九譚ノ弐 貘

 喫茶で偶然、小鳥遊りんどうと鉢合わせた。

 と言うよりは、一度改めて顔を合わせてみたかったので、行動圏を片端から潰していた朝だった。

 互いの誤認は兎も角、大分調子が戻ってきた様子を確認出来て何より。

 ここまで干渉するのには、言い訳に聞こえるかもしれないがれっきとした理由がある。

 今住居にしている小規模な森は、小鳥遊家所有の土地である為だ。

 契約書の本物は小鳥遊家が、写しは自分が保存し、今でも契約者の関係が続いている。

 小鳥遊夫妻はご子息に伝えているのかは識らないが、何かあれば自分が支えるだけだ。

 昼下りの平和過ぎる霊園を見守りに足を向ける。

 最近、霊園に押し掛ける人波は退けたが、それでも絶えずヒトはあおられ簡単に変わるモノだ。

 またどこかで悪意の芽が育つか知れたものではない。

 貘は無意識下に浸食して夢を回収する。

 その要領でヒトを操作することは造作もない。

 姿を消して霊園に踏み入る。

 リンドウは、泥だらけになって雑草を処理していた。

 側にある荷車には、既に大量の雑草と、他に重そうな園芸道具の一色が載せられている。

 一帯の清掃を終えると、また荷車を重そうに押して別所に移動して廻っていた。

 自分はその後ろをついて廻る。

 狭い霊園の整備は夕方になる前に終了。

 どうやら花壇の整備も終わらせているらしかった。

 その後家で休むかと思えば、何故か森の方へと向かって行く。

 疑問に思いながらも後ろをついて行けば、リンドウは森の入口から少し奥で足を止めた。

 あまり光の射し込まない場所に、何の用事があると言うのか。

 自分は目が見えない為、酷く歪んだ象しか判らないが、落葉を掃いているらしい。

 飾り気の無い針葉樹の葉はよく落ちる。

 針葉樹林である為、此処には花も紅葉も無い。

 さぞ手入れのしがいが無いことだろう。

 それとも家の土地だと判っているのか。

 リンドウは掃き掃除を終えると、今度は飛び石に水をかけ始めた。

 泥を落としているらしい。

 自分が、足を踏み入れる者もいないからと、無精で掃除をしていなかったのが悪いのだから。

 飛び石の清掃を終わらせると、ようやく家に戻る。

 自分の夕飯を作り、食べ、入浴してからは本を読み、古いラジオで明日の天気予報を聞けば、遅くとも夜九時には就寝。

 例によってあの押入れの様な寝床だ。

 リンドウは寝ている時が一等心地好いのか、寝顔の口角が時折上がっている。

 しかし周囲の事柄は目に入るものの自身は気に止めないたちらしく、部屋全体は埃くさい。

 リンドウが眠るまでを見届けた後、自分は森のあばら家に戻った。

 小鳥遊家と触れ合ってみて、久し振りに回想する。


          *


 白い桜の花の季節に、自分は先の大戦でこの土地に流れ着いてきた。

 元来住んでいた場所が焼かれた為である。その時に目も駄目になっている。

 その時は未だ夫婦の仲ではなかったが、当時の墓守であった小鳥遊家当主、巳代みよ──リンドウの母親にあたる──は、職業柄彼岸と関わりがあったらしい。

 自分と出逢った当初から全く警戒せずに受け入れてくれたことを覚えている。


「貘?」

 好奇心に満ちた目でうったえる彼女に、経緯いきさつを洗いざらい吐いた。

「大変ねえ貘って言うのも」

「…………まあ。そうですね」

「取り敢えず、これからどうするの? どこもかしこも焼かれちゃって、食糧も心許ないから家には置けないのよねえ……」

「いえ。あばら家でも……納屋でも、眠る場所さえあれば。食事は要らないし、何なら、もう立ち去ります」

 眠れる場所を確保するにも、個人の敷地内へ買ってに侵入して、更に寝所を作る訳にもいかない。

 このゴタゴタでどこも多忙に殺されており、そこにあらたな火種を投げ込めば、過敏に反応してしまって倍になり反るだけだ。

 断って、椅子から立ち上がろうとしたその時、小鳥遊巳代に右腕を掴まれる。

 今この人物がどの様な表情をしているのかは判らないが、どこか怒っている気配を感じた。

 何でしょう? と首を傾げて見せると、眼前に指を突き立てられ、空気の動く音がする。

「いいえ。あんたには否が応でも居て貰うわよ」

「何故」

 先刻迄の態度が一変したので、何かと思った。

「今はどこもかしこも人手が足りないの。でもあんたは、どうせ実体も不安定なんでしょ? そんな状態で力仕事もまかせられない。だからね、あんたにはちょっとした仕事を頼みたいのよ」

 早口でまくし立てられ、思わず一歩後退る。

「仕事、とは」

「判ってるじゃない。家の裏手にある森の管理人を委されて欲しいの」

 森の? と聞き返すと、巳代は強く頷いた。

「あそこは代々続く土地なの。で、そこの管理が今物凄く面倒だから、お願いしたいの」

「それなら、それで」

「あんたが貘なら、時間は有り余ってるでしょう? 私を含めた、この家が管理出来る様になるまでの契約よ」

 わかった、と首肯すると、巳代は奥の部屋から今は貴重な紙と筆を手に持って戻って来た。

「はい、これが契約書。……とは言っても白紙だけどね。まあ十分でしょう」

 彼女は必要だと思われることを記入し、最初に小鳥遊巳代と署名する。

 自分も署名を、と差し出された万年筆を自分は受け取れなかった。

「名前が、存りません」

 伸ばした左手が空を切って萎れる。

「はあ?」

「名前が無ければ、契約は不可。ですよね」

 虚しく空いた空欄を見詰めたまま、部屋の空気は凍り付いた。

 今眼前に居る小鳥遊巳代が、どんな表情をしているのか検討もつかない。

「いいわ。私がつけましょう」

「何故そこまで」

 唐突に発せられた言葉に困惑していると、彼女は既に頭を捻って知恵を絞り出していた。

「そうね……なるべく簡単なのがいいわよね。華美なのもなんだし」

「あの」

「判った! ニノマエよニノマエ!」

「ちょっと」

「いい? 漢数字の一を書くだけ。名字だけど、体を表せるなら良いわよね」

「えっと」

 引き留める間も与えられないまま、自分の名前が決定され、契約書に万年筆で署名をさせられる。

 自分はニノマエ。漢数字の一。

 どうにも事象の処理が追い付かず、暫くの間茫然自失としていた。

 ニノマエ、と反芻してみる。

 兎も角契約は可能になったので良いとしよう。

「良いわねにのまえ? あんたはたった今から、小鳥遊家直属の貘よ」

「所で、その管理して欲しいと言う森、は?」


「ここは自由に使って」

 森の奥にあった平屋を案内される。

「何故こんな奥地に家、が」

「あー……実は此処、小鳥遊の本家があったのよ」

「戦火、で?」

 五尺にも満たない彼女と目線を合わせる為、話す時は必ず屈む様にしている。

 小鳥遊巳代は、本家があった場所をただ眺めている。

 感傷的、と言うのは、今の彼女が体現しているのだろうと思った。

 改めて、目の前にある家未満のモノを眺めてみる。

 あまり視力はのこされていないが。

 恐らく、壁は白い漆喰で塗り固められている。

 四角よすみの柱は多少焦げ臭いものの、焼け残っている様だ。

 少し歩くと、硝子を踏んだ。パリン、とこぎみよい音が鳴る。

 どうやらこの上に硝子窓があったらしい。

「あぁごめんなさい。そこの硝子危ないから近寄らないでって……足が血だらけじゃもう言っても遅いか」

 道理で鉄臭いと思えば。

 直ぐ様足に包帯を巻かれる。

 物資が心許ないと言っていたのに、使う時は惜しみ無く使う。

「はい終わり。貘は痛覚ってもんが無いの?」

「知らない」

「それで? ここはどうなの」

「気に入った、かな?」

 漆喰壁の家に硝子は無いが、自分にはこれでも十二分だ。

「じゃあたった今から、あんたはここの管理人よ。お給金はこの家の使用権と、ほんの少しだけど……お金を」

「貨幣なんて要らない」

「え? いや、ちょっとそれは気前の良すぎじゃあ」

の世界には、いずれ消える紙幣も硬貨も要らない。だから、この家、だけでいい」

 巳代は、あらそう? と頬に手をあてる。

「所で聞くのだけど、何故ここだけ焼け残って?」

 先程から頭の隅で引っ掛かっていた疑問をぶつけると、巳代は少し可笑しい様に藁って答えた。

「それはね。ここ、離れ家だったのよ。それも母家から凄く離して作られたの。それも木に遮られて見えにくいらしくて……衝撃波があっても平気だったのよ」

 じゃあ森の外にあった家は、と問う。

「あぁ、あれは只の別館よ。最も、墓守の仕事道具とか置いている補給場所みたいなものね。本家からじゃ面倒だもの」


 それから自分は小鳥遊家所有の土地を管理する事となった。

 漆喰壁の離れ家に寝泊りし、野生に還りかけていた森に手を入れた。

 花も紅葉も無い為手入れのしがいはあまり感じられない。

 昼は管理に精を出し、夜は夢を回収する生活が続いた。

 そんな生活を続けていたら、休みなく働いていると、巳代から言われたが自分の感覚が狂っているとは思わない。


 後年、小鳥遊巳代は結婚して婿養子が小鳥遊に来た。

 小鳥遊家は巳代を残して一人だったので、本人は酷く安堵していた。

御目出度おめでとう」

「久し振りに実体表したわねあんた」

 森の入口、今は形を遺さない本家に続く浮島の様な飛び石。

 その上に一線を画すかの様に乗った。

 自分は猫背に屈めて、巳代は真っ直ぐに前を見据えて。

 角隠しを外し髪も解き、白無垢に身を包んだ巳代は自慢の黒髪が何時にも増して映えていた。

「何だか勿体無いわね」

「何が」

「背丈が高いのに、猫背にしちゃってる事よ。……いいえ、違うわ。此処にずっと縛ってる事ね」

 そんな事はない、と否定すると、静かに首を横に振られる。

「もう私も余裕が出てきたし、管理は委せてちょうだい」

「厭だ」

 強く否定すると、常に勝ち気の彼女にしては珍しい、驚き顔を見せた。

「まだ管理は終わっていないんだ。本音を言えば、手懐けられた今、また放浪生活に戻るのは酷だし。それにね……?」

 巳代の眼前に左手を差し出す。

 そこから、花束を出した。

「あら」

「反応薄いなあ……」

「だって、あんたならこれくらいの芸当は出来るでしょうよ」

「あまり高く、買われても」

 言って花束を突き出すと、存外素直に受け取ってくれる。

「それにしてもこれどうしたの? 買ってきたモノじゃなさそうだし」

「育てた」

「そう。……あっ!? 若しかして終わってない管理ってこれの事?」

「そうだよ。今、花畑を作ってる。多分、君に子供が出来て、少し育ったくらいに完成すると思う」

「あら変態発言。それと人の土地で何やってるの?」

「そんな心算では無いけど、それくらいには」

 楽しみにしてるわ、とくすくす笑った。

 そして踵を返す巳代は、振り向き様に言う。

「そうだ。もう一つ頼みがあったのよ。忘れてたわ」

「何?」

 そう言って踵で飛び石を叩く。

「ここで、私が呼んだら直ぐに応じて欲しいの」

 自分は、それなら、と頷いた。

「確かにそれならお互い楽だね」

「その代わり此処は綺麗にしておく。私が居なくなった後も、子供に厳命しておけば良いもの」

 一瞬、不穏な気配がよぎる。

 自分の流れと巳代の流れは違う。勿論その子々孫々にわたるまでそれは同じだ。

 自分は小鳥遊家を見送りながら管理を続けるのだろう。

「……花畑が完成したら、直接呼びに行くよ」

「そんなことしないでも、私が先に行ってやるわよ」

「ははは、聡いからね。…………兎も角、御目出度う」

「有り難う。そろそろ行くわ。主人が待ってるもの」

 御目出度う。

 繰り返し心中で呟きながら、飛び石の道に花を撒いた。



          *


 あぁ思い出した。

 心地好い回想の中で微睡む。

 離れ家から庭に出ると、一面に花が広がっている。

 ネモフィラ。花言葉は「あなたを許す」。遠方に行ってしまった小鳥遊夫妻を許す。

 藤の木。「決して離れない」。此処から離れない、否、自分が離れたくないのだ。

 ライラック。「思い出」「友情」。小鳥遊巳代に。

 他にも花はあるが、花言葉だけで選んだ為に色が散らばってしまっている。

 でもやっと咲き誇った。

 漸くだ。花も紅葉も無い此処を、小鳥遊家のニンゲンに見せられる。

 ニンゲンは時に愚か過ぎるが、小鳥遊家は自分にとっては別だ。

 霊園の方に足を向け、綺麗にされた飛び石を飛んで行く。

 別館を訪ねるも、既に仕事へ行っているのかリンドウは不在だった。

 墓地周辺を彷徨うろついていると、霊園の入口から声が聞こえた。

「──ですから──あのですねえ……」

「帰ってください!」

 決して穏便では無い空気が漂っている。

 覗き見ると、何やら揉め事が勃発しているらしい。

 痩せぎすでスーツが似合っていない銀縁眼鏡の男が、一方的に怒鳴り散らしている。

「大体ねえ、あんたみたいな子供じゃ話にならんのですよ! 保護者は居ないんですか!? 保護者を出しなさい」


「保護者ならここに居りますが。如何しましたか?」


 小鳥遊家直属の貘として、祖先の土地を護るのに理由はいるだろうか。

 リンドウは驚いているのか、こちらに顔を向けたまま固まっている。

「ああ、あんたがこの判らない子の保護者ですか? ちょっと話をさせてもらえませんか。決して悪くない話ですよ」

「黙れ」

 声を低くして威嚇する。

 先ずはこれを此処から遠ざけるのが先決だ。

 威嚇によって怯ませる事に成功したのか、銀縁眼鏡男は後退る。

「祖先の土地だ。そして此処は未来永劫、小鳥遊家が管理する」

「ですが、ここの再開発の為です。土地を広く使えれば住宅も増える、不便なこの坂も整備出来る」

「この土地で百年育ってきた木々を斬り倒すのか」

「いえいえ滅相もございません! 希少生物がいるなら、の話ですが」

「帰りなさい。話にならん」

 あしらってもあしらっても、それは粘着質につきまとう。

 地域の為です、利便性が良くなります、交通の便だってもちろん、地域活性化に貢献出来るかと、その他云々。

 どうせゴルフ場にでもする心算だろう。

 内心を読める貘相手に何を言おうが響かず、余計怒りを募らせるだけだ。

 嗚呼煩い。

 繕った利点のみで言いくるめる言葉は昔から大嫌いだ。

 それに似た言葉で、事象が起きる時はいつも犠牲が増えるから。

「土地を明け渡す気は毛頭無い。そろそろ一時間だ。不退去で訴えるぞ?」

 最後は法を出せば矢張強いのか、銀縁眼鏡男は敷地から一歩下がる。

「判りました。では今回はこれで失礼致します。気が変わればいつでもご連絡ください。それでは」

 声を変えて言い名刺を差し出されるが、受け取った瞬間に破り棄て、塵を投げつけてやった。

 ずっと背後で醜い遣り取りを聞かせてしまったリンドウに向き直り、謝罪を述べる。

「ごめんね」

「いえ……それよりも、何で間に入ってくれたんですか?」

「っそれは──」

 伝えるべきだろうか。

「所でなんだが、お母様は何か、家に関する契約の事を言っていたかい?」

「? 何も」

「そうか……。そうだ、ちょっと待っててくれないかな。先に家に帰っていてもいいから。それと、今日は休む事!」

 早口で捲し立ててしまったが、言いたい事は伝わったらしい。

 数度目を瞬かせて、疲れた足取りで別館へ戻って行った。

 自分は自室から契約書の写しを持って別館へ向かう。


「──つまりだね。愚生は小鳥遊家直属の貘である訳で……」

「解りました」

「でも難しい話は……え? 本当に? 判った?」

 一人で困惑しかけていると、対称的に、リンドウはかなり落ち着いて言う。

「思い出したんです。両親が居なくなる前母が言っていました。森の入口だけはきれいにしておきなさい。困ったらそこでお願いをすること。その為にいつも綺麗にしておきなさい」

 巳代。

 ちゃんと受け継がれているのか。

 契約書の写しを差し出す。

「有り難う。お母様から概ね聞いている通りだよ。もっと詳しく言うなら、愚生は小鳥遊家との契約関係だ。改めて自己紹介をさせてもらうよ」

 椅子から立ち上がり、リンドウの足許に跪(ひざまず)いた。

「手前は──小鳥遊家に仕える貘。にのまえであります。小鳥遊家五代目当主、小鳥遊巳代にこの身に冠する名を与えられ、その恩に報い、契約を満了する為、現六代目当主、小鳥遊りんどうの下に参った次第でございます」

 見上げると、何故かリンドウは顔を赤くしている。

「改めてされると恥ずかしい……」

 そして、自分も耳が暑くなっている事実に気がつくのだった。


 お互いにかなり恥ずかしい思いをした後で、向き直って話し始める。

 一さんは、柄にも無い事をした所為で赤面していた。

「写しを読む限り、本当なんですね……」

「契約した際、体に浮かび上がった家紋があるよ。見る?」

 え、と二言目を言う間もなく、一さんは自らの服を捲りあげた。

 そこには白い肌の上に描かれた、小鳥遊の家紋が確かにあった。

 右の脇腹から肋骨まで広範囲に渡っている。

 円の中に、羽を広げた鳥が黒で塗り潰された家紋。

 いつか聞いた話だと、明治あたりから受け継がれているモノなのだとか。

 一さんは服を直すと、椅子に座って向き直る。

「でまあ、確認が取れた所で本題に戻すよ」

 きっ、と目付きが鋭くなって、ぼくは唾を飲む。

「はい。……さっきのは、ここ数日で交渉を進めようとしている不動産の人です」

 この街一帯と周辺の再開発計画が進んでいて、その為に周辺土地は買い上げられていると、風の噂で聞いた。

「成る程ねえ……。愚生が小鳥遊家と主従関係にある限り、此処は全力で護る事を保障する。……そうでなくとも、には個人的に護りたいモノがあるからね」

 両親が居なくなってからも、あの森へ足を踏み入れたことは無い。

 今こそ向き合う時間なのだろう。

 それにしても、個人的に護りたいモノがある、と言っていたけど何があると言うのか。


 いつも掃除をしている飛び石を越え、獣道を踏み越え草木に分け入ると、奥に一件の家が見えて来る。

 家、と言っても必要最低限の設備しか整っていないらしく、外見からは二部屋しか判らない。

「ここがさっき話した、愚生が借りている離れ屋だ」

「こんなに狭い場所で、その、本当に良いんですか? 手狭なら向こうの家の一番広い部屋を貸しますから……」

 本心から出た言葉だったが、一さんは少しだけ笑っただけで終わらせてしまった。

 傷つけてしまったかもしれない。

 その更に奥、原形を留めない廃屋が目に留まる。

 若しかしてあれが──?

「あれが旧本家。焼けた木材は全部片付けたけど……漆喰なんかはまだ散らばってる所もあるから、足許気を付けて」

「この先に何かあるんですか?」

「愚生の護りたいモノが、其処に」

 危ないから、と手をひかれながら瓦礫の上を進む。

 まだ遺っている大黒柱と漆喰の壁、壺や釜などの日用品。

 それらの瓦礫の中に、花があった。

 花、花、花。赤や藤色、春の色が跡地を占領している。

 花畑には踏み固められた道があり、そこを歩いて一周しながら辺りを眺められた。

 思わず声を漏らす。

「漸く見せられたよ」

「え?」

 誰に、と言葉を紡ごうとしたら、君に、と一さんに言葉を遮られた。

「君に、ご両親に、若しくは双方に。これだけは無念だけど、リンドウ。君に見せられて本当に良かった」

 そう言って安堵した様に息を吐く。

 此処の花達は、本当は誰に魅せたかったんだろう。

「君も居なくなったら、どうしようかと思い始めていたよ」

「それなら、良かったです」

 土地を管理する為と言いつつ、まるで自分の為みたいだ。

 一さんは藤の木の影に座る様に促し、ぼくは素直に従う。

 一さんもその隣に腰を下ろした。

 懐かしいモノでも見る様な、酷く穏やかな目で自慢の庭を眺めるのだった。


         *


「や、やあ」

 酷く怯えた様子の男が、飛び石の場所で自分を呼んだ。

 巳代相手なら高過ぎる背を屈めるところだが、敢えて見下ろす形で向かい合う。

 この男は、小鳥遊巳代の夫。つまりは、現小鳥遊家当主だ。

 婿養子の小鳥遊長たかなしつかさは、旧姓を綾辻と言い、卸問屋の五男坊であった。

 巳代曰く、その辺に余っていたから連れて来た、と言う。

 彼女の目利きは買っているが、この小鳥遊長が家を背負う器には見えない。

 事実上は巳代が当主の様なものだ。

 小鳥遊長は、仕立ては良いが年季の入ったスーツに身を包み、わざわざ革靴まで履いて黒髪を油っこく整えている。

 一抱えもある酒瓶を巳代よりも低い体躯に抱え、丸眼鏡の奥に怯えの色を抱えていた。

「……今晩は、どう言ったご用件で? 現当主」

 生来からの怖がりらしく話し掛けただけでも、ひっ、と甲高い声を漏らす。

「あー……えっと、今晩は、だね。ははは……。今日は改めて挨拶をする為に来ました」

「判ってるよ」

「巳代から話は聞いています。未だに貴方の──一殿の存在は信じられませんが、今目の前にしているなら、本当なのでしょう」

「愚生は当主殿の様な恐怖心等から生まれた不安定実体だ。視える視えない、信じる信じないはどうぞご自由に……」

 冷たくあしらってやると、あはは、と後ろ頭を掻いた。

 焼けた本家跡まで案内し、藤の木の下に腰を下ろす。

 横に座る様促すと、律儀にも正座で間隔を空けて座った。

 小鳥遊長は酒瓶を開け、二人分の酒杯に並々と酒を注ぐ。

「すまないね。高級な酒では無いけれど……」

「構わないさ」

 月に酒杯を傾け、一気にあおった。

 酒杯をおろすと、直ぐ様追加の酒が注がれる。

 中々良い酒だった。

 今度は香りを楽しみながら酒杯を舐める。

 お互いに一杯飲むと、小鳥遊長から話は切り出された。

「……この度、妻、小鳥遊巳代によって小鳥遊家五代目当主に任命されました。小鳥遊長と申します。今回は小鳥遊家に仕える貘、一殿にご挨拶を申し上げる為に参上しました」

 自分は口を挟まずに黙って首を縦に振る。

「ご挨拶を申し上げると共に、今後の円滑なお付き合いを祈って」

 そう言い酒杯を眼前に掲げ、乾杯をした。

「有り難う、小鳥遊長殿。これからもお付き合いを宜しくお願い致します」

「こちらこそ」

 あれだけ怯えていた癖に、ここぞと言う時はしっかりしている。

 五男坊と言えど、矢張立場と場面をわきまえる力はあるのか。

 少し心外だったので感心していると、吐いた。


「や~……すみません」

「うん。大丈夫? なんなら巳代さん呼んで来るけどさ」

 項垂れている男の背中をさする。

「ああそれは駄目です! 彼女に色々と心配をかけたくは無いので……」

 この様子だと、普段から彼女に何か言われる様な失敗や失言をしてしまっているのだろう。

 心中お察しする。

「巳代さんは聡いからなあ……」

「あ、判ります?」

「あっはい」

 ふとした共通点を皮切りに、そこから小鳥遊長の嫁自慢大会が開催された。

 兎に角美人な事。強気な所がまた良い、その裏側でごく稀に見せる弱い所。一家を背負う女性のの細腕。何にでも寛容である点。来る者は拒まず去る者は追わない。行動力の化身。計算高い。有言実行派だ云々。

 その他諸々の、思い付く限り彼女の良点を挙げていく。

「僕なんかが本当に巳代さんに見合うのかって何回も聞いたんですよ? なのに、余ってるから貰ってあげるとか言うんですよ? 格好いい、いや、駄目だこれ言い表せない」

 適当に相槌を打ちながら、彼女への重いとも言える愛だと思った。

 確りしていると思えば隙だらけ。人を好いて、幸福の籠は常に飽和している様な男だ。

 先の大戦で何もかも焼けたと言うのに、飛び抜けに明るく快活で、何を言われてもよく笑っている。

 笑いの沸点が低いのだろうが、それでも快活な男に、彼女が惹かれた理由が解った気がする。


          *


 春の風が頬を撫でる。

 一さんの目が開く。

 意を決した様に立ち上がり、ぼくにこう言った。

「良いこと思い付いた」


 翌日、再三に渡りヒトが来た。

 交渉内容は同じだけど、今回は一さんも一緒なので中々心強い。

「何度も言いますが、此処を売るつもりは更々ありません。お引き取り願います」

 今日は出来るだけ粘って、この会話の一切を録音する。

 それが証拠になるだろうから、と一さんは言っていた。

 また昨日と同じ様な文句を聞いて、一時間で切り上げさせて、昨日と同じ様に不退去で帰らせる。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「いえ。護ってくれるならこれくらい安いですから」

「逞しいなあ……」


「ここってネット環境あるの?」

 そう聞かれたものの、ネット環境は一部の場所にしかないので、機械室に案内する。

「すみません、ここにしか無くて……」

「まあ十分だよ。それよりねえ見てて、居間からあの音声は公開するから」

 それで何をするのか、と訊くと、ちょっとした社会運動、と答えて誤魔化された。

 霊園に関する事務作業を一手に担っている機械達とその配線に埋もれて、パソコンの画面から溢れる青い光に、秀麗な顔が照らされている。

 現代だと、彼岸の住人も機器を使いこなす事を知った。


 それから四日経つと、あの音声は反響に反響を呼んで、かなりの話題になったらしい。

 その間も交渉に来ていたけど、その時に近所のヒトが間に割って入る事もあった。

 あの日以来、用事があるから、と言って一さんは姿を見せない。

 どこで何をしているのかも判らない。

 自分が護ると約束した癖に。

 ぼくはぼくで、相変わらず仕事をこなしたり、時折の訪問客の応対をしていた。

 あの音声を聞いたヒト達が次第に集まり、豊嶋園芸店のヒト達を初めとした様々なヒトが応援してくれる様にもなっている。

 そのおかげか、いつも交渉に来るヒトは近寄り難いらしい。

 三日目に入って来なくなった。

 その日、いつもの様にお弁当を買いに糸猫庵へ向かう。

 一つ注文して、一番端のカウンター席に座って待つ。一つ間隔を空けて、仕事の合間を縫った馬鹿ましかさんが座っていた。

 もう縦長の窓から舞い散る桜は見えない。

「もう全て散ってしまったんですよ」

「ちょっと残念ですけど、毎年の事ですし……」

「まあな。でもさあ、こいつ酷いんだよ。仕事終わらせてようやっと此方に来られたって言うのによお……」

「花弁掃除の対価として無償で飯食わせてるんだから良いでしょう」

 どうやらぼくがここに来る直前まで、面の掃除を任されていたらしかった。

 馬鹿さんはそれで疲弊しているのか、かなりの

量の牛丼を食べている。

 それもよく噛んでいない。

 喉に詰まります、止めようとしたけど、何となく大丈夫そうな気がして止めた。

 そして食事中も糸さんに反論したりからかったらり、好きな事を話したりと、俗世の流れから遠く離れた存在に思える。

 ある意味自由気ままで、ヒトに束縛されず、自分のやりたい様に、成りたい様に、言いたい様に、生きたい様に。

 それを咎めず、また誰からも咎められない、理想とも言える存在。

 ぼくはヒトが言った事に一々敏感で、いつもヒトの言う事が気になって、口を開けばヒトの言葉で、嫌になる。

 お弁当が出来て、熱い包みを手渡される。

 今日は何が入っているのかな。

 その帰り道の事だった。

 痩せぎすで、銀縁眼鏡の男性が停車した車から降りる。

 そのヒトはこちらに気付くと、印象の良い笑みを浮かべて歩み寄って来た。

 普段の仕事でも使っているであろうその笑顔が、ぼくには危険信号だった。

 逃げないと捕まる。

 ただでさえヒトが押し掛けて近寄る事すら出来ないから、今どれ程あのヒトが苛立っているかも判らない。

 判らないからこその恐怖だ。

 踵を返して坂を下る。

 後方から踵を鳴らすカツカツ言う音が近づいて来る。

 足を早めれば足音も早くなり、それが余計に怖かった。

 こんな時こそ一さんが必要なのに。

 一さんでなくとも保護者の様な誰かが居てくれれば──

「不退去の次はストーカーですか?」

 聞き慣れた声がして、前を見ると、そこに一さんが立っていた。

 一気に坂を駆け下りて一さんの背後に隠れる。

 背後から顔を出して様子を伺うと、あのヒトは一さんが表れたことで眉間に皺を作った。

 そして繕った様な挨拶を述べて、車に飛び乗ってその場から去ってしまった。

「……ありがとうございます」

「大丈夫だった? ……こんな時に言うべきでは無いことは判っているけど、こちらこそありがとう。おかげで今のも証拠として残せたよ」

 逞しいなあ……。


 その後モザイクをかけた映像を流し、更に反響を呼んだ。

 あのヒトは今度こそ来なくなって、一時の平和が訪れる。

 居間でお茶を飲みながらお菓子を食べるくらいの平和だ。

「ところで一さんは此処に居ない間、一体何をしていたんですか?」

 ふと気にかかった事を訊くと、今度は答えてくれた。

「んー……。ざっくり言うとね、洗脳」

「洗脳」

「洗脳って言う程大した事ではないけどね。ちょっとしたインフルエンサーの無意識をいじった」

「十分洗脳ですね」

 苦笑され、はっと事の重大さに気付く。

「大丈夫なんですか?」

「良い方向に向かう様にしか操作してないから大丈夫。それでも苦労したよ……」

「良い方向、ですか?」

「うん。開発を進めるとこの街の景観を壊す畏れがある、だから署名を集めて開発を止めさせようって呼び掛ける様に」

 ああ成る程。

 それでこの街共々土地を護る計画なのか。

「確かに……自分の土地を護る為ならヒトは動きませんね」

「そう言うこと」

 お母さん。

 お母さんはあの時、凄く強い協力者を引き留めていたみたいです。


 本当に小鳥遊の家に仕えていて飽きる事は無い。

 歩幅を合わせられない事が何より辛くもあるが、同じ時を同じ道で旅をしているのだから、それに代えられるモノは無いのだ。

 いつか仲間内で、馬鹿げていると揶揄された事はあった。

 ならば自分は自分の思う様に、生きたい様に、成りたい様に歩んで行く。それだけだ。

 今目の前で、穏やかな表情でお茶をしている子供を見ていて、心底思う。

 分け合って食べるお茶うけのみたらし団子は、巳代がよく作ってくれたモノに似ていた。

 それにしても疲れた。

 途中からインフルエンサーの意見や価値観を変えぬ様気をはりつめていたから、今は酷く疲弊が来ている状態である。

 こう言う時ヒトは、栄養を摂って寝れば直ぐに回復するだろう、と言う。

 だがそれで前回、小鳥遊夫妻を看取れなかったから眠るのが怖い。

 あの時巳代の言葉に従わなければ良かったのに。

 おかげで一時はあの花畑も荒れ放題になってしまったし、土地も奪われかけるしで後悔した。

 そんな中でリンドウを見つけられて良かったと心から思う。

 小鳥遊家はまだ続くのだと安堵したものだ。

 束の間の休息は、外の喧騒と共に過ぎ去って行く。


 リンドウにせがまれて、外ではどうなっているのか見物しに行く。

 見物と言っても、高みの見物だ。

 署名活動の盛んな場所へ行き、自分とリンドウの姿を隠す。

 大声を張上げて万年筆と署名紙を掲げる者、興味本位で覗く者、流されて署名する者、善意を借りて動き流す者、自覚の不安定な者。

 今の二段坂の街を見下ろせば、ニンゲンの醜い様をありありと眺める事が出来た。

 流れ、流されまた流し、ニンゲンは絶えず河の様に模様を変える。

「万華鏡みたいですね」

 そうリンドウは例えたが、自分には汚泥に浮かぶ油にしか見えないのだ。

 目が視えない事を免罪符にして思い込む。

 リンドウの見える景色はさぞや美しいのだろう。

「錦眼鏡とは言い得て妙だね」

「錦眼鏡……? うーんと、万華鏡はちょっと角度を変えると簡単に模様が変わりますよね」

「そうだね」

「だからヒトも同じなんだなって。だって、ちょっと誰かが力を加えるだけで、直ぐに皆意見を変えちゃうんですよ?」

 その言い草からして、今まで仕事を続ける上で理不尽に否定される事でもあったのか。

 署名活動もヒトがはけてきた頃に、リンドウは用事を思い出したらしく、挨拶を述べて早々に帰宅してしまった。

 気付けば日が有頂点に昇っている。

 もう昼時かと重い腰を上げ、ふらふらとした足取りで自分も帰る。

 帰る場所がある。それだけでいい。

 欠伸あくびを一つ。

 小鳥遊の家への道程みちのりは坂を上ったり下ったりの繰返しだが、それを壊す気も無い。

 リンドウは勿論、巳代も、この街の誰しも通ったであろう道だ。

 霊園を取り囲む石塀の裏口から入る。ここが一番森へ行くのに都合が良い。

 リンドウは本日休日である為、自宅で過ごしている筈だ。

 寄って行こう、と考えたが手土産の一つも持っていない。

 一度自室に戻る事にした。

 森へ続く飛び石を、気紛れに一つ一つ踏破する。

 昔、リンドウがここで石を飛んで進む独り遊びをしていらのを思い出した。

 ふと、本家の方から幾人かの声が聴こえる事に気が付いた。

 不法侵入者かと身構え、如何にして撃退するかを想像する。

 まず一つ大声。

「誰だ!」

 声を張り上げて前に進むと、前方に人影が一つ、肩を強張らせた。

 その人影はリンドウだった。

「? ……こんな所で何を」

「っ」

 リンドウの蚊の鳴く様なか細い声で、ふと我にかえる。

「ご免、ご免。本当に……」

 自責の念に苛まれる、とは正にこの事を言うのだろう。

 まるで後悔で身体中が満たされている様だ。

 喉が渇き、思考回路が警鐘を鳴らす。

 次に来る言葉を覚悟した。

「大丈夫。大丈夫ですから、落ち着いて」

 次の瞬間、屈んだ猫背ごと覆う様に抱きしめられる。

 リンドウに大音声を浴びせ怯えさせたと言う事実に混乱した頭では、何が起こっているか判別がつかなった。

「ちょっと深呼吸をしましょう。それで落ち着くと思います」

 言われるがままに息を吐いて吸う。それを何度か繰返し、漸く頭の整理が完了した。

 顔を上げると、笑顔を浮かべたリンドウがそこに膝をついている。

 膝小僧に小石が食い込んでいた為、払って土ごと落とした。

「……本当にお世話になります」

「良いんですよ。契約者を気遣うのも役目ですから」

「それにしても何故これをしようと?」

「契約関連書類の保管棚を整理していたら、色々な注意事項が書かれた控え書きがあったんですよ。多分お母さんが遺したモノだと思います」

 巳代。君は何て事をしてくれたんだ。

 羞恥で頭が割れる様に痛む。

 赤くなった顔を隠すついでに蹲ると、本気で心配されたので、これ以降リンドウを脅す真似はしないと誓った。

 ふと、最初の疑問が遥か彼方に吹っ飛んでしまったのを思い出して、口を開く。

「所で話は変わるんだけど、今日はこんな奥地で何を? 失せ物でも?」

 リンドウは首を横に振った。

 ならば散歩か、と訊けばまた首を横に振る。

 その調子で質問を続けると、焦れた様に右手を掴まれた。

「ちょっと来て欲しいんです」

 自分は引き摺られながら、そのまま奥へと進んで行く。

 今や倒壊が進んで手のつけられない本家の方に、用事は無い筈なのに。

 自分が植えた花の香りが鼻先を掠める。

「今日はお花見ですから」

 何故、と口を開いた矢先に、廃墟では有り得ない賑かな声が自分の声を遮った。

 花以外にも、リンドウ行着けの店──糸猫庵──の常連客と店主の匂いもする。

 嗚呼成る程。

 その上酒気もあるから、恐らく野干でも酔っているのだろう。

 やけに騒々しい訳だ。

「……花見は良いのだけど、何故、今日に?」

「今日が、お母さんと一さんが契約した日、だからです。最もお母さんは一さんの誕生日って言っていましたけど」

「愚生に誕生日は無いが?」

「ええっと……お母さん曰く、一さんを一と名付けた日だから、だそうです」

「? 成る程」

 矢張ヒトの考える事はいまいちピンと来ない。

 勝手に記念を作って、忘れられたら怒って、死ぬまでに記憶を遺そうとする。

 同じ時間を歩んでいるが時間が違う彼等のとって、それがどんなに有意義で重要な事なのか、自分には解らないのだ。

 でも、小鳥遊家との記録を遺すのは有意義かもしれない。

 私とその周りの人を憶えていて、と言う巳代の言葉に聞こえる。

 リンドウが先に走り出して、それを追い掛けた。

 料理の匂いが鼻を掠める。

「こんにちは。お邪魔しております」

 糸猫庵店主・糸の丁寧な挨拶に迎えられた。

 地面には花を避けて茣蓙を敷いてあり、足を踏入れると座蒲団を一枚勧められる。

 素直に腰を下ろせば、最初に小鉢を差し出された。

 有り難う、と述べて箸に手を伸ばす。

 菜の花の御浸し。

 醤油をたらし口に含めば、後から花の薫りが追い掛ける。

 肩を並べながら食べるのは何時ぶりだったか。

 リンドウはあっという間に食べ終えてしまって、自分も焦って一口で終わらせてしまった。

「小鳥遊さん。本日はこの様な機会を与えていただき、本当に有り難う御座います」

「いいんですよ。以前お花見をしたいって言っていましたから、今日は今までのお返しのつもりです」

 此処はリンドウが一日だけ貸し出しのだと言う。

 その次は筍を使った肴が出される。糸は筍の照焼と言った。

「お酒は何にしますかねえ……?」

 悩み始めた糸に、自分は懐からリンドウの折紙を取り出して手渡す。

「これで、味醂みりんをお願いします」

「? みりんって酒類なんですか?」

「ん。調理用とは異なるけど、甘味が強くて、どちらかと言えばご婦人向きなんだよね……」

「いいんじゃないですか? その味が好きなんですよね」

 巳代に、月見酒にと付き合わされる度に飲んだものだから。

 入手が困難になった時は調理用を持ち出しては飲んでいた。

 猪口ちょこに味醂が注がれる。

 筍をつまんで味醂で流し込むと、甘塩っぱい味とほんのり醤油の風味が広がる。

 添えられた胡瓜の胡麻油和えで口を直して、まった筍をつまんだ。

 味醂をちびちびと味わい、花を愛で、息を吐く。

 酔った野干が二口女に締め上げられている。

 頭部に角の生えた獄卒は、先程から酒を借りて糸にちょっかいをかけては調理具で頭を叩かれていた。

 騒々しい平和を実感しながら、リンドウはこんな御仁達に囲まれているのか、と少し心配が湧く。

 心配のし過ぎだとは言われたが、それで巳代の病死に鈍感だったのだから。

 今度こそは隣を歩かせて欲しい。

 今隣で子供らしい表情を浮かべているリンドウも、いずれ年輪を重ねて大人になる。恋人が出来て家族を想い年老いて行く。

 最後の時は黄泉比良坂の旅路までもついて行きたいのだ。

 自分はまた森に引き込もって、また小鳥遊家と歩く。

 それが続けば、不死ではないヒトとも居られると信じていたい。

 つくづく愚かな高望みだと苦笑する。

 どうか、これからも。


          *


 本日の料理

・オムライス

・薬味卵かけご飯

・じゃが芋と豚肉のそぼろ煮

・懐かしお味噌汁

・桜餡蜜

・みたらし団子

・菜の花の御浸し

・筍の照焼

・胡瓜の胡麻油和え

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