あまりの

 水槽を買うため、私は瑞葉を駐車場に置いて、施設内のペットショップに入った。

 それで、気軽に話し掛けてきた店員に、あやふやな愛嬌をふりまいていたら、いつの間にかウーパールーパーを飼う人間になっていた。

 水槽に砂利にフィルターに冷却装置にあらゆる藻の類い、それから何か重要らしい粉を買った。駐車場の隅に戻ると、瑞葉は小さくしゃがみ込んで、内緒話をするように不明物体と自分の上に日傘を差して待っていた。

「ごめん。明らかに買いすぎたから、後で私も払う」

 そう言って渡されたがま口を返そうとすると、瑞葉はニコニコしながら首を振った。

「いらないよ。キクナちゃんにあげる」

「あげるって」

 まるで駄賃のように言うが、がま口にはまだ三万は残っている。

「なんで」

「嬉しいから」

「嬉しいと人に金あげるの?」

「嬉しいからキクナちゃんにおかねあげるの」

 今更驚きはしないが、やはり何を言っているのか分からない。

 もしかすると瑞葉には、休職と失業の区別がついていないのかもしれない。

「じゃあ、まぁとりあえず――持っておくけど」

 もちろん、これが普通の社会での出来事であれば、意味なく他人から金をもらったりはしない。そもそも他人の金で、ウーパールーパーの水槽セットを一式買ったりはしない。

 しかし、瑞葉は社会の人間ではないのだ。

 恐らく瑞葉は、金という概念に対して、物と交換が出来る紙や銅――くらいの認識しかしていない。だから昔から瑞葉が金を使っているのを見ると、私は夢の中に入ってしまったような気持ちになる。あるいは、狐のままごとを見ているような。

 あれだけ懸命に働いて得ようとしていたものも、ただの枯葉に思えてしまう。

「暑いからタクシー呼ぶ?」

「うん!」

 何が価値か分からなくなる。



 屋敷に入るための道を指示すると、タクシーの運転手はどことなく景気のよい声で返事をした。未だに舗装されていない田んぼと田んぼの間のあぜ道を、車はかなりのスピードを出して進んでいった。駆け抜けるたび、穴ぼこに貯まった昨日の雨が盛大に跳ねる音が聞こえた。

 汚れた愛車を洗うのが好きなのかもしれない。

 クーラーの風が当たるので、瑞葉はずっと死ぬ間際の白い魚みたいにぐったりしていた。窓の開け方が分からないのだろう。

 静かでいいので放っておいた。

 しばらくすると、運転手が得意げに到着を知らせて車を止めた。がま口から金を払って、水槽を抱えて外へ出ると、一気に生き物の音が耳に戻ってくる。門から庭へ入って、少し歩くと瓦屋根が見える。

 この屋敷には、時間が流れていない。

 そんなはずはないと分かっている。どこかは朽ちているはずだし、全ては老いているのだ。けれど、いくら目を懲らしても、明らかな時間の経過は何一つ発見できなかった。

「キクナちゃん。お水はこれでいい?」

 瑞葉はぱたぱた走って行って、井戸のポンプを押し上げた。正午の熱風を体に浴びて、元気になったらしい。そのまま押したり上げたりしているうちに、じゅるじゅると水の零れ出す直前の音がした。そして何度目かの押し上げで、突然大量の茶色い水が吐き出された。錆びた匂いが鼻に香ってくるような錯覚がした。

「いいんじゃない。粉みたいなの買ったし」

「こな?」

「うん。入れるとなんか――水がいい感じになる」

「井戸水も?」

「たぶん」

 すごいね、と瑞葉は笑った。

 すごいのか、と私は思った。一体何を話しているのだろう。水がいい感じになったからと言って、なんだというのだ。中に入るのはウーパールーパーではなく、意味不明の物体だ。

 手元を見ると、取り忘れたらしい【現品限り】のシールのついた水槽の底で、ぶよぶよした透明な物体はじっとしていた。生き物じゃないのだから当たり前だ。

 そう思っているのに、転がっていたバケツに不明物体をそっと映している自分がいる。水槽に水を入れ、粉を入れ、いい感じになるまで待っている自分がいる。

 家に入って何か飲み物はあるかと聞いたら、瑞葉は不思議そうな顔で言った。

「きゅうりがあるよ」

 なにをどう不思議がっているのか分からない。こちらのほうがよほど摩訶不思議だ。少し頭が痛い。

 けれど、瑞葉の家にきゅうりがあるということも、充分不思議なことに思えた。

「買ったの? きゅうり」

「きゅうりはおばさんがくれるの」

 まるできゅうりという物はおばさんがくれる物だ、というような言い方だった。この家ではきゅうりはそういう物なのだろう。配給制の緑色の水分を多分に含んだ棒なのだ。

「おばさんね」

 瑞葉の母親の葬式で見た以来、私はその人を見ていない。父親の姉妹なのか、母親の姉妹なのか、あるいはそのどれでもないのか知らないが、この家に似つかわしくない年を感じる女性だった。

 俗世の人間なのだろう。瑞葉の父親に対して、この家の金を食い潰すつもりなのか、というようなことを言っていたように思う。本来なら、食い潰しきれる額ではないというようなことも。

 水と一緒に、塩を掛けただけのきゅうりを食べていたら、ふと笑い出したくなった。まるで懐かしさを感じず、この家に馴染んでいる自分が可笑しかったのだ。

 私が瑞葉と会ったのは昨日が二年ぶりだったし、この家に関して言えば、七、八年は来ていない。それなのに、まるでずっとここに住んでいるみたいな気持ちでいる。

「はは」

 実際私は声をだして笑った。

 瑞葉はすぐ近くにいたが、何も言わなかった。

 私たちは互いに一切興味がないのだ。

 それでも、私が定期的に会っている人間は家族を除けば、もう瑞葉だけしかいない。どうも納得できないが、いくら考えてみてもそれは事実だった。瑞葉と話をすること以上に無益なことは、この世に存在しないはずなのに。

 本当に不思議だ。

 つい最近まで瑞葉の家には電話がなかったので、それまで瑞葉は公衆電話を使っていたのだ。私は突然掛かってくる電話に、暇があれば出て、意味の通じない会話をして、実家に帰ったときに気が向けば、会って話もした。

 瑞葉はいつも家にいて、ただ暮らしている。

「えさは何がいいのかな」

 と、突然瑞葉は言った。

 見ると、畳の目をぷつぷつと爪先で弾いている。きゅうり食べるかな、と続けて呟くので、私は一瞬、水槽に放り込まれるきゅうりを想像した。嫌な気持ちになった。

「光合成するんじゃない?」

 そう言うと、瑞葉は畳から目を離して顔を上げた。

「太陽だけしか食べないの?」

「あとは――プランクトンとか」

「ぷらんくとん」

 瑞葉は恐竜の名前を唱えるように繰り返した。遙か昔に絶滅したものを考えるような言い方だ。

「それはどこで買えるの?」

 そんなことは知らない。そもそもプランクトンが何かはっきりと知らない。ただ、水槽の底に落ちたきゅうりを掃除するのが面倒だと思っただけだ。

 だって、食べるはずがないのだから。

「藻があるから、時々外出したらプランクトンも出来るよ」

「そう。じゃあもうえさはいらないのね」

 瑞葉はいつも私の法螺を、はじめて見る外国の食べ物のように飲み込んでしまう。何も分かっていないくせに、食べきって、すぐに身にしてしまうのだ。

 水槽の環境が整ったころには、もう日が沈み始めていた。家の真ん中に置きたいというので、居間の中央にある、立派な座卓の真ん中に置いた。

 ものすごく違和感のある景観だが、人の家なので文句はいえない。

「じゃあいれるね!」

「どうぞ」

 瑞葉は勢いよくバケツをひっくり返して、大きく振った。しばらく何も起きなかったが、何度目かの振り下ろしで、いきなり意味不明物体はバケツから剥がれてぼとりと落ちた。大事にする気があるのかないのか分からない。

 座卓が馬鹿みたいに水びたしになったが、もう片付ける気は起らなかった。久しぶりに労働めいたことをしたので、体がこれ以上動くことを拒否している。

 そのうち乾くだろう。ただの水だし。

 瑞葉は水槽を眺める作業に入ったようだった。こうなれば、もう何を言ってもしばらく返事は返ってこない。

 縁側に出た。

 日はまだ沈みきらず、ぐずぐず留まっているらしい。凌霄花があの時と同じ場所で、同じようにランプのように光っているのが見えた。それをじっと眺めていると、色んな現実が遠くなっていくように感じた。

 しばらく療養してください、という親しくない上司の顔。少し疲れているだけですよ、という後輩の明るい髪。もうだめだ、というかつての自分の声。朝起きること、決まった服を着ること、特定の時間の電車に乗ること、天気の話をすること、にこやかでいること――。

 全部が遠い。

 ただ、少しまえに公衆電話から掛かってきた瑞葉の声だけが近くにあった。

「二階でお父さんが死んでいるみたいなの」

 今日一日で、私がこの屋敷の変化を発見できたのはただ一点だけだった。

 狂ったように唸り続けている、二階の室外機の音。

 それだけが今の私に届いてくる現実の音だった。

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