九譚ノ壱 貘

 冷え込みの激しい夕方の糸猫庵では、端から見ても、誰から見ても奇妙な客が卓についていた。

 ぼくは二つ離れた席で、その人を横目で観察していた。

 空色の丸い猫目は伏せられている。それにかかる長く背中まで届く真っ黒な髪は細く繊細で、長い睫毛も同じ色をしていた。

 肌はまるで向こうが透き通る硝子の様に儚い。

 衣服の袖から覗く手首は華奢で細過ぎる。

 寸法の大きすぎる白いゆったりとした服から、細い腕や首が見え隠れしている。

 そしてその細い体躯のどこに入るのかと言う程、大量の食物を食べ続けていた。

 卓上のほとんどを占めているお皿は、ざっと数えて三十枚。それら全て大盛の筈だ。

 厨房と卓を往き来する糸さんが目立っている。

 店内に残る人影は少ないが、暗黙の了解に包まれて普段通りに振る舞っていた。

 しばらくして満足したのか、ご馳走様でした、と挨拶と交換物を置いて店を出て行った。

 厨房で大量の皿を片付ける糸さんは、いつにもまして疲れて見える。

「糸さん……大丈夫ですか?」

「……? え? ああ、はい」

 駄目だ。早く何とかしないと。

「小鳥遊くんも凄いよ~。あの客を前にして、顔色一つ変えずに居られるとかさ」

 いつの間に移動したのか、鉄穴さんが酒杯を片手に隣の席へ腰を下ろしていた。

 強い酒気に顔をしかめる。

「今のヒト……最近来たばかりですか?」

 見た限り、ここ一週間以内に初めて来店したらしい。

「そうだね。つい昨日来て、また今日も来てるんだよ。でも昨日はたったの三皿注文しただけ」

「それがなんで十倍にもなるんですか!?」

「さあねえ……」

 そう言って肩を竦める。

「完全に油断しましたよ……」

 そこに、片付けを終えてカウンターに体重を預けている糸さんが口を挟んだ。

「終わった? お疲れ」

「お疲れ様です」

「大丈夫か……と言いたいが、これは無理じゃな」

 言って、春秋ひととせさんが糸さんに羽織を掛ける。糸さんは一つ息を吐いた。

「ほんの暫くの間で良いですから、追加注文は控えていただけませんか……」

「いいとも。そのまま今日は休んでしまえ」

「嫌ですよ。あと四時間は回さないと……」

「若僧はだあっとれ」

「はい」

 そしてそのままカウンターに突っ伏してしまう。

 普段あれだけ長い時間、お店を営業している糸さんの体力を削るなんて、少し信じられない。

 ぼくは春秋ひととせさんの袖を軽く引いた。

「? どうした坊主」

「春秋さんは検討がつきますか? その……さっきのヒトに」

 尋ねると、少し首を捻っていた。

「…………断言は出来んが、恐らく貘」

「ばく?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。

 それがどうなってあの大喰らいに繋がると言うのか。

「普段はヒト夢を喰って生きる奴等じゃが、現代になって、棲みついている地域の情報統制の役も担っておる。終戦後からじゃ」

「まあま。またあいつが来るのを待って捕まえればいいじゃん」

「物騒な発想はやめい」


          *


 その翌日、そのヒトは糸猫庵を訪問した。

 昨日とは打って変わってカウンター席に座り、ほんの数品注文しただけで、黙々と時間をかけて食べている。

 ぼくはお昼のお弁当の注文をしに、丁度お店に来た所だった。

 ぼくはいつもの様にお弁当を注文し、待つ間も暇なので折紙を折って待つ。

「綺麗ですね」

 すると不意に声が投げ掛けられて、声のした方を向くと、そのヒトが静かに微笑んでいた。

「……要ります?」

 今作っているのは立体の桜だ。

 完成間近のそれをかざすと、そのヒトは金色の目を輝かせる。

「いいのですか? 苦心して作成したモノでしょう。それにかなりの価値があると見込んでいますが」

 ぼくは黙って首を振り、手を動かし続ける。

 陽光が射し込む中で、そのヒトは黙ってぼくの手許をただ見詰めていた。

 ここに迷い混んだ当初は、そんなに価値あるモノかと思っていた折紙だけど、今となってはその価値を高める為に毎日練習する始末だ。

「出来ました」

 完成した作品を差し出す。

 そのヒトはそれを受け取り、丁寧なお礼を告げた。

 そのヒトが食事を終え、お店を出ると同時にぼくのお弁当も出来て、受け取って帰る。


 お昼を食べたらすぐに仕事を再開。

 午後からは墓石のチェックと、時間が余れば霊園入り口にある花壇の整備だ。

 ここの霊園は小さいから、巡回するのは比較的楽だ。

 墓前に供えられている花を回収する。

 生物は定期的に処分しないと腐ってしまう。

 最近では遺族も忙しいのか、墓前に花を手向けるヒトは少なくなってしまった。

 花瓶の水を捨て、枯れた花束を荷車に載せ、裏手の処理場に向かう。

 墓地から処理場までは遠く、霊園の入り口を通って行かなければならない。

 処理場までもう少しの所まで足を運んだ、その時だった。

「ちょっと! 何してんのよあんた!」

「はっ、はい!」

 突然の怒号に畏縮してしまい、声が裏返る。

 見れば、霊園の入り口にひとりの年配女性が立っていた。

 その人はつかつかと靴の踵を鳴らしながらこちらに近づくと、いきなり荷車をひっくり返した。

「あんたねえ! 何で花を棄ててんのよ! 遺族の想いよ? それを、何で!?」

 物凄い剣幕で怒鳴られ、墓地の清閑は失われた。

 鼻を掴める程の至近距離で怒鳴り、指をし、時に枯れた花を投げる。

「はあ全くもう……ここは機械が管理してるって聞いたから息子の骨を預けたのに、信頼出来ないわよ。今すぐ契約を取り消して! 勿論違約金とかは無し! そっちの負担よ」

 赤く塗られた長い爪で指され、契約解除を求めた。

 機械が管理しているのは事務作業と経営だ。

 確かにこの人の言うことは一理ある。遺族の気持ちを棄てるのはもっての他である。

「……判りました。事務所にお通ししますので、そこで書類へ記入をお願いします」

「早くしてちょうだい? それと、この事は他の契約者達にも伝えますからね。知人の何人かがここと契約していた筈ですから」

 倒された荷車もそのままに、霊園を抜け、応接間しかないささやかな事務所へ足を運んだ。

 契約解除を終えたあとは、墓地の掃き掃除をするだけで終わらせてしまった。

 結局会話が長引いてしまい、夕方近くまで掛かって、ようやく帰ってもらえたのである。

 これから契約解除は増えるだろう。

 悪評も、口伝くでんは勿論そこから拡散されてしまう。

 もう慰めてくれるぼくの影はいない。

 夕食もそこそこに、いつもよりお風呂に長く入って、就寝前の読書も気が進まないのですぐ蒲団に入った。

 冷え込みの酷い夜は蒲団まで冷える。暖まるのも遅い。

 蒲団を頭まで被り、ようやく心地よい睡眠が訪れた。


          *


 翌日から、契約解除の連絡で黒電話がひっきりなしに鳴り続けた。

 三日間続いて、合計十七人分の墓が別に移される事に決まった。

 それが終わった後も悪評は続く。構成された情報網からは罵詈雑言が届いた。

 それからは嫌がらせともとれる大量の花束が送られ、中には着払いもあった。花言葉にも悪意のこめられたモノばかりで。

 生物である以上いずれ枯れてしまう。処分しなければ駄目になってしまう。

 毎日のように送られる誹謗中傷の手紙。同封された釘と剃刀。ここ数年鳴らなかった黒電話が、罵詈雑言を届ける為に鳴る。

 しばらくは糸猫庵に行けそうもない。日々対応で手一杯なのだ。

 終わらない誇張と脚色。果ては新聞の取材までが押し掛ける。

 迂闊に外へ出れば好奇の目に晒され、とても仕事どころではない。

 疲れた。

 このままじゃ花壇の整備も出来ないし、霊園は荒れ放題になってしまう。

 辛い時こそ休めとは言うが、最近全く眠れていない。

 押し掛けるヒトによって踏み荒らされた芝生。

 放置された花束。

 今日は雨だからか、ヒトは全く来ていない。だけど厳しい雨音が怒号に聞こえる。

 せめてもの抵抗に蒲団へ逃げ込んで音を遮断するも、逃げられなかった。


          *


 自分の庭を歩いていく。

 特にこれと言ったあてはない。

 海月クラゲの様に、鳥の様に自由気まま、とは言うが、実際彼等は必死なのだ。

 自分も貘の名を冠する以上、今宵も夢を回収するに励むのだ。

 自分の名前はにのまえ。下の名前は無い。

 何かにつけて世話を焼いてくれた御仁が、名付親だった事は覚えている。

 自分の庭と言ってもほんのささやかな野生の森で、寝る所も放棄されたあばら家であった。

 だが幸いにも必要最低限の物品は揃っているので、十分に寝泊り出来た。

 それなりの貯蓄もあるが、恐らくヒトを生活させる事は出来ないだろう。

 森を抜けると、眼下に二段坂の街が広がり、遥か上空には化け鯨が悠々とおよいでいる。

 あれは、きっとの上に立つ何かであるが、神ではない。

 絶対的な存在だが、独裁者でも、支配者でもない。

 ヒトの感情を聴き、万物の事象を静観し記憶する証人だ。

 春先の冷え込みが酷い夜は、冬とは一線を画した空気がある。

 あくまで主観だが、春は群青、冬は無色透明、と言った雰囲気が漂っているのだ。

 季節特有の空気の中、自分は重力に体を預けて自由落下し、悪夢を嗅ぎ付ける。

 山肌に沿って造られた街の中腹、行着いた場所は、そこにたった一つ寂しく存在する霊園だった。

 いつか、自分の嗅覚は特殊過ぎると誰かに言われた事がある。

 恐らく、皮肉の意で言ったのだ。事実、自分の目はあまり視えていない。

 顔全体に、目の細かい簾か薄布でも被せられた様に視えているのだ。

 そう言った事情から身体機能の一部が極端に特化しても、なんら可笑しくはないと言うのに。

 霊園に足を踏入れる。僅に死臭がしたが、どこからか風に運ばれる花の香りに掻き消された。

 相当ここの手入れに余念の無い主人なのだろう。

 しかし悲しきかな。現在では何らかの事情でか、それが薄れてしまっていた。

 霊園を突っ切ると、塀に囲まれた一軒家があるらしい。其処そこの主人は、善くない夢に囲まれているのか。

 土足では立つ瀬がないので、下駄を放って

 そう。視力も無ければ実態も不安定なのだ。

 夢の様、とは言うが、元来私達は何処からともなく現れては消えることの繰り返しである。

 ヒトの虚妄虚言から生まれた、不安定実体だ。

 さりとて、自分はこの特性の恩恵にあずかり、悪夢の回収行為を円滑に行っている。

 僅か聴こえる寝息を頼りに宵闇を進むと、手先に扉の取手が当たった。

 どうやら引戸らしい。

 これもまた都合よく扉をすり抜けると、随分と小さな部屋に出た。

 外に接している壁は細長の窓が嵌められているが、北向であまり光は入って来ない。

 厚い障子があり、室内に光を入れない為の設計をしている。

 自分の腰程の高さの本棚──自分の身長は七尺足らずだ──には手垢にまみれる程読み込まれた本があるらしい。匂いで判る。

 押入れか、広い仏壇の為の空間を改造した寝床があり、そこに夢の主人がいた。

 枕に半分顔をうずめる様にして寝息を立てている。

 だが今現在囚われている夢は最悪だ。

 よってたかって罵詈雑言を吐かれ、石を投げられ、小汚ない好奇の目に晒されている。

 それは勢いを増し、夢の主人は輪の中心でうずくまっている。終わりの見えない泥に足を獲られ、動けないでいた。

 改めて夢の主人をよく見、匂いを嗅ぐと、以前飯屋で逢った人物であった。

 高級な折紙をくれた女の子である。

 私は涙の滲んだその目許に手をかざし、夢を回収した。

 彼女を苦しめている原因は、ここ最近騒いでいたニンゲン共の所為だろう。

 個の贔屓はしない主義だが、この子には義理がある。

 少しでも手を貸そうと思うのは、矢張ニンゲン臭いと批難されるか。

 自分は家から出、他所へ赴いた。


          *


 日々の苦情が一層酷くなったそのしばらく後、唐突に、それはぴたりと止んだ。

 凪いだ海面の様、とはまさにこの事を言うのだろう。

 久し振りによく眠れたのか、疲れも綺麗にとれていた。

 家の外へ出ても押し掛けるヒトは居らず、そこは普段の霊園だった。

 しかし、踏み荒れた芝生や壊れた花壇が元通りになっている事は無く、以前まで保っていた美しい庭は失われている。

「でもまだ時間はある……」

 ぼくにはまだまだ費やせる時間がある。

 墓が荒らされても、ぼくの居場所が壊されようとも、時間があれば復興は出来るのだ。

 納屋へ走り出す。

 一通りの園芸道具と、花の株と種、荷車に煉瓦を載せて、花壇へ向かう。

 枯れた花を引っこ抜いて、土を入れ替えた。

 壊れた囲いは煉瓦で新しい補修して、花を植えた。

 芝生を育てる為に園芸店に足を運ぼうと、そこで初めて霊園を出る。

「すみませーん」

 ふと見ると、軽トラックが坂道を駆け上って来た。

 足を止めると、車は真っ直ぐぼくの所まで来て、霊園の入口に停まった。

 運転席から、肌の浅黒い、四十代半ばに見える男の人が顔を覗かせた。

「あ~すいませんねえ。小鳥遊霊園てえのはここかなあ?」

「は、はい!」

 答えると、男性は顔中にシワを作って、にかっと笑う。そしてトラックから降りると、作業着の胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、ぼくに手渡した。

「良かった良かった。わしね、こう言う者です」

 名刺には『豊嶋園芸店代表 豊嶋努(とよしまつとむ)』と印字がある。

 何と馴染みの園芸店だった。

 でも代表を名乗るこの人の事は知らないし、そもそも何故ここまで訪問しに来た理由も判らない。

「えっと……遠い所まで、お疲れ様です。何のご用でしょう、か……?」

 普段お店でお世話になっているのは佐々城さんだ。いきなりそれ以上の立場の人が来られても困る。

 豊嶋さんは後ろ頭を掻きながら言った。

「最近……その、大変な目に遭ってるだろ? だからな、必要そうな花の株とか持って来たんだ。その他修理器具もある」

「本当ですか!?」

 豊嶋さんは力強く頷く。

「今までの注文履歴から予測して色々な。それともあれか? 佐々城の奴も連れて来るぞ」

「……ありがとうございます! その、ここで立話もあれなので、一旦事務所でお話をさせて下さい」


 豊嶋さんを事務所に通し、必要なモノを注文して、翌日には届けて貰った。

 そこまでは良かったのだが、その翌日もやって来て、芝の株を置いていくだとか、管理の方法を教えてくれたりと、よく面倒を見てくれる。

 主に豊嶋さんが中心となって、佐々城さんはそれに積極的に参加してくれた。

 他にも花壇の修理を手伝ってくれたり、ついでに、と言いながら、老朽化で外れかけていた看板にも釘を打ってくれる。

 それより後は、豊嶋さんが一連の騒ぎを悲劇として広めたらしく、老朽化の進んだ建物の修理費と霊園の運営費とを、募金を募ってくれた。

 まるでパンドラの箱を開けた日々だった。

 事が落ち着いた頃には、既に月の中旬を過ぎようとしていた。

 久し振りに糸猫庵を足を向けたのは、朝起きて、朝食を食べようと思った時の事である。

 二段坂を下って行くと、ふと目の前に桜が舞う。

 見上げると、石垣の上に柳の様にしだれ桜が満開に咲いていた。

 満開に咲いたと言うことは、もうすぐ散ってしまうんだろう。何となくそれを考えてはいけない気がした。

 糸猫庵に辿り着くその寸前。

「その鳥捕まえて下さい!」

 進行方向から大声が響く。

 見ると、こちらに飛んでくる鳥を追い掛けている様だった。

 ぼくは鳥に狙いを定め、道路の真ん中に出て待ち構える。

 すぐ目の前まで来た時、それが文鳥の手鞠さんである事を知った。

 そして、手鞠さんはぼくの広げた手の中に衝突した。

「手鞠さん!?」

 両手を開くと、手鞠さんはバサバサと羽ばたきをして体勢を整える。

「あら坊やじゃないの。随分と久しいことねえ」

 掌で明るく言う手鞠さんと、坂を走って来る糸さんを待った。

 糸さんがここまで辿り着くと、肩で息をしながら手鞠さんを受け取る。

「はあ……はあ。小鳥遊さん、ありがとう、ございます…………」

「……ええっと。大丈夫です、か?」

「何とか……」

「情けないわね坊や」

「だから坊や呼びはやめてくれって何度も」

「ふふっ。坊や、坊や、坊や」

 手鞠さんが糸さんをからかっている間、ぼくは会話に入る隙も無いので、取りあえず手鞠さんが再び逃げない様に両手で囲むだけだ。

「野良猫の前に放り出すよ、と言いたい所だけど……まあこいさんが怒るからねえ」

「私よりこいさんが大事だって言うの? まあ生意気に育ったわねえ」

「そりゃ手鞠よりは恩人だもん。ああ、小鳥遊さん。この籠に入れて貰えませんか?」

「あっ、はい!」

 手鞠さんを籠に入れると、糸さんと連れだってお店へと足を運ぶ。

「今日は花見営業なんですよ」

「お花見ですか?」

 歩きながら話す糸さんの口許は緩んでいた。

「はい。こんな風に桜の散る日の昼間は窓から花を楽しみ、夜間の営業中は月見もしながら」

 何それ凄く楽しそう。

 それに、もう桜の散る季節になってしまったのか。

「屋外には出られませんが、いつか眺めのいい場所を取って一日だけ出張営業、なんて事をやってみたいですねえ……」

 ……今日は何食べよう。

 坂を下って糸猫庵に辿り着けば、風が行き止りの路地に花びらを吹き込んだ。

 ぼくはいつものカウンター席ではなく、本棚が近い外の見える席に陣取った。

 机で折紙を折って、今日はカメラを作る。

 完成品を渡すと、早速糸さんは厨房に火を入れた。

 遅めの朝食とは言え、朝早くに来る常連客はいないらしい。

 店内にはぼくと糸さん、それと手鞠さんの立てる音しかない。

 待ち時間用の本を開き、栞を机の端に置いて読書を始める。

 じゅわじゅわと何かが焼ける音。鍋でお湯がぐらぐら沸く音。野菜を刻む音。

 紙が擦れる音。ページをめくる音、その度に軋む音。

 軽い羽ばたきの音。くちばしを擦り合わせてムギムギ言う音。

 久し振りにゆっくりと感じた朝の空気は青かった。

 昨夜は十分に眠れたと思っていたけど、あくびが出る。

 窓からは花の散る影が見え、一旦読書を中止してぼうっと外を眺めていると、ふと人影が通る。

 入り口の方に目をやっていると、硝子戸が開かれて鈴が鳴った。

「あ」

「お?」

 無精に束ねられた長い黒髪、猫背の強い背中、空色の伏し目。

「以前逢ったかな?」

「はい!」

 真逆もう一度、しかも誰もいない朝の時間帯に逢えるとは夢にも思わなかった。

 最近来ているとは聞いたけど。

 その人は対応に出た糸さんに何か小物を手渡し、おもむろにこちらへ歩み寄る。

 そして対面の椅子を軽く引くと、座っても? と笑みを向けた。

 どうぞ、と言って手で促すと、ゆっくりとした動作で椅子に腰を下ろす。

「何を頼みましたか?」

 何となく声をかけると、その人は笑みを向けたまま答えた。

「オムライス。ここのは本当に美味しくてね」

「判ります! ぼくもここのオムライスが好きでよく注文してます」

「判ってくれるかい」

「はい。──えっと……」

 今更思い出して顔が赤くなる。

 名前すら聞き出さないまま話を進めてしまった。

 その人も気付いたのか、口許に手を当てて笑っている。

「こちらこそ失礼した。愚生ぐせいにのまえ、漢数字の一でにのまえだよ」

「ぼくは、小鳥遊と言います。小鳥が──」

「遊ぶで小鳥遊だね」

「そうです」

 突然先の言葉を紡がれたので一瞬拍子抜けしたが、悪い人では、そもそもヒトではないのが判った。

 何って……物腰とか雰囲気で。

 でもこれで春秋ひととせさんの推測の裏付けが出来た。

「これは個人的興味なのだけれど……小鳥遊君、下の名前は? ここで逢ったのも何かの縁でしょう。親交を深める為にも、下の名前で呼びたいのだけれど良いかな?」

 随分と遠回しに言う。

「下は、りんどうって言います」

「リンドウ? 林道? それとも花かい」

「花のりんどうです」

「へえ、竜胆りんどうね。良い名前じゃないか。花言葉は誠実と勝利ときた」

 りんどうの花言葉は他にもあった気がするけど、思い出せない。

 今は別段困る事でもないから、良いかな。

 にのまえさんは思っていたよりも声が高くて、興味深そうに事柄を聞いては、その落ち着いて深い声で言葉を発する。

 聞いていて心地いい、眠たくなる様な声をしている。

「そう言えば、前に見掛けた時はかなりの量を注文していましたけど……」

「あぁ、あれね。その日は……ちょっと忙しくてね」

 前に春秋ひととせさんが言っていた、情報統制の仕事だろうか。

「よく判ったね」

 どうやら声に出ていたらしい。

「やっぱり大変なんですか?」

「愚生の感覚ではなんとも。あれだけ消費するのだから、大変なのだろうね」


「一さんってそれ程声は低くないんですね」

「? どうしてだい?」

「いえ、女性にしては背丈がすごく高いので……失礼ですけど、その……」

「愚生は女性ではないのだけれどねえ」

 へ?

「えっと……すみません! 今まで、いえ、ほんのチラッと見ただけの印象で決めつけてしまって」

「いやいや。そもそも、貘である愚生には性別がないからね。そりゃ例外も居るけど、あれ? 自分が例外なのか?」

 髪が長くて声も高かったら女性と間違うのも失礼だけれど、それ以前に性別の概念すら無かったとは。

 機嫌を伺う様に、一さんの顔を見る。

 一さんは相変わらず笑いを浮かべていた。

「そんな事言ったら、りんどうの方が声が高いと思うけどね。それに可愛いし、女性からしたら理想的存在だろう?」

「ぼく、女の子じゃないですよ?」

「え?」


 お互いにお互いが女性として印象づいていたらしく、誤解を解いた後、しばらくそれを話のネタにした。

 改めて話してみると、にのまえさんは思いの外饒舌だけど、声が細くてあまり抑揚がない。

 そうこうしている内に料理が運ばれ、卓上が溢れる。

 ぼくには朝食のセットが、一さんにはオムライスと他に単品料理が一品。

 合掌がほぼ同じタイミングになった。

「「いただきます」」

 ぼくは箸を、一さんは匙を手に取って食べ始める。

 朝食は卵かけご飯だ。

 小皿に分けられた刻み葱と天かす、海苔をまずご飯にかけて、別のお椀に卵を割る。

 出汁醤油を回しかけて、箸で混ぜたらご飯にかけるだけで完成だ。

 匙で掬って口に運べば、程よくまろやかになった塩気が染み渡る。

 卵と醤油を吸った天かすの食感も残っていて、噛み締める度にまた味が広がった。

 海苔と葱が全体をまとめて、ごちゃごちゃした味付けも引き締まっている。

 半分程食べたところで薬味も底が見えたので、主菜に手を付けた。

 主菜はじゃが芋と豚肉のそぼろ煮。

 ほくほくのじゃが芋は味が染みていて、少し塊になったひき肉も柔らかい。

 肉汁がじわっと口に広がり、じゃが芋がまたそれを吸う。

 甘辛く煮立てられたそぼろ煮は肉じゃがの様で、どこか懐かしかった。

 しょっぱいものが続いたので、お茶で流し込み第二ラウンド。

 ふと一さんに目をやると、既にオムライスが五分の一しか残っていなかった。

 つくづくよく食べるし、食べるのも早い。

 窓にも目を向けるれば桜の花が舞い、白が青空に映えた。

 美しさに箸を止めていると、一さんが「食べないなら少し貰っても?」と料理を指さす。

 それに引き戻されて、断るのも何かと思い主菜を差し出した。

 食事を再開すると、不意に糸さんが席に近付いて来るのに気付いた。

 糸さんは白い小鉢を差し出して言う。

「お待たせしました、鮪の醤油漬けです。これを残りのご飯に混ぜて食べてください」

「あ、はい」

 何でこの人は毎回的確に美味しそうなモノを思い付くんだろう。

 半分くらい残しておいて、ご飯に混ぜる。

 少し塩っぱくなるかな。

 角切りにされたマグロを卵に絡めて一気にかき込む。

 口に運ぶと、頬がとろけそうになって思わず口許が緩んだ。

 大きめのマグロに濃厚な卵黄がたまらない。すっかり水分を吸ったご飯で追いかけると、お寿司の様になって面白い。

 もう半分は敢えてそのまま食べて、最後に味噌汁で締めるのだ。

 味噌汁は野菜多めで、干し大根と半月切りの人参、それと打豆が入っている。

 糸猫庵のお味噌汁は塩気が薄い分、野菜など味噌汁の実が多い。まるで昔から食べてきたかの様に慣れ親しんだ味だ。

 ほのかに湯気を立てている味噌汁を啜れば、身体中に染み渡って連日の疲れも取れそうだ。

 何だか、ここに来て一気に肩の力がぬけた気がする。

 かなりの依存度だと自分でも思う。

 もう何日来ていなかったかは覚えていないけど、こう言う時の精神的な逃げ場としていいかもしれない。

 やっぱり、ヒトはヒトにされて我慢すると後の反動が物凄い。

 その所為せいか今日はいつもより量が入る。ご飯のお代わりまでしてしまった。

 完食してしまうと、糸さんがお皿を下げに来る。

「小鳥遊さん、足りませんか?」

「へっ? えーっと……はい」

 いつもより食べるのが珍しかったのか、声をかけられた。

「今後菓子をお持ちしますよ」

「ああ、じゃあお代を……」

「いえ、あれだけでも十分ですから」

 そう言ってさっさと厨房に消えて行った。

 本当にぼくの作品はどれだけの価値なんだろう。

 窓の外を眺めながら待った。

 散った花が風に乗って、透き通った青空を横切って行く。

 雲が流れて太陽が見え隠れ。

 仄暗ほのぐらい店内は朝に光が入らない。

 その代わり橙色の提灯が、店内を夕方の様に照らしている。

 壊れそうな音を出している蓄音機で、昔都会で流行したレコードを流していた。

 一冊の本や他の暇潰し道具が無くたって、ここでは必要が無い。

 贅沢な光景に見惚れていると、卓にお皿の置かれる音で我に帰った。

「お待たせしました。季節の桜餡蜜です」

 涼しげな硝子製の器に、桜色の白玉に餡蜜と抹茶粉末が掛けられ、桜の塩漬けが頂点を飾っている。

「いただきます」

 早速匙を手に取り、欲張りにも大きく掬って頬張った。

 餡蜜は結構甘いけど、抹茶の苦味が後を引いてほろ苦い。

 桜色の白玉は適度に柔らかくて、よく冷えている。

「うまっ」

 ちょっと元気が出た。


       ── * ──

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