から溢れ出す。
「取り敢えずこれで押さえとけ」
即座に手許の
「……まだ耐えられるか?」
首を縦に振るのも痛いものなのか、糸は残った琥珀の目で訴える。
空いている片手は俺の服の袖でも掴んでもらった。
琥珀に指先が触れると、瞬間的に肩が強張る。
さっきのでもう感覚は掴んだ。
手前の方から肉を引きちぎる。この作業は素早く出来た。
「っあぁ……」
掛かる時間を短縮した事で、寧ろ痛くしてしまったらしい。
痛覚に耐える大柄な体は、早くしろ、と訴える様に震えていた。
最後に奥に繋がった筋だ。
ここさえクリアすれば、と考えると焦って手が滑る。
「焦らない事よ。名前の通りになったらどうするのよ」
「だーから手鞠、煽るなって……」
「あの、本当、はや、早く、してくださ、い」
「わーってるって」
煽りの様な心配をしている手鞠と、血液混じりの涙を流しながら終わりを待っている糸。
この板挟みにあう機会もそう無いだろう。
太い筋を何とか最短時間で剥がしたら、直ぐに硝子玉を抉った。
当布を渡して押さえてもらい、その上から包帯をぐるぐる巻きにして頭の横に結び目を作った。
「よっしゃ、これで良いだろ」
「私は全く大丈夫ではないのですが」
厚く巻いた包帯に、流れる血が滲んでいく。
「あぁあぁ泣くな泣くな。怖い事になってっから」
「もうやだぁああ……」
ああしまった。
今回ばかりは無理矢理に目を引き剥がした俺も悪いが、完全に拗ねた糸を復活させるまでは時間がかかる。
今日はもう寝かせるのが吉だ。
暫くはかなり不自由になるから、付き添わないと無理か?
「二階まで連れてってやるから、今日はもう寝ろ」
「ちょっと、私まだ夕ごはん食べてないんですよ?」
「あとで軽くつまめるもん持ってってやるから大人しくしてろ! ほら、肩貸してやらあ」
面倒臭そうに息を吐き、糸は手探りで俺の位置を探して肩に体重をかけた。
自分より背丈の高い糸を支えるのは、実に骨が折れる。
狭い厨房奥の階段を昇り、糸の自室まで連れて行き、拗ねた糸を暫く待機する様聞かせる。
俺は店の方に戻り、まず閉店の札を硝子戸に提げた。
再び住居部分に戻り、そこの勝手で余ったモノを捜す。
炊飯釜に夕飯用の米と、おかずにする心算だったのか、鮭の刺身が冷蔵庫で発見された。
まずは米を小さく丸める。
この時煎り胡麻と、短冊油揚げ、青葉を乗せて丸めたモノをそれぞれ二つ用意。
胡麻と青葉のモノのみに鮭を乗せて握る。
油揚げが入ったものは一つだけ山葵を入れた。
皿に盛り付ければ手鞠寿司の完成だ。
そこに手鞠が飛んで来て肩に止まる。
「あら、美味しそうじゃないの」
「だろ? 手鞠の名前の寿司だぞ」
部屋に戻ると、糸は相当拗ねていたらしく蒲団を頭から株っていた。
「こら坊や、起きなさい!」
「やだ」
幼児かよ。
「取り敢えず机にでも置いてくださいよ。後で食べます」
机に皿を置き、踵を返すと見せかけて勢いよく蒲団をひっぺがした。
「何するんですか!」
「うわっ、お前泣き跡ひっでえな」
見れば包帯に涙の伝った筋が赤黒くなっていて、ヒト前に出せば恐怖して涙を流す程になっている。
寝転がり枕に顔を伏せた糸は、不意に押し殺した声で話し始めた。
「明日はこいさんの命日だったんですよ」
「あ? それが何だってんだよ」
「せめてですよ。せめて、両目を揃えて、明日墓参りに行こうと思って、ずっと前から計画してたのにそれが……」
「命日なんざどうでもいい事だろうがよ。いずれ忘れ去られて、後から来る奴を引っ張らない様に」
「それもそうですけど……」
自分にとっては違う、とでも言うんだろ。
いくら命日とは言え、俺はもう覚えていないし今日まで忘れていた。
両目を揃えて立派になった姿を見せたいとか、大方そんな事を考えていたのかも知れないが、本来忘れられるべきモノに執着している。
人間に飼い慣らされ、突如棄てられ、
何も言わず、投げ遣りに蒲団を掛けてやる。
「ちょっ」
「黙って寝てろ」
肩のあたりを叩いてやると、そのままもそもそと、観念した様に蒲団の中で丸まった。
俺は階下に戻り、窓側の客席で座蒲団を枕に横になる。
ついさっき抉った硝子玉を、掌で転がしてみる。
碧と琥珀が橙の光を反射して幻想的に輝いた。
取引にでも出せば、誰もが手を挙げて欲する代物にも成り得ただろう。
だが今は、ほんの一部が錆びた様に黒ずんでしまった。
そのまま何の細工も無しに、硝子玉を目玉にすればこうなるのは明白だったろうに。
何故だ?
硝子は繊細で、触れたモノに影響されやすい。
だから別の素材で周囲を包み、水晶体やレンズとなる部分のみを残して加工する。
義眼として使用するのはそこからだ。
こいさんは教えていなかったのか?
だとすれば何故教えなかったのか。
昔の言葉を手繰り寄せる。
──あの子はすーぐ突っ走る性分やけど、一度怖い思いしたら二度とやらんのよ。まるで野良猫みたいやわぁ。
あ。
若しもこいさんが、今回の事件を引き起こす事を見透かしていたとすれば。
全部、全部。
とんだ笑い話である。
ああ成る程ね。
あいつの性質を利用して、将来同じ轍を踏まない様に言動を取っていたのか。
最大にして共通の目的、“糸を人間の側に戻さない”為に。
── * ──
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