八十路
「うちの二階にはお父さんが住んでいるの」
小学校の五年生だった。四年生の後の夏休み。つまり「人間」になってしまったあとの夏休みだ。私がただの「生き物」でいられたのは四年生までで、五年生になると突然「社会」というものが現れた。
瑞葉が父親の話をしたのは、それが初めてだった。
「二階に部屋があるの?」
「ちがうの。お父さんは二階に住んでいるの」
「それは――たぶん同じことだよ」
私は赤子に言い聞かせるように言った。自分もまだ充分子供だったが、瑞葉の子供らしさには誰も追いつけなかった。周回遅れで少し前を走っているみたいに、瑞葉はいつまでも、たったひとりで幼かったのだ。
「ちがうの、キクナちゃん」
けれど瑞葉は、その時ばかりは私の言葉を飲み込まなかった。
「お父さんは本当に二階に住んでいるのよ」
瑞葉が私に対して、何か物を言い聞かせるような口の聞き方をしたのはその一回きりで、私はその物言いに非常に腹を立てた。けれど、何も言わずに鯨の口でスイカを迎え入れ、種をかみ砕きながら黙っていた。
もうずっと前に、瑞葉と仲良くしようという人間は絶滅していて、それは瑞葉が意思疎通の出来る言葉を使わないからであり、意思疎通が出来ずに困っている相手を一切鑑みないからであり、つまりは徹頭徹尾、瑞葉自身の責任だった。
しかしそのことは、すでに社会生活に対するアレルギーが始まっていた私にとって好都合だった。完全な孤立を避け、できうる限り個人として生きるには、横に一人の人間を置いておく必要があったから。
たった一人の。
それ以上にならないただ一人を。
「いつもありがとうね、キクナちゃん」
陶器で作られたような瑞葉の母親もまた、私のことを感情のこもらない穴の開いた声で呼んだ。しかしそれは、今思えば娘の心に寄り添わんとする母親の、懸命な「真似っこ」であったように思う。
私は、瑞葉に対する純真な感情を一切もたないことを少しだけ後ろめたく思った。
瑞葉の家は相当古い大きな日本家屋で、私はその頃、暇があればすぐに瑞葉の家を訪れていた。理由は不明だが、そういった古くて大きな建物と、それを取り巻く環境を昔から苛烈に愛していたのだ。瑞葉の家はその点、まったく完璧だった。
家の柱の傷や、枯れた井戸や、開かない裏戸を見て回っているだけで、何はなくとも充足した一日が過ごせた。
瑞葉はよくわからない言葉でよく分からない話をするが、つまらない詮索は一切しなかった。私がいつまで梁を眺めていても、ときどき飛んできた蝶々の話をするくらいで、大体はただ横にいるだけだった。
私たちは言葉が通じていなかったのだ。
その家に泊まれるということになったとき、私は真実飛んで喜んだ。期待が膨らんで、しばらく何も手に付かなかったほどだ。
実際、その縁側から眺める落日や、日の暮れたあとの土や草木の様子は、想像していた以上の感慨を私に与えた。その感慨を汚さないよう、庭木に絡まる凌霄花がランプのように光っているのを眺めながら、私はスイカの種ごと苛立ちを飲み込んだ。
「キクナちゃんのおうちには二階がないのね」
「だから、二階はあるって」
瑞葉と言葉が通じずに同じ会話をすることは、それまで何度もあったが、その時の瑞葉は殊の外しつこかった。
「じゃあ二階には誰が住んでいるの?」
「今はだれも」
「空き家なの?」
「空き家とは言わないよ。みんなその家に住んでるんだから」
「みんなで二階に住んでいるの?」
「だから、二階は昔おばあちゃんがいたけど、今は使ってないんだって」
「やっぱり、キクナちゃんのおうちには二階がないのね!」
それは愉悦としか言いようのない声だった。宝物を眺めながら、その宝を持つのは自分だけだと確認しているような――。
釈然としなかったが、いい加減黙って欲しかったので、私も黙っていた。
昼間遊んだ青いホースが、遠い庭の闇に潜り込んでいて、それが青い蛇のように見え、闇の先でどんな悪さをしているのだろうとぼんやり考えた。
「うちの二階には、お父さんが住んでいるの」
と、瑞葉はもう一度言った。
私は、けだるく闇から明かりへと青い蛇の腹を辿って眺めていた。そして、忽然とそのことに気が付いたのだった。
きっと瑞葉の家には、父親がいないのだ。
脳に日が差したようだった。死んだか、別れたか知らないが、ともかくいないのだ。それで、いつも微笑んでばかりいるあの青白い存在の母親は、父親の不在の理由を頑是なく問う瑞葉に困り果て、こう言ったに違いない。
お父さんは二階に住んでいるのよ。
そして、二階へ入ることを禁じたのだ。実際、瑞葉は私に「そこには入れないの」と言って、ある扉を開かせなかった。その奥に階段があるということは、それまでの検分で分かっていた。
瑞葉にとって、家の二階というものは禁足地であり、他国なのだ。
果物のような色彩のくちびるをぱくぱくと動かして、瑞葉はまだ話を続けていた。
「キクナちゃんは、お父さんと一緒に住んでいるの?」
私は、新しい同情と共にその顔を眺めた。
「うん――うちのお父さんは、一階に住んでるよ」
しかしその日の夜半、私は瑞葉の父親に出会ったのだ。
スイカが祟ってうまく眠りの底に辿り付けず、何度目かの覚醒で私は布団から出た。夜に他人の家を歩き回るのは気が引けたが、小さな矜持が邪魔をして、瑞葉を起こすことはしなかった。
明かりの消えた日本家屋は、昼間の親しみ深さを一切排除し、自ら以外の存在をなべて暗闇に飲み込ませようと冷たく罠を張っている。
床の軋みは遠くから聞こえてくるようであり、まだ、耳元の入口だけで響いているようでもあった。やっと縁側の角を一つ曲がったとき、私ははたとそれを発見した。
扉が開いている。
すぐに巨木の幹だけが、とろとろと本体から逃げ出しているような影を見つけた。奇態に遅い動きをして、ふらつき、みしみしと音をたて床を踏みつけている。
そして、最初から知っていたように、影はごく自然にこちらを振り返った。
「ああ」
と、影から声がした。その双眸は、はっきりと私を見ていた。
「キクナちゃん」
と、大蛇のはっていくような声で呼ばれ、私は喉を開いた。
「あ、あの、おじゃま、してます」
「――うん」
と影は頷き、それだけだった。そのまますぐに薄暗闇の中に入っていき、気が付くと扉の奥に消えていた。みしみしと、階段を上る音だけがしばらく続いた。
その間、私の頭の中には、瑞葉の言葉が呪文のように繰り返されていた。
「おとうさんはにかいにすんでいるのよ」
私が次にその家を訪れたのは、瑞葉の母親の葬式の時だった。
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