老いの
瑞葉から電話がかかってくるまでのこと。
私はじっと家にいて、元気がいいときには、壁を這う家蜘蛛を目で追いかけ、それ以外の場合、ただじっと天井を眺めていた。それから夕方にのっそり起き上がって、なにもせず、朝になるまで眠れなかった。
電話を取れたのは、夜中で、かなり調子が良かったからだ。
開口一番、瑞葉は父親が死んでいるようだ、というようなことを言った。もとより、久闊を叙する機能などついていないだろうが、長い無沙汰に対しての引け目は一切ないようだった。
意味がわからないのはいつものことだ。
「それはどういうこと?」
もっとも私の方でも、その瞬間まで瑞葉という存在は頭から消滅していたのだ。
「お父さんが二階で死んでいると思うの」
他になんの説明もない。ただ、瑞葉がこちらを考慮して物を言い直す、というのがもう特別のことだった。
だから、本当のことを言っているのだろうと思ったのだ。
「わかった――じゃあ」
見に行くよ、と私は答えた。
それは明らかに観察という意味の言葉だった。瑞葉の置かれた状況の救助という意味の「見に行く」ではない。見学という意味だ。
私は自分の口からそんな酷い言葉が出たことに驚き、驚くという心の機能がまだ体に残っていることにも驚いた。
始発を過ぎてから電車に乗って、朝の8時に瑞葉の家に着いた。瑞葉はおはようもこんにちわも言わなかった。もちろん、こんばんわも。しかし、挨拶をしないのはいつものことだ。
その足で私だけ二階に上がった。
父親はたしかに死んでいた。
瑞葉の家の二階は私にとっても禁足地だったので、全てが初めて見る景色だった。社会と全く交流を経っている人間がどんな部屋に暮らしているのか、私はそれまで何度か想像したことがあった。
しかし瑞葉の父親の部屋は、その点、期待外れの最高値を叩き出していた。
まず、布団ではなくやけに背の高いベッドに眠っていること。本棚が二本あって、小説が数冊しか置いていないこと。大きな兎のぬいぐるみが二体も衣装ダンスの上に挟まっていること。部屋全体が、やけに清潔なこと。背の低いテーブルの上に、酒も煙草も置いていないこと。感情を揺り動かすような物品がひとつもないこと。なにより、クーラーによって心地のよい室温が保たれていること。
何もかも中途半端で、怒りを覚えたほどだ。
腹が立って――それは実際嫌がらせをする心持ちだった――私はクーラーのリモコンを手に取って、一番上まで温度を上げた。しかしすぐに思い直して、一番下まで温度を下げた。
腐ると思ったのだ。臭い匂いを嗅ぐのは嫌だった。
その部屋で唯一、期待通りだったのは瑞葉の父親の顔付きだった。上を向いて目を瞑って、綺麗に死んでいる。私が五年生の時に見たのと同じ顔で。
瑞葉の父親は全く年を取っていなかった。
一階に下りていくと、階段の下では、やはり少しも年を取らない瑞葉がじっと待っていた。むしろ、いよいよ年若くなって。
「死んでた」
私はごく簡単にそう言った。瑞葉が何を思っているのかは分からなかった。私自身、何をどう思えばよいのか判断に困っていた。それに、これからどうするべきか、何一つ思いつかなかった。
「どうする?」
私が聞くと、瑞葉は顔を上げて、真摯な顔付きで告げた。
「アイスが食べたい」
だから私たちは、朝から近所の大型ショッピングモールへ出掛けたのだ。
水槽を設置した次の日の朝、驚くべきことにその物体はきらめいていた。
きらめく、という事象を人生の中で一度でも体感したことがあっただろうか。何かに対してきらめいている、だなんて思ったことが。
しかし、それは何度見てもきらめいていた。色味や質感や、その他の情報を飛ばして、まず光が目に入る。てと、てと、と感じたことのない擬音を放って、その意味不明物体は四方にごく小さな光を放っている。
「うわぁ」
後ずさりするような声が口から漏れた。そしてそのことに、やや自信を取り戻した。つまり、自身を取り戻した。
きらきらを感知してしまうまでは仕方がないが、自分がもしそれにプラスの感情を持とうものなら、それこそ自らを縊り殺してしまうだろう。
「きもちわる」
というより、鬱陶しい。
眺めるていると、苛々してくるほどきらめいているのだ。浮遊感があってひょっとすると生き物のようにも見える。本当に、これは何なのだろう。理科の実験で作るスライムの亜種かなにかだろうか。
なぜかまた座卓が濡れていて、その上にべったりと紙切れが張り付いていた。ぐずぐずになった大きな文字が見える。
しゃしんを取ってきます。と書いてある。
写真をとる、でもしゃしんを撮るでもなく、しゃしんを取る、だ。いかにも瑞葉の書きそうな文章だ。しゃしんを取る。全部ひらがなではなく、漢字を用いている所がぞっとする。
昨日の夜、私がコンビニで買ってきたサラダうどんを食べている横で、瑞葉は家の棚という棚を引っぱりだして何かを探していて、うるさいことこの上なかった。
「なに」
と、何度か言ったが何度か無視された。黙ってしばらく麺を啜っていると、突然返事が返ってきた。
「カメラを探してるの」
寝る時間が近いからだろうか、その物言いはやけに平坦だった。
「カメラって、デジカメ?」
瑞葉は首を振った。確かに、この家にそんなものがあるはずない。使い捨てのものだってあるとは思えない。
「何撮るの?」
やはりそれも無視された。
私は、やっぱり自分がどうしてそうしたのか、全然分からないが――たぶん、うるさくて仕方がなかったのと、久しぶりの労働で頭が疲れていたのだ――なぜか自分のスマホを差し出した。
「でんわ?」
と瑞葉はそれを見た。どこかへかけろという意味に取ったらしい。
「いやカメラ」
とりあえずデータ通信をオフにして、簡単にカメラの使い方を教えた。その間瑞葉は、道の先にいる狸みたいな顔でぼうっとしていて、ちゃんと聞いているのかいないのか分からなかった。
説明を終えてサラダうどんの続きを食べていると、瑞葉はやはり野生動物のようにそろそろとカメラに手を伸ばした。何事かいじってから、こちらにレンズを向けた。
私は、瑞葉が最新の電子機器を持っている姿を目の当たりにして、ぎょっとした。座りが悪い、と言えばいいのだろうか。自分でやっておいてなんだけれど、余り気分のよい景色ではない。
反して、瑞葉は全くの上機嫌になっていた。
「ありがとう、キクナちゃん!」
それきり大人しくなったので、結果としてはよかった。
そして今朝、瑞葉はさっそく撮影会に出掛けたというわけだ。
家の中に他人と、身内の死体をおいて。
どういうつもりなのだろう。これは瑞葉に対してではなく、自分に対しての言葉だ。発見した時点で、どこかしらに連絡をするべきだった。それは間違いない。しかし、遅くなったからと言って、しなくていい理由にはならない。いつかはどこかに連絡をしなければいけないのだし、それは早ければ早いほどよいのだ。遅くなればなるほどよくないことになる。それは分かっている。
けれど、どこにも連絡する気が起きなかった。そして、その理由が分からない。
そんなことを考えて、コンビニで買ってきた味噌できゅうりを食べながら、だらだらと不明物体を眺めていたら、ずるずると意識が下がっていった。急激に言葉は重くなり、体もあり得ないほどだるくなった。
そうだ。私は、そもそも療養中の身なのだ。とても具合が悪いのだ。
それに気が付いた瞬間、もう体は畳の上に横になっていた。
天井が見えて、水音が聞こえる。
てと、てと、と小さな光の音が聞こえて、とてつもなくうるさかった。
そして、私はほとんど気絶するように眠りについた。
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