あうぞ

 いつものように朝ご飯を食べてすぐ、瑞葉は撮影会に出掛けた。その姿が遠ざかるのを確認してから、私は水槽を抱えて庭まで出た。

 この意味不明物体を処分しなければ。

 燃やすとか、切り刻んで土の中に埋めるとか色々考えたが、やはり捨てるのが一番安全だろう。隠すというのは、ほとんどその所有を証明する行為だ。

 あれから3日が経ったが、瑞葉の父親は相変わらず何も変わらなかった。瑞葉は夜になると意味不明物体を切り刻んで、二階へ向かった。もう私に隠そうともしなかった。

「キクナちゃん、あのね」

 そして、ずいぶん上機嫌に話をするようになった。

 あぜ道で犬と上手にすれ違う方法とか、ちぎったときにより緑の匂いが強い植物は何かとか、大きな麦わら帽子を被った顔の見えない婦人の話とか。興味がないこと宇宙のごとし話ばかりだった。

 一秒一秒、苛立ちが育っていくのを感じた。

 しかし、やはり理由が分からない。今更瑞葉がつまらない話をしたくらいで、怒りを覚える訳がないのだ。そもそも、一度も私にとって面白い話をしたことがないのだから。

 しかし、昨日の夕方、私はついにその原因を突き止めたのだ。

 私は居間で、瑞葉は縁側に座ってアイスを食べていた。トマトを買いに行くといって、瑞葉が買ってきたアイスだった。美味しいトマトの見分け方が分からない、というよく分からない理由から、瑞葉はトマトを買ってこなかった。

 庭で何かが転がる音がして顔を上げると、瑞葉が外にでて、風に飛ばされるバケツを追いかけていた。

 皺が。

 その顔に、はっきりとした老いの印がついているのを私は発見した。

 苛立ちの根源が燃える感覚がして、頭を振ったが、何も発散されなかった。むしろ、振りほどこうとすればするほど、ある言葉がいくつも意識に張り付いてきた。

 瑞葉は老いている。

 老いている。瑞葉は老いている。年を取っている。瑞葉は年老いている!

 その理由は明らかだった。この意味不明物体がいけないのだ。瑞葉が老い始めたのは、こいつが来て、父親が停滞しはじめてからだ。まさに停滞だ。あの父親は、今も二階で死に続けているのだ。意味不明物体の欠片を通して、瑞葉の年を食べながら。

 荒唐無稽な話だが、それしか理由が思いつかなかった。

 ともかく捨てなくては。瑞葉が帰ってくるまでに、こいつを出来るかぎり遠くへやってしまわないといけない。遠く、手の届かない場所へ。

 私には、それに適切な場所は一つしか思いつかない。





 いつもはすぐに水槽に駆け寄るのに、今日に限って瑞葉はそうしなかった。戻ってきて台所へ入ると、がたがたと泥棒のような音を立てて何かをしはじめた。時々居間にも来たが、何も言わなかった。

 変化に疎いのだ。物事が変化するということを、肉感として知らないのだろう。

 それからかなり時間が経ったあと、瑞葉は突然ぱたりと動きを止め、私の名前を呼んだ。

「キクナちゃん」

 居間と隣の部屋の仕切りの真上にぼうっと立って、水槽に目を向けている。

「なに」

「いない」

 と言って、瑞葉は持っていたお盆を座卓の上へ荒っぽく置いて、水槽に顔を近づけた。こぽこぽと微かな水音が聞こえる。藻の類いは、心なしか買った時より大きくなっているような気がした。

「どうして?」

 と強い口調で問う瑞葉に、やはり私は苛立ちを感じた。突然現われた意味不明物体が、同じように突然消えただけなのに、その原因を私に求めてくる姿勢に腹が立ったのだ。

「どうしてってなに」

「どこへやったの?」

「なにを」

「くらげ」

 と、喘ぐように瑞葉は言った。くらげを見たことがないのかもしれない。だってあれは、全然くらげなんかではなかった。最初から最後まで、何でもない。名前が付くような物体ではなかったはずだ。

「捨てた」

 簡単に言葉を放ってしまって、惜しいような気持ちになった。もっと何かやり取りをするべきだったかもしれない。説教をするとか、何か残酷な挿話を挟むとか、ともかく、もっと懲らしめてやるべきだった。

 少なくとも泣いて喚くだろうと思った瑞葉は静かにしていた。そして、悪事を謝らない子供を見るような目で私を見た。

「どこへ捨てたの」

「それ聞いてどうするの?」

「どこ?」

「――海」

 すうっと、瑞葉は小さく息を吸った。少しだけ清々ずる。けれど、もっと思い知らせなくては。ちゃんと、言って聞かせないと。

「だってさあ、おかしいでしょ。なんであんなもんを死体に食わせるの?」と言いながら、死んでいるのにどうやって食べさせたのだろう、と気になった。「そんなことして何になるわけ? 万が一、あれを食べ続ける限り父親が腐らないとして、それが何? 時間が伸びるだけじゃん。くらげだか何だかしらないけど、それがなくなったら終わりなんだから、いずれは――」

「どうして捨てたの」

 と、瑞葉は私の言葉を遮った。体の中でさっと燃え上がった血が一瞬ひるんで、すぐにまた燃える。

「だから! こんなことしても意味がないから。早いとこどっかに連絡して」

 続けて吐こうとした言葉が、急に喉の奥に転がり落ちて、体の中へ戻っていった。瑞葉は、まるで本当の大人のように、皺の寄った顔で私を眺めていた。

「それが理由?」

 老婆のような声だった。

 私は、喉の奥から言葉をひっぱりだして吐いた。

「あんた――年取ってるよ」

 それをきっかけに、他の言葉もぞろぞろと体の外へ飛び出ていった。

「あのくらげが来てから、皺が増えたし、肌も荒れてるし、老人みたい。いつまでも子供みたいだったのに、急に――そんなの可笑しいでしょ。あんたは、いつまでも年取らないで、この家の中にいなくちゃいけないんだよ。そうじゃないと困る!」

「困る?」

 淡々と瑞葉は繰り返した。

「誰が困るの?」

「だから私が」

「どうしてキクナちゃんが困るの?」

「それは――だって安心できないから」

「安心って?」

「だから」と、静かに言ったつもりが、私の声は震えていた。「私は、いつまでも社会に出ないで、世の中とか時間とか、そういうのに置いて行かれてるあんたを定期的に見てないと、安心できない。いつまでも子供みたいなあんたを見て、私はまだ大丈夫だって、そう思わせてくれないと困る! 分かるでしょ? 私には瑞葉が必要なんだって」

 恥ずかしさに耐えながら必死に訴えたのに、瑞葉はこちらを見てさえいなかった。しばらく水槽に目を向けていて、突然、かさついた唇を動かした。

「私には必要ない」

 やはりその目は、水槽の中に向いている。

「だってキクナちゃん、私のこと全然好きじゃないもん」

「は?」

 好き?

 何を言い出したのだろう。全然好きじゃない? あたりまえだ。どこに好きになる要素があるというのだ。今までだってこれからだって、そんな感情が入り込む余地は私たちの中にはない。

 そう思ったが、私は喉に鞭を打って、なんとか言葉をひねり出した。

「いや、す、すきだよ」

 その瞬間、音がするくらい強く瑞葉はこちらを睨み付けてきた。

「嘘吐き!」

「う、うそじゃない」

「じゃあキクナちゃんうちに住んでくれるの?」

 と、瑞葉はまた意味の分からないことを言いはじめた。

「お父さんの代わりに! くらげの代わりに! ずっと私と一緒にいてくれる?」

「それは――嫌だけど」

 思わず本音が出てしまって、慌てて訂正しようとしたが遅かった。私が何か言うより早く、瑞葉は眉根を寄せて、怒っている人間の顔をした。

「キクナちゃんって本当にばかだよね!」

「は? 馬鹿?」

「ばかだよ。ばかだし、わがままだし、ミミズみたいに想像力がない!」

「みみず」

「ミミズ以下だよ!」

 瑞葉はそこら辺にいる人間と同じように激昂していた。

「お母さんがいなくなってまだ淋しいのに、お父さんまでいなくなって、どうして私が今まで通りでいられるの? 私はこの家で生まれて、この家で育って、この家からほとんど出てないの! だからこの家が私の社会で、私の時間なの! お父さんがいなくなったら、私の社会がなくなっちゃうから――だから、私だってお父さんがこの家からいなくならないようにがんばってるんじゃん!」

 私はまだ、馬鹿だとかみみずとか言われたことにも、瑞葉が声を荒げていることにも驚いていたので、へろへろした声で言い返すしか出来なかった。

「でも死んでるんだよ? あんたの父親!」

「分かってるよそんなことは!」

 ばしゃりと顔に水がかかって、口に少し入った。瑞葉が水槽の水を跳ね飛ばしたのだと、すぐには気が付けなかった。

「なんでそんなにばかなの? 私は、死んでても生きてても、誰でも何でもいいから、一緒にいてもらいたいって言ってるの! そうじゃないと淋しくてもう一秒も生きられないの!」

 それから瑞葉は、途端に懇願するような弱々しい声音で言った。

「私だって人間なんだから――」

 水を掛けられたのだ、と認識するのと同時に、私の心は急激に狼狽えはじめた。

 瑞葉が自分を人間だと思っているとは思わなかった。父親の死を理解しているのも、母親の死をまだ覚えているのも、私は考えたこともなかった。

 瑞葉は、超然と、ただ生きているだけの存在ではないのか?

「そんな、だって、死んでてもいいなら、父親じゃなくていいじゃん。それこそくらげでも飼ってれば」

「くらげはキクナちゃんが捨てちゃったんでしょ!」

 と、瑞葉は母親のように上から怒った。

 私は、本当の生き物のくらげのことを言ったつもりだったが、瑞葉はあのぶよぶよの意味不明物体のことと思ったらしい。

「くらげでいいの?」

「なんでもいいの! 一人が嫌なの! なんでわかんないの!」

 とまた瑞葉は私の顔に水をかけて、急激にだらりと脱力してしまった。畳を眺めて、でもたぶん、何も見ていない。死んでいく人間のように。

 私は縁側に出た。

 やはり、小学五年の夏に見た時と景色が何も変わっていない。花の色も、ホースの位置も同じ。引っ越し魔の私には、同じ場所で生き続ける人間の思いは分からない。目の届く範囲にしか社会がないなんて、想像するのもおぞましい。

 少し可哀想な気持ちになった。

 縁側の下のバケツを持ってきて、水槽の上でひっくり返したら、大きく水が跳ねた。瑞葉のつむじのない頭に水がかかったようで、少しだけ清々した。

 たしかにこれはに見えなくもない。

「帰ってくるのが早いから捨てられなかった」

 私が言うと、瑞葉はゆっくり顔を上げ、水槽の中を見た。

「二階に設置しなおしてあげる」

 すると瑞葉はひどくぼんやりした様子で「にかい」と繰り返した。

 見ると、頬に水がかかっている。まさか泣いているということはないだろう。私は、瑞葉の泣いている所を今まで見たことがないし、見たくもない。

「三ヶ月に一回くらいなら――私も様子見に来るよ」

 住むのは無理だけど、と付け足すと、瑞葉はそっと私の目を見た。

「私のようすを?」

 その顔を見て、馬鹿と言われたことを思い出した。

「――こいつの様子」

 水槽を叩いて示すと、瑞葉はやはり大人が子供にむけてやるように、軽く笑った。

「そう」

 それから、いつもと同じように穴の空いたような無機質な声で言った。

「ありがとう。キクナちゃん」

 冷たくて心地のよい声だと、私はそのときはじめて思った。

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