くらげの骨に
脳の中はすべて涙だった。
粘度のある塩っぽい水分が皺という皺に入り込んでいて、考えることの全てが生ぬるく、重く、はっきりとした形を持てないで頭の中を漂っている。
私はずっと、居間の座卓の横で、掛け布団の上に寝かされていたらしい。掛け布団、私、掛け布団、という順番だ。意味が分からない。
どろどろとした悪夢が続いていた。
最初に目を開けたときは日が沈んでいて、部屋は薄暗く、瑞葉はどこにもいなかった。次に目を開けたときには明るくて、瑞葉は縁側に座っていた。しばらくすると冷蔵庫からきゅうりを取ってきて、差し出してきた。食べないと死ぬと思ったので無理に食べたのを覚えている。追加で水を飲んで、また横になると、瑞葉が上から覗き込んできた。
皺を見たような気がした。
また目を開けたときには、夜だった。水音がうるさくて眠れなかった。おそらく、一番具合の悪かったときだ。白っぽいものが空中に浮かんだように見えて、もう死ぬのだと思った。その次はまた薄ら明るく、水を飲んで、シャワーを浴びて、また瑞葉がきゅうりを差し出してきたので、食べた。
瑞葉の肌は青黒くくすんでいた。
「なんで」
自分の放った言葉の意味が分からなかった。
「なあに? キクナちゃん」
瑞葉の声は低く重たく、気怠かった。
それからしばらく私は意識と無意識の縁を這い回っていた。そこにはただ一つの言葉しか存在していなかった。瑞葉は老いている、という言葉だった。どこまでいっても、その言葉しかなかった。瑞葉は老いている。瑞葉は老いている。這い回る。老いている。瑞葉は老いている。瑞葉は老いている――。
そうして今、私はやっと半身を起き上がらせた。
くるくると、連続的かつ不規則な回転で不明物体は水槽の中を泳いでいる。
耳穴の肌にぴったり張り付いて、かえって聞こえていなかったフィルターの音が頭の中に戻ってきた。縁側の向こうから聞こえる蝉の声もじきに戻った。
まだ頭の中には熱が籠もっているが、体の方は大分回復しているようだった。部屋がやたらに白っぽく明るい。朝の8時くらいだろうか。
意味不明物体のきらきらする音がうるさくて、布でも掛けてやろうかと思ったが、面倒なのでやめた。それから、せめて睨みつけてやろうともう一度水槽に目をやったとき、ふいに明瞭な意識が通りかかった。
足が欠けている。
何をもってして足と思ったのかは分からない。が、明らかに形が変わっていた。この物体はぬめぬめぶるぶるとしていたが、中身はほとんど個体だった。流動的に形の変わるようなものではない。
欠けている場所の断面を発見した。
切られている。
その時、背後から素足が畳から離れる音がした。もしくは、着地した音だったのかもしれない。
「キクナちゃん。起きたの?」
見れば分かることを言って、瑞葉はこちらへやってきた。またお盆にきゅうりをのせている。足取りがややもたついていた。指の先は真っ白なのに、上にいくにつれ肌が薄汚れて見えた。まさか、日に焼けているのだろうか。
「欠けてる」
私がいうと、なあに? と瑞葉は聞き返した。
「こいつ」
という、その呼称がもうまずかった。これでもそれでもない。こいつ。もはや私は、この意味不明物体を無機物とは思えなくなっている。
「食べる?」
と、瑞葉はきゅうりを差し出した。
「トマトがいい」
「トマトはないよ」
「トマトが食べたい」
顔が熱くなる。しかしそれは、支離滅裂な会話をしてしまったことによる、恥ずかしさからくるものではなかった。別の場所からきた、怒りに似たものだ。
「買ってくるよ」
と、瑞葉は外に出ようとした。私はその背中に槍を投げるように声を刺した。
「ねえ、欠けてるんだけど!」
どうしても今、はっきりさせておかなくてはいけない気がした。
夜に起きる度、私の腹は濡れていた。瑞葉が投げて寄越した母親の上等なパジャマの、四つ目のボタンのあたりだ。けれど、あんなところに、あんな風に大量の汗をかくはずがない。
夜中、どろりと宙に浮かんでいたのは、こいつではなかったか?
「食べさせてあげたの」
私は驚いて自分の唇を触ったが、瑞葉はまるで大人のように笑って、違うよと言った。
「お父さんに食べさせたの」
「おとうさん――」
言葉が意味をもつまで大分時間が掛かった。
お父さん! 瑞葉は今そう言ったのだ。すっかり忘れていた。私が寝込んでから何日経っているのだろう。全く計算出来ないが、二日は余裕で経っている。それなのに、まだあの父親は二階にるいるというのか。
瑞葉は、少し恥ずかしそうに続けた。
「あのね、キクナちゃん。お父さん、ずいぶん元気になったの」
「は?」
「ちょっとずつだけど」
「え、何言ってんの」
瑞葉の父親は死んでいるのだ。それはもう、今まで見てきたものと寸分違わず、完全に死んでいる。昔飼っていた実家の犬と同じくらい死んでいた。瑞葉もそれは了解していたはずだ。まさか、頭が可笑しくなったのだろうか。
けれど、瑞葉が他者にそこまで心を寄せられる人格をしているとは思えない。たとえそれが肉親だとしても――。
「それ、どういうこと?」
何かの暗号が隠されているのかもしれないと問い返すと、瑞葉は唇をやわらかく引き結んで笑った。体の中で、風船のように余裕がむくむく膨らんでいるように見えた。
「キクナちゃんも、元気がでたら見に行ってあげてね」
風船はいつか割れると知らないのだろうか。
今すぐ連れて行けと言ったが、昼間は二階にはいけないのだと言って、瑞葉はさっさとトマトを買いに出掛けてしまった。私は、その言葉にも驚いた。そんな話は聞いたことがない。昼間は二階に上れないだなんて。
それは暗に、夜であれば二階に上れるということだろう。そして、それが事実なのだとしたら、父親が生きていた頃からの決めごとに違いない。だって、父親が死んだから夜にだけ二階に上がれるようになる、なんて意味が分からない。
室外機の音が頭の中に入ってくる。
夜の二階で瑞葉が――瑞葉と父親が――何をしていたのか、そんなことには一切興味がない。この家も、瑞葉も、元々異様なのだ。これ以上その異様さに新たな色味が加わったからといって、どうにもならない。闇の中に何をまぜたって闇色にしかならない。
けれど、死んだ父親がまだこの家の二階にいる、というのは看過できない。全く気が進まなかったが、私は仕方なく二階へ上がることにした。
勝手に居間の棚やら箪笥やらを開けて、やっと発見した高価そうなハンカチを持って行った。鼻に当てると、古い記憶のように香水の匂いがふっと持ち上がって、すぐに消えた。
この家には母親のものが全て残っているのだ。
扉を開けても、思ったより異臭はしなかった。まだ熱があるらしく、普段ならば凍えるほどの冷房にも何も感じない。部屋はやけに明るかった。カーテンを閉めずレースの生地だけがうっそり窓に寄り添っている。
布団がこんもりと人型に膨れている。瑞葉が掛けたのかしらないが、最後に見た時とは違う掛け布団がかかっている。この家には掛け布団しかないのだろうか。
そろそろ歩いて、強めにハンカチを鼻に当て、ゆっくりベッドを覗き込んだ。
「え?」
という声は、ハンカチに飲み込まれて消えた。
瑞葉の父親は、全く様子が変わっていない。年を取っていない。
死んでいる人間に対して、年を取るなんて考えるのがまず可笑しいが、しかし、そうとしか言いようがなかった。瑞葉の父親は年を取っていない。
ハンカチを外しても、なんの匂いもしなかった。
急に頭の中の熱が煮立って、思考に靄がかかる。そうして気が付くと、私は居間の掛け布団の上に倒れ込んでいた。
意味不明物体が、ふよふよと浮いているのが見えた。足を切られて――。
夢に違いないと思って、私はもう一度眠ることにした。
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